2015/10/7 8:15 【現在地】 / 【旧地形図での現在地】
ここは置原から信級(のぶしな)へ通じる市道の途中であるが、この写真のカーブの地点から左方向へ分岐する道が あって欲しい。
自転車を停めて、じっくりと写真の「赤丸」の辺りを観察する。
旧地形図では、この辺りで柳久保川を渡って橋木へ通じる道があり、その途中に目指す隧道が描かれているのだ。
距離的にはもう300m以内には近付いているが、擬定地へ行くためには最低限、この柳久保川の対岸へ行く必要がある。
もちろん、かつては橋が架かっていたはずで、その痕跡でも見つける事が出来れば、隧道(あるいはその跡地…)へ導かれる未来も見える。
だが、現在の地形図からは綺麗さっぱり消え去ってしまった道は、そう易々と姿を現しはしないようだ。路上からの観察では、分岐する道を発見しなかった。
だが、見つからない道の代わりになる発見かは不明だが、「赤丸」の辺りの草むらには、なぜか 無数の石材 がごろごろと転がっていた。
なかば土と草に埋もれていて全体の数は把握できないが、10はあるだろう。
石材と表現したとおり、単なる自然石ではあり得ない。
いずれも長さ50cm、太さ20cm四方ほどに成形された角材で、表面には手作業で削ったときに残る鑿の痕が鮮明に残っていた。
明らかに現在の鋪装された市道に似つかわしくない、廃石材の山。
ここが明治隧道の擬定地に近いことを考えれば、この石材の正体に関する妄想は捗る。
あるいは、隧道よりもっと近くにあっただろう橋に関係するものなのか。
いずれにせよ、現道よりも遙かに古い時代の土木構造物を想像させるものではある。
と同時に、それが“散乱”しているという事実は、“解体”という残念な末路を想起させもした。
探し求めている明治期の里道(現在の国道19号の前身である府県道長野飯田線のさらに旧道)は、これまで辿ってきた(現代の)市道と完全に重なっていたとは限らない。
大体近い位置を通ってはいたと思うが、両者の路面が同じ高さで接するような“分岐”地点が、そもそも存在しなかった可能性もある。
とりあえず自転車を残し、石材の山を踏み、路外へ出た。
周辺の地形をさらに観察したい。
まだ秋の深まりは不十分で、濃い緑の路傍へと分け入るのには少しばかり覚悟を要したが、どこかで道を踏み外さなか