船岡山

船岡山

[1] 船岡山 (ふなおかやま)

35.039 135.741722222222

Webページ

[2] 船岡山 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B2%A1%E5%B1%B1

船岡山(ふなおかやま)は、京都府京都市北区に所在する山。 == 概要 == 京都市北区紫野北舟岡町に位置する、標高111.7m、面積2万5000坪の小山である。船岡山城の遺構が建勲神社および船岡山公園として整備されている。 なお、船岡山公園は、京都市の都市計画公園第1号であるが、大徳寺所有地を借地している。 山頂には三等三角点が設置されている。五山の送り火の見晴らしが良く、当日は混雑する。山名の由来は『都名所図会』によると舟の形に似るところによるという。 船岡山の北側及び南側に断層があり、地学上、隆起した山とされている。

[3] 本初子午線をゆくPart I 京都編, , http://stelo.sakura.ne.jp/135e/hizakuri200203.htm

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本初子午線をゆく Part I 京都編

(2002年3月24日訪問)

「本初」とは“はじめ”“もと”という意味で、本初子午線は経度0°0′0″の子午線のこと。現在は世界的にイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線と定められているが、かつては国ごと、地域ごとに独自の本初子午線を用いていた。

日本がグリニッジ子午線を本初子午線とするのは1886(明治19)年のことで、それまでは国内に本初子午線があった。日本標準時子午線はグリニッジ基準子午線と同時に定められたものなので、それ以前は国内の本初子午線が、日本の経度の基準となってきたといえる。

そんなわけで、本初子午線を巡る旅に出た。ちょっと寄り道が多いのはご愛敬ということで……

<旧本初子午線>

京都改暦所旧跡 (中京区西ノ京西月光町)

ここ数年、立て続けに映画やドラマに取り上げられて、伊能忠敬もだいぶ知名度が上がってきた。彼の最大の業績はいうまでもなく「大日本沿海與地全図」の編纂だが、実はこの地図、京都に本初子午線が引かれている。

本初子午線の基準となったのは、上京区西月光町にあった京都改暦所。江戸幕府が寛政の改暦作業を行うために設けた天文台である。

山陰本線の二条駅より西に500mほど。住宅地の一角にある稲荷神社の裏手あたりが改暦所のあった場所だという。

この日は神戸から自転車をかついで出かけたので、自宅から乗り換えの少ない阪急電車で京都に向かった。JRの新快速より時間はかかるが、安いし、市街地の真ん中、四条烏丸や四条河原町に電車が着くので、便の良さは引けを取らない。

四条烏丸で電車を降り、自転車を組み立てて北へ向かう。いい加減に走っても、道が東西南北に沿っているおかげで、通りの名前さえ覚えていれば地図ですぐに現在地を確認できるのが京の街の良いところ。通りの名前も錦小路・蛸薬師小路・六角小路・三条通と何かの歌で聞いたようなものばかりで、道路の標識を見ているだけでも楽しくなる。

細い路地をつなぎながら走っていたら、「本能寺跡」の石柱に出くわしてしまった。1582年6月2日、織田信長が討たれた本能寺の変の現場である。本能寺は現在河原町にあるが、これは事変後再建した後のことで、明智光秀が襲撃したのは、この石碑の地である。今では普通のお

[4] 船岡山合戦 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6

船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)とは、永正8年(1511年)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間でおきた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦い。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。

明応2年(1493年)の明応の政変により将軍足利義材を追放し、自身が擁立した足利義澄(義高)のもとで絶大な権力を誇った管領細川政元であるが、実子がいなかったため3人の養子を迎えたものの、後継を巡り養子同士(細川澄之、細川澄元、細川高国)3派での権力争いが発生した。

永正4年(1507年)6月23日に澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって政元が暗殺(永正の錯乱)、澄元と側近の三好之長も屋敷を襲われ、一旦近江甲賀郡に逃走するが国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之・元長・長忠を討ち取り、翌2日には義澄に対して細川氏の家督継承を承認させたが、これが本格的な内乱の幕開けとなった(両細川の乱)。

細川氏の混乱に乗じ、京都への復帰をもくろんだ前将軍足利義尹(義材)が、周防の戦国大名大内義興を伴い上洛を開始すると、これに細川氏家督の奪取を企てた細川高国が呼応し永正5年(1508年)に挙兵、義澄は近江の岡山城に、それを担ぐ澄元・之長は近江から最終的には阿波へそれぞれに逃亡した。戦いに勝利した義尹は義稙と改名して将軍に復職し、高国と大内義興の連合政権が成立した。

再起を図っていた義澄・澄元は永正6年(1509年)に復権を図ったものの敗北(如意ヶ嶽の戦い)、力を蓄え2年間息を潜め、永正8年(1511年)に畿内の諸勢力を糾合し反撃して京都を奪還、義稙達を一旦は丹波に逃亡させた。しかし、義稙達は次第に勢力を盛り返し、京都に再度迫りつつあった。

戦いの状況[編集]

開戦の直前、義澄の擁護者であった近江六角氏において内紛が勃発、その結果、当主である六角高頼が義澄方への与力をあくまで主張する守護代の伊庭氏を抑えて義稙方に寝返り、それを知った盟主である義澄が失意のうちに病死するという大事件が起きたが、澄元達の戦意はなおも衰えず、澄元方の細川政賢を主将として丹波と山城との要衝である船岡山に陣取り防戦を試みた。

しかし、西国の国人領主の大半を動員した大内軍は強大であり、その大内軍を

[5] 船岡山城 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E

概要[編集]

船岡山城は、応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱の西軍の城として船岡山に築造された。翌年、東軍によって落城し、その後は東西両軍とも利用しなかったため、廃城となった。臨戦用の陣城と推定されており、恒久的な城郭施設の存在は不明である。遺構としては山腹に横堀が掘られており、堀の外側土塁が積みあがっている。また山頂部にはかなり広い削平面が確認でき、典型的な中世の山城であった。

沿革[編集]

応仁の乱で、備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山城で立てこもった。この時に、西軍は船岡山一帯を陣地としたため、その後「西陣」の名で呼ばれるようになる。

次は、永正8年(1511年)に細川政賢と大内義興の間で繰り広げられた有名な船岡山合戦が行われた。

アクセス[編集]

京都市営地下鉄烏丸線北大路駅より京都市営バス乗車、船岡山バス停または建勲神社前バス停下車

参考文献[編集]

『日本城郭大系(第11巻、京都・滋賀・福井)』(1980、新人物往来社)

関連項目[編集]

日本の城一覧

建勲神社

船岡山合戦

外部リンク[編集]

[6] 建勲神社 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%8B%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE

建勲神社(たけいさおじんじゃ)は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社である。織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀する。旧社格は別格官幣社。正しくは「たけいさおじんじゃ」と読むが、一般には「けんくんじんじゃ」と呼ばれ、「建勲(けんくん)さん」と通称される。旧称健織田社(たけしおりたのやしろ)、建勲社(たけいさおしゃ)。

歴史[編集]

明治2年11月8日(1869年12月10日)、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛えるための健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建が明治天皇により決定された。翌明治3年10月17日(1870年11月10日)、信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営された(天童市に造営された建勲社については建勲神社 (天童市)を参照のこと)。明治8年(1875年)4月24日に別格官幣社に列格した。

現在地の船岡山は平安京の四神相応の玄武に位置し、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地である。その船岡山に神社を移すことになり、明治13年(1880年)9月、社殿が竣工して東京より遷座した。なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある「大平和敬神」の石碑が建っている場所に本殿があった。明治14年(1881年)に織田信忠が合祀された。明治43年(1910年)に社殿が現在の山頂部分に移建された。

祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされる。高台にある境内からは特に大文字山・比叡山方面の眺望が良い。

文化財[編集]

[7] 京の旧市街地, , http://www.akenotsuki.com/kyookotoba/shigaichi.html

京都に関する研究ではしばしば「洛中」「旧市街地」「昔からの市街地域」などの表現が使われますが、具体的にどの範囲がそれに当たるのか、はっきり説明がされている機会はそう多くないという印象があります。

そこでこのページでは古地図を見ながら、京都における市街地の範囲の変遷を検証してみます。

1889年(明治22年)

1889年(明治22年)、当時の京都府上京区と京都府下京区とが合併する形で京都市は誕生しました。その頃の市域は次の通りでした。

両図とも黒い線が現在の区域(区の境界線)で、色分けされているところが当時の市域・郡域です。

今日の京都市に比べればかなり面積が小さかったのですが、これでも当時としては、将来のことを見越して広めに市域を確保していたそうです*1。

この時代にはまだ「上京区」と「下京区」しかありませんでした。鴨川の西側では後に「中京区」が作られたため当時の上京・下京の境界が今では分かりにくくなっていますが、おおよそ現在の東山区・左京区の境界線をそのまま鴨川の西側へ延長させたところが当時の境界線です*2。

*1

「統計でみる京都市の歴史」のPDFより。

*2

鴨川の西側では上京区の南部と下京区の北部とを合わせる形で昭和4年4月に中京区が作られたのに対して、鴨川の東側ではそのような再編がなかったため、京都市が出来た当初の上京区・下京区の境界線が鴨川の東側では左京区・東山区の境界線という形でそのまま残った。

1887年(明治20年)

先に見た1889年の図はあくまで「当時の京都市の範囲」であり、実際に市街化していた範囲はこれよりも狭いものでした。

明治期の市街地を知るための資料としては、立命館大学地理学教室にて公開されている「現在の都心部の1887年(明治20年)ごろの土地利用」という地図が参考になります。これで当時の状況を確認してみましょう。

鴨川の東西で状況が異なりますので、分けて見てゆきます。

鴨川の西側

市街地はこの時代、既に上京区の北限まで広がっていたことが分かります。対して市街地の南限は概ね今日の京都駅(地図中、下方のエメラルド色の箇所)付近だったようです。

市街地の西の限りは、二条城の南側は概ね大宮通ないし神泉苑通~壬生川通あたり、二条城の北側はところどころ畑や竹林を挟みながらも千本通を越えるあたりまで人家が広がっていたことが読み取れます。

履歴

[11] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933419018

メモ