橋場線

橋場線

[1] 田沢湖線橋場線

Webページ

[2] 田沢湖線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%A2%E6%B9%96%E7%B7%9A

田沢湖線(たざわこせん)は、秋田県大仙市の大曲駅から岩手県盛岡市の盛岡駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)。

地方交通線とはいえ、東北本線沿線から秋田方面へは重要なリレー的路線の需要もあるため、1996年から1年間運休して軌間を新幹線と同じ1435mmの標準軌に拡幅する工事を行い、翌年にミニ新幹線である秋田新幹線のルートとして東京駅からの直通を可能にした。全線が単線であり、上下の秋田新幹線「こまち」が途中の駅や信号場で行き違いを行う光景が見られる。

路線データ[編集]

管轄(事業種別):東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)

路線距離:大曲駅 - 盛岡駅 75.6km(基本計画による。現実には盛岡起点で盛岡駅に0キロポストがある)

駅数:17(起終点駅を含む)

田沢湖線所属駅に限定した場合、起終点駅(大曲駅は奥羽本線、盛岡駅は東北本線の所属[1])が除外され、15駅となる。

信号場数:2

軌間:1435mm

複線区間:なし(全線単線)

電化区間:全線(交流50Hz・20,000V)

ただし盛岡駅新幹線ホーム付近は交流50Hz・25,000V、デッドセクションは盛岡駅構内の東北新幹線・田沢湖線分岐ポイント付近にある。

保安装置:ATS-P

運転指令所:秋田総合指令室(CTC)

最高速度:優等列車130km/h、普通列車110km/h

最急勾配:25.0‰(赤渕 - 田沢湖間)

盛岡駅 - 大地沢信号場間が盛岡支社、志度内信号場 - 大曲駅間が秋田支社の管轄である。

運行形態[編集]

国鉄分割民営化時に当時の運輸省に提出された基本計画や鉄道要覧記載上の起点は大曲駅だが、列車運行上は盛岡駅が起点で、盛岡から大曲・秋田方面に向かう列車が下り、逆が上りである。

広域輸送[編集]

秋田新幹線ルートの一部として東北新幹線直通特急「こまち」が東京 - 秋田間で運行されている。詳細は、秋田新幹線を参照されたい。秋田新幹線開業以前は、盛岡 - 秋田・青森間の特急「たざわ」が運行されていたが、改軌工事の開始に伴って廃止された。

新在直通開始後、輸送指令は秋田支社の管轄になった。

地域輸送[編集]

普通列車などは、岩手県側の盛岡 - 雫石・赤渕間(1 - 2時間に1本程度)と秋田県側の田沢湖 - 大曲間(2 - 3時間に1本程度)の運転がほとんどであり、全線に渡って運

[3] 廃線レポート 橋場線 および橋場駅, , http://www.yamaiga.com/rail/hasiba/main.html

ここに、数奇な運命を辿ったひとつの終着駅がある。

その駅は、橋場駅という。

国鉄橋場線の終着駅である。

だが、この駅が機能を停止して、既に60年以上の時間が過ぎている。

橋場駅は、鉄道省の橋場軽便線(軌間1067mm)の終着駅として、大正11年6月25日、地元の熱烈な歓迎の中に開業の日を迎えた。

県都盛岡から西へ約24km延びた鉄路がたどり着いた橋場地区は、当時人口1000人ほどであった岩手郡御明神村(現在の雫石町の西部)にあり、その沿線には小岩井農場などの牧畜で有名な雫石村があったが、いずれにしても、単独で採算性があるような路線ではなかった。

やがては橋場駅の西に奥羽山脈を貫通する大隧道を穿ち、隣県秋田の生保内(旧:田沢湖町・現:仙北市)から大曲(大仙市)へ至るという、壮大な「盛大横断鉄道」(または盛曲線)を構想した上での、その第1段階としての開通であった。

そのためか、開通翌年の大正12年には軽便鉄道から普通鉄道に格上げされ、橋場線へと改称された。

同じ使命を帯びた秋田県側の生保内線が、大曲から生保内まで開業したのは大正13年のことで、橋場線と生保内線という2つの盲腸線が、奥羽山脈の約20kmほどの距離を隔て向き合う形となった。

その後、政局のうねりや太平洋戦争による工事の中止など、次々に難局に見舞われ、奥羽山脈の貫通という終局の目的は容易に達成されなかったが、計画自体は死滅せず、昭和41年になって、鉄建公団の手でようやく国鉄生橋線が開通。

生橋線は橋場線および生保内線と併合されて、全線開業と同時に国鉄田沢湖線が誕生した。

橋場線の開通から、実に45年もの歳月が流れていた。

その後もローカル線でしかなかった田沢湖線が、軌間1435mmへ改軌されたうえ「秋田新幹線」の線路として生まれ変わったのは、JR化後の平成9年のことである。

だが、この秋田岩手両県民の百年の大計の影で、ひっそりと放棄され、既に忘却の彼方へと消えてしまったかのような、橋場線の休止区間が存在する。

それが表題の橋場駅と、橋場駅に隣接する約1kmの休止線である。

橋場駅の休止は、太平洋戦争が激烈を極めた昭和19年に行われた。

政府は不足しつつあった鉄材の補給のため、軍事上重要でないと判断された鉄道のレールを剥がして転用するという、世に言う「不要不急路線」のレール供出を強制

[5] 廃線レポート 橋場線 および橋場駅, , http://yamaiga.com/rail/hasiba/main.html

ここに、数奇な運命を辿ったひとつの終着駅がある。

その駅は、橋場駅という。

国鉄橋場線の終着駅である。

だが、この駅が機能を停止して、既に60年以上の時間が過ぎている。

橋場駅は、鉄道省の 橋場軽便線 (軌間1067mm)の終着駅として、大正11年6月25日、地元の熱烈な歓迎の中に開業の日を迎えた。

県都盛岡から西へ約24km延びた鉄路がたどり着いた橋場地区は、当時人口1000人ほどであった岩手郡御明神村(現在の雫石町の西部)にあり、その沿線には小岩井農場などの牧畜で有名な雫石村があったが、いずれにしても、単独で採算性があるような路線ではなかった。

やがては橋場駅の西に奥羽山脈を貫通する大隧道を穿ち、隣県秋田の生保内(旧:田沢湖町・現:仙北市)から大曲(大仙市)へ至るという、壮大な「盛大横断鉄道」(または盛曲線)を構想した上での、その第1段階としての開通であった。

そのためか、開通翌年の大正12年には軽便鉄道から普通鉄道に格上げされ、 橋場線 へと改称された。

同じ使命を帯びた秋田県側の生保内線が、大曲から生保内まで開業したのは大正13年のことで、橋場線と生保内線という2つの盲腸線が、奥羽山脈の約20kmほどの距離を隔て向き合う形となった。

その後、政局のうねりや太平洋戦争による工事の中止など、次々に難局に見舞われ、奥羽山脈の貫通という終局の目的は容易に達成されなかったが、計画自体は死滅せず、昭和41年になって、鉄建公団の手でようやく 国鉄生橋線 が開通。

生橋線は橋場線および生保内線と併合されて、全線開業と同時に 国鉄田沢湖線 が誕生した。

橋場線の開通から、実に45年もの歳月が流れていた。

その後もローカル線でしかなかった田沢湖線が、軌間1435mmへ改軌されたうえ「秋田新幹線」の線路として生まれ変わったのは、JR化後の平成9年のことである。

だが、この秋田岩手両県民の百年の大計の影で、ひっそりと放棄され、既に忘却の彼方へと消えてしまったかのような、 橋場線の休止区間 が存在する。

それが表題の橋場駅と、橋場駅に隣接する約1kmの休止線である。

橋場駅の休止は、太平洋戦争が激烈を極めた昭和19年に行われた。

政府は不足しつつあった鉄材の補給のため、軍事上重要でないと判断された鉄道のレールを剥がして転用するという、世に言う「不要不急路線

[7] 橋場駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A0%B4%E9%A7%85

元々橋場駅は、 盛岡駅 から 生保内駅 (現在の田沢湖駅)を経由して 大曲駅 に至る路線の途中駅として計画された駅である。1922年には「橋場線」として盛岡駅から橋場駅までが開業(大曲からも生保内まで「生保内線」が開業)し、橋場駅は橋場線の仮の終着駅として設置された。

しかし、戦中の1944年からは 不要不急線 として雫石駅 - 橋場駅間および橋場駅は休止され [1] 、両駅間の線路は撤去された。

戦後に橋場 - 生保内間の建設が再び計画された際、建設ルートが当初の橋場駅経由のルートから、現在の赤渕駅付近より当初ルートを外れて田沢湖方面に直進する新ルート(現在の田沢湖線のルート)へと変更された。このため、新ルートと当初ルートの分岐点付近に赤渕駅を設置した上で雫石駅 - 赤渕駅までが再開され、その後新ルートにより橋場線は「 田沢湖線 」として全線開業している。

そして、赤渕駅付近から橋場駅までは再開されることなく放棄され、現在に至っている。

年表 [ 編集 ]

1922年 ( 大正 11年) 7月15日 橋場軽便線(後の橋場線)の終着駅として開業

1944年 ( 昭和 19年) 10月1日 太平洋戦争 の影響により休止、 雫石駅 から当駅までの区間は 不要不急路線 として線路や施設を剥がされる。

1964年 (昭和39年) 9月10日 橋場駅手前に赤渕駅を新設した上で雫石駅 - 赤渕駅間が再開業。新ルートの制定により赤渕駅付近 - 橋場駅間は不要となり、橋場駅は放棄

1966年 (昭和39年)9月10日 生保内線(大曲駅 - 生保内駅)・完成した生橋線(生保内 - 赤渕)が橋場線に編入され田沢湖線と改称

1987年 (昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化 により、同線大曲 - 盛岡間は 東日本旅客鉄道 (JR東日本)へ承継されるが、同線雫石 - 橋場間の敷地は 日本国有鉄道清算事業団 へ承継

1998年 (平成10年)4月1日 日本国有鉄道清算事業団が解散、 日本鉄道建設公団 へ承継

2003年 (平成15年)10月1日 日本鉄道建設公団が解散、 独立行政法人 鉄道建設・運輸施設整備支援機構 へ承継

橋場駅が戦後復活されなかった理由 [ 編集 ]

歴史の節 に上述した通り、戦前の当初計画は盛岡 - 橋場 - 生保内(現・田沢湖) - 大曲と線路を結ぶ計画で、この計画に

[8] 橋場駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A0%B4%E9%A7%85

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橋場駅(はしばえき)は、岩手県岩手郡雫石町にあった国有鉄道橋場線(現在の田沢湖線)の駅である。現在の赤渕駅の北西約1kmのところにあった。

正式に廃止手続きがなされたという記録はなく、現在も休止扱いである。

駅構造[編集]

2面2線のホームを持つ地上駅であった。また、遺構から転車台や貨物用ホームがあったと推測されている。

歴史[編集]

元々橋場駅は、盛岡駅から生保内駅(現在の田沢湖駅)を経由して大曲駅に至る路線の途中駅として計画された駅である。1922年には「橋場線」として盛岡駅から橋場駅までが開業(大曲からも生保内まで「生保内線」が開業)し、橋場駅は橋場線の仮の終着駅として設置された。

しかし、戦中の1944年からは不要不急線として雫石駅 - 橋場駅間および橋場駅は休止され、両駅間の線路は撤去された。

戦後に橋場 - 生保内間の建設が再び計画された際、建設ルートが当初の橋場駅経由のルートから、現在の赤渕駅付近より当初ルートを外れて田沢湖方面に直進する新ルート(現在の田沢湖線のルート)へと変更された。このため、新ルートと当初ルートの分岐点付近に赤渕駅を設置した上で雫石駅 - 赤渕駅までが再開され、その後新ルートにより橋場線は「田沢湖線」として全線開業している。

そして、赤渕駅付近から橋場駅までは再開されることなく放棄され、現在に至っている。

年表[編集]

1922年(大正11年)7月15日 橋場軽便線(後の橋場線)の終着駅として開業

1944年(昭和19年)10月1日 太平洋戦争の影響により休止、雫石駅から当駅までの区間は不要不急路線として線路や施設を剥がされる。

1964年(昭和39年)9月10日 橋場駅手前に赤渕駅を新設した上で雫石駅 - 赤渕駅間が再開業。新ルートの制定により赤渕駅付近 - 橋場駅間は不要となり、橋場駅は放棄

1966年(昭和39年)9月10日 生保内線(大曲駅 - 生保内駅)・完成した生橋線(生保内 - 赤渕)が橋場線に編入され田沢湖線と改称

1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により、同線大曲 - 盛岡間は東日本旅客鉄道(JR東日本)へ承継されるが、同線雫石 - 橋場間の敷地は日本国有鉄道

[9] ◆旧国鉄橋場線橋場駅◆, , http://www.cafe-dragoon.net/trip/rosen/tazawako_line/hashiba/index.html

(概要と説明)

橋場駅は当初、盛岡と大曲を結ぶ鉄道として軽便鉄道法により計画された路線上の駅として計画された。盛岡側からは橋場軽便線(はしばけいべんせん)として1922(大正11)年6月25日に盛岡=橋場間が、大曲側からは生保内軽便線(おぼないけいべんせん)として1923年に大曲=生保内(現在の田沢湖)間が開業し、橋場駅は仮の終着駅として誕生した。

ちなみに1922年の軽便鉄道法廃止により、それぞれ橋場線(はしばせん)、生保内線(おぼないせん)と改称されている。

その後、政府の緊縮財政などにより見送られたが、昭和に入りようやく橋場=生保内間の計画が認められ、工事線生橋線として着工された。この時の計画は、国見温泉方面を経由した国道46号線仙岩峠旧道に近似したルートであった。

ところが、生保内側からは6kmの志度内の手前数十mまでのレールまで敷いて路盤ができ、後は難所の仙岩峠を越えるだけという段階で日中戦争の激化により中止された。さらに戦争継続上必要であった鉄材の確保のため軍事上重要でない路線を休止して、レールを剥がして活用しようとした。いわゆる不要不急線である。この橋場線も例外ではなく、雫石=橋場間7.7kmが不要不急線と指定されてしまった。レールは取り外されて、貨物輸送で磨り減った山田線のレール交換に転用された。こうして1944(昭和19)年10月1日、橋場駅は「休止」となった。

戦後、建設中止となった生橋線、そして休止された橋場線を復活させようとの気運が高まり、この橋場駅にも線路が戻ってくるはずだったが、結果は意外な展開となった。

当時、新線建設には国から補助金が出されていたので、かつての橋場線の復活では補助金がもらえないため、計画を改めて雫石=赤渕間を新線として開通させることにした(1964(昭和39)年9月10日延伸開業)。さらに生橋線のルートも橋場=生保内から、赤渕=生保内に変更。当初の計画では現在の国道46号線に沿ったルートだったが、赤渕からまっすぐ生保内を目指すルートへ変更され、赤渕から橋場の間に線路が敷かれることはなく完全に放棄された。ただ書類上は「廃止」されたわけではなく「休止」扱いとなっている。

一方新ルートで建設された路線は1966(昭和39)年9月10日の生保内=赤渕間完成により全線開通し、名称も「田沢湖線」となった。

「この地

[10] 君の知らない旧国道 - 6日目その1 [雫石〜橋場], , http://ccsf.jp/~mwe/tour/20100731/6-1.html

遂に自転車人生初めての『6日目』に突入しました。今日こそは絶対に秋田へ辿り着くぞっ。現在地は岩手郡雫石町, 既に秋田県と接しているんですから。

しかし, ある意味, これからが今回の旅の本番と言っても過言ではありません。秋田へ走るのも3年目, 今年この経路を選んだ理由は, 間違いなくこの先にあるのです。さあ, まずは山へ到ること。そして山を登ること……

いつものように早朝から身支度を整え, 一宿のお礼を言って05:40に出発します。勿論, 朝食抜き。……この先, 最短距離で雫石市街を抜けようとすると, コンビニも何も全く無いんですよ。それは流石にまずい(8年前の青森3日目どころの話ではない)ので, 一旦R46雫石バイパスへ向かいました。こちらにはコンビニが2軒あることを確認しています。

で, 辿り着いたのはサンクス雫石バイパス店。ありがたやありがたや。

ここまでの走行記録(笑)……走行時間0.03.54, 走行距離1.08km, 平均速度16.9km/h, 最高速度38.2km/h(街道→雫石町役場), 総走行距離9,305.6km。

朝ごパンです。……失敗でした。茹で卵が, 堅茹ででした。私, 堅茹で卵って駄目なんですよ……口の中が粉塗れになる感触がひたすら気持ち悪くて。同じ理由で小豆餡が駄目なので和菓子が苦手だったりもします。しかし食べ残すのは矜持が赦さないので, 無理矢理にでも食べます。

更に栄養ドリンクと, 水分・凍結水分を買い込んで, 06:10改めて出発。

橋場駅

橋場駅

履歴

[11] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933403342

メモ