蘇鉄山

蘇鉄山

[1] 蘇鉄山

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[2] 大阪珍登山紀行-蘇鉄山と天保山 - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ, , http://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/sotetsuyama-mount-tenpo

大阪は平野が南北に伸びる、比較的平らな土地ですが、一方で 兵庫県 以外の県境がすべて山でもあります。 大阪で有名な山の一つに、 金剛山 があります。大阪の小学校では耐寒登山で真冬の 金剛山 に登るのが儀式になっているのですが、最近はミリオタや二次元好きの間で、戦艦『金剛』の命名山になったところとして有名になったそうな。 標高1000mちょっととは言え、 金剛山 も立派な山ですが (地元の人はサンダルで登るらしいけど) 、大阪にある山はこれだけではありません。他 都道 府県にあれば、たぶんネタにもならない、大阪にあるから輝ける名山ならぬ 「珍山」 もあったりします。 大阪人なら、タイトルで「ああ・・・」とすべてを察するでしょう。

1.蘇鉄山

大阪の 堺市 に、 「大浜公園」 という比較的大きい公園があります。 元々ここは江戸時代のお台場から始まり、明治以降は水族館や海水浴場、 スーパー銭湯 のご先祖様と言える「潮湯」という温泉娯楽施設がありました。 娯楽が少なかった戦前においては、浦安の ネズミーランド に匹敵した自称「東洋一」の総合レジャーランド、かつリゾート地。夏になると関西中から観光客が殺到していました。 しかし残念ながら、 松尾芭蕉 の「つわものどもが夢のあと」が身にしみるほど、現在はその片鱗すら見当たりません。 大浜公園については、別記事で詳しく書こうと思います。なので、今回は軽くスルー。

こんなところにも、実は山があります。

蘇鉄(ソテツ)が植えられていることから、長年 「蘇鉄山」 と呼ばれている山です。

ここが山の入口です。

険しい山道を登り、

よっしゃ、頂上まで登ったで~!

さて、麓から頂上までに要した時間はというと!

「分」ではありません、 「秒」 です。 それもそのはず、蘇鉄山の標高は 6.97m 。センチに直すと 697cm 。

え!?それは山なんか!?うちのマンションの方が『高い』やんか!PVが集まらんからってついにタイトル詐欺か!? まあまあ、落ち着いて話を聞きましょう。

頂上(とおぼしき所)には、このような印があります。これを 三角点 といいます。 三角点とは、測量の時の基準となるポイントのことで、一等~四等に分かれています。 蘇鉄山の三角点は 「一等三角点」 ですが、これは測量の際にもっとも重要な土台となるもので、意図的に破壊すると2年以

[3] 天保山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E5%B1%B1

大坂の町と大阪湾を結ぶ安治川では、1831年(天保2年)から2年間、洪水防止と大坂への大型船の入港をしやすくする目的で「天保の大川浚」とよばれる浚渫工事が行われた[5]。大坂町人の熱の入れようは相当なもので、工事自体がお祭り騒ぎだったと伝えられている。浚えられた土砂を安治川河口に積み上げられてできた築山は十間(約20m)ほどの高さがあり、大坂の町へ遡るため安治川に入ろうとする船にとって目印とする意図があった。そのため当初は「目印山」と名づけられたが、のちに築かれた時の元号から天保山と称されるようになった[5]。

海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となった。当時の舟遊びをする人々の姿は歌川広重などによって浮世絵に描かれている[5]。

[編集] 幕末 - 明治初期

1854年(安政元年)にロシアの軍艦ディアナ号が大坂沖に姿を見せ、艦長エフィム・プチャーチンは威圧的な態度で親善通商条約の締結交渉を要求したため、当時の大坂城代土屋寅直は近隣の各藩に命じて警護を固めさせると同時に河口を守る砲台を天保山に建設させた。そのため山土の削り取りが行われ[5]、西洋式の城塞となった。しかし一度も実戦には使用されず、明治以降に廃棄され、跡地に洋風レンガ造りの灯台が設置された。砲台建設のために土砂が採取され、明治時代には7.2mとなった。

[編集] 1888年(明治21年)以降

天保山一帯が近代的な公園として最初に整備されたのは1888年(明治21年)に遡る。リゾートクラブと海水温浴場「海浜院」をメインとした天保山遊園が開設されるも長続きせず、1897年(明治30年)に港湾設備の整備が開始され、付近一帯はのちに「築港」と呼ばれるようになる。現在の天保山公園は1958年(昭和33年)に開設された[5]。

高度経済成長後、地下水のくみ上げで天保山周辺の地盤沈下が起こり、1971年(昭和46年)に7.1mだったのが、1977年(昭和52年)には4.7mまで標高が低下した。1993年(平成5年)年以降では4.53mとなっている。1993年(平成5年)の地形図から山名が抹消されたが、地元からの要望によって1996年(平成8年)7月1日に再掲載された[5]。

[編集] 山岳会および山岳救助隊

地元有志による山岳会が存在する[3]。山岳

履歴

[4] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567383574981

メモ