国道254号

国道254号

[1] 国道254号

Webページ

[2] 国道152号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93152%E5%8F%B7

概要[編集]

杖突街道および秋葉街道を踏襲している。路線上の2箇所に不通区間(下記参照)があるほか、山岳地帯では幅員の狭い区間が多く、ホイールベース5m超の大型車では本道を用いた長野県と静岡県の往来は不可能である。このため、静岡・長野県境の山岳地帯では、本道に併走する形で三遠南信自動車道の整備が進められている。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点 : 上田市(大屋交差点=国道18号・長野県道176号下原大屋停車場線交点)

終点 : 浜松市(東区、北島交差点=国道1号交点、静岡県道65号浜松環状線終点)

重要な経過地:長野県小県郡丸子町[注釈 2]、同郡長門町[注釈 3]、茅野市、同県上伊那郡高遠町[注釈 4]、同県下伊那郡上村[注釈 5]、同郡南信濃村[注釈 5]、静岡県磐田郡水窪町[注釈 6]、同郡佐久間町[注釈 6]、天竜市[注釈 6]、浜北市[注釈 7]

路線延長:259.6 km(実延長251.5 km、現道240.4 km)[2][注釈 8]

長野県区間:172.5 km(実延長168.0 km、現道161.5 km)

静岡県区間:0.1 km(実延長0.1 km、現道なし)

浜松市区間:87.1 km(実延長83.4 km、現道78.8 km)

指定区間:なし[3]

歴史[編集]

道路法(昭和27年法律第180号)に基づく二級国道として初回指定された路線のひとつである。国道指定当初は、長野県飯田市から愛知県北設楽郡三輪村[注釈 9]まで二級国道151号と重複し、同村からは現在の愛知県道9号天竜東栄線および静岡県道9号天竜東栄線を経て静岡県磐田郡二俣町[注釈 10]の鹿島橋交差点に至り、同交差点からはバイパス化を除けば現在と同等の経路によって終点の浜松市に至る路線として指定された。1969年(昭和44年)公布の政令により、翌1970年(昭和45年)4月1日に経路が変更されて、飯田市から長野県下伊那郡上村[注釈 5]を経由し、同村からは青崩峠を経由して終点の浜松市に至る路線となった[4]。1975年(昭和50年)に施行された国道256号の経路変更に伴って飯田市から上村にかけてが同国道と重複区間となり[5]、1993年(平成5年)に起点から一部区間(飯田市 - 長野県下伊那郡上村)を

[3] 国道140号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A9%E7%94%B2%E6%96%90%E8%A1%97%E9%81%93

概要 [編集]

埼玉県北部の熊谷市から同県秩父地方を経由して山梨県都甲府市に至り、1993年に編入された区間を経て同県富士川町の国道52号交点に達する。国道に指定されて1998年までおよそ半世紀にわたって埼玉・山梨両県の間には不通区間を抱えていたが、雁坂トンネルの開通に伴って往来が可能となった。

路線データ [編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 2]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:埼玉県熊谷市(熊谷警察署前交差点=国道17号・国道407号交点)

終点:山梨県南巨摩郡増穂町[注釈 3](追分交差点=国道52号交点)

重要な経過地:埼玉県大里郡寄居町、同県秩父郡長瀞町、秩父市、塩山市、山梨市(万力)、甲府市、山梨県東八代郡中道町[注釈 4]

路線延長:218.3 km(実延長217.8 km、現道147.3 km)[2][注釈 5][注釈 1]

埼玉県区間:137.4 km(実延長137.3 km、現道82.7 km)

山梨県区間:80.9 km(実延長80.5 km、現道64.6 km)

指定区間:国道20号と重複する区間[3]

歴史 [編集]

道路法(昭和27年法律第180号)に基づく二級国道として初回指定された路線のひとつである。国道指定当初は、山梨県甲府市から埼玉県熊谷市に至る路線として指定された。1993年(平成5年)に起終点を交換し、甲府市道[4]、石和町道[4]、一般県道15号白井河原八田線の一部[4][5][6]、主要地方道8号塩山市川大門線[注釈 6]の一部[4][7]、一般県道95号東南湖市川大門線[4][6]、主要地方道26号増穂若草線の一部[4][6]をそれぞれ編入して熊谷市から甲府市を経由して山梨県南巨摩郡増穂町[注釈 3]に至る路線となった[8]。雁坂トンネルが開通するまで雁坂峠の前後区間で登山道が国道指定されており、「開かずの国道」と呼称されていた(点線国道)。しかし雁坂トンネル開通以前においても、秩父市内の案内標識には「甲府」と記載されていた[要出典]。

年表 [編集]

1953年(昭和28年)5月18日

二級国道甲府熊谷線(甲府市 - 熊谷市)として指定施行[9]。

1965年(昭和40年)4月1日

道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道140号となる。

1993年(平成5年)4月1日

起終点を

[4] 国道140号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93140%E5%8F%B7

概要 [編集]

埼玉県北部の熊谷市から同県秩父地方を経由して山梨県都甲府市に至り、1993年に編入された区間を経て同県富士川町の国道52号交点に達する。国道に指定されて1998年までおよそ半世紀にわたって埼玉・山梨両県の間には不通区間を抱えていたが、雁坂トンネルの開通に伴って往来が可能となった。

路線データ [編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 2]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:埼玉県熊谷市(熊谷警察署前交差点=国道17号・国道407号交点)

終点:山梨県南巨摩郡増穂町[注釈 3](追分交差点=国道52号交点)

重要な経過地:埼玉県大里郡寄居町、同県秩父郡長瀞町、秩父市、塩山市、山梨市(万力)、甲府市、山梨県東八代郡中道町[注釈 4]

路線延長:218.3 km(実延長217.8 km、現道147.3 km)[2][注釈 5][注釈 1]

埼玉県区間:137.4 km(実延長137.3 km、現道82.7 km)

山梨県区間:80.9 km(実延長80.5 km、現道64.6 km)

指定区間:国道20号と重複する区間[3]

歴史 [編集]

道路法(昭和27年法律第180号)に基づく二級国道として初回指定された路線のひとつである。国道指定当初は、山梨県甲府市から埼玉県熊谷市に至る路線として指定された。1993年(平成5年)に起終点を交換し、甲府市道[4]、石和町道[4]、一般県道15号白井河原八田線の一部[4][5][6]、主要地方道8号塩山市川大門線[注釈 6]の一部[4][7]、一般県道95号東南湖市川大門線[4][6]、主要地方道26号増穂若草線の一部[4][6]をそれぞれ編入して熊谷市から甲府市を経由して山梨県南巨摩郡増穂町[注釈 3]に至る路線となった[8]。雁坂トンネルが開通するまで雁坂峠の前後区間で登山道が国道指定されており、「開かずの国道」と呼称されていた(点線国道)。しかし雁坂トンネル開通以前においても、秩父市内の案内標識には「甲府」と記載されていた[要出典]。

年表 [編集]

1953年(昭和28年)5月18日

二級国道甲府熊谷線(甲府市 - 熊谷市)として指定施行[9]。

1965年(昭和40年)4月1日

道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道140号となる。

1993年(平成5年)4月1日

起終点を

[5] 群馬県道・長野県道93号下仁田臼田線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E9%81%93%E3%83%BB%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E9%81%9393%E5%8F%B7%E4%B8%8B%E4%BB%81%E7%94%B0%E8%87%BC%E7%94%B0%E7%B7%9A

群馬県道・長野県道93号下仁田臼田線(ぐんまけんどうながのけんどう93ごう しもにたうすだせん)は群馬県甘楽郡下仁田町大字下仁田から長野県佐久市下小田切を結ぶ県道(主要地方道)である。

概要[編集]

下仁田町から群馬県道45号下仁田上野線と重複して甘楽郡南牧村の谷奥へ遡り、45号から分かれてからは南牧川の渓谷を遡上して、南牧村の谷間の小集落を結ぶ。更に支流の馬坂川沿いを遡って県境を越え、佐久市(旧臼田町)広川原の集落を経て田口峠への連続ヘアピンカーブを越え、佐久側では雨川の渓谷を下って臼田市街に至る。

分水嶺は田口峠(標高1120m)で、短いトンネルで通過するが、江戸時代(確認できる範囲でも17世紀まで遡れる)以来の歴史的経緯により、群馬・長野県境は分水嶺よりも東側の群馬県寄りにあり、沿道の佐久市広川原地区・馬坂地区は長野県だが分水嶺の東にある(馬坂地区は狭岩峡右岸にあり、対岸の左岸を走る93号は群馬県南牧村で、ここでは峡谷が県境になっている)。

主要地方道指定を受けてはいるが、山間部の極端な過疎地帯を越えて行く狭隘路線で大型車両は通過困難であり、荒船山を隔てて北方にある内山峠越えの国道254号のような拠点間交通路としては機能しない。途中には極端なヘアピンカーブ・急勾配を擁し、すれ違い困難な1車線区間も多数存在、県境付近の狭岩峡は地形の険しさが著しい(佐久市側だけでも170以上ものカーブが存在する難関で、車道としての条件の厳しさでは、単に群馬-長野の県境越え区間だけでも184のカーブがある国道18号碓氷峠旧道をも桁違いにしのぐ)。

起点:甘楽郡下仁田町大字下仁田(石神交差点:国道254号)

終点:佐久市下小田切(城山北交差点:国道141号)

歴史[編集]

田口峠越えの道そのものは江戸時代以前からの歴史のあるルートを辿っており、既に9世紀には最澄が信濃国から上野国へ向かう際に通過、その山越えの峻険さを記録している。徒歩・牛馬道としては北側の星尾峠や南側の余地峠と共に、佐久地方と群馬県南西部の交易路の一つとなっていたが、県境の特殊条件によって田口峠越えが現代に至るまでのメインルートとなった。

現道の大筋は、早くも1877年(明治10年)に群馬県により「高野道下仁田信濃国境七里十町三十七間」が県道三等の指定を受けている。その後川沿いの若干区間で右岸・左岸のルート変更が生じ

[6] 関越自動車道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%B6%8A%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93

練馬ICから本庄児玉ICまで 国道254号 、本庄児玉ICから長岡JCTは 国道17号 がほぼ並行している。

三国山脈 を貫いて東京と新潟県を結ぶ高速道路であり、 上越新幹線 とともに 首都圏 と 日本海側 を結ぶ高速交通網として重要な機能を持つ。また、 藤岡JCT から 上信越自動車道 (関越自動車道上越線)が分岐しており、首都圏と長野県 北信地方 ・ 東信地方 を結ぶ高速交通網の一部でもある。

日本有数の 豪雪地帯 を貫いており、沿線( 上越 エリア)には多くの スキー場 が 存在 し、首都圏とこれらのスキー場を結ぶ高速道路である。このため、 冬期 に通行困難となる並行一般道救済のために追加設置されたICが多い。また、首都圏の 放射方向 の高速自動車国道の中では唯一、 首都高速道路 との直接接続がないため、近年 東京外環自動車道 などと接続されるまでは、特に冬季の練馬ICにおける大 渋滞 が慢性化していた [2] 。

水上IC - 湯沢IC には、 道路トンネル として国内第2位の長さの 関越トンネル がある。

路線名・道路名 [ 編集 ]

高速自動車国道 の路線名としての 関越自動車道 は、東京都を起点に 群馬県 藤岡市 で分岐し 新潟県 新潟市 および 上越市 に至る以下の2つの路線からなる。

路線名

起点

重要な経過地

終点

新潟線

[7] 橋梁レポート 国道254号旧旧道 旧落合橋 , , http://yamaiga.com/bridge/ochiai/main.html

群馬の山ん中に、

マジで、すっげー橋が現存してたぞ!(2014年3月現在)

この物件は、昨年(平成25年)10月上旬に、ツイッター上でみち(@1600ZC)氏に教えていただいた。

それまで関東移住以来6年以上もの間、何度も訪れている群馬県の山中に眠るこの橋を、全く把握していなかった。

とにかく、見てもらえば分かる、すごい橋である。

今回、雪解け直後の最も藪が浅い時期に満を持して現地を捜索したところ、情報提供通りの橋が現存している事を確認出来た。

以下、そのレポートである。

【周辺図(マピオン)】

本橋の所在地は、群馬県西部の甘楽郡下仁田町を走る国道254号内山峠の旧道沿いである。

長野県の佐久平と群馬県を結ぶ歴史深い峠道の途中に、とんでもない橋が、その威容を誇っていたのである。

橋の名前は不明だが、旧落合橋として話しを進める事にしよう。

その詳しい場所は、右図の通り。

内山峠へ続く旧国道が、市ノ萱川という渓流のさらに支流(西高畠沢)を跨ぐ地点である。

最寄りにして、群馬県側の峠前最奥集落である市野萱集落からは、1.6kmほど離れている。

集落からの接近シーンをレポートするのがもどかしいぐらい早く紹介したいし、国道254号内山峠旧道自体は既に多くの情報が世に出回っていると思うので、本頁ではいきなり現地発見のシーンから始めることにしよう。

2014/4/2 15:10 【現在地】

という前置きで、今回は本当に勿体ぶり一切無く、問題の落合橋からスタートである。

目の前を横切っている1.5車線の道路が国道254号の旧道で、奥の高い所を横切っているのは、平成元年に全線が開通した現国道である。

また、手前から奥へ向かう1車線の道も見えるが、これはなぜか地形図には書かれていない。

おそらく、現国道の工事用道路という由緒を持つ道と思われ、旧国道以上に通行量は少ないが、一応通り抜けは可能である。

問題の橋は、「旧落合橋」である。

旧国道に見えている赤い欄干の橋は落合橋で、これの旧橋が、とんでもない橋なのである。

ちなみに、落合橋(および旧落合橋)が渡っているのは、内山峠から流れ出る市ノ萱川の支流である西高畠沢である(この写真の左側に見えているのが市ノ萱川)。

この支流の名前は地形図には無いが、落合橋の銘板の1枚から判明した。

なお、旧橋はまだ見えていない。

[10] 廃線レポート 上信電鉄旧線 (上野鉄道) 隧道捜索編, , http://yamaiga.com/rail/kouzuke/main.html

終点の下仁田駅に居並ぶ上信電鉄の車両たち。

同社はかつて、背後にそびえる上信国境を越えて、長野県への延伸を計画していた。

現社名も、その事にちなんでいる。

【周辺地図(マピオン)】

上信電鉄といえば、その前身を含めれば全国屈指の長い歴史を誇る私鉄として、また奇抜な列車のデザインなどにおいても、鉄道ファンには知られた存在である。

その営業路線は上信電鉄上信線といい、群馬県の高崎駅(信越本線)から鏑(かぶら)川に沿って西進、吉井や富岡などの古い商都を経て、上信国境内山峠の入口にあたる下仁田へ達する、全長33.7kmである。

冒頭に「全国屈指の長い歴史を誇る」としたが、同社の前身である上野(こうずけ)鉄道は明治26年の設立にかかり、明治29年には高崎〜下仁田間21哩(マイル)の鉄道建設に着手。同30年に早くも全線を開業させている。以来、社名などは変化しているが、同社の鉄道事業は高崎と下仁田を結ぶ一本だけという状況で、地道に経営を続けている点に特色がある。

全長33.7kmの路線を地図の上で眺めると、起点から終点ひとつ手前の千平(せんだいら)駅まではずっと平野であるが、そこから終点下仁田駅までの区間だけは、鏑川の不通(とおらず)峡と呼ばれる峡谷を通過しており、山がちである。

そして、この険阻な区間には、上信電鉄の前身である上野鉄道時代の遺物が、秘かに眠っていたのである。

今回紹介する旧隧道は、複数の旧地形図を比較する「ネタ探し」の中で、偶然その存在を疑う事態となったものである。

左の地形図は昭和26年応急修正版で、当時は上信電気鉄道と呼ばれていた鉄道が描かれている。左下に終点の下仁田駅、右上にそのひとつ手前の千平駅が見えるはずだ。

そして同じ地図にカーソルを合わせると、明治40年測図版に切り替わる。(切り替えが上手く行かない場合は、こちら)

上野鉄道の開業は既に述べた通り明治30年のことで、上信電気鉄道への社名変更は大正10年(昭和39年に上信電鉄へさらに変更)であるから、ここに描かれているのは上野鉄道時代の線路である。

何度か画像を切り替えて貰えば、一見同じ場所を通っているように見える線路に生じている、微妙な変化にお気づきいただけると思う。

答え合わせ。

この2枚の地形図から読み取れる線路の変化は大きくふたつあり、ひとつは千平駅が出現している事(明治40年

[11] 上信電鉄上信線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BF%A1%E9%9B%BB%E9%89%84%E4%B8%8A%E4%BF%A1%E7%B7%9A

路線データ[編集]

路線距離(営業キロ):33.7km

軌間:1067mm

駅数:20駅(起終点駅含む)

複線区間:なし(全線単線)

電化区間:全線(直流1500V)

閉塞方式:自動閉塞式

運行形態[編集]

車両については「上信電鉄#車両」を参照

1980年代半ば頃には急行、快速、準急といった優等列車も運転されていたが、現在は全列車がワンマン運転の普通(各駅停車)である。朝夕のラッシュ時には一時間に2-3本。昼と夜遅くを除いた時間帯にはおおむね1時間に2本の列車が運行している。高崎 - 下仁田間の通し運転のほか、高崎 - 上州冨岡間の区間列車が平日3往復、休日1往復設定されている。また時間帯は限られるが平日、休日ともに自転車が持ち込める列車(サイクルトレイン)が運行されている。

1924年の電化開業時にドイツのシーメンス社から購入したデキ1形電気機関車が現在も不定期に工事列車等で走る。そのほか利用客を増やすために様々な試みがなされており、カラオケ列車、お座敷列車、宴会列車の運行や運行している電車、デキ型電気機関車を用途自由で貸切運行することができるサービスなどがある。

この上信線には1984年に東日本旅客鉄道(JR東日本)の12系客車のジョイフルトレイン「くつろぎ」が6両編成で、1992年秋に「やすらぎ」(後のわたらせ渓谷鐵道「サロン・ド・わたらせ」わ01形)3両と最後尾に原型・原色の12系客車1両を連結した4両編成が入線したことがあり、デキ1形が重連でこれらを牽引した。

かつての優等列車[編集]

1984年2月1日改正当時

急行(高崎、吉井、上州富岡、下仁田に停車)下りは15時台、上りは10時台の1往復

快速(下仁田、南蛇井、上州一ノ宮、上州富岡、上州福島、吉井、馬庭、山名、高崎に停車)平日朝の上りのみ

準急(下仁田 - 上州富岡間の各駅、吉井、山名、高崎に停車)昼前後の上り2本のみ

1985年4月1日改正当時

急行の運転中止、快速の準急化(毎日運転)

準急(下仁田 - 上州福島間の各駅、吉井、馬庭、山名、高崎に停車)朝の上りのみ

1986年12月20日改正当時

急行(高崎、山名、吉井、上州富岡、下仁田に停車)下りは14時台、上りは9時台の1往復

準急は1985年改正と変更なし

歴史[編集]

1894年(明治27年)9月13日 上野鉄道(こうずけてつどう、発起人小

[12] 田口峠 田の口峠(長野県)<峠と旅>, , http://www.geocities.jp/wellon2/tohge/tohge_5t/taguchi/taguchi.htm

峠にあるトンネルの名前は第一隧道

所在は長野県佐久市臼田町(旧臼田町)田口

見えている坑口は田口の広川原側(群馬県方向)

トンネルの反対側は田口の山の神側

長野県と埼玉県・群馬県の境を成す関東山地には、楽しい峠が連なっている。南から三国峠(みくに)、ぶどう峠、十石峠(じっこく)、余地峠(よじ)、そして今回の田口峠である。

十石峠と余地峠の間に大上峠があるが、こ

の峠は十石・余地のそれぞれの峠道を途中で橋渡ししているような存在で、県境を越える単独の峠道という感じがしない。峠自身の魅力の点からしても、他の峠

と比べてやや格下の勘がする。また余地峠は、車道が峠の片側しか通じておらず、車やバイクでの峠越えは難しそうな峠である。

どちらにしろ、これらの峠は関東山地の稜線上に位置し、峠の西に流れ下る水は千曲川に合し、行く行くは信濃川となって日本海に注ぐ。また峠の東に落ちた雨水は、荒川または利根川となって太平洋に注ぐ。すなわち中央分水界に位置する峠たちなのである。

そこを越える峠道は、県道や主要地方道、はたまた国道さえもあるのだが、どれも険しく、林道に毛の生えたような有様だ。関東地方に接してこれだけの峠が

ずらりと並ぶ地帯は、他にはなかなかない。田口峠より北は国道254号の内山峠(内山トンネル)などが出てくるが、車も滅多に通らない辺ぴな峠道とはいか

ない。やはり三国峠から田口峠までが、最強の峠軍団と言えそうだ。

田口峠は長野県の佐久市、ちょっと前の臼田町(うすだまち)にある。他の峠が全て長野県と埼玉県または群馬県との県境にあるのだが、この田口峠ばかりは長

野県と群馬県の境にはなっていない。しかし、峠が中央分水界にあることは間違いなく、よって県境が本来あるべき中央分水界より東にずれ込んでいるのだ。

これについて文献(角川地名大辞典)では、ほぼ次のように記している。信州(現長野県)田野口藩主と幕府の代官が、当時の境界を定めるにあたり、夜明け

とともに両方から競走、出会った所を境とすると約束した。信州側では鶏を早く鳴かせて出発、峠を越えた関東側に領地を広めることができたと、言い伝えられ

ている。

こうした領地争いの逸話は似たものが他にもあるそうなので、にわかには信じられない。領地争いではないが、鶏が出て来る逸話が残る峠として、トリガタワを思い出す。

偶然ながら、前回

[13] 常盤橋 [群馬県甘楽郡下仁田町本宿〜西野牧] ( その他趣味 ) - Yahoo!ブログ 道徒然話 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/kasuga_3z/14048839.html

下手な写真と文章で、主に「道」、ちょっと「鉄・ゲーム」でウェブサイトと同時並行でやっていこうと思った次第であります。

[15] ミニレポ第240回 埼玉県道76号鴻巣川島線 丸貫狭区, , http://yamaiga.com/mini/240/main2.html

2016/5/6 6:56 《現在地》

約800mにわたって荒川堤防の天端を走った我らが県道76号は、その場所を大規模自転車道である県道155号に譲って、下野を開始した。

右前方に見える家並みが、これから向かう丸貫の集落である。

普通に2階建て家屋の屋根どころではない高さの堤防ということが分かると思う。本当に、ちょっとした山の上から見るような景色なのである。

それだけに、天端から地平に下りるまでの坂道(斜路)も、驚くほど長い。なんと200mもある。

この坂道だけで、狭隘区間の10分の1以上もあるわけだ。

そしてこの主要地方道らしからぬ地味な斜路を最後まで下ると……

6:57 《現在地》

地平に着くと即座に、 直角カーブ&橋 が現われた。

さすがに線形が良くないという自覚はあるのか、あまり見ない「徐行」の道路標識が設置されている。

こんなものを設置するよりも、橋の架け方を工夫して直角カーブを取り除いて欲しいわけだが、この道幅だ…、多くを求めてはいけないのだろう。まだ新しい橋のように見えるが、架かり方は前時代的だった。

前時代的と言えば、石仏を見た。

直角カーブを見守るように、あるいは巨大堤防を背にして川の氾濫から郷を守るように、6体の石仏が綺麗に整列して並んでいた。

人工的なものの隙間に最小の敷地を与えられて居る姿は、少しばかり窮屈そうだったが、この道にゆかりの深い石仏たちなのかもしれない。

一番大きな1体には「大弁財天女」の文字が刻まれており、治水に霊験ありとされる弁財天信仰の石仏だった。

この石仏を見た次は、順番からいえば橋の紹介なのだが、

さっきから、 橋の先に見えている景色が衝撃的すぎて、

これ以上知らん顔をして順序通り紹介するのが難しい。だから、 先にご覧ください!

これが、地理院地図に 【軽車道】 幅1.5m以上3m未満の道路 として描かれている道だ!!

この狭路区間のハイライト……

かわいい!

何だこの道! 可愛いぞ!!

都心から40km、バリバリ首都圏内の平野にある主要地方道には見えない。

ただ狭いだけではない、畑の中で S字カーブ を描いていく自然な“あぜ道”感がたまらない。

ロケーション込みですばらしい“S字狭路”!

生き馬の目を抜くような幹線道路に祭りあげられることなく、今までずっと静かに過ごしてきたんだろうなぁ…。

[16] 石神井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%B7%9D

地理 [編集]

東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する。東京都小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区の各自治体を経る。

小平市花小金井南町の小金井カントリー倶楽部西側付近に源を発している。かつての源流はさらに西に遡っていた(後述)。同ゴルフ場内を大部分暗渠で流れ、嘉悦大学の南側で開渠の川になる。同大裏門から小金井公園通りまで蓋がけされた後、小金井公園沿いは柵渠となる。西東京市の南を流れ、練馬区に入る[2]。西東京市では、1980年度に芝久保調整池および南町調整池、1983年度に向台調整池が設けられ、増水時に川の水を貯留する[3]。小平市・西東京市に含まれる上流部は湧水のみによって涵養される小河川であり、流量は少ない。

練馬区に入ると、武蔵関公園の富士見池、石神井公園の三宝寺池、豊島園池などの湧水や河床からの湧水を合わせ、流量を増してくる。現在、富士見池や三宝寺池は湧水が減少し、地下水の揚水などによって池の水が維持されている。三宝寺池と石神井池は石神井川に接続していないが、富士見池はわずかな溢水が石神井川に流入している。富士見池は調整池の役割も果たしている[2]。水害防止のため、富士見池調整池(練馬区関町北三丁目)が1973年度に建設された[3]。

城北中央公園で板橋区に入り、桜川一丁目で田柄川を合わせて、川越街道、東武東上線、中山道を横断し、JR埼京線を潜って北区に入る。その後、王子駅の下を抜けて北区堀船三丁目で隅田川に注ぐ。石神井川は金沢橋付近(埼京線の上流約200m)から音無橋にかけて音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていた。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっていて、屈曲部の直線化や飛鳥山隧道建設などの改修によって流路も大きく変わっている。直線化の結果残った旧流路の一部は、氷川町つりぼり公園、音無もみじ緑地、音無さくら緑地などとして整備されている。

変遷 [編集]

上流域(小平市、小金井市、西東京市) [編集]

水源

現在は小平市花小金井南町にある小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、一級河川起点は「左岸:小平市花小金井南町三丁目1218番地先、右岸:同市同町三丁目1217番地先」[4](住居表示では「小平市花小金井南町三丁目2番地先」[1])である。かつてはさらに西に遡り、小平市鈴木町

[17] 首都圏中央連絡自動車道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%83%BD%E5%9C%8F%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E9%80%A3%E7%B5%A1%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93

首都圏中央連絡自動車道(しゅとけんちゅうおうれんらくじどうしゃどう)は、神奈川県横浜市金沢区から東京都・埼玉県・茨城県を経由し千葉県木更津市に至る、都心からおおむね半径40 - 60 kmの位置を環状に結ぶ高規格幹線道路(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路))である。圏央道(けんおうどう)、圏央(けんおう)と略される。

概要[編集]

東京の都心から40 - 60 km圏内の、横浜市・厚木市・相模原市・八王子市・川越市・つくば市・成田市・木更津市などの東京郊外の諸都市を結ぶとともに、横浜横須賀道路・東名高速道路・中央自動車道・関越自動車道・東北自動車道・常磐自動車道・東関東自動車道・千葉東金道路・館山自動車道などの放射道路を相互に連絡する(第三京浜道路とは連絡しない)、首都圏の3環状9放射の一番外側の環状道路である(外環道・中央環状線とともに3環状の一つ)。

2014年6月28日現在、圏央道として茅ヶ崎JCT - 寒川北IC間、海老名JCT - 桶川北本IC間、白岡菖蒲IC - 久喜白岡JCT間、つくば中央IC - 神崎IC間、松尾横芝IC - 木更津JCT間が開通しており、NEXCOが管理・運営を行っている。また、未開通区間についてはNEXCOと国土交通省が共同で建設・整備を進めている。このうち、藤沢ICとあきる野ICを境として、西側の藤沢IC-あきる野IC間をNEXCO中日本が、その他の区間をNEXCO東日本がそれぞれ建設・管理を担当している。

国道468号[編集]

一般国道の路線を指定する政令および一般国道の指定区間を指定する政令に基づく一般国道468号の概要は以下の通り。ただし、一般国道の路線を指定する政令の同路線は1992年4月3日の制定当時のままであり、同政令も2004年3月19日以後改正されていないため、以下の項目において合併など市町村名の変更は反映していない(現在の市町村名は通過自治体の項を参照)。

起点: 神奈川県横浜市金沢区

終点: 千葉県木更津市

重要な経過地: 藤沢市、茅ヶ崎市、海老名市、厚木市、神奈川県津久井郡城山町、八王子市、秋川市、青梅市、羽村市、入間市、狭山市、日高市、川越市、鶴ケ島市、坂戸市、埼玉県比企郡川島町、桶川市、北本市、同県南埼玉郡菖蒲町、久喜市、幸手市、茨城県猿島郡五霞村、同郡境町、岩井市、水海

[18] 荒川 (関東) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_%28%E9%96%A2%E6%9D%B1%29

歴史[編集]

荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。

利根川東遷事業[編集]

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。

荒川放水路[編集]

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。

計画に至る過程[編集]

明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ

[19] ミニレポ第240回 埼玉県道76号鴻巣川島線 丸貫狭区, , http://yamaiga.com/mini/240/main.html

【周辺図(マピオン)】

埼玉県道76号鴻巣川島線は、埼玉県鴻巣市箕田の国道17号を起点に、吉見百穴で有名な吉見町を南北に縦断して川島町伊草の国道254号に至る、全長約16.8kmの主要地方道である。

全線が関東平野内にあり、途中で荒川という大きな川を渡るものの地形はことごとく低平で、山岳的な険しさとは無縁だが、何も知らずに辿ろうとすると困惑必至の狭隘区間が吉見町内に存在する。

右図はその“丸貫狭区”付近を描いた地理院地図だ。

吉見町今泉から丸貫(まるぬき)にかけての県道76号は荒川の堤防を通行し、古名(こみょう)に入る辺りで堤防を下りるが、そこから少しの間は地図上で「軽車道」の表記である。

今泉の県道271号分岐点から古名の県道27号交差点まで約1.8kmの 地図から道の怪しさが匂う区間 だ。

県の資料を見る限り、 【自動車交通不能区間】 供用中の道路のうち、幅員、曲線半径、こう配その他道路の状況により最大積載量4トンの普通貨物自動車が通行できない区間をいう。 ではないようだが、気になるので見に行ってみることにした。

果たして、どんな香ばしい“主要地方道風景”が待っているやら。

2016/5/6 6:50 《現在地》

北鴻巣駅近くにある県道の起点を自転車で出発し約6km、荒川を渡って吉見町今泉にやってきた。県道76号の狭隘区間は、ここから始まる。

この写真の交差点を 左折する のが、我らが県道76号鴻巣川島線だ。

どこからどう見ても直進がメインルートのように見える。この交差点には信号どころか横断歩道も停止線も青看も“卒塔婆”もない。ここを左折するのが主要地方道の順路と分かるものは何もない。ないないない。

直進する道は、この地点が起点である県道271号今泉東松山線という。こちらは主要地方道より格下の一般県道だが、完全に県道76号の進路を引き受けている。

何も知らないドライバーがここを通過すれば、いつの間にか県道の番号がすり替わっていると感じるだろう。

この交差点にある、県道76号の順路に関する唯一の“案内”は、歩道の路面にペイントされている「 ← �H川幅日本一体感ルート 」の文字だ。

私もこの探索をするまで知らなかったが、この辺りの荒川は「川幅日本一」であるらしい。

中でも、県道76号の狭隘区間を抜けた先に待っている県道27号東松山鴻巣線が荒川を

履歴

[20] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/25645855943996653

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