青宝トンネル

青宝トンネル

[1] 青宝トンネル

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[2] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main10.html

私が青ヶ島で過ごしたたった1日の最初と最後を共にしたのが、島の玄関口として不動の地位にある青宝トンネルの旧道であったことは、偶然ではなかったが、出来すぎているとも思う。

そして、一周約9km、わずか約6km 2 の島中のたかだか1.3kmに過ぎない道で、ここまで多くの文字数を費やして語りたくなるほどの“探索”があろうとは、「青ヶ島は凄い」と聞いていた私の想像をも越えていた。

本稿は、今回探索した旧道 “残所越(のこじょごえ)”の歴史解説編 を主とするが、同時に青ヶ島全体の道路整備の歴史についても概観を述べたい。

そうしないことには、小さな島内において代替路があまり存在しない道の存在意義を上手く説明することができないためである。

また、島内の陸上交通は島外との海上交通と不可分の問題であり、すなわち港や航路や新造船の整備とも深く関わる問題であるばかりでなく、島民の生活のほぼ全方位にも関わる事柄であるが、それら全てを結びつけて概説的に述べるのは私の手に余る。ゆえに島内道路整備に絞って解説しつつ、それ以外は特に関わりが深い事柄のみ最低限触れるに留める。

主な参考資料

伊豆諸島東京移管百年史 (東京都島嶼町村会/昭和56年刊)

黒潮に生きる東京・伊豆諸島 (東京都島嶼町村会/昭和59年刊)

青ヶ島の生活と文化 (青ヶ島村教育委員会/昭和59年刊)

青ヶ島島史 (青ヶ島村/昭和55年刊)

I 明治〜戦前 島の三大拠点を結ぶ道の整備

右図は青ヶ島を描いた最も古い5万分の1地形図である 明治45(1912)年版 で、チェンジ後の地図は 昭和10(1935)年版 である。

いずれの地図にも島内各地を結ぶ“道”が描かれているが、その多くは破線の徒歩道(小径)であり、これらの時期は車馬が往来するような道路網は存在しなかったことが分かる。

本土では明治時代に馬車や人力車や鉄道といった“車両交通”が登場し、陸上交通は革新されたが、この小さな島に普及することはなく、物資の移送には人背や牛背に頼るという近世以前からの状態が長く長く続いていたのであった。

しかし、それは無理のない話であったろう。

明治27年に初めて公設の定期航路が開設された(東京から小笠原諸島に向う大型定期便線の寄港という形で)当初の便数は、わずかに年2便で、ほかに民間船や島が用意した便船での不定期の往来はあっ

[12] 道路レポート 青ヶ島大千代港攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/oochiyo/main11.html

主な参考資料

伊豆諸島東京移管百年史 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和56年刊)

黒潮に生きる東京・伊豆諸島 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和59年刊)

青ヶ島の生活と文化 (青ヶ島村教育委員会/昭和59年刊)

青ヶ島島史 (青ヶ島村/昭和55年刊)

I 大正時代 =大千代浦への最初の築港計画と顛末=

絶海の孤島を地で行く青ヶ島に、人が住み始めた正確な時期は定かではない。しかし、文献にその暮らしぶりが現われる近世には、島の北部にあって集落に最も近い海岸である 神子ノ浦 が、もっぱら港として使われていたようだ。明治45年の地形図にも、港の記号はこの一箇所にのみ書かれている。もっとも、この当時に運行されていた本土間の定期便はわずか年3回という有様で、当時の内地人のほとんどが、伊豆大島や八丈島の存在は知っていても、青ヶ島のことは知らなかったし、生涯訪れることなどない場所だっただろう。

港とは名ばかりの、地形としてはただの荒磯に過ぎなかった神子ノ浦に替って、小さくとも接岸設備を有する(それも昭和40年代までは艀専用の小さなものだったが) 三宝港 が、島の南西端に東京府の事業として最初の完成を見たのは、昭和9(1934)年であった。敢えて集落から遠く離れた不便な場所が選ばれたのは、そこに三宝鼻(大三宝、小三宝)という大岩が海岸線に突き出していて、島では貴重な小湾という天与の地形があったことからだった。

昭和10年の地形図では、港の記号は神子ノ浦から三宝港に移動しているのが見て取れる。以来、三宝港は島の港として唯一無二の存在として重要視され、今日に至るまで想像を絶するレベルの増強を受け続けている。その成果として、苦難の艀作業から脱却し、今や500トンクラスの中型客船が直接接岸できる、訪問者の多くが「城塞」をイメージするような島内最大の人工物となった。

我らが 大千代港 は、この三宝港に次ぐ第2の港(神子ノ浦も入れれば3代目)として計画・実行されたものであるが、大千代浦に港を作ろうという計画の萌芽は相当に古い。少なくとも文献上に築港計画が現われる順序としては三宝港とほぼ同時期であり、しかも実際に工事が行われたことが伝わっている。

島の東側の大千代浦築港の当時の書類は現在不明であるが、大正5年9月ごろに築造をはじめた ことは次の記録によって証し得る。青ヶ島西沢営業所から村役場

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