安治川

安治川

[1] 安治川

Webページ

[2] 大阪市の公営渡船 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%96%B6%E6%B8%A1%E8%88%B9

大阪市南西部は河川や運河などの水路が縦横に走っており、また河川舟運が盛んで架橋が困難だったため、古くから市による公営渡船が多数運航されてきた。各河川・港湾への架橋進展に伴いその多くが廃止されたが、現在でも8航路が、主に大阪市建設局西部方面管理事務所により運航されている(木津川渡のみ市港湾局)。

繁華街や観光地では見られない、普段着の大阪に触れることができるスポットとして、静かな人気を呼んでいる。最近では渡船乗り場への案内看板(船体側面の絵と乗り場を書いた看板)や乗り場の表示看板(船体の正面と水鳥の飛んでいる絵の看板)も作られている。

概要[編集]

歩行者及び自転車専用で、無償。航路により若干、船の大小がある。船体は以前大型船は、白と水色のツートン、小型船は白とオレンジのツートンだったが、白と水色に集約されてきている。

運航時間は航路にもよるが、概ね午前6時台から午後9時台まで。

建設局は渡船と関連し、安治川の下に河底トンネルも運営している。これについては章を改め後述する。

8航路の内7航路が大正区に関係する。

道路・歩道併設の架橋がなされれば基本的に廃止となるのだが、河川舟運の関係で架橋が水面上かなりの高さとなり、歩行者・自転車にとって橋では日常利用に堪えない、として残された航路もある。また、航路は必ずしも減る一方ではない。千歳渡のように、橋が架かっていた地域が大正内港の拡張に伴い分断され、1964年(昭和39年)になって新設された例もある(富山新港の富山県営渡船のケースと似ている。富山地方鉄道射水線も参照)。

歴史[編集]

明治24年(1891年) - 大阪府が「渡船営業規則」を定める

明治40年(1907年) - 安治川、尻無川及び淀川筋の29渡船場が市営事業に

大正9年(1920年) - 旧道路法の施行により無料に

昭和7年(1932年) - 請負制を改め、ほとんどが市の直営方式に

昭和10年(1935年)頃 - 渡船場31箇所、保有船舶数69隻(機械船32隻、手漕ぎ船37隻)

昭和11年(1936年) - 源八渡し(北区天満橋筋(現・天満橋)-北区(現・都島区区域)中野町)廃止(源八橋の開通による)

昭和20年(1945年)頃 - 戦災により多くを失う

昭和23年(1948年) - 渡船場15箇所で再開

昭和45年(1970年) - 平田の渡し(東淀川区豊里

[3] osaka_ajigawa, , http://uroneko02.com/osaka_ajigawa.htm

◆概要

安治川隧道は安治川の下を通る全長約81mのトンネルです。『海底』ならぬ『川底トンネル』なのです。安治川を渡る人・自転車などの交通量が増加したため計画され、1935年(昭10年)11月に工事着工。1944年(昭19年)9月15日に開通しました。

安治川隧道の開通により安治川にあった4つの渡船が廃止されています。現在の安治川隧道の場所にあった『源兵衛渡船』も隧道の開通により廃止され、西区側の交差点にその名を残すのみとなっています。

安治川隧道は、幅2.4mの歩行者・自転車用通路と幅4.5mの自動車用通路(2車

線道)の2種類の通路が設けられました。地上から地下への移動はエレベータによって行われるという珍しい方法が取られました。しかし、1963年(昭38年)に安治川大橋(現R43)が開通したことにより自動車の通行量は減少。自動車用通路は、スロープ

を設けて川底トンネルとする計画が持ち上がり、その工事開始を前提として1977年(昭52年)2月に閉鎖されます。しかしその後、地元住民の反対などにより計画は頓挫してしまい、以来自動車専用通路は閉鎖されたままとなっています。

2005年4月現在、安治川隧道は歩行者・自転車通路のみが通行可能となっています。地下通路には階段もしくはエレベータにより移動することになっており、24時間通行可能な隧道として地域の重要な移動手段となっています。(エレベータは真夜中は停止します。)

◆安治川隧道利用DATA

・自動車用通路:1977年(昭52年)以来閉鎖されいます。バイク・自動車での通行は不可能。

・歩行者・自転車用通路:24時間利用可能。原付1種以上のバイクは通行できません。

・エレベータ運転時間(エレベータは係員常駐)

5月1日〜10月31日:午前6時〜23時

11月1日〜4月30日:午前6時〜22時

・階段は24時間利用可能です。安治川隧道の通行は無料です。

◆通行レポート【西区→此花区方向(南→北方向)で通行】

●安治川隧道南側(西区側)入口

道幅の広い4車線道同士の交差点である源兵衛渡交差点を左折すると、南北方向に進む4車線道は安治川にぶつかって突然終わります。そのどん突きにある4階建ての建物が安治川隧道南側(西区側)入口です。本来ならトンネルの抗口があるはずなのですが、そんなものはありません。

建物で目立つのは1階にあるエレベ

[4] 安治川トンネル, , http://www5b.biglobe.ne.jp/~slycrow/myweb/ajikawa.htm

正直、街で見かけても何の印象も残らないただの小ビルなのだが、じつはこの建物と同じものが別の場所、西区安治川にも建っている(写真右)。全く同じというわけではなく、見てのとおり、左右対照になっている。

ビルの背面。手前の川は安治川。両方のビルはこの安治川の川岸に建っている。写真がなくてマヌケだが、此花区と西区のふたつのビルは両区境界の安治川を挟んで背中合わせになっている。

何をかくそう、この安治川の川底を、トンネルが貫いている。安治川トンネルである。ふたつのビルはこのトンネルの地上への出入り口である。全国でも例を見ないこの「川底にかかる橋」が、戦時中の1944(昭和19)年に造られたものと聞き、さらに驚く。

大阪はかつて「水の都」と呼ばれたように、今でも公営の渡し船が8航路もあり、安治川トンネルのある場所はかつて「源兵衛渡し」と呼ばれた渡船場があった。安治川トンネルは1935(昭和10)年着工。当時、激増する周辺の工場に勤める工員を渡船ではさばききれなくなりはじめており、とはいえ中途半端な橋を架けても大型船の航行の妨げになった。そこでこの「川底トンネル」の建設となった。潜函工法という、当時の最先端の技術を用いたが、戦争が始まったのと相俟って完成までに10年の歳月を要した。

[5] 大都会・大阪の川でフグを釣って食べた - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/150713194066_1.htm

大阪のど真ん中を流れる川で、食べ頃サイズの立派なフグがたくさん釣れると聞いた。海ではなく川でフグとは面白い。

でも、フグなんてせっかく釣っても素人じゃ解体もできないし…。

いや、待てよ。じゃあプロの元へ持ち込めばいいんじゃないか。

「大都市を流れる川でフグを釣る」そして「自分で釣ったフグを食べる」という非日常的な行為を合法的に体験してきた。

[6] 天保山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E5%B1%B1

大坂の町と大阪湾を結ぶ安治川では、1831年(天保2年)から2年間、洪水防止と大坂への大型船の入港をしやすくする目的で「天保の大川浚」とよばれる浚渫工事が行われた[5]。大坂町人の熱の入れようは相当なもので、工事自体がお祭り騒ぎだったと伝えられている。浚えられた土砂を安治川河口に積み上げられてできた築山は十間(約20m)ほどの高さがあり、大坂の町へ遡るため安治川に入ろうとする船にとって目印とする意図があった。そのため当初は「目印山」と名づけられたが、のちに築かれた時の元号から天保山と称されるようになった[5]。

海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となった。当時の舟遊びをする人々の姿は歌川広重などによって浮世絵に描かれている[5]。

[編集] 幕末 - 明治初期

1854年(安政元年)にロシアの軍艦ディアナ号が大坂沖に姿を見せ、艦長エフィム・プチャーチンは威圧的な態度で親善通商条約の締結交渉を要求したため、当時の大坂城代土屋寅直は近隣の各藩に命じて警護を固めさせると同時に河口を守る砲台を天保山に建設させた。そのため山土の削り取りが行われ[5]、西洋式の城塞となった。しかし一度も実戦には使用されず、明治以降に廃棄され、跡地に洋風レンガ造りの灯台が設置された。砲台建設のために土砂が採取され、明治時代には7.2mとなった。

[編集] 1888年(明治21年)以降

天保山一帯が近代的な公園として最初に整備されたのは1888年(明治21年)に遡る。リゾートクラブと海水温浴場「海浜院」をメインとした天保山遊園が開設されるも長続きせず、1897年(明治30年)に港湾設備の整備が開始され、付近一帯はのちに「築港」と呼ばれるようになる。現在の天保山公園は1958年(昭和33年)に開設された[5]。

高度経済成長後、地下水のくみ上げで天保山周辺の地盤沈下が起こり、1971年(昭和46年)に7.1mだったのが、1977年(昭和52年)には4.7mまで標高が低下した。1993年(平成5年)年以降では4.53mとなっている。1993年(平成5年)の地形図から山名が抹消されたが、地元からの要望によって1996年(平成8年)7月1日に再掲載された[5]。

[編集] 山岳会および山岳救助隊

地元有志による山岳会が存在する[3]。山岳

[7] 橋の散歩径 安治川, , http://www.pintruss.com/bridge/tosen/ajigawa.html

安治川

天保山渡

…安治川の河口、天保山と、対岸の桜島を結ぶ。近くには高速道路しか橋は無く、

付近の労働者の貴重な足となっている。大きな船も結構通るので、その波をかきわけ

ぐらぐら揺れながら渡る様は、けなげに思う。もし、渡船に興味をもたれたらオススメの

場所。なお、桜島駅には海遊館へのアクセスとして書かれている。

6:15-19:50 昼間30分毎 ラッシュ時15-20分毎 (日祝は6:30より運行)

梅桜(18トン)

'86天保山丸

'97 梅桜

待合室

三丁目渡(廃止)

…大阪環状線と国道43号の間にあった渡し。たしか廃止に。43号線がすぐそばに

あるものの、はるか上を通っているので(すんごい長い階段有り)なくなったのは痛い。

'86

'97の現状。跡形はかすかに残る。

安治川隧道(河底トンネル)

…これは渡船ではありませんが、一部では非常に有名な地下トンネルです。

昔は車もエレベーターで降りて、通れたのですがさすがに今では人と自転車だけ。

昔ながらのエレベーターで地下深く下がり、河を渡るのは昭和初期に戻ったよう。

西九条駅から南に300メートルぐらい。

トンネルの北側入り口。左側が車のエレベーター。今は封鎖されている。

トンネルの南側。右が車のエレベーター跡。左が現在も使用中の歩行者エレベーター。

富島渡(廃止)

…卸売市場の所にあった渡し。跡形無し。

[8] 安治川トンネル(安治川隧道), , http://tenyusinjo.web.fc2.com/watasibune/5ajigawatonneru/ajigawatonneru.html

安治川隧道(あじがわずいどう:一般的に安治川トンネルと呼ばれる)が完成するまでは、ここに「源兵衛渡し」と呼ばれる渡しがあった。その名のとおり源兵衛という人が営んでいたことが由来であるが、今でもここの交差点名を「源兵衛渡」というのはその名残である。

この付近には10カ所ほど渡しがあったが、その中で最も利用者が多かったのが源兵衛渡であった。大正から昭和にかけてはその利用者が年間300万人以上に達したほどで、折からの工業化の進展に伴う交通量の増大も含めて、これに対処するために大阪市の第二次都市計画事業の一つとして、ここに海底トンネルが造られることになった。橋の架設は大型船の航路を確保するために水面からの橋の高さ(桁下)を確保する必要があり、当時としてはその技術が無かったのである。

昭和10年(1935)に着工された工事は、250万円の巨費を投じて昭和19年(1944)9月15日に完成した。トンネルの延長80.6m、有効幅員11.4m(2車線+歩道)、深さ16.94m。

この隧道は沈埋管式であるが、これは陸上部で造った鉄骨・鉄筋コンクリート製の胴体部分を船で曳航して現場まで運び、あらかじめ川底に掘っておいた溝に沈めて土で埋める方法である。

日本初の沈埋工法で造られたこの隧道は、両岸とも車両はエレベーターで、人は階段(階段数片岸計93段)またはエレベーターでトンネルの胴体部分に降りて対岸へ渡るもので、エレベーターは車両用、歩行者用(現在1基)とも各2基づつ備えていた。

また、この隧道完成により、安治川筋の源兵衛渡、二丁目渡、二丁目荷車専用渡、玉船渡の4渡船場が廃止となった。

なお、車両用のエレベーターは老朽化と、下流に安治川大橋(国道43号線)ができたことによる利用車の減少により昭和52年(1977)に閉鎖されたが、エレベーターを利用しないトンネルを造る工事計画もある。歩行者用は今なお多数の人たちで賑わっている。車両は有料であった。

余談になるが、私がまだ幼かった頃、自動車の横に乗せられて利用したことがあるが、乗用車であれば2台エレベーターに乗ることができ、首から大きな黒のガマ口を下げた職員が料金を徴収するのと引き換えに、領収書を手渡していたような記憶がかすかにある。

最後に交通量調査を記して終わりにする。昭和48年(1973)の調査では、1日に歩行者5300

[9] 川上幸義の東海道線創業史, , http://ktymtskz.my.coocan.jp/kawakami/tokai.htm

*****************************

序 写真集1 写真集2 東海道 山陽 九州 四国 山陰 ��

関西線 北陸 �

信越 上越 東北 奥羽 北海道 HOME

川上幸義の東海道線創業史

( 新日本鉄道史より鉄道と運輸の抜粋)

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@

2 東京−横浜間の鉄道建設まで �A

3 新橋−横浜間の建設

4 品川−横浜間、新橋−横浜間の開業

5 雇外人について――京浜間に在勤した人々

6 施設の改良――複線化、六郷川橋梁の架換え

7 横浜〜国府津・浜松および大船−横須賀の建設

8 明治4〜24年の東海道線東部の運輸

9 神戸−大阪間の建設

10 大阪−京都間の建設

11 京都−大津間の建設

12 雇外人について――京阪神間在勤の人々

13 長浜−武豊、大府―浜松、馬場−深谷の建設

14 明治7〜24年の東海道線西部の運輸

15 明治24〜39年の東海道線の改良、支線の建設

16 東京市街の高架線の建設

17 明治24〜30年の東海道線の運輸

18 明治30〜39年の東海道線の運輸 �@

19 明治30〜39年の東海道線の運輸 �A

20 明治30〜39年の東海道線の運輸 �B

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@�

top

明治2年4月、明治政府が首都を東京へ移した直後のこと、横浜に住む英人アレキサンダーカンファーという者が、東京−横浜間に鉄道を敷設したいと政府に請願した。

首都東京と最寄の開港場横浜を鉄道で連絡しようという計画は、既に徳川幕府の時代に米人アルセポルトマンの出願があり、2年前の塵応3年12月老中小笠原壱岐守の名義で、江戸−横浜間の鉄道の建設・使用に関する免許状が出ていた。

ボルトマンは明治新政府に改めて既得権として承認されるように申入れてきたが、政府は明治2年2月

「鉄道は日本国が建設する」

との方針を示して断わったばかりであった。カンフアーは

「将来は政府の買上に応ずるし、共同経営でもいい」

と再願したが、当局は却下している。これは政府に先見の明かあった。

のちに鉄道局長になった井上勝の意見であると伝えられるが、大きい功績といわねばならない。

東洋の諸

[10] 大阪珍登山紀行-蘇鉄山と天保山 - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ, , http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/sotetsuyama-mount-tenpo

大阪は平野が南北に伸びる、比較的平らな土地ですが、一方で 兵庫県 以外の県境がすべて山でもあります。 大阪で有名な山の一つに、 金剛山 があります。大阪の小学校では耐寒登山で真冬の 金剛山 に登るのが儀式になっているのですが、最近はミリオタや二次元好きの間で、戦艦『金剛』の命名山になったところとして有名になったそうな。 標高1000mちょっととは言え、 金剛山 も立派な山ですが (地元の人はサンダルで登るらしいけど) 、大阪にある山はこれだけではありません。他 都道 府県にあれば、たぶんネタにもならない、大阪にあるから輝ける名山ならぬ 「珍山」 もあったりします。 大阪人なら、タイトルで「ああ・・・」とすべてを察するでしょう。

1.蘇鉄山

大阪の 堺市 に、 「大浜公園」 という比較的大きい公園があります。 元々ここは江戸時代のお台場から始まり、明治以降は水族館や海水浴場、 スーパー銭湯 のご先祖様と言える「潮湯」という温泉娯楽施設がありました。 娯楽が少なかった戦前においては、浦安の ネズミーランド に匹敵した自称「東洋一」の総合レジャーランド、かつリゾート地。夏になると関西中から観光客が殺到していました。 しかし残念ながら、 松尾芭蕉 の「つわものどもが夢のあと」が身にしみるほど、現在はその片鱗すら見当たりません。 大浜公園については、別記事で詳しく書こうと思います。なので、今回は軽くスルー。

こんなところにも、実は山があります。

蘇鉄(ソテツ)が植えられていることから、長年 「蘇鉄山」 と呼ばれている山です。

ここが山の入口です。

険しい山道を登り、

よっしゃ、頂上まで登ったで~!

さて、麓から頂上までに要した時間はというと!

「分」ではありません、 「秒」 です。 それもそのはず、蘇鉄山の標高は 6.97m 。センチに直すと 697cm 。

え!?それは山なんか!?うちのマンションの方が『高い』やんか!PVが集まらんからってついにタイトル詐欺か!? まあまあ、落ち着いて話を聞きましょう。

頂上(とおぼしき所)には、このような印があります。これを 三角点 といいます。 三角点とは、測量の時の基準となるポイントのことで、一等~四等に分かれています。 蘇鉄山の三角点は 「一等三角点」 ですが、これは測量の際にもっとも重要な土台となるもので、意図的に破壊すると2年以

[11] 歩行者専用海底トンネル「安治川隧道」 - 大阪DEEP案内, , http://osakadeep.info/2007/07/10/111305.html

【此花区】歩行者専用海底トンネル「安治川隧道」

2007年7月10日(火)

JR大阪環状線, JR沿線, なんば線, 中央線, 大阪市, 大阪市営地下鉄沿線, 此花区, 西区, 阪神沿線

九条, 地下空間, 西九条

「安治川トンネル」は日本初の沈埋トンネル

大阪の片隅に、日本でも珍しい、川底を通る歩行者用トンネルが存在する。

その名も「安治川トンネル」。できたのは相当昔のこと、昭和19年に、西区九条と、此花区西九条の間を流れる安治川の間に通されたトンネルだ。

この場所は船舶の出入りが多いため、船を通す必要性から橋を架けるとするなら高い橋を架ける必要があった。だが、戦時中ということもあって、橋を架けるのではなく川の下からトンネルで繋ぐという方法をとったのだ。

トンネルの深さは地下14メートル。両側にエレベーターがあり、それぞれ自転車ごと乗り込んで入ることができる。

昔は自動車専用のトンネルも使われていたのだが、交通量増加・車両の大型化に伴いトンネル改良工事を計画したものの、周辺住民にことごとく反対運動に遭い、結局は断念。1977年に廃止されている。今でも自動車用エレベーターの遺構を見ることができる。

JR西九条駅前の高架下には今でもその当時の反対運動の看板が外されず残っている。

トンネルの中は片側通行で自転車がようやくすれ違える程度の道幅しかない。海底トンネルのために、外の世界とは違って随分と過ごしやすい。夏涼しく冬暖かく。

空襲でこの地区にも大きい被害が出たが安治川トンネルは損傷することもなく、現在までずっと長い間市民の足として使われていた。しかし、今になって安治川トンネルにも大阪市の財政難のあおりを受けることになった。エレベーターの無人運転化である。

それまで両側のエレベーターに人員が配置されていた。「エレベーターのおっちゃん」で市民にお馴染みの職員は大阪市の正規職員。それを全て廃止して防犯カメラを据え付けて、警備員を巡回させるようになった。

夜中になるとこのエレベーターの運転も止まり、階段でしか行き来できなくなる。階段だけは24時間終日利用可能なのだが、階段は狭くて暗くて、そして怖い。女性の一人歩きなんぞもっての他だ。実際に女性が暴漢に襲われる事件も起こっていて、治安上の問題もあるが、防犯カメラだけで不審者を管理しきれるものではないだろう。しかもこの場所では携

[12] 安治川トンネル, , http://www.jcca.or.jp/dobokuisan/japan/kinki/ajigawa.html

大阪市営地下鉄中央線の九条駅から北西に延びる「キララ九条」は、庶民の香りのする商店街である。アーケードを抜け交差点を渡るとそこに5階建ての鉄筋コンクリートの建物が出現する。1944年に開通した日本初の沈埋トンネル、安治川トンネルの南側のエレベータ建屋である。トンネルは安治川の河底を横断し、大阪市此花区と西区を結ぶ延長80.6mの歩行者・自転車専用トンネルである。現在も多くの利用者がこのトンネルを渡っている。

完成当時の安治川トンネルは、両岸に歩行者用エレベータ、車両用エレベータ各2基と歩行者用階段を備えていた。最盛期である1961年の1日の交通量は、歩行者約8,500人、自転車約4,600台、自動車約1,200台であり、自動車だけは維持費の一部として使用料を徴収していた。

しかし、下流に国道43号線安治川大橋が開通すると車両通行量が減少し、またトンネル内の排気ガスやエレベータ付近での待ち渋滞が問題となってきたため、1977年に車両の通行は中止となった。現在は幅員2.4mの歩行者・自転車用通路(幅員2.4m)とエレベータのみが供用されており、車道と車両用エレベータは閉鎖されている。

地図を広げてみると、このトンネルが無かったら、歩く人は気の遠くなるような迂回を強いられることが分かる。エレベータを降りる時、操作する職員に利用者が必ず言う「ありがとう」の言葉が今も耳を離れない。

【アクセス】

大阪市営地下鉄中央線「九条駅」より徒歩1km。またはJR大阪環状線「西九条駅」より徒歩500m。

【地図】

googleマップで安治川トンネルの位置を確認する

[13] 安治川トンネル Ajigawa Tunnel, , http://www.youtube.com/watch?v=2YXLY36kkKU

(高画質) http://jp.youtube.com/watch?v=2YXLY36kkKU&fmt=18

大阪市を流れる安治川の河底を横断する「安治川トンネル」を通行する様子をご覧いただけます。「安治川トンネル」は日本で最初に沈埋工法で作られたトンネルで、昭和19年に開通しました。エレベーターで地下に行き、河底のトンネルを歩いて、再びエレベーターに乗り、向こう岸まで渡ります。

[14] 大阪市市政 1.天保山(てんぽうざん)渡船場, , http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011249.html

現在運航中の渡船場TOP PAGE 天保山(港区築港三丁目)と此花区桜島三丁目を結ぶ(岸壁間400メートル)位置に天保山渡船場がある。明治38 年に開設されたこの渡しは、大阪港の繁栄を企図した大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、昭和15年までは市の港湾部が所管していた。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航していたが、大阪港の繁栄につれて利用者が増え、築港桟橋を基点に木津川、尻無川方面にも運航区域を広げ、大正11年に天保山桟橋が完成して内航客船が発着するようになってからは、天保山~桜島間を終夜運航した時代もあったが、昭和元年には現在のルートになった。昭和初期には桜島付近の重工業化が進んで通勤用としても利用された。昭和12年12月1日午後9時ごろ、渡船が突風にあおられて転覆、軍需工場帰りの乗客53人の犠牲者を出す事故があった。昭和15年に経営は土木部(現建設局)に移され、現在にいたっている。昭和42年には1日平均1700人の利用者があったが、平成20年度現在1日平均約900人が利用している。

天保山について 江戸時代、安治川の開削によって上流の流砂が堆積し諸国廻船の航行に支障が生ずるようになったので、幕府により、天保2年から2年の歳月と延べ10万1200余人を動員して「御救大浚」と呼ばれる大工事が行われた。このときの捨土を盛り上げたものが出船、入船の目標となった。そこでこれを幕府は「目標(めじるし)山」と命名、やがて人々は、天保山と呼ぶようになった。「摂津名所図会大成」(寛政5年(1793)~万延元年(1860))に『安治川口の下海辺にあり廻船目印山と号す 天保二年御仁恵によって成就の地なればとて世俗天保山と号す 山の高さ凡十間許周廻百間余嶋の周廻千間余石垣の高さ五間余 橋十二箇所茶店貨食屋(りょうりや)等あまたありて春秋とも賑わし 又高燈炉を建てて夜走(よばしり)の舟の目あてとす その結構厳なり』とある。 近年、地元市民の熱意により国土地理院に「山」として認定され「日本一低い山」として話題になった。

[15] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

履歴

[40] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933385189

メモ