青蓮寺

青蓮寺

[1] 青蓮寺 (しょうれんじ) , 鎖大師

35.325875 139.508238888889

Webページ

[2] 青蓮寺 (鎌倉市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%93%AE%E5%AF%BA_%28%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%29

青蓮寺(しょうれんじ)は、神奈川県鎌倉市手広にある高野山真言宗の寺院。高野山宝寿院(無量寿院)末。詳しくは飯盛山仁王院青蓮寺(はんじょうざんにおういんしょうれんじ)と号する。高野山真言宗準別格本山。関東八十八ケ所第五十九番札所、東国新四国八十八箇所第八十八番結願札所、相州二十一箇所第十九番札所

[3] 隧道レポート 鎖大師参道の隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/tebiro/main3.html

2008/6/27 11:46 【現在地】

隧道より脱出した私は、改めて周囲を観察してみた。

すると坑口向かって右手の茂みの中に、一基の石碑を発見した。

前回、坑口左側に常夜灯らしきものの残骸を見つけているが、右側にも遺物発見ということになる。

こいつめ〜。

私に小出しの情報を与えて、何が目的だー?

はたして気になる石碑の正体は?!

“堅牢地神塔”

うおわぁあ!!

これまた、興奮しちまったよ!

隧道のとなりに「“堅牢”地神塔」って、なんてお似合いなんだろう!

今回初めて調べて知ったのだが、堅牢地神というのは仏教の神の一柱で、文字通り大地を堅牢ならしめる神(女神)であるそうだ。

まさに土木工事の守り神のように聞こえるが、一般的には農耕の神として信仰されていて、神奈川県や群馬県などに多く祀られているという。

とはいえ今回この場所に限っては、やはり豊作祈願よりも、隧道の安全を願って安置されたのではないかと思うし、そうであって欲しい!

次に注目したのが、台座石に刻まれた文字だ。

そこから本碑建立の経緯や時期が判明するのではないかという期待があった。

が、だめ。

台座石には「世話?人」として「當(当)村」(ないしは「寄附」)の人名が20ばかり列記されているのみで、建立年は書かれていない。

ちなみに世話人筆頭は「内海」某という人物であった。

せめてこれが寄付者の名簿で金額でも書いてあれば、そこから年代が予想出来たかも知れないが…。うむぅ…。

【解読してやろうという方は、こちらから原寸大画像をダウンロードして下さい】

立地的にみて、この堅牢地神塔が隧道と何らかの関係を持っている可能性は高いと思うが、決定的な証拠は掴めず。

というか、どの碑(いしぶみ)も読みにくいよぉ(涙)。

念のため隧道の直上にも上ってみた。

隧道の土被りはわずかであり、洞床との高低差は6m程度であろう。

地中の隧道をイメージした状態で、地表をその出口方向へ向かって進むと、まもなく予想どおりの光景にぶち当たった。

県道304号の切り立った法面に、行く手を阻まれる。

おそらく隧道も内部は多少下っていたのであろうが、県道はそれよりもだいぶ勢いよく下っているので、高低差が想像以上に膨らんでいた。

結構怖い。

そして県道の向こう側には、本編初回の写真に山門が登場し、隧道の扁額にも名を掲げられた「鎖

[6] 青蓮寺石仏群, , http://kamakurasakura.com/tannpou/syourennjisekibutugunn.html

鎌倉市手広にある青蓮寺であります・・・

境内には特に由緒がある訳ではありませんけど石仏が多く配置されていて中々楽しめる寺です!

今回はその石仏をテキトーに紹介させて頂こうかと・・・

山門手前には寺の由緒書きがあります・・・

青蓮寺(しょうれんじ)

飯盛山青蓮寺と号し、開山は弘法大師で本尊は鎖大師です、この本尊は鎌倉時代中期の写実的彫刻で国の重要文化財に指定されています。

ん?・・・これだけか?・・・結構歴史のある寺なのに説明があっさりし過ぎな気がするんですけど・・・

てー事で少し補足を・・・

飯盛山仁王院青蓮寺・・・青蓮寺の名称の由来は、弘法大師が裏山(飯盛山)で修行していたところ、天女が現れて修行の手伝いをしたんだそうです・・・そして無事修行を終えると天女は大師に一粒の仏舎利を授けて池に消えたんだそうです・・・翌朝大師が目覚めると池一面に青い蓮の花が咲いていたそうです・・・で、青蓮寺(笑)

創建は弘仁10年(819年)、開山は空海(弘法大師)、江戸時代には関東壇林三十四院のひとつに名を連ねた寺格の高い寺であります・・・

寶積院と東福院という2つの塔頭があった様で、当時手広の交差点のあたりまであったとされる広大な境内地を有する青蓮寺の勢力を削ぐ為に建てた物ではなかろうかという話もあります・・・ 

青蓮寺の隣には熊野神社が建っています・・・

別にこれといった特徴のない手広の鎮守ですが、江戸時代ココを管理していたのは寶積院だったとの事・・・

その後寶積院が廃寺となり史料が散逸した為に詳しい社歴は分かっていない様です・・・

祭神・・・伊弉冉命、事解男神、速玉男神

現在建っている手広山寶積院薬王寺は平成18年に再建された物でまだまだピッカピカです!

石柱や石碑には鎖大師の文字が目立ちます・・・バス停も鎖大師・・・そうなんです、ココ青蓮寺は通称鎖大師の名で有名な寺であります・・・厄除大師の寺としても人気があり護摩法要に多くの人が訪れます・・・

何故鎖大師なのかというと、本尊の弘法大師像の両足関節が鎖で繋がれていて自由に可動させられる物であるという事に因んでいます・・・

この大師像は弘法自身が彫って嵯峨天皇に奉献した物ともいわれていますがガセでしょう(笑)

鎌倉中後期の作といわれています・・・もともと鶴岡八幡宮の等覚院にあった物で、明治の廃仏毀釈

[7] 青蓮寺〜鎖大師:鎌倉〜, , http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page139shorenji.htm

青蓮寺の本尊:「木造弘法大師坐像」は、鎌倉時代特有の裸形彫刻の一つ(国重文)。

足の関節が鎖で繋がれているような細工が施されているため、自在に動かせることから「鎖大師」と呼ばれる。

「大師様を信仰する人と大師様が、鎖のように強いご縁で結ばれますように」との願いが込められているという。手指の爪は水晶でできている。

四臂の木造十一面観音立像は鎌倉時代の作。

[8] 『鎌倉谷戸坂の切通(男坂切通)』 [鎌倉]のブログ・旅行記 by ドクターキムルさん - フォートラベル, , http://4travel.jp/travelogue/10449288

鎌倉市のホームページの「かまくら景観百選」には他にも切通があり、32番に「谷戸坂の切通」が載っている。早速出かけてみた。大船駅から湘南モノレールに乗って西鎌倉駅まで行き、歩いた。モノレール下の道路を上り、鎖大師入り口信号を過ぎてから左手の団地に入った。西鎌倉小学校から団地を上り、ぶつかりはどうやら団地を抜けた昔からの道のようだ。左折して曲がった道を下ると畑だ。その直ぐ下が低い崖になっており、道路工事中のように柵がある。遠くから見てあれだと直感できた。「谷戸坂の切通」だ。深くえぐって下っている。狭くて短い切通だ。Webの写真では子供たちが遊んでいるが通行止だ。下に大きな道路が見えるが先ほどの畑の端の山道を行くことにした。山桜が綺麗だ。暫く行くと道が分かれる。窪んだ下り坂を下りると切通がありお墓がある。切通の上の方にあるやぐらにも石段が付けられており墓石が並んでいる。青蓮寺の境内かと思いきや寺は見えない。小路を進んで行くと萱葺き屋根が見える。そちらの小路に行くと長屋門のお屋敷がある。さらにこの小路を進むと先ほどの萱葺き屋根の家に着く。ここは成瀬家(鎌倉市景観重要建築物第32号指定。最後の物件)だ。さらに進むと墓地があり、通行止になっている。この先の木陰が先ほどの「谷戸坂の切通」の出口のようだ。通行止の柵が近くて切通までは少し距離があり良く見えない。通行止の区間の僅か20mほどを迂回するのに1km弱はあっただろうか。それでも切通が拝められない。詐欺に遭ったような気がした。 Webには「鎖大師の切通」ともあった。通行止の切通の感じが出ている言葉だ。しかし、青蓮寺が鎖大師と呼ばれるのは明治になってからであり、「谷戸坂の切通」は江戸時代の掘削であろうから、「鎖大師の切通」は不適切である。Webには「男坂切通」ともあり、こちらは使える。 (表紙写真は谷戸坂の切通(男坂切通))

[11] 谷戸坂の切通(鎌倉), , http://www.izumi-loc.com/kamakura/yatozaka/index.html

<<谷戸坂の切通>>

谷戸坂の切通は、手広の古道江ノ島道にある切通された部分です。切通しの部分は、10mほどの短い距離で、、単純に切通されていて、鎌倉の”七切通”のような軍事施設やまたその名残り(空洞、郭、平場、置き石、段差など)はありません。

単なる生活道路ですが、崖を深く切通してあり、両壁が狭い道に覆い被さるように迫る様子は迫力があります。鎌倉景観百選にも選ばれています。

現在は通行禁止ですが、上側(西鎌倉側)から切通しの様子が見ることができます。下側からは木々や草に遮られ見えませんでした。街灯のあとも残されており最近まで生活道路として利用されていたことがうかがえます。

鎌倉景観百選のページには「手広と腰越村、片瀬村を結んでいた旧道で、江戸末期に勾配をゆるやかにするため、手広村の村人が周辺から寄付を集めて切り下げ工事を行い、現在の姿になったそうです。車が行き交う県道のすぐ脇に、静かな古道のたたずまいを見せています。 」とあり、江戸末期以前はかなりの勾配があったと推測できます。今でもかなりの勾配ですので、以前は馬(軍馬)や荷車の通行は困難だったのではないでしょうか。

<<古道江ノ島道>>

深沢は古道鎌倉道上の道が通っていた所です。そこから分岐して腰越・江ノ島へ向かう道が古くからこの辺(手広)を通っていたと思われます。

また、江戸時代には東海道の戸塚宿から鎌倉・江ノ島方面へ向かう道が分岐していて、その道は山崎の巨福呂谷入り口付近で鎌倉方面の道と分岐し、そこから腰越・江ノ島方向に向かい、このあたり(手広)を通っていました。

これらの腰越・江ノ島へ至る道は、後の研究者や執筆者により”古道江ノ島道”と称されました。(よく古い道標に「右 江ノ島道」というような文字を見かけますが、これは方向(行き先)を表しているものです。) 古道江ノ島道の手広付近は古道の趣きがよく残っています。

<<もう一つの古道(女さか?)>>

谷戸坂の切通の道の東側にもう一つの古道が残っています。(”女さか”ともいうらしい)

手広側から上ると、すぐ切通された部分があり、こちらも”切通”と呼んでいいくらいです。谷戸坂の切通の道より勾配も緩く道幅もあり、馬(軍馬)や荷車も通せそうです。

道沿いには墓地があり、そこから深沢のまちがよく見渡せます。

道は掘割の道になり峠をこえます。傾斜の緩い畑の中の道になります

[12] 谷戸坂の切通, , http://kamakurasakura.com/tannpou/yatozakanokiridoosi.html

前回の青蓮寺石仏群があまりにもヒドイ事になってしまいました(笑)・・・あのページを見てガッカリしてこの近辺に寄り付かなくなる方々が増える様な事があると申し訳ないので、この辺にも見所ちゃんとあるよって事を証明する為に、今回ある物件を紹介したいと思います・・・

青蓮寺を出て右に曲がり県道304号線を江ノ島方面へと登って行きます・・・するとすぐに道の左側に怪しいトンネルが見えると思いますがこれはヤマノイハイツ手広というアパートの居住者用のトンネルで、今回の物件とはなんら関係ありませんのでスルーしましょう!

カーブを過ぎると坂の頂上になりますがその手前に左に入る道がありますので、そこへ入ります!

向かいにある赤い建物(中華一番)を目印にして下さい・・・どーやら工事中の様ですね・・・

宅地造成で今回の物件も無くなってしまうって話も耳にした事がありますが・・・大丈夫かな?

ちょっとドキドキしながら進んで行くと目的地に到着であります!

[13] 江の島道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E3%81%AE%E5%B3%B6%E9%81%93

江の島道(えのしまみち)は旧藤沢宿から龍口を経て江の島に至る旧道。また鎌倉街道を小袋谷から分岐し龍口を経て江の島にいたる旧道も江の島道と呼ばれた。いずれの旧道も江の島へ向かう遊山客や地域住民の生活路としてにぎわい、多くの寺社・旧家が立ち並んでいたが、明治時代以降になると鉄道・新道の開通によって廃れていった。現在では要所要所に残されている道標などが往時の姿をしのばせている。この道標の中には江の島と深い縁を持つ杉山検校が建てたものが多い。

この江の島道は旧藤沢宿(現在の遊行寺周辺)から江の島までの約1里(4Km)を結ぶ旧道で、龍口までは現在の国道467号とほぼ平行して走っている。

遊行寺門前の遊行寺橋はかつて大鋸(だいぎり)橋という名で、旧東海道が境川を渡る橋であった。明治初期まではこの橋のたもとに大きな鳥居が立っており、多くの浮世絵に描かれている。この鳥居が江島神社の一の鳥居であり、江の島道の入口にあたっていた。鳥居の脇には道標が立っていたという。現在遊行寺内真徳寺の庭内に「江の島弁才天道標」がある。鳥居の撤去時期は不明だが、その後、藤沢駅南口に建てられていた時期があるという。

ここから南下する国道467号は「遊行通り」と呼ばれており、途中から藤沢駅方面に分岐する。この分岐点には杉山検校が建てた道標が残っている。国道と分かれた「遊行通り」は、神奈川県道306号藤沢停車場線と名を変え藤沢駅北口に達する(ここから左折して進んだところに藤沢市役所新館があり、その脇に杉山検校が建てた道標2基が並んでいる。これらは国道467号の東側にある本館前庭から近年移されたもので、もともとは藤沢宿近くと辻堂から移設されたものである。これ以外に「従是右江嶋遍/當所龍口」と刻まれた平頭角柱型道標も並んでいる)。

藤沢駅北口広場からは東海道本線の下を歩行者用の地下道で抜けることができる。地下道を出たところが南口広場で、正面に江ノ島電鉄線藤沢駅と小田急百貨店藤沢店が入る江ノ電ビルが建っている。そのビルの東側から鵠沼石上地区を南下する「ファミリー通り」商店街がかつての江の島道である。1km弱で緩やかな下り坂になり、下りきったあたりがかつて「石上の渡し」があった場所である。境川はここから江ノ島電鉄のあたりまで曲流していた。

そのまま進むと道は東にカーブし、国道467号と交差して「上山本橋」で境川を渡る

[14] 神奈川県道304号腰越大船線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%81%93304%E5%8F%B7%E8%85%B0%E8%B6%8A%E5%A4%A7%E8%88%B9%E7%B7%9A

腰越橋交差点(2005年1月30日撮影) - 県道304号の起点。画面奥が県道304号大船方面、右手が国道134号横須賀方面、左手が国道134号大磯方面

神奈川県道304号腰越大船線(かながわけんどう304ごう こしごえおおふなせん、以下県道304号と記す)は神奈川県鎌倉市腰越(腰越地域)の腰越橋交差点より同県同市小袋谷(大船地域)の神奈川県道301号大船停車場線までの約5kmを走る県道。(ただし、同市山崎から大船停車場線までの400メートル程は2014年開通予定)[1]

1960年(昭和35年)4月1日、神奈川県によって県道に認定された。

概要[編集]

県道304号は国道134号と接する小動岬付近の腰越橋交差点を起点とし、湘南モノレール江ノ島線西鎌倉駅付近までを神戸川・旧江ノ島道とほぼ併走する。なお西鎌倉駅付近の赤羽交差点で旧京急自動車専用道と交差する。青蓮寺付近で旧江ノ島道とわかれ、手広交差点で神奈川県道32号藤沢鎌倉線と交差、その後は終点まで柏尾川とほぼ平行して走る。

柏尾川と平行に走る区間は工場地帯となっており、三菱の工場や鎌倉車両センターなどいくつもの工場・企業が立ち並ぶ。

将来的には大船駅付近の交通渋滞緩和を目的に湘南モノレール江の島線富士見町駅付近で旧京浜急行自動車専用道(現在は市道西鎌倉大船線)と合流し、横須賀線を越える跨線橋を新設し、神奈川県道301号大船停車場線と接続する計画がある。(2014年度〈平成26年度〉開通予定)

青蓮寺付近はかつて細い山道(旧江ノ島道)しかなかったが、この県道の開通に先立ち1957年(昭和32年)に切通しが作られた。切通しの掘削には陸上自衛隊の施設科中隊が動因される大規模なものであったが、これにより乗用車の通行が可能になり周辺地域の交通の便も飛躍的に向上した。この道路の開通は腰越地域(特に西鎌倉住宅地)の宅地化を急速に進展させた原動力となった。[2]

google マップ

通過する自治体[編集]

鎌倉市

交差・接続する道路[編集]

腰越橋(こしごえばし)交差点(起点) - 国道134号

神戸橋(ごうどばし)交差点 - 江ノ島電鉄線の併用軌道

赤羽(あかばね)交差点 - 市道西鎌倉大船線(旧京浜急行自動車専用道)、湘南モノレール江の島線

手広(てびろ)交差点 - 神奈川県道32号藤沢鎌倉線

山崎跨線橋南(やまざきこせんき

[15] ホットロード鎌倉で撮影|33歳のF1コゾーのブログ, , http://ameblo.jp/bijinsena/entry-11724159556.html

先日、鎌倉の青蓮寺近くの「ヤマノイハイツ手広」というアパートでホットロードの撮影がやられたようです。関東近郊に住んでいる能年ファンのみなさん、湘南から鎌倉付近をブラブラしてると案外、撮影と出くわすかもしれませんね。多分、春山のアパート? Android携帯からの投稿

[16] 古道の旅「手広 谷戸坂の切通し」(神奈川県 鎌倉) | ひなたびBLOG, , http://www.hinatabi.com/blog/20101031_tebiro_kiridoshi.html

鎌倉の切通しの一つ「手広 谷戸坂の切通し」をご紹介します。

いわゆる「鎌倉七口」とは別の切通しですが、原型のよく残っている道の一つ。

かまくら景観百選に選定されています。

観光化されていないためひっそりとしていますが、あじさいなど季節によって変わる要素もあり飽きさせません。

切通しの正体は江ノ島道

この古道の正体は、文献不明ながら藤沢から江ノ島に抜ける「江ノ島道」の脇街道で、戸塚宿から江ノ島を結んでいたようです。

少し距離を離して女坂と男坂があり、見事な切通しと掘割が見られます。

男坂は尾根道への直登コースで距離は短いが傾斜が急。

女坂は迂回ルートになり距離は伸びますが、傾斜はゆるいです。

謎なのが2本も必要かということで、メインルートでもなく、大仏の切通しの傾斜を考えると男坂でも急すぎるというわけでもないので、2本の必然性が感じられません。

道の形態としては、女坂の方が稜線を通ることから「かまくら道」の要素が強いので古そうではあります。

手広は暴れ川と言われた柏尾川の流域であり、深い沼地が広がっていたそうで、このあたりもヒントになるかも。

男坂のほうが道幅が細く、少ない交通量を想定しているようにも思えます。

男坂の隣には廃止になった鎖大師参道(隧道)があるのですが、男坂があればあえて必要のない参道なのでこれまた成立時期が気になるところ。

女坂入り口(手広側)

手広交差点から西鎌倉方面へ歩き、鎖大師正門の道路向こうにある細道(斜面沿い)を進むと見つかる。

西鎌倉側の入り口よりは見つけやすいので、こちらから登ることをおすすめ。

写真にある草生した階段が入口です。

女坂 切通し部分

閑静な住宅地から登ると、いきなり蛇行した切通しに。

入り口のやぐらには現役のお墓あり。

女坂 切通し部分

女坂が維持されてきた理由の一つは墓地の存在でしょう。

切通し以外に到達できる道がありません。

女坂 掘割部分

切通しを抜けると大規模な掘割にたどり着きます。

ほぼ直線コース。

七口と遜色ない規模であることから、かつての交通量の多さが想起されます。

女坂 石碑群(年代は江戸時代から昭和まで)

なぜか男坂側にはない石碑群。

年代は豊富です。昭和になってからも造られていたことが意外です。

女坂 稜線の光景

女坂の最上部は畑になっています。

車道からは見えないの

鎖大師参道

鎖大師参道

履歴

[19] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054521834634

メモ