今回からは、いよいよ表題の「旧口野隧道」を探しにかかる。
この隧道に関しての机上情報は極めて少ないが、ほぼ唯一の“存在証明”といえるのが、日本帝国陸地測量部が明治28年に測量して発行した初代・5万分の1地形図(沼津)と、その子孫として改訂されて来た昭和22年版までの同図である。
次に発行された昭和27年版からは、隧道の表記が消えて、切り通しのような描かれ方となっている。
また、最近の地形図では、峠前後の道自体が消えてしまっている。
前回紹介の、明治35年と40年に相次ぎ竣工した「沼津・四日町往還」に較べて、地図に見る“初代ルート”は距離も短く、隧道の数も一本だけだった。
しかしそこには、大交通を阻害する何らかの問題点があったのだろう。
「沼津・四日町往還」は、韮山方面の石材輸送や、沼津御用邸からの行幸路、中伊豆方面の著名温泉地への観光道路などとして末永く活躍し、現在はそのバイパスが国道になっている。
この繁栄の原点にありながら、歴史の陰に隠された初代ルートの謎を解き明かそう。
2008/2/26 7:13
再びこの写真の場所。
しろ氏から情報を得るまでは、全く何の気もナシに素通りしていた三叉路だが、そう言われてみればイイカンジな追分だ。
両者の離れていく自然なカーブなど、今日の区画整理によっては生まれようもないものだ。
今回もクルマは少し離れた駐車場に止めており、ここへはチャリでやって来た。
首尾良く初代ルートをチャリごと踏破する目論見だが、果たしてどうなるか。
左折すると、車一台がやっとの狭い道になった。
両側には民家や駐車場の塀が迫っていて、緩い上り坂であることと合わせ、かなり圧迫感がある。
もっともそれは、私の緊張を多分に反映した感想である。
この先に峠や廃隧道の存在を想定し、ましてそこを通り抜けようなどと考えない人にとっては、普通の閑静な住宅街の風景かもしれない。
一目見て古そうだと感じられる石垣が現れた。
石材の空積みで、高さはないが延々と法面を覆っていて、城壁のような重々しさがある。
草生した表面は、これが明治のものではないかと私に疑わせるに、十分な風格を持っている。
周囲の林からは、いたずらに不安を煽るようなヤマバトの鳴き声や、サカリの付いたにゃんこどもの、焦りを誘う叫びが聞こえていた。
民家が密集しているエリアを過ぎると