二条殿

二条殿

[1] 二条殿 (にじょうどの) , 押小路烏丸殿 (おしこうじからすまどの)

35.0114774833228 135.758754014969

Webページ

[2] 押小路烏丸殿 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E7%83%8F%E4%B8%B8%E6%AE%BF

押小路烏丸殿(おしこうじからすまどの)は、中世京都にあった邸宅の1つ。後に二条摂関家の邸宅を経て、本能寺の変の際に織田信忠が戦死した二条御所となる。現在の京都市中京区二条殿町及び御池之町、龍池町付近と考えられている。通称二条殿。 元は陽明門院の御所があったとされ、後に後鳥羽院の寵臣藤原範光の邸宅を経て、承元3年(1209年)に後鳥羽院の仙洞御所(三条坊門殿)となった。この邸宅の南側には後世「龍躍池」と呼ばれる広大な池が存在し、池の上には「泉殿」と呼ばれる離れが建てられ、本邸と結ばれていた。後に陰明門院の御所となったが、貞応元年(1222年)の火災で焼失した。その後、正嘉元年(1257年)になって後嵯峨院によって新たな御所が造営された。これが押小路烏丸殿の直接の祖となる。弘長2年(1262年)に院が寵愛する西園寺成子に与えられて以後彼女はここで生活した。 さて、二条家の祖である二条良実がここに居住したとする『拾芥抄』の説があり、また「二条京極第」に邸宅が存在したことから「二条」の家名が成立したとする説もある。更に二条家に伝わる『二条押小路家門亭泉記』には二条良実が建長年間に相博したと記されている。だが、二条良実邸は後に内裏として用いられる二条富小路殿であったことが、『平戸記』寛元2年4月20日条に記された良実の冷泉殿から二条富小路殿への移転記事(「今夜殿下(二条良実)御渡二条富小路御所」 )から確認可能であり、また良実の子二条道良が死去したのが、二条富小路殿であったことも『経光卿記』正元元年11月8日条の死去記事(「今暁(二条道良)令薨去給云々、坐二条富小路亭、已為陣中、旁無便宜」 )に明記されており、二条良実邸が押小路烏丸や二条京極にはなかったと考えられている(なお、当時二条富小路殿は里内裏である冷泉富小路殿とは二条大路を挟んで斜め向かいにあり、里内裏の出入口(陣)の一部とみなされていた)。また、建長年間(貞応と正嘉の間の時期)に押小路烏丸殿の施設が存在したかも不明であり、少なくても二条良実が押小路烏丸殿の主であった可能性は低い。更に室町時代後期に壬生晴富が二条持通より、相博を行ったのは永仁年間であったとする話を聞いており(『晴富宿禰記』文明10年3月9日条)、後伏見天皇が二条富小路殿にて即位した。永仁6年(1298年)以前の13世紀後半に二条富小路殿と押小路烏丸殿の相博が行われている。 以後、二条家代々の邸宅となり、摂関を5度務めた二条良基の拠点もここに置かれていた。良基が17歳であった建武3年8月15日(1336年9月20日)、建武政権を崩壊させた足利尊氏の工作によって持明院統の光厳上皇及び弟の豊仁親王が押小路烏丸殿に入り、光厳上皇の御所とされた泉殿にて親王の元服が行われ、そのまま上皇の猶子として寝殿において践祚の儀が執り行われた。ここに北朝が成立することとなり、これを吉例として次の崇光天皇の践祚もここで行われた。時代が下って、応安元年/正平23年閏6月13日(1368年7月28日)に雷雨の押小路烏丸殿の池から白龍が昇天するのを目撃したという話があり、これを聞いた中巌円月がこの池を「龍躍池」と命名したという。二条殿の庭園の姿は『おもひままの日記』に活写されており、島が点々と浮かぶ池や高さ五尺ほどの滝があったことが知られる。 ところが、二条家が居住して以後、度重なる火災などの災害、そして応仁の乱にも被害を受けなかった筈の押小路烏丸殿が文明9年11月11日(1477年12月16日)に放火によって焼失してしまう(奇しくもこの日は大内軍の撤退によって応仁の乱の戦闘が事実上終了した日であった)。9年後に建物は再建されたものの、これを機に二条家は当主の急死が相次ぎ(明応6年(1497年)には2歳の二条尹房が当主となるが大寧寺の変で殺害されている)、政治的にも経済的にも没落の一途を辿っていった。戦国時代の『洛中洛外図』に二条殿の立派な姿が描かれているが、実際には当主は生活苦から各地の大名を頼って転々とし、邸宅の施設は荒廃して、京都の人々は身分の上下を問わずに勝手に邸内に侵入して庭や池を見て楽しむ有様であった。 その状況を立て直したのが、織田信長の上洛をいち早く支持した二条晴良であった。だが、天正4年(1576年)に押小路烏丸殿を気に入った信長は二条晴良に迫って退去させ、自分の在京時の城とすべく村井貞勝に修繕工事を命じた(「二条御新造」「二条城」。しかし天正7年(1579年)にはかねて目を掛けていた儲君誠仁親王に御所として提供してしまう。以後「二条御所」・「下の御所」などと呼ばれていた二条御新造は、天正10年の本能寺の変に際して信長の嫡男織田信忠が立て籠もったため明智光秀軍の襲撃を受けて焼失、跡地には一時羽柴秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく寺町に移転させられ、以後民家や金座・銀座などに分割・転用され、庭園も荒廃・消滅した。「龍躍池」も江戸時代後期までは痕跡が確認できるものの、現在ではその面影すら存在していない。京都労働局局舎が改築された際に発掘調査が行われ、池の州浜などが発掘されている。なお二条殿にあったこの池がのちに現在の「御池通」の名の起源となった。

[3] 二条殿跡 京都通百科事典, , http://www.kyototsuu.jp/Sightseeing/HistorySpotNijyouDonoAto.html

二条殿跡(にじょうどのあと)は、和歌連歌で著名な公家 太政大臣 二条良基の邸宅の跡

旧龍池小学校前に、二条殿御池跡を示す石標が立てられている

現在、烏丸御池付近には、「御池之町」「龍池町」「二条殿町」の地名が残る

【二条殿(にじょうどの)】

二条殿(にじょうどの)は、和歌連歌で著名な公家 太政大臣 二条良基の邸宅で、

「押小路殿」とも称されていた

室町時代の洛中洛外図屏風にも描かれている

邸内には龍躍池があり、「御池」の名前の由来の一つとされる

1577年(皇紀2237)天正5年

織田信長が、景観の美しさを好み移り住んだ

1579年(皇紀2239)天正7年

織田信長から、正親町天皇皇太子 誠仁親王に献上された

1582年(皇紀2242)天正10年 本能寺の変

織田信長の長男 織田信忠がこの地で自害し、二条殿が焼失してしまう

【二条家(にじょうけ)】

二条家(にじょうけ)は、五摂家の一つで、藤原氏北家の九条家流の公家

(御子左流の二条家も別にある)

近衛家、一条家に次ぎ、九条家・鷹司家と同格の扱いがされていた

鎌倉時代

九条道家の二男 二条良実が、二条京極の邸宅を「二条殿」と称したのが家名の由来

家紋は二条藤

室町時代から明治まで

新天皇の即位式において、新天皇に灌頂を授ける「即位灌頂」の儀を、二条家が独占して司っていた

【二条殿跡へのアクセス】

地下鉄 烏丸線・東西線 烏丸御池駅 2番出口すぐ

市バス・京都バス 烏丸御池 すぐ

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[目次]

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[4] 山城 二条殿(京都市)/登城記|タクジローの日本全国お城めぐり, , http://castle.slowstandard.com/31kinki/34kyoto/post_344.html

マンガミュージアム(旧龍池小学校跡)の前に建つ二条殿址の碑

本能寺の変の時、織田信忠が奮戦・自害した

別名

二条新造御所、二条御所、二条古城、旧二条城

所在地

京都府京都市中京区二条殿町(御池両替上ル、御池室町上ル)

形状

現状・遺構

現状:市街地

遺構:石碑

満足度

歴史等

「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。

①室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。

②織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。

③織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子(誠仁親王)に献上した邸。

④徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。

現存する二条城は、

④の城である。

①と②は同じ場所に作られたが連続性がない。

②の二条城と③の二条城は同じものと見る説もあるが

『信長公記』その他の史料を根拠として別のものとする説が通説となっている。①②③について「二条城」

と呼ぶのは④が完成した江戸時代以降のことであり、④と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれたりする。

この二条城は、③に相当するもので、「二条殿」「二条新造御所」或いは「二条御所」等と呼ばれたりする。

天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲った(本能寺の変)。

この時、信長の嫡子信忠は妙覚寺に泊まっており、本能寺 が襲われているのを知り、救援に向かったが、明智の軍勢に阻まれた。そこで、

信忠は防御力の全くない妙覚寺を出て隣接するこの二条御所に移った。二条御所でも、誠仁親王を退去させた後に両軍は戦闘を開始し、

激闘の末に信忠は自害し、二条御所は炎上してしまった。

『参考サイト:「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」、「城郭図鑑」』

現況・登城記・感想等

私は、最初に京都へ転勤した時、この近辺に住んでいた。しょっちゅう通った場所なのに写真がないことに気が付き、

今回掲載するにあたっては、当時の同僚増っさんに写真を撮ってきてもらった。

二条殿跡は京都市街の中心地にあり、当然のことながら、石碑を除き往時の面影は全くない。とても、本能寺の変の時に信忠が奮戦・

自害したことなど想像することさえ難しい。

ギャラリー

二条殿址の碑(御池両替通上ル)

マンガミュージアム(旧龍池小学校跡)の前に建つ

[5] 二条殿 京都府:近畿|城とその町 漫遊記, , http://ameblo.jp/inuyama-1970/entry-10983511968.html

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[6] NA041 二条殿御池跡, , https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na041.html

二条殿は,南北朝時代太政大臣を務め,和歌連歌で著名な二条良基(1320〜88)の邸宅で,押小路殿とも呼ばれた。室町時代の洛中洛外図屏風に描かれる。邸内には龍躍池があり,その景観の美しさから皇族や織田信長(1534〜82)が好んだ。信長は天正5(1577)年に移り住み,天正7年正親町天皇皇太子誠仁親王に献上した。天正10(1573)年本能寺の変の際には信長の長男信忠(1557〜82)がこの地で自害し,二条殿は焼失した。この石標は二条殿御池跡を示すものである。

[8] 泰巖宗安記:二条殿御池城跡の風呂, , http://taigan.blog104.fc2.com/blog-entry-676.html

京都考古資料館 速報展示 2010年5月1日~16日 所在地 京都市中京区両替町通り姉小路上がる龍池町での調査報告。 姉小路とあったので、御池の南かと思いましたが、御池通りと両替町通り交差点の北西角。 元国産ディーラーがあったところで、数年前の不祥事のあおりでしょうか、撤退されたようです。 不況の波が、信長ファンに新たなものを提供したことなる。 発掘場所は、当然ながら埋め立てられてまして、もう次の工事が始まってました。 新聞記事ではない情報が、説明リーフにはもちろんありますが、この場所は屋敷の南端に位置し、主要な 建物とは独立した施設であったと考えられ、庭を望むもてなしの空間に建てもの浴室と考えられるようです。 2001年に庭園遺構の発掘調査を見学に行きました。(もう、9年前なんですね。) あの庭は、西から東に州浜が見えてましたが、南から見ても風流なものだったんでしょうね。

[9] 古墳・遺跡・化石・現地説明会 他 二条殿御池城跡, , http://iseki.blog5.fc2.com/blog-entry-1737.html

信長の湯? 浴室跡を発見 織田信長が拠点を構えていた京都市中京区両替町通姉小路上ルの二条殿御池城跡で、安土桃山時代の浴室とみられる遺構が28日までに見つかった。発掘調査を行った市埋蔵文化財研究所は「信長が使った風呂の可能性もある」としている。 見つかったのは、東西に2基が並んだかまど跡。出土した陶器から16世紀後半に作られたとみられる。ともに鉄釜を据え付けていたとみられ東側は東西1・1メートル、南北1・7メートルの馬てい形で、西側は少し小さかった。東側のかまどの周囲には、礎石が方形に据えられていた。 市埋文研は、東のかまどを囲んだ礎石の上に床がすのこ状になった「風呂屋形」を建て、下から湯をわかしてサウナとして使っていた、と推定している。西側のかまどは体にかける湯をわかすためとみられ、近くで井戸跡も見つかった。 発掘場所は鎌倉-室町期まで五摂家の一つ二条家の屋敷「二条殿」があり、織田信長は本能寺を拠点とする以前(1576年~79年)に所有し、「二条御新造」と呼ばれ、京都での滞在場所の一つだった。信長が屋敷を改築した記録もあり、風呂もこの時期に作られた可能性がある。 2002年には調査場所の北側から同じ屋敷の庭園跡が見つかっており、市埋文研は「風呂から庭を眺め、客人をもてなそうとの目的で建てられたのではないか」としている。 調査はすでに終了しており、5月1日から16日まで市考古資料館(上京区)で、遺構の写真や復元図、遺物などを展示する。5月6日と10日は休館。無料。

[10] CiNii 図書 - 平安京左京三条三坊十町跡・烏丸御池遺跡・二条殿御池城跡, , http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB04246218

平安京左京三条三坊十町跡・烏丸御池遺跡・二条殿御池城跡

京都市埋蔵文化財研究所編集

(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告, 2009-20)

京都市埋蔵文化財研究所, 2010.5

タイトル別名

平安京左京三条三坊十町跡烏丸御池遺跡二条殿御池城跡

タイトル読み

ヘイアンキョウ サキョウ サンジョウ サンボウ ジュッチョウ アト・カラスマ オイケ イセキ・ニジョウドノ オイケジョウ アト

[11] 二条古城 | 発見!ニッポン城めぐり, , http://cmeg.jp/pc/5058

通称・別名

旧二条城

所在地

京都府京都市上京区五町目町

城郭構造

平城

天守構造

築城主

織田信長

築城年

永禄12年(1569)

主な改修者

主な城主

足利氏

廃城年

天正元年(1573)

遺構

指定文化財

再建された建造物

石碑、復元石垣

日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。のちには、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。

1.室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城。

2.室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通にはなかった。

3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。

4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。

現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。2と3は同じものと見る説もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。1~3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。ここでは、近世の二条城である4.の前史として1から3までの「二条城」について略説する。

~足利義昭の二条城~

足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、1569年、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは京にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の二条城のあった地を中心に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。旧管領細川京兆

[12] 京都の城02 /城跡巡り備忘録 京都府, , http://www.geocities.jp/buntoyou/f10/f-kyoto002.html

�A京都市中京区三坊大宮町

�B

国道1号線五条堀川の信号から堀川通りを北に1.7kmの堀川御池の信号を左折し(中京区役所の角)御池通りを200m進んだ最初の信号を左折します。角に二条陣屋の案内板があります。100m先の右手です。陣屋前の道は狭いです。予約をしてなかったので中には入れませんでしたが、江戸初期の商家が残るという感じです。どちらかというと草津宿本陣や二川宿本陣という感じですかね。

�C平城

�F遺構等:現存建物・説明板

�G江戸期/小川氏

�H満足度:凸

豊臣秀吉の家臣で伊予今治で七万石の大名であった小川土佐守祐忠は関が原の戦いでは西軍に属したため出家し、その長男の千橘が萬屋平右衛門と名乗ってこの地で米穀商・両替商・木薬屋を営みました。この建物は寛永十年(1670年)に住居として建てられたものです。江戸期、二条城に伺候する中小大名の陣屋として利用され、また、京都奉行所の公事宿として利用されたため、隠し階段や武者隠しなどの身辺警備の施設が施されています。 (現地案内板より)

[13] 二条殿址 二条御新造 二条御所 二条邸 下御所 二条城 織田信長宿所 織田信忠討死 本能寺の変 二条御所の戦い 中世城館 城跡 城郭 史跡 旧跡 旧蹟 城址 城蹟 城郭 城 館跡 屋敷, , http://www.geocities.jp/tsukayan0112/joukan-kyouto/nijou-gosinzou/nijou-gosinzou.html

■城郭関係資料

「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)

「日本の城ハンドブック」(2005/三省堂)※注記の「二条城小史」に一部二条御新造と混同した記述が見られる。

■郷土史・歴史

「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)

「日本史広辞典」(1997/山川出版社)

「本能寺の変(新・歴史群像シリーズ)」(2007/学研) 「謎解き本能寺の変」(2003/藤田達生 著/講談社) 「信長は謀略で殺されたのか」(2006/鈴木眞哉・藤本正行 共著/洋泉社)

「本能寺の変」(2010/藤本正行 著/洋泉社)

「織田信長合戦全録」(2002/谷口克広/中央公論社)

「考証織田信長事典」(2000/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)

「信長の天下所司代」(谷口克広 著/2009/中央公論社)

「天正壬午の乱」(2011/平山優 著/学研)

「証言本能寺の変」(2010/藤田達生 著/八木書店)

「織田信長総合事典」(1999/岡田正人 編著/雄山閣)

「信長の天下布武への道」(2006/谷口克広/吉川弘文館)

「京都の歴史が分かる事典」(2005/日本実業出版社)※「二条城」の項目に一部二条御新造と混同した記述がある。

■史料 「現代語訳信長公記 下」(2006/中川太古 訳/新人物往来社) 「原本現代訳信長公記 下」(1980/榊山潤 訳/ニュートンプレス)

「新訂信長公記」(1997/桑田忠親 校注/新人物往来社)

「川角太閤記」(1996/志村有弘 訳)/勉誠社 藤本正行氏の指摘によれば、明智軍1万3千の唯一の典拠であるという。

■その他

各市町村公式HPなど

履歴

[18] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054553850621

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