《西坂の丘から長崎港を望む》
長崎市南山手町…ここには日本最古の教会建築である
大浦天主堂やグラバー園などの西洋館群がある長崎有数の観光スポットです。
ところがこの長崎が誇るべき歴史的名勝の街の一角に写真にあるように
バラックらしき建物が建ち並んで残っています。
その朽ち果てた廃屋には人が住んでいる気配はありません。
これは一体どういうことなんでしょうか?
《白い建物は長崎海洋気象台 旧ロシア領事館はこのあたりにあった》
実は南山手のこの付近には明治時代初期(明治8年に東山手から移る)に
旧ロシア領事館(敷地面積千五百六十三平方メートル)がありました。
そして明治36年には日本と帝政ロシアとの間に日露戦争が起こりました。
東郷 平八郎率いる日本連合艦隊が当時世界最強であった
露西亜海軍のバルチック艦隊を日本海で撃滅し日本は西洋列強の一国であった露西亜に勝利しました。
日本との戦争に負けた帝政露西亜は面目をつぶし、その敗戦も一因となって
大正6年に「ロシア革命」が起こりました。
その時に露西亜領事館は閉鎖されました。
この大正6年の1917年から1987年の70年間にわたって旧ソ連は
長崎のこの土地を管理放棄していたのです。
長崎市のほうでもこの間さまざまなことがありました。
その最たるものが第二次世界大戦中の1945年夏のアメリカによる原爆投下です。
未曾有の戦災にあった長崎市民は敗戦後、生活再建に向けて立ち上がりました。
その中に30年近く放りっぱなしにしてあった
この露西亜領事館跡地に住みつき始めた人達がいたのです。
《旧ロシア領事館があった所》
跡地に住んだ人々はその後55年もの長きにわたって平穏に過ごしていました。
が、しかし、2000年10月にこの跡地に住んでいた南山手の住人(16人)は
土地を明け渡すようにと突然ロシア政府に訴えられました。
住民にとっては寝耳に水のことでした。
旧ソ連は1987年(昭和62年)に突然思い出したかのようにこの領事館跡地を
ソビエト連邦の所有地であると、登記していたのです。
ロシア政府と長崎南山手の住民との法的争いは2000年から7年間にわたり続き、
昨年「和解」が成立しました。
長崎地方裁判所(田川直之裁判長)での和解内容は
:{住民側がロシア側に二十五万円~二百五十万円を支払って所有権を取得し、
それを望まない6人の住民