法嚴寺御本尊十一面千手千眼観世音菩薩は奈良朝時代の作品といわれております。天智天皇勅作の観音像で賢心法師の霊夢により、滋賀の都より移されました。
法相宗のお寺でしたが、各行場は修験道の開祖、役の行者神変大菩薩の秘法・六大縁起に基づいた道場で、特に護摩堂は箕面山の滝窟を観想しております。その奥には役ノ行者・神変大菩薩になって修法して頂けるようになっています
空海上人、文徳上人、円珍上人、円仁上人、仁海上人が入山、また寛存僧正が寺門維持についての計を致されました。
南北朝時代に全山が火難、山麓小山ノ里の内海覚念氏が焼跡へ草庵を急造し諸佛像を御迎えられ天正年間に豊臣秀吉が祈請完遂の奉謝にと、寺社奉行前田玄以を当山の寺門再興に任是。
後年又火災に見舞われ焼跡のまま、貞亨二年廣瀬三郎氏が寛存上人を迎え再興。寛存上人が当山中興第一世で有ります。
元禄二年浄遍上人(中興二世)が入山。
元禄十四年に赤穂浪士の大石蔵助仇討の成就を祈請して、毎夜々中人目を避けて通われました。
天保二年、門空上人が入山、弘化四年に至り現在の本堂が建立。
孝明天皇(第121代天皇)の御代の末には維新の勤王志士達の談合場としてつかわれていました。
京都市山科区音羽山及びこの方面の山地一帯は大昔より東山と云われ山麓地域
を「大国ノ里」といいました。
垂仁天皇(第11代天皇)の時代に大国ノ淵という方がいました。或時大国ノ淵は
東山の頂上にて東山地主明神と出合うという不思議な夢見をされて、東山へ御登山に
なり頂上には東山地主明神が御神託の際、御足になされていた御履物の木靴が有った
のでした。大国ノ淵は其れを持ち帰り、夢見と今日の有事を
垂仁天皇に申し上げ共に神殿に上られて御祈請なされ、東山連峰中での其の峯を御山名。
音羽山、山頂に宇賀徳生神王と東山大権現を奉祀の音羽山権現社、生水谷へ八大龍王神
を奉祀の北谷権現社を創建して、国土守護所国民豊楽の祈念所にするようにとの御指図に
成りました。これが当山祈所の開山です。
大国ノ淵は御縁が結ばれて、音羽山に住まわれて御一族及び御縁故者達も後を追うて
音羽山の山麓に住み、人里に成って「大国の里」が出来ました。年とともに居住者が増加
し地域も広大になり山科と変わったのです。
垂仁天皇から24代後の皇極天皇の時代中大兄皇子が蘇我入鹿誅伐御祈請に音羽山
権現社へ御参詣され、音