牛尾観音

牛尾観音

[1] 牛尾観音, 牛尾山法嚴寺

Webページ

[2] 京都寺社案内*法厳寺(牛尾観音), , http://everkyoto.web.fc2.com/report1323.html

山科音羽の法厳寺(ほうごんじ)は音羽山(おとわやま)の西南にある支峰、牛尾山(うしおやま)の中腹に建つ。かつては清水寺の奥の院といわれた。厳法寺(ごんぽうじ)とも称された。通称を牛尾観音(うしおかんのん)、牛尾山(うしのうざん)ともいう。山号はかつて牛尾山、現在は牛王山(うしのおさん)という。

単立の本山修験宗。本尊は十一面千手観音。

京の通称寺霊場33番、牛尾観音。

◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。

奈良時代、778年、また延暦年間(782-806)、創建されたとの伝承がある。かつて、現在地よりも山頂よりにあったという。

平安時代、真言宗開祖・空海(弘法大師、774-835)、文徳上人、天台宗・円仁(慈覚大師、794-864)、天台寺門宗の宗祖・円珍(智証大師、814-891)、真言宗小野流の祖・聖宝(理源大師、832-909)、真言宗小野流の祖・仁海(951-1046)らが入山したという。(寺伝)

平安時代中期、観音信仰により栄える。

その後、衰微する。

南北朝時代(1333-1392)、全山が焼失する。山麓の小山ノ里の内海覚念は、焼跡に草庵を結び諸仏像を安置する。

室町時代、1480年、牛尾観音参詣について記されている。旧地は現在地より山上4、5町の処にあったという。(「山科家礼記」、同年条)

安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉は祈願成就の報恩に、寺社奉行・前田玄以をもって当山の再興を行わせる。

その後、焼失し、荒廃する。

近世(安土・桃山時代-江戸時代)、再建された。観音信仰により賑わう。

江戸時代、1685年、廣瀬三郎は寛存上人を迎え再興する。寛存は中興第一世になる。

1689年、浄遍上人が入山し、現在の本堂が再建される。浄遍は中興二世になる。

1710年、赤穂浪士の大石内蔵助は仇討の成就を当寺に祈願し、毎夜、人目を避け当山に祈願したという。

1831年、門空上人が入山する。

1847年、現在の本堂が建立されたともいう。

幕末、第121代・孝明天皇(1846‐1867)の頃、勤皇の志士らの密議の場として使われたという。

現代、1945年、山号を牛尾山より牛王山に改める。

◆延鎮 平安時代前期の法相宗の僧・延鎮(生没年不詳)。報恩に師事、没後、大和に 高野山真言宗の子島(嶋)寺を継いだ。優婆

[3] 「方丈記」に記述、元暦地震の痕跡確認 京大グループ : 京都新聞, , http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20150223000174

元暦地震の痕跡の痕跡が見つかった地点

平家が滅びた壇ノ浦の戦いの約3カ月後に京都を襲った「元暦(げんりゃく)地震」で起こったとみられる土砂崩れの痕跡を、京都大防災研究所の釜井俊孝教授のグループが京都市と大津市の山中で見つけた。琵琶湖西岸断層帯が引き起こしたとされる大地震で、鴨長明の「方丈記」にも記述が残る。同断層帯を震源とする地震の被害予測などに役立つ成果で23日の同研究所の研究発表講演会で報告した。 元暦地震は1185(元暦2)年に起きた。平安京の多くの寺社や民家が倒壊したとされ、方丈記は「山は崩れて河を埋(うづ)み」と記した。そのほか公家の日記である「山塊記(さんかいき)」なども揺れの大きさを書きとどめている。 グループは、左京区と大津市の府県境付近、山科区の牛尾観音周辺の計3地点で土壌を調査した。その結果、8世紀から数百年にわたる山焼きの跡とみられる黒い土の層の上に、12世紀末の土砂崩れが原因とみられる砂の堆積層を発見した。この堆積層は厚さが1~2メートルもあり、地震による斜面崩壊が原因とみられるという。 琵琶湖西岸断層帯は、高島市の旧マキノ町から大津市に至る。断層帯の南部が元暦地震で活動した可能性があり、断層の西側は6~8メートル隆起したとみられている。釜井教授は「今回見つかった堆積物は、地震を記録する『感震器』とも言える。大地震の歴史や規模を探る上でも有用だ」と話している。

【 2015年02月23日 22時50分 】

[4] 牛尾山法厳寺縁起, , http://www.geocities.jp/hougonji17/engi.htm

法嚴寺御本尊十一面千手千眼観世音菩薩は奈良朝時代の作品といわれております。天智天皇勅作の観音像で賢心法師の霊夢により、滋賀の都より移されました。

法相宗のお寺でしたが、各行場は修験道の開祖、役の行者神変大菩薩の秘法・六大縁起に基づいた道場で、特に護摩堂は箕面山の滝窟を観想しております。その奥には役ノ行者・神変大菩薩になって修法して頂けるようになっています

空海上人、文徳上人、円珍上人、円仁上人、仁海上人が入山、また寛存僧正が寺門維持についての計を致されました。

南北朝時代に全山が火難、山麓小山ノ里の内海覚念氏が焼跡へ草庵を急造し諸佛像を御迎えられ天正年間に豊臣秀吉が祈請完遂の奉謝にと、寺社奉行前田玄以を当山の寺門再興に任是。

後年又火災に見舞われ焼跡のまま、貞亨二年廣瀬三郎氏が寛存上人を迎え再興。寛存上人が当山中興第一世で有ります。

元禄二年浄遍上人(中興二世)が入山。

元禄十四年に赤穂浪士の大石蔵助仇討の成就を祈請して、毎夜々中人目を避けて通われました。

天保二年、門空上人が入山、弘化四年に至り現在の本堂が建立。

孝明天皇(第121代天皇)の御代の末には維新の勤王志士達の談合場としてつかわれていました。

京都市山科区音羽山及びこの方面の山地一帯は大昔より東山と云われ山麓地域

を「大国ノ里」といいました。

垂仁天皇(第11代天皇)の時代に大国ノ淵という方がいました。或時大国ノ淵は

東山の頂上にて東山地主明神と出合うという不思議な夢見をされて、東山へ御登山に

なり頂上には東山地主明神が御神託の際、御足になされていた御履物の木靴が有った

のでした。大国ノ淵は其れを持ち帰り、夢見と今日の有事を

垂仁天皇に申し上げ共に神殿に上られて御祈請なされ、東山連峰中での其の峯を御山名。

音羽山、山頂に宇賀徳生神王と東山大権現を奉祀の音羽山権現社、生水谷へ八大龍王神

を奉祀の北谷権現社を創建して、国土守護所国民豊楽の祈念所にするようにとの御指図に

成りました。これが当山祈所の開山です。

大国ノ淵は御縁が結ばれて、音羽山に住まわれて御一族及び御縁故者達も後を追うて

音羽山の山麓に住み、人里に成って「大国の里」が出来ました。年とともに居住者が増加

し地域も広大になり山科と変わったのです。

垂仁天皇から24代後の皇極天皇の時代中大兄皇子が蘇我入鹿誅伐御祈請に音羽山

権現社へ御参詣され、音

[5] 京都山科牛尾山法嚴寺, , http://kyoto.hougonji.com/

牛尾山法嚴寺 -HOUGONJI-                                              

縁起

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境内案内

交通案内

体験修行

[6] 境内案内, , http://www.geocities.jp/hougonji17/keidai.html

本堂

築三百年以上の建物で、御本尊は 十一面千手千眼観世音菩薩で 延鎮上人、行叡居士、弘法大師像 と共に秘仏。 毎年4月17日と10月17日に御開 帳。

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054552385883

メモ