山田隧道

山田隧道

[1] 山田隧道, 口野隧道

35.0499981060253 138.908268213272

Webページ

[2] 沼津市 多比 石丁場隧道群3, , http://izutansaku.web.fc2.com/numazu_tabi3.html

前回探索した、地図上は隧道として表示されている石丁場跡は一体何だったのでしょうか?

手掛かりを求めて沼津明治史料館で

史料を漁った結果、ある程度の情報を得ることが出来ました。

以下に、あの石丁場跡隧道の調査結果を説明します。

[5] 隧道レポート 旧口野隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/kutino2/main.html

当レポートが最後に辿り着く結論は、事実と異なる誤説です。

正しい事実をお知りになりたい方は、「おぶろぐ!(2010/1/22エントリ)」をご覧下さい。

一応レポートを最後まで読まれてから確認された方が、分かり易いかと思いますが…。

上の3枚の地形図は、同じ場所を示している。 【周辺地図】

明治、戦後間もなく、そして現在─。

この一世紀のうちに地上を席巻した人間の土木力は、その動線としての道路のみならず、川の流れや海の形、地形そのものまで大規模に改変してきた。

そんなことをありありと見せつける、僅か3キロ四方の地図である。

この中に、明治時代には既にありながら、戦後間もなく地図から消滅した、“足の速い”隧道が描かれている。

仮にこれを、平行位置にある現在の国道414号口野トンネルの旧トンネルと比定し、「旧口野隧道」と名付ける。

3枚の地図を一枚に重ねてみた。

そして浮かび上がるルートの変遷。

『静浦村誌』や『江間村沿革史』において、図中で緑のラインとしてその一部を示した「江ノ浦・四日町往還」(江ノ浦〜韮山)の開削については、明治維新後の重要な道路の改良と位置づけて紙幅を割いているのだが、地形図にはそれ以前からあったように書かれている「旧口野隧道」のルートに関しては不自然なほど全く触れていない。

結局、机上調査では旧口野隧道について何も知ることは出来なかったが、そもそも本隧道は私が地形図から独自に見つけ出したものではなかった。

当サイトで“隧道の辻”のレポート(3回目まで)を公開した直後に、お馴染み『廃線隧道のホームページ』のしろ氏から、「明治の地形図には(旧口野)隧道が描かれていて、実際に探索したことがある」という、何とも衝撃的なメールが送られてきたのだった。

このとき、しろ氏から託された情報は、大体次のようなものだった。

2年ほど前に探索を行ったが、時間の都合上、沼津側のみしか確認出来ていない。

現地には、坑口が現存する。

内部は水没していて、出口は見えない。

し… しろさん! いつもありがとうございます!!!

まだもったいぶるかと叱られそうだが、やはり旧口野隧道より先に、“正史”に語られているルート「江ノ浦・四日町往還」を紹介しなければなるまい。

このルートは二度に分けて工事が行われており、図中濃い緑で示した「口野切り通し」を含む区間(韮山

[7] 隧道レポート 旧口野隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/kutino2/main2.html

今回からは、いよいよ表題の「旧口野隧道」を探しにかかる。

この隧道に関しての机上情報は極めて少ないが、ほぼ唯一の“存在証明”といえるのが、日本帝国陸地測量部が明治28年に測量して発行した初代・5万分の1地形図(沼津)と、その子孫として改訂されて来た昭和22年版までの同図である。

次に発行された昭和27年版からは、隧道の表記が消えて、切り通しのような描かれ方となっている。

また、最近の地形図では、峠前後の道自体が消えてしまっている。

前回紹介の、明治35年と40年に相次ぎ竣工した「沼津・四日町往還」に較べて、地図に見る“初代ルート”は距離も短く、隧道の数も一本だけだった。

しかしそこには、大交通を阻害する何らかの問題点があったのだろう。

「沼津・四日町往還」は、韮山方面の石材輸送や、沼津御用邸からの行幸路、中伊豆方面の著名温泉地への観光道路などとして末永く活躍し、現在はそのバイパスが国道になっている。

この繁栄の原点にありながら、歴史の陰に隠された初代ルートの謎を解き明かそう。

2008/2/26 7:13

再びこの写真の場所。

しろ氏から情報を得るまでは、全く何の気もナシに素通りしていた三叉路だが、そう言われてみればイイカンジな追分だ。

両者の離れていく自然なカーブなど、今日の区画整理によっては生まれようもないものだ。

今回もクルマは少し離れた駐車場に止めており、ここへはチャリでやって来た。

首尾良く初代ルートをチャリごと踏破する目論見だが、果たしてどうなるか。

左折すると、車一台がやっとの狭い道になった。

両側には民家や駐車場の塀が迫っていて、緩い上り坂であることと合わせ、かなり圧迫感がある。

もっともそれは、私の緊張を多分に反映した感想である。

この先に峠や廃隧道の存在を想定し、ましてそこを通り抜けようなどと考えない人にとっては、普通の閑静な住宅街の風景かもしれない。

一目見て古そうだと感じられる石垣が現れた。

石材の空積みで、高さはないが延々と法面を覆っていて、城壁のような重々しさがある。

草生した表面は、これが明治のものではないかと私に疑わせるに、十分な風格を持っている。

周囲の林からは、いたずらに不安を煽るようなヤマバトの鳴き声や、サカリの付いたにゃんこどもの、焦りを誘う叫びが聞こえていた。

民家が密集しているエリアを過ぎると

[13] 口野隧道の真相が解明されました! | ヨッキれんの おぶろぐ! 〜廃は廃でもヤマイダレ〜, , http://yamaiga.jugem.jp/?eid=35

皆さん! 22日のテレビ朝日「スーパーモーニング」はご覧になりましたか? この中で「口野隧道」(仮)が取り上げられました。 そして明らかとされた、驚愕の真実! いやー。衝撃的でした。 「テレビの本気」を垣間見た思いがします。 しっかり否定されてしまった私の「切り通し隧道跡説」ですが、これは完敗…、 いや、正しい歴史を発掘してくれたテレビ朝日さんに「乾杯!」ですね。 私のレポートとの重大な相違点を上げてみたいと思います。 ■切り通しは隧道跡ではないか? → 切り通しは近世から切り通しとして存在していた→ 隧道は石碑の置かれているあの穴自体だった! ※VTRに出ていた「伊豆長岡町誌」は私も読んでいたつもりだったんですが、近世以前は読まなかったのが失敗でした、猛省。 ■石碑に刻まれた隧道の長さは「十間」 → 専門家の解読の結果、「数十間」という意味であると判明しました。これについては、目に見えている「十間」の文字が強すぎて、疑う余地がありませんでした。反省。 また、隧道の図面がいまも残っていた事も驚きです。こういう図書館で気軽に見ることが出来ない資料については、現状の山行がの探索深度では辿り着くことはありません…。 私の中での比重がどうしても【踏査>机上調査>聞取調査】となっていることと時間的な制約から、こういった損失は各レポートで起きているものと危惧されます…。 →調査専門家チーム設立キボン!(笑) そしてここからは、私とディレクター氏の個人的なミーティングで明らかとなった事実です(放送では使われていません) ■わずか30間(54m)の隧道掘削に15年(明治5年着工〜20年竣功)もかかった理由は? ■隧道としては不自然きわまりない、洞内屈曲の理由は? 石商人の山田氏は、明治5年頃からあの場所で石切場(丁場)を操業していた。次第に山の両側の丁場が接近してきたので、これを接続して隧道として用いることを思いつく → 県に工事の許可や補助を求める文書を出す(文書現存) → 丁場同士の接続と、その前後の道路改修工事を実施し、隧道として開通する(これが明治20年) → 明治35年頃に海沿いの新道が出来て廃止される → 昭和の時代に再び別の人が石切場として操業して、現状のように改変する という新しい流れが解明されました! これなら屈曲も15年という工期も納得ですね。 最後に

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933242700

メモ