チベット

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[1] チベット

Webページ

[2] エベレスト - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%99%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88

1852年、インド測量局の技師でベンガル出身のインド人測量技師、ラダナス・シクダール (Radhanath Sikdar) が240 kmはなれたインドから三角測量した結果、P-15 (Peak XV) という仮称で呼ばれていた山が世界最高峰であることを発見した。当時ネパールは「禁断の王国」であり、外国人は入ることはできなかったため、より近距離での測量は不可能だった。測量の結果によればP-15 (Peak XV) の標高は約8,840 m (29,002 ft) だった。

現在最新の標高は8,848 mとされているが、他にもいくつかの異なる標高が測量結果として報告されている。2番目に高い山はK2で、標高8,611 mである。2005年5月22日、中国のエベレスト測量隊はエベレストに登頂、数ヶ月に渡る測量の結果、同年10月9日にエベレストの標高は8,844.43 m±0.21 mと公式に発表した。彼らはこの数値がこれまでで最も正確な標高であるとしている。しかしこの標高は最も高い岩石の部分に基づくもので頂上部分の氷や雪は含んでおらず、モンブランやテンリタグといった他の高峰の標高の基準と異なっている。測量隊は雪と氷の厚みも測量しており、この結果は3.5 mだったことから、8,848 mという従来の測量結果に誤りはなかったことになる。しかし実際のところ雪と氷の厚みは変化するため、正確なGPSによる測量がなければ、厳密な標高を求めることは不可能とされている。

現在最もよく知られている8,848mという標高は、1955年のインドによる従来より近距離からの測量によって、初めて求められたものである。1975年の中国による測量でも同様の結果が得られた。どちらも頂上部分の氷雪の厚みを含んだものである。1999年5月、ブラッドフォード・ウォッシュバーン率いるアメリカエベレスト遠征隊は山頂にGPSユニットを設置、8,850mという測量結果を発表した。これによれば岩石部分の標高は8,850m、氷雪を含めると更に1 m高いとされている。ネパール政府は正式にこの測量結果を認めていないが、この数値は広く用いられている。1999年と2005年の調査双方にジオイドの不確かさという問題が指摘されている。

エベレストの標高は周辺のプレートテクトニクスにより年々高くなっており、山頂も北東へと移動していると考

[3] アルナーチャル・プラデーシュ州 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%B7%9E

地理[編集]

ほぼ北海道の面積に等しい。南はアッサム州、東はミャンマー、北は中国、西はブータンと接する。現在中華人民共和国政府はこの州の大半の領有を主張して蔵南地区と呼んでおり、名目上、西蔵自治区ロカ地区のツォナ・ゾン(錯那県)、ルンツェ・ゾン(隆子県)、ニャンティ地区のメトク・ゾン(墨脱県)、ザユル・ゾン(察隅県)などの各ゾンに分割して帰属させている。

地方行政区分[編集]

アンジャウ県(英語版) (Anjaw District)

チャンラン県(英語版) (Changlang District)

東カメン県(英語版) (East Kameng)

東シアン県(英語版) (East Siang)

クルン・クマイ県(英語版) (Kurung Kumey)

ローヒト県(英語版) (Lohit District)

低ディバン谷県(英語版) (Lower Dibang Valley)

低スバンシリ県(英語版) (Lower Subansiri)

パプム・パレ県(英語版) (Papum Pare) - 州都イーターナガルの所在地

タワン県(英語版) (Tawang District)

ティラプ県(英語版) (Tirap District)

上ディバン谷県(英語版) (Upper Dibang Valley)

上スバンシリ県(英語版) (Upper Subansiri)

上シアン県(英語版) (Upper Siang)

西カメン県(英語版) (West Kameng)

西シアン県(英語版) (West Siang)

歴史[編集]

辛亥革命によって清朝が滅亡し、その遺領の再編が問題になった際、チベットとモンゴルの民族政権は、「文殊皇帝」(=清朝の皇帝)が退陣した結果、その支配下にあった中国、チベット、モンゴルなどの諸国はそれぞれ対等、別個の国家となったという立場をとり、チベット、モンゴルの二国がそれぞれ独立国家として国際承認を受けることを目指し、国際社会への働きかけに着手した。一方、漢人共和主義者たちは、自分たちがつくる共和国を、単に漢人の土地のみを国土とする漢人国家とはせず、清朝に臣属していた諸民族の分布領域を枠組とする中国を設定し、自身の共和政権を、その「中国」の「中央政府」と位置づける立場をとり、チベット、モンゴルの民族政権の服属を目指してそれぞれと戦火を交えた。この紛争を調

[4] 「Tibet Tashidelek Travel & Tours。」 | 世界一周しています!, , http://www.nylonhead.com/project/world/2011/01/tibet_tashidelek_travel_tours.html

AM5:00起床。急いで着替えと荷造りを済ませると、照明のおちた真っ暗な階段を通ってホテルのロビーへと下りる。最初はどこにも人気がないように思えたが、2人が下りるのと同時に、影から現れたボーイの1人が小さな照明を1つだけ点けてくれた。受付で部屋のキーを返し、薄明かりの下のソファーに座ってもう一度荷物を確認する。チベットに向かう朝。いよいよ、この旅で“最後の国”となるかもしれない国「中国」へと突入するのだ…。

迎えは、予告通りにAM6:00前にやってきた。ホテルの前まで車で来てくれるのかと思っていたが、案内人がバイクに乗ってやってきたのを見ると、どうやら2人は荷物を背負って少し歩くことになるらしい。ゆっくり進んでいくバイクの後ろに続いて、見失わないように急ぎ足で真っ暗闇に包まれた路地を行く。通りには街灯がほとんどないから、目の前の闇の中からいきなり人が現れたりして、気を抜いていると不意に驚かされることになる。

タメルチョークの交差点の辺りまでくると、脇に1台のライトバンが停まっていた。どうやら、チベット自治区へと抜ける国境まではこの車で移動していくことになるようだ。かなり新しいキレイな車で、思わず喜びの笑みがこぼれる。さすがに、1人US$500からの料金を支払ったTourだけのことはあるようだ。

このミニバンに乗り込んだTour参加者は2人を入れて計6人。事前に聞いていたよりも少ないなぁ…なんて思っていたが、どうやらもう一台ミニバンがいて、国境から先では2チームが合流して1台のバスで行動を共にするということらしい。少しづつ夜が明けてきた国境までの山道の途中、眺めのイイ斜面に建つレストランで朝食をとった。毎日の朝食はTour代金に含まれているから、ここでの出費はナシ。パンと貧弱なオムレツという簡単なメニューだったが、朝からコーヒーが飲めることだけでも「良し」とすべきだろうか。

少し賑やかな村の途中で、不意に車が停車された。「ここからは、歩いてネパール側の国境審査所へ向かいます。その後、さらに10分程歩くと中国側のイミグレーションが見えてくるけど、決してカメラを向けないように。とくに、警察や軍関係の人々は、絶対に写真を撮らないでください。」…急に、雰囲気が変わって来たようだ。そういえば、ここまでの道すがらにこんなことも注意されてたっけ…。「ダライラマに関する書籍や写真など

[5] 0910チョーオユー, , http://members.jcom.home.ne.jp/tkurimoto/0910chooyu.html

参加者;6名(群馬:Oさん、愛知:Mさん、千葉:Hさん(女)、東京:K、兵庫:Sさん(女)、東京:Nさん、年齢順)

男性4名、女性2名(70才台:2名、60才台:2名、50才台:2名)

企画・運営:�潟Aドベンチャーガイズ主催の公募登山隊

ツアーリーダ兼ガイド;近藤謙司、杉本水生

現地ガイド;プラチリ(サーダ)、ラクパチリ、ダディンディー、チュパ、、カイラ、ランパブ(シェルパ)、マイラ(コック)、ラルー(キッチンボーイ)

7〜8月のペルーアンデス・ワスカランでのプレ登山に引き続き、9〜10月は、今年の最大の目標である8000m峰・チョーオユーへの挑戦でした。結果はプレ登山が効果的であったのか、順化が順調で比較的余裕を持って登れた。しかし、8000mの空気の薄さは一筋縄では行かないところがあり、いろいろと勉強することが多かった。

[6] ブータン旅行記 (2/3) 佐納康治, , http://www.asahi-net.or.jp/~hc7y-snu/sanoo/Travel102/Travel102b.html

平成16年11月21日(日)

朝、ホテルの近くを歩いてみる。昨日の日中は汗ばむほどであったのに、朝はぐっと冷え込んで、

防寒着を着込まないと寒い。おそらく気温は5度以下であろう。山の中なので、寒暖の差が激しい。

地下のレストランで朝食。ブータン風のお粥、トゥクパを注文。

朝9時、ガイド登場。今日は日曜日なので、まず、週に一度の日曜市を見に行くことになった。

野菜、果物、魚、さらは仏具まで売っており、結構な人で賑わっていた。また、市場の周りには

さまざまな商店や食堂、肉屋などもあった。肉屋では、国産肉と輸入肉の両方が売られていたが、

いずれも、輸入肉の方が価格が安かった。インドからはるばる運んで来るから、国産肉より

高いはずなのにと思ってガイドに理由を聞くと、

「輸入肉は国産肉ほど新鮮でないから、安くても当然だと思うけれども、何か不思議ですか」

という答えであった。

市場、あるいは市内の商店などでもそうであるが、売られているものはブータンの国産品か

インドからの輸入品が主で、中国製品は皆無ではないにしても、それほど多くはなかった。

昨日見たように、外国に通ずる道はインドへの道一本だけであり、中国への道は閉ざされて

いるからだろう。その理由はもちろん、チベット問題である。宗教が絡んでいるだけに、

ブータンと中国との溝は非常に深い。インドを追い込みたい中国は、ブータンに経済援助を

申し入れているらしいが、ブータンはこれをかたくなに拒否している。

日曜市を見たあとは、記念塔を見に行った。これは、1974年に建てられた比較的新しいチベット様式

の仏塔で、第3代の国王が亡くなった後に、記念して作られたものらしい。仏を守り、悪と戦うゴンドゥー神

というのが祀られているが、チベット仏教というよりは、ヒンズー教の影響をかなり受けたもののように

見受けられた。やはり、 文化の混合地帯 なのであろう。

その次に、チャンガンカ僧院を見に行った。こちらは12世紀の建立である。四面如来像が安置され、

ブータン人は、子供が生まれたら、厄払いと名前を授かるためにここを訪れるという。今日は日曜日

ということもあって、大勢の参拝客で賑わっていた。特に子供が多かったが、ガイドに理由を尋ねると、

ブータンではもうすぐ試験の季節で、これらの子供たちは皆、祈願に訪れているのだということで

あった。それらの子供

[7] パンゴン湖 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%B3%E6%B9%96

パンゴン湖(中国語:班公錯、チベット語:མཚོ་མོ་ངང་ལྷ་རིང་པོ།、ラダック語/英語:Pangong Tso)は中華人民共和国チベット自治区ルトク県とインドジャンムー・カシミール州ラダック県との中印国境に位置するアジア最大級の汽水湖である。

概要[編集]

全長は150キロ余り、面積は604平方キロ、南北の平均幅は2-5キロだけ、最も狭い所は5メートルだけ[1]。水深は最深部で約300メートル。標高4250メートルの位置にあり、塩湖(インド側)としては世界でもっとも高い場所にある。塩湖にもかかわらず、冬は1mに及ぶ厚い氷が張る。

東側の三分の二は中国に属して、西側の三分の一(約50km)はインドに属する。中国の境界内にあるパンゴン湖は淡水湖で、清らかで甘美で、水色は青緑であると中国側では発表されている。一方、インド境界内にあるのは塩湖で、水は臭くて飲まない[2]。周囲を4000~6000m級のヒマラヤの山々で囲まれた内湖で、以前はインダス川の支流と繋がっていたが、現在は自然の積載によって閉じている。小さな甲殻類がいるのみで、魚は棲息していない。

2012年11月、インドチベット国境警察は、パンゴン湖の中国側上空に正体不明の発光体を100件以上観察したと正式発表した。[3]

名前の意味[編集]

“班公(パンゴン、Pangong)”はラダック語で「一片の小さな芝生」を意味する。パンゴン湖のチベット語名は“錯木昂拉仁波(ツォモ・ガンラ・リンポ、チベット語:མཚོ་མོ་ངང་ལྷ་རིང་པོ།、ワイリー方式:mtsho mo ngang lha ring po、蔵文ピン音:Tsomo Nganglha Ringpo)”で、「長い首の白鳥の湖」を意味する。[4]

映画[編集]

1998年のインド映画『ディル・セ 心から』に登場する。

2006年のインド・イギリス・アメリカ合作映画『落下の王国』に世界の美景のひとつとして採用された。

2009年のインド映画"3 idiots"(邦題『きっと、うまくいく』)のラストシーンに使われた。

脚注[編集]

[8] 岐阜荘川村 六厩川 - たまにへこむ日記, , http://d.hatena.ne.jp/sed/20051010/1128960751

岐阜荘川村 六厩川

自転車 | 01:12

先週富山から「週末どう?」と電話が来たので、はくたかに乗って富山襲来。ちょっと金使いすぎ。

岐阜・御母衣(みぼろ)湖の東にある六厩(むまや)川を上流から御母衣ダム東岸に出る計画。総勢3名。ツーリングマップルは「がんばれば通れそう」みたいなコメントになっているが、ゲートを突破して 3km ほどで完全に廃道化、崩落倒木多数、4時間近くひたすら担ぎあり薮漕ぎありで、何とか六厩川橋到達(写真) ここから御母衣湖への道がさらにひどいことになっており、御母衣湖へ抜けるトンネルに達することができず*1、六厩川橋から 3km 地点で日没。「今日中に到達することは不可能」と判断しビバークすることに。シュラフがないのでひたすら薮を刈って毛布代わりにして就寝。

翌日全く同じ道を六厩に向け6時間かけて何とか退却。片道 15km 程度の道に丸二日を要する凄まじい企画になってしまった。遭難しないで済んだだけでもハッピーでしょう。ちょっとやりすぎた。反省。

結局、六厩川橋 〜 御母衣湖東岸を結ぶというトンネルは実在するのか、御母衣湖東岸は果たしてどこまで走れるのか、わからないまま退却したため、かなり心残りがある。近くに高速道路も走っているというのに、信じがたく荒廃した道。奥飛騨にはまだこの類の道が沢山あるようで、少し不気味な感じもします。

追記。

以下のページによれば、御母衣湖東岸 〜 六厩川橋間のトンネルは入り口が完全に埋まっているらしい。

http://doya.sytes.net/keiryu/m/7-1/7-1.html

国土地理院・1/50000の地図では御母衣ダム湖東側湖畔に沿って、森茂川の流れ込みあたりまで通じる道路が記載されていますが、この道路はすでに昭和45年頃から隋道が埋まっているため車は通れません。今は完全に土砂に埋没してしまい人も通れなくなりました。

1997年に突破した写真というのもあるのだが…。

http://www.geocities.jp/tdr2508401965/4a20a20s4.html

■ コース

10/9

六厩 R158 分岐付近 (0:15) 林道ゲート (0:30) 担ぎ開始部

(4:30) 六厩川橋 (3:00) 秋町隧道付近? 日没

10/10

秋町隧道付近 (2:00) 六厩川橋 (4:00) 担ぎ

[9] インドの参詣者にチベットへの通関地開放 - SankeiBiz(サンケイビズ), , http://www.sankeibiz.jp/macro/news/150625/mcb1506250500017-n1.htm

北京放送によると、中印両国政府の協議を経て、中国は22日から、インドの参詣者に対してチベット自治区とインド・シッキム州の境界にあるナトゥラ(乃堆拉)口岸(通関地)を開放。インドの参詣者がチベットに参詣する際の新ルートの使用が新たにスタートした。 中国が同口岸を開放したことで、インドの参詣者は車でチベット高速道路を経由して麓に到着し、その後、比較的短時間で山頂まで登ることが可能になった。参詣にかかる日数は8日間から10日間前後まで短縮される。(RP=東京)

[10] ヤオ族とアカ族の村〜タイ・ミャンマー国境地帯2〜, , http://www.geocities.jp/keropero/kmtthai/KMT2.html

さていよいよアサパ君を道案内人に「落人村」を目指して一泊二日のトレッキングがスタートです。山岳地帯といっても平坦な道が多くてラクでした。山歩きなど苦手そうな私を見て、アサパ君はそういうコースを選んでくれたんでしょうけどね。

農作業には水牛を使っています。以前チェンマイ近くの村をバイクでまわっていた時、道路を横切っていた水牛の群れに突っ込みそうになり、慌ててハンドルをきって怪我をしたことがあります。だから水牛は苦手です(苦笑)

農作業の手伝いをしている子供にたくさん出会いました。「感心ですね」と書きたいところですが、学校へ行っている子供が少ないとも言えますね。右の女の子はカレン族だっけ、それともラフ族だっけ・・・・。女の子はほとんどが民族衣装を着ているので、ひと目見て何族かわかる仕組みですが、あいにくメモするのを忘れました(苦笑)

ヤオ族の村に着きました。ヤオ族は広東省などにも住んでいて中国語では「瑶族」と書きます。 「中国の皇帝と犬の間に生まれた子供がヤオ族の始祖」 という伝説があり、中国文化の影響を強く受けています。家もタイスタイルの高床式ではなく、リス族同様に中国スタイルの土間です。中国語を話せる人が多く、男性には漢字が書ける人もいます。おかげでいろいろ世間話も弾みました。バンコクのタイ人とは「値段を聞く」ぐらいしか意思疎通ができないのにね。

ヤオ族では「刺繍がうまい」のが良い娘だそうで、縫い物をしている女性が目に付きました。日本でも昔は「機織がうまい」のが良い娘だったと言いますが・・・。

これも一種の竹馬?

ヤオ族の村で昼食を食べて出発します。向こうからやって来た親子連れはアカ族です。

アカ族も雲南省から移住してきた民族ですが色が浅黒いモン・クメール系で、中国ではワ族と呼ばれています。村の入口には 鳥居らしきもの があり、その上には実際に木で作った鳥が飾られたりしています。

アカ族の家は高床式です。かつての日本の農村もこんな風景だったんでしょうね。

村ではやはり刺繍に精を出す女性が目に付きました。家を覗くと挨拶がわりに「まぁ一杯」という感じで水を出してくれました。山では毎日の水汲みも重労働なので、水を出すことは「おもてなし」なのです。

アカ族の村にはそれまでにも何回か訪れたことがありましたが、80年代までは上半身裸の女性がいたりして、他の山岳民族と比べてかなり

[11] トゥヴァ人民共和国 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

この地域は、元代のタンヌ・ウリャンハイ(英語版)(漢字表記:唐努烏梁海)に相当する地域で、元滅亡後はオイラトのジュンガル・ホンタイジ国とKhotogoidのAltan Khanateに支配される複雑な歴史を送ってきた。清代になると、オイラトと東モンゴルを支配するハルハに対して清がタンヌ・ウリャンハイを巡って争った。1755年に乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を滅亡させて、清がタンヌ・ウリャンハイを併合した。

しかし、緩衝国となっていたジュンガルが無くなったことでロシアの進出が始まった。1727年のキャフタ条約を切っ掛けに、清朝が国境警備兵をサヤン山脈からTannu-Ola mountainsに移していた。1839年になるとロシア帝国がこの地域に入植を開始し、サヤン山脈に2つの金鉱山を開いた。それでも1911年まで名目上は清の領土であったが、分離独立運動を経てロシア帝国の保護国になった。その際、タンヌ・ウリャンハイの領土は、東部のフブスグル湖周辺を割譲することとなった。

歴史[編集]

1917年のロシア革命に続いて1920年に共産軍はトゥバに進攻した。この地域の混乱はトゥバの独立宣言を伴った。1921年8月14日、ボリシェヴィキはトゥヴァ人民共和国を設立。タンヌ・トゥバとして1926年まで存在した。首都は現在のクズル。1926年のソ連とモンゴル人民共和国が条約によって独立を認識した。これ以外の国はこの国の存在を認めていない。

トゥヴァ人民共和国の最初の指導者はトゥヴァ人民革命党(英語版)書記長のドンドゥク・クーラル(英語版)であった。クーラルはチベット仏教を国教として、ソ連の移住者とプロパガンダを制限し、モンゴルとの結びつきを深めようとした。これを危惧したソヴィエト・ロシアはこの国に対し圧力をかけ、1929年、ドンドゥク・クーラルは逮捕された。1930年、ソ連はクーラルが指名した5名の東方勤労者共産大学のメンバーをトゥヴァの臨時人民委員に指名した。スターリンに忠実な政府は、トゥヴァ人民革命党の三分の一を粛清して、伝統的遊牧生活の改革と共産化を進めた。

このときスターリン張りに仏教とその他の信仰を排除しにかかった。これはこの時期のラマの統計からわかる。1929年に25の大ラマと4000の近くのラマや神官が確認されているが、1931年には大ラマ1つと15のラマしか残ってお

[12] カルムイク共和国 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%A4%E3%82%AF%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

地理[編集]

カスピ海の北西に位置し、カスピ海側は砂漠で覆われており、内陸側は湿地などで覆われている

河川[編集]

ヴォルガ川

クマ川

マヌィチ川

湖沼[編集]

マヌィチ・グジロ湖(ロシア語版、英語版)

サルパ湖(ロシア語版、英語版)

(Sostinskiye Lakes)

ru:Состинское озеро

ru:Состинские озёра

ツァガンハグ湖(ロシア語版、英語版)

行政地区[編集]

主に1直轄市と13地区からなる

直轄市[編集]

エリスタ市行政区

地区[編集]

サルパ地区

マールィエ・レルベートゥイ地区

十月地区

ケトチェニェールィ地区

ユスタ地区

開拓地区

ヤシクリ地区

ゴロドヴィコフスク地区

ヤシャルタ地区

プリユートノエ地区

イキ・ブルール地区

チョールヌィエ・ゼムリ地区

ラガニ地区

経済[編集]

主な産業には農業、食品加工、ガス産業などがある。

住民[編集]

民族[編集]

半数がオイラト族のカルムイク人、約3分の1がロシア人である。

言語[編集]

カルムイク語及びロシア語を公用語とする。

宗教[編集]

特に中央アジアのオイラト族のトルグート部(旧ケレイト)にルーツを持つカルムイク人によってチベット仏教が信奉されており、ヨーロッパ唯一の仏教国である[1][2]。

交通[編集]

首都エリスタでは3本の主要道路が交差し、鉄道は黒海まで通っている。

標準時[編集]

[13] 日本と国交がない国々(台湾、北朝鮮、パレスチナ、クック諸島、ニウエ、モナコ), , http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/kokkou.html

台湾(中華民国) 存在自体を認めていないので、国交がない国

台湾と国交がある国:23ヵ国 中国と

国交がある国は172ヵ国

国連:かつて加盟(安保理常任理事国)、1972年に追放

台湾の地図 大陸沿岸の「*マーク」のついている島々(金門=ケモイ、馬祖

=マーツーなど)も台湾政府が支配中

日本

と国交がない国の代表格といえば、まず台湾。台湾は明らかに「領土、国民、政府」が揃っているのになぜ国交がないのかといえば、 日本政府は台湾という国が存在することを認めていない から。 台湾は中国の一部だから独立国ではないということになってい る。

じゃあ 台湾政府自身はどういう立場なのかといえば、やはり台湾は中国の一部 だ

から台湾という国は存在しないとい う。でも、その「中国」とは日本政府が言うのは中華人民共和国だが、台湾

政府が言うのは「中華民国」だ。

中華民国とはすなわち台湾政府のことで、主張する領土は台湾はおろか中華人民共和国より

広く、モンゴルも含み(だからモンゴルという国も存在しない)、さらにシベリアの一部(ロシア領のトゥバ共和国)、アフガニスタンやタジキスタンの一部( パミール地方 )も含んでいて、 首都は台北じゃなくて南京 (台北はあくまで臨時首都)。

「あれ、中国の首都は北京じゃないの?」と思うでしょうが、台湾政府によれ ばこの世に北

京(ペキン)という都市は存在せず、 北平(ペピン)という町ならある そ うな。。。。

中華民国全図 台湾政府が

公式に主張している領土。広いですね。

中華民国行政区画及領土糾紛全図 台湾政府が領有権を争っている地域。南京

は「法定首都」、北京は「北平」になっています。

国土と国民 台湾政府の公式サイトでの説明。2006年末に削除されたもの

の復元サイト(日本語)

ゲリラが国土の大半を支配?

一体どういうことかを理解するには、 政府軍と反政府ゲリラの関係 を考えれ

ばわかりやすい。内戦が勃発して領土の一部を反政府ゲリラが支配している国は世界中あちこちにあるし、反政府ゲリラが新たな革命政府を作って、1つの国に

2つの政府が存在しているケースもある。場合によっては反政府ゲリラが国土のほとんどを占領してしまい、首都もゲリラの手に陥ちて、政府軍は国土の片隅に

臨時首都を作って抵抗を続ける・・・ということだってあ

[14] カトマンズ トリブバン国際空港から市内まで, , http://b-tabi.com/asia/nepal/04tribhuvaninternationalairport.html

カトマンズトリブバン国際空港に到着のエアアジアX国際線D7192 搭乗率90%

エアアジアジャパンはなくなるがエアアジアは各国の多くの人々に支持されいる

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● エアアジアカトマンズ行き

5:07 2013/10/27 カトマンズ時間

タメルのゲストハウス1泊500Rp(500円)で目覚める。昨日宿到着後お昼寝したので早起きになる。この宿はトイレシャワー付。部屋にはエアコンもファンもないが、最高気温24度で、朝は12度まで下がり毛布がないと寒くて眠れない。その気温で朝の水シャワーは無理。幸いこの宿は温水が出る。また部屋の中で無料ワイファイにつながる。

昨日午前中かけてクアラルンプールからカトマンズへエアアジアD7192フライトで移動する。機材はA330-300の国際線仕様。フライト時間は4時間25分。往復786リンギ、カード会社の請求金額で25,102円(1R=31.937円)のプロモフライト。7月15日予約の10月26日〜11月某日に往復。1日に1便しか出ていない国際線なのであまり強烈なプロモが出回りにくい。

トリブバン国際空港 2013年10月26日撮影

ジャルパックで行くネパール世界遺産5日間

[15] 道路レポート 国道291号 清水峠(新潟側) <リベンジ編>, , http://yamaiga.com/road/shimizu2/main9.html

道がない。

現実の重さに、呼吸が苦しくなった。

藪が深くたっていい。 我慢しよう。

橋なんて無くたっていい。 下って渡ろう。

遺構なんて、なくたっていい。

…この道を辿りきることさえ出来れば、それでいい。

踏破さえ叶えば、それでいい。

それが本音じゃないか。

大きな石垣を見付けたから満足なんて、嘘っぱちだよ…。

この時の私の表情は、どんなだっただろう。

きっと、顔面蒼白。

言葉も出なかった。

対岸から見た時点で、この結末をどこかで予見していたと思う。

だから、あんなに正視するのを躊躇ったんだと思う。

たかが進めなくなっただけで、何を大袈裟な。

尾根を超えて迂回できる可能性があるんでしょ?

もしそれも出来なくなって、また機会を改めて来ればいいじゃない?

それは正論だが、分かってはいるが…。

しかし、

清水国道への敗北を、

これ以上繰り返すことなど、

私は我慢ならないんだ。

また1年待つなんて、嫌なんだよ…。

●(現在地)から、本来ならば●地点へ進む予定だったが、地形図に描かれているこの道は存在しない。落差70mのスプーンカット状絶壁になっている。

ここで時間的にも唯一可能性のある迂回ルートは、●地点(一本松尾根)へ登ってから、その向こう側の一本松沢へ下って道の続きに復帰するというルート。

こうして茫然自失としていても本当にタイムアウトしてしまうので、早速、尾根への迂回を敢行することに。

しかし…

2008/10/12 10:20

せっかく設置した橋頭堡を放棄する苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあった。

また、「命がけのうんてい遊び」をしなければならないのだ。

しかも、来たときのルートが訳の分からない迷走だったので、改めようと(少しでも楽をしようと)少し進路を変更したら、さらに深みにはまった。

大きな葉っぱがジャングル風な、“スーパーしなやか”灌木帯にまり込み、たちまちリュックやカメラポシェットを絡め取られて身動き不能の有様に。

笑っちゃうようだけれど、いっときは頭が足の下に来て、ほとんど宙づり状態になっていた。

こんな情けない醜態を、くじ氏は目撃することなくさっさと抜け出していってしまっただけに、助けを呼ぶことも出来ず…。

ほんと、ここまでさせられて最終的に踏破できなかったら、マジで今夜は“荒れる”からな!

覚悟

[16] トゥバ人 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%90%E4%BA%BA

トゥバ人(トゥバ語: Тыва (Tïva);Тывалар (Tïvalar);Тыва кижи, (Tïva kiži))は、エニセイ川源流域に居住するテュルク語系言語であるトゥバ語を母語とする民族である。古くは北史・鐵勒伝、隋書あるいは舊・新唐書にみられる「都播」や「都波」は、このトゥバ人、もしくはトゥバを自称するトファラル人(英語版)やコイバル人(英語版)のことであると考えられている。

民族[編集]

トゥヴァ共和国を構成する基幹民族であり、約25万人の人口を持つ。一部モンゴル国北・西部や新疆ウイグル自治区、カザフスタン東部にも居住している。清代の「繁体字: 唐努烏梁海」(タンヌ・ウリヤンハイ(英語版))と、重なる部分が多い。ロシアでは、サヤン山脈の語源となったソヨン人(ソヨト人)とも呼ばれていた。

歴史[編集]

エニセイ川源流域は古くより匈奴、鮮卑、柔然、突厥、回鶻、黠戛斯、モンゴル帝国など多数の国家が興亡した地であり、テュルク語系諸族のほかモンゴル語系諸族、サモエード語系諸族、ケット語系諸族などが雑居していた。伝統的にシャーマニズム信仰が浸透していたが、18世紀ごろよりモンゴルを経由してチベット仏教(ラマ教)が伝来し、これに伴いモンゴル文化の色が強くなった。19世紀末には露清間の係争地となり、1914年にロシア帝国の保護領となった。

文化[編集]

サヤン山脈、タンヌ・オーラ山脈の間に位置するトゥバ盆地などでは馬や牛、ヒツジなどの放牧のほか、大麦やキビなどの栽培が盛んに行われており、トジュ地方(ロシア語ではトジャ地方)ではトナカイの飼育と狩猟を中心とした生活が営まれている。トジュ地方のトナカイ飼育はその世界的発祥地として知られている。

参考文献[編集]

南シベリア・トゥバの喉歌_フーメイとその民族音楽

トナカイ遊牧民トゥバ族のスキーと狩猟

世界民族博覧会

関連項目[編集]

ウリャンカイ

[17] 道路レポート 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main10.html

14:20

まだ2時過ぎなのに、早くも暖かさを失っていく冬の太陽。

たった一本のチェーンで塞がれた作業路へ入ると、そこは車が通れるだけの幅がある。

路肩にはコンクリートで固められた石垣があり、ただの作業道にしては大げさな気がする。

やはり、古道なのだと思った。

鉱山にも関係しているかもしれない。

地形図に神社や対岸への橋が描かれている氷川鉱山までは、地図読みで1.8kmほどである。

この距離なら、道がちゃんとしているならすぐに着けるだろう。

北岸谷底の都道に対し、南岸山上の古道の距離的な優位を感じる。

すっ、すげー…

私は、作業道へ入って100mも行かないうちに、もうこの道がただの作業道ではあり得ないと確信した。

道はちょうど日原川の河谷の傾斜が急から緩へ切り替わるラインをなぞっており、道よりも上には点々と造林地があった。

故に造林作業道として使われてきたのだろう。

しかし、路肩をのぞき込めば、そこは足の長い石垣である。そして谷底。

まるで林鉄のようだ。

作業道に入ってからも登りは続いているが、その勾配は緩くなった。

木々の切れ間から対岸の都道が見えた。

今日だけで既に一往復した都道には何となく愛着を感じたが、それがとても小さく見えた。

とても高いところまで自分が登ってきているのだと知る。

地図は言う。この道は谷底からぴったり150mの高さの山腹を通っていると。

道幅は狭く、この写真の場所はこれでも広い方だ。

待避所のような場所はここまで一カ所もない!

入り口のチェーンさえ無ければ乗用車でも入って来られるが、殆ど誰も来ていないらしく路面には落ち葉が溜まっている。

落ち葉には瓦礫が多く混じっており、私はそれを知らず踏んでパンクしないように細心の注意を払った。

こういう道はパンクしやすい。

こんな道だが、地下には水道管が埋設されているようだ。

コンクリートで固められた路面には「制水弁」や「空気弁」と書かれた蓋が顔を出していた。

相変わらず斜面の傾斜は厳しく、道は両側が岩場である。

そのまま痩せた杉林に入った。伐採するのももちろんだが、手入れも大変だろうに。

しかし、この林の存在が、日原みちを生きながらえさせて来たのかもしれない。

こうしてチャリに跨ったまま進めたことは、時間的に大変大きな意義があった。

うわっ。 ここは狭

[18] アフガニスタン - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・南アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。国民の平均寿命が48歳であり、世界で二番目に短い国である(2011年現在、最下位はマラウイの47歳)。

パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家である。

国名[編集]

自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語・ダリー語で「アフガーン人(パシュトゥーン人)の国(土地)」を意味する。 正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。

公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン。漢字表記は亜富汗斯坦。

国名の変遷[編集]

1834年 - 1926年 アフガニスタン首長国

1926年 - 1973年 アフガニスタン王国

1973年 - 1978年 アフガニスタン共和国

1978年 - 1987年 アフガニスタン民主共和国

1987年 - 1992年 アフガニスタン共和国

1992年 - 1996年 アフガニスタン・イスラム国

ターリバーン政権期[編集]

1996年 - 2001年 アフガニスタン・イスラム国(北部同盟政権。国際連合代表権保持政府)

1996年 - 2001年 アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン政権)

ボン合意以降[編集]

2001年 - 2002年 アフガニスタン(公式国名無し)

2002年 - 2004年 アフガニスタン・イスラム移行国

2004年 -

[19] 晴明神社, , http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/kyoto/1284045670/

晴明神社

1 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/10(金) 00:21:10 .net 京都市にある晴明神社

2 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/10(金) 01:07:57 .net 観光厨マミレ

3 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/10(金) 11:52:14 .net 祭り

4 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/10(金) 13:16:20 .net 小説や漫画で知って ミーハーでお参りきてる人は多いんだろなあ

5 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/11(土) 00:56:52 .net (「・ω・)「 ガォー

6 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/11(土) 09:48:59 .net ここの神主の山口琢也に名前をつけてもらったらいいことあるのか?

7 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/11(土) 11:36:09 .net 神のご加護があります

8 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/11(土) 11:57:00 .net ここ単立なの?

9 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/11(土) 23:55:22 .net (=゚ω゚)ノ ぃょぅ

10 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/12(日) 22:49:44 .net 昨日いきました

11 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/13(月) 00:14:16 .net 例祭9日前

12 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/13(月) 23:55:43 .net ヘイヘイヘーイ(=゚ω゚)ノ

13 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/15(水) 01:13:38 .net 式神

14 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/16(木) 01:14:35 .net (・∀・)ノ

15 : 名無しさん@京都板じゃないよ :2010/09/16(木) 02:45:44 .net となりの土産物屋

16 : 必見 :2010/09/16(木) 07:44:35 .net ここでアクセス数工作をしているブロガーが悪質な荒らしをしています。blog.goo

[20] ナトゥラ峠 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A9%E5%B3%A0

ナトゥラ峠 (ナトゥラとうげ)は インド の シッキム と 中国 の チベット を結ぶ 峠 である。この峠は シルクロード の南ルートの一部であった。

中印国境紛争 により1962年から閉じられていたが、2006年7月から通行できるようになった。

関連項目 [ 編集 ]

[21] 京都朝鮮学校公園占用抗議事件 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%85%AC%E5%9C%92%E5%8D%A0%E7%94%A8%E6%8A%97%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

事件後に整備された「勧進橋児童公園」(2012年9月に撮影)

事件当時は勧進橋児童公園内に不許可で朝礼台、サッカーゴール、朝鮮学校から繋がれた放送用スピーカーも設置されていた。公園の向こう側の建物が朝鮮学校の校舎

1946年 ( 昭和 21年)に設立された 初級学校 は、 1960年 (昭和35年)に 校舎 を勧進橋町に移転させた [8] 。その際に自前の 運動場 を確保できなかったことから、校舎に隣接する 都市公園 「 勧進橋児童公園 」に不許可で朝礼台等を設置し、学校の運動場として使用するようになった。

その後は公園内を金網で区切り、一方を児童公園として、一方を初級学校の運動場として使うという一種の「棲み分け」状態が続いた。運動場を使用しない時間帯は公園として一般に開放する運動場で バザー 等の行事を開く際には近隣住民に挨拶して無料券を配るなど [9] 、初級学校側が近隣住民から理解を得ることに努めたこともあって、公園使用に関するトラブルは長い間起こっていなかったという。また同公園の管理者である京都市南部みどり管理事務所(以下「管理事務所」と表記)によると、 2009年 ( 平成 21年)頃までは 市民 からの苦情や要請が寄せられることもなかったとされるが [1] 、地域の住民には不満があり、在特会による抗議活動前には、市側に苦情がよせられていたという [10] 。 公園の使用に対する付近住人の感情は好意的なものではなく、「当初『公園の使用は平日の午前中だけ』という約束だったのに、いつの間にか朝礼台やサッカーゴールを持ち込んで朝から夕方まで使うようになったんですよ。土日もサッカーのクラブ活動で占領しているし、小さな子やお年寄りは公園に近づけなかったですね」「公園に行ったら若い教師に『ここはうちのグラウンドだ』と追い出されたこともあったよ。登下校時は生徒の送迎で道が大渋滞したし、夏祭りのときは焼肉の臭いと煙がすごかった。祭りで使えるビール券などを近所に配るんだけど、とても輪に入れる雰囲気ではなかったね」といった地元当事者の声も出ている [2] 。

なお初級学校側は 1963年 (昭和38年)に京都市・ 町内会 と交渉して承諾を得た上で公園を使用していたと主張しているが、市側は当時の資料が残っていないため確認できないとしており [1] 、また朝礼台等の設置にあたっ

[22] 那覇の御成橋が消滅危機に? | オピニオンの「ビューポイント」, , https://vpoint.jp/column/57095.html

沖縄発のコラム:美ら風(ちゅらかじ)

那覇市の沖縄県庁近くに御成橋がある。昭和天皇が皇太子時代、沖縄を訪問された時に渡られたことにちなんで命名された。欄干には、那覇市の首里城正殿や那覇大綱挽(ひ)きの旗頭のデザインが施されている。

那覇市に御成橋を改修させる動きがある。その際、欄干に数㍍の龍柱を立て、改修後は改名される可能性があるという。沖縄県神社庁参事の大山晋吾氏(波上宮禰宜)が23日、沖縄県護国神社で開かれた「天皇誕生日を祝う県民の集い」で明らかにした。

御成橋の上にはモノレールの県庁前駅がある。隣接駅の旭橋、美栄橋からしても、「御成橋駅」とするのが妥当なはずだ。また、最寄りのバス停の名前はもともと、御成橋だったが、後に改名された。

那覇市にはここ数年、急激に龍を施したオブジェが増えた。国際通りの爬竜船、那覇市ぶんかテンブス館の大スクリーン両脇にある龍の柱などがそうだ。

極め付けは、若狭海浜公園に建設される巨大な龍柱だ。全長15㍍、総重量450㌧で2本ある。

若狭は本来、日本人町であり波上宮のお膝元だ。しかも、市が指定する災害時一時避難所に倒壊の危険すらある柱を立てること自体が非常識だ。大山氏によると、江戸時代には首里城の約3㍍の龍柱でさえ倒壊したという。

天皇誕生日もかつては、「天長節」と呼ばれ、新年、紀元節、明治節とともに「四大節」の一つに数えられていたが、昭和23年に「国民の祝日に関する法律」により改正された。国民・県民の記憶や意識の中から伝統的なもの、皇室に関するものが少しずつ消されていることに危機感を抱かざるを得ない。(T)

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[23] 金門県 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%80%E7%9C%8C

金門県 (きんもんけん)は、 中華民国 の県。欧米では「Quemoy」と呼ばれることも多い。

中華民国 の「 福建省 政府」が置かれているが、1996年から省としての機能を「凍結」している。一方 中華人民共和国 の行政区分上は、 泉州市 の管轄とされている。

九龍江口や廈門湾口を望む 大金門島 、 小金門島 および大胆島や二胆島など12個の島から構成される。総面積は150.3397平方キロメートルである(代理管轄の 烏坵郷 を含まず)。 中華人民共和国 側の 厦門市 とは海を隔てて接する。中華人民共和国支配地域とは最小2.1kmしか離れておらず、 国共内戦 期間中は最前線となった。

右の地図で見える台湾海峡にある群島は 澎湖諸島 である。金門は 亜熱帯海洋性気候 に属し、4月から9月にかけてが最も降水量が多い。年間平均降水量は1,049.4ミリ。年間平均気温は20.9℃である。地質は 花崗岩 が主体であり、 農業 には適していない。

歴史 [ 編集 ]

かつては 鄭成功 による反清復明の抵抗の拠点にもなった。

中国国民党 が 台湾 へ移って以降は 馬祖島 ( 連江県 )とともに 中華民国軍 の軍事的拠点となり、 1956年 より 軍政 が敷かれ、一般観光客の出入りは厳しく制限されていた。

1958年 には、極東を歴訪する 米国 の ダレス 国務長官の台湾訪問を前に、対岸の 中国人民解放軍 ( 中国共産党 )との間で激しい砲撃戦による 金門砲戦 が発生した。多数の死傷者を出したものの 中華民国陸軍 は中国人民解放軍を打ち破り、金門島の防衛に成功している。

1960年 6月17日金曜日深夜にも、同日の アイゼンハワー 大統領の訪台を前に中国人民解放軍が激しい砲撃を浴びせた [1] 。この時日本では安保条約締結阻止の暴動が起きており、大統領の身に危険が及ぶ可能性を日本政府が伝える形で訪日も急遽中止となった。訪日阻止が中国共産党によるものとみていた米国では、金門砲撃、さらにネパール国境で多くのチベット人が殺傷されていたこと [2] などで、中華人民共和国への警戒がいっそう強まった。

1992年 11月7日 の戒厳令解除後、特に 三通政策 の実施後は、多くの観光客が訪れる島となっている。

1995年 には同国6番目の国立公園・ 金門国家公園 に指定された。

交通 [ 編集 ]

[24] いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」 : カラパイア, , http://karapaia.livedoor.biz/archives/52189969.html

シベリア奥地の湖に浮かぶポル=バジンは、一見したところ城塞にも監獄にも見える。だが、1300年前に作られたと思われるこの長方形の島について、はっきりしたことは何一つ分かっていない。誰が建て、なぜ放棄されたのか、その使用目的すら謎に包まれている。

歴史家と科学者からは様々な見解が示されており、人を収監するのではなく、むしろ人を呼び込むための施設との説、あるいは離宮、修道院、天文観測所なのではないかと推測する専門家もいる。

トゥバ語で”土の家”を意味する『ポル=バジン』は、モスクワから3800km離れたモンゴルとの国境付近に延びるサヤン山脈とアルタイ山脈の狭間に位置する。最初に発見されたのは1891年のことであるが、1世紀以上経った今現在も作られた目的はおろか、捨てられた理由も分かっていない。

シベリア南部の山間にある、人里離れた湖の中央に浮かぶ謎の島ポル=バジン。

○レーザーマッピングによる3D再現画像。

1950〜60年代に調査が進められたほか、2007年にも大規模な調査が行われ、人間の背丈ほどの粘土製の平板、漆喰の壁に描かれた絵画、巨大な門、木の燃え跡が発見された。

専門家によれば、テュルク系遊牧民族による遊牧国家、回鶻(西暦744〜840)と同時期に建設されたものだが、居住地や交易ルートから遠く離れた辺鄙なこの場所に城塞らしきものをあえて築いた目的ははっきりしていない。

ポル=バジンは、モスクワから3800km離れたモンゴルとの国境付近に延びるサヤン山脈とアルタイ山脈の狭間に位置する。

敷地は密集し、利用されている建材と共に、中国の伝統的な建築様式を垣間見ることができる。1300年前のものとされているが、壁の多くは非常に保存状態がいい。また、2区画に分割されている中庭の主要構造物は瓦屋根の通路を持ち、石の基礎の上に立てられた36本の木製柱が支えるものだ。

また、厳しいシベリアの気候、しかも海抜2.3kmの地点という条件を耐えたにもかかわらず、暖房設備の痕跡が見られない点も謎である。

発掘された品は8世紀中頃のものと思われる。

屋根からは中国の建築様式の影響がうかがえる。

2007年にプーチン大統領がアルベール2世モナコ大公と共に訪れた際には、「これまで色々な場所を訪れ、多くの物を目にしてきたが、こんな場所は初めてだ」と、困惑しながら感想を

[25] 飛び地もどき?の地区, , http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/hitano.html

【過去形】 「台

湾領」タイ北

タイ

北といっても「台北」じゃなくて「泰北」、つまりタイ北部の山岳地帯のこと。チェンマイやチェンライあたりの旅行会社で配っている少数民族マップを見る

と、リス族やアカ族の村に混じって「KMTの村」というのが点在している。KMTとは国民党で、すなわち 中

国国民党 。これらの村は 国民党兵士の落人村 なのだ。

1949年、中国の内戦がクライマックスを迎え、破竹の勢いで進撃する人民解放軍に追われた国民党政権は台湾へ逃げるが、雲南省一帯に

取り残された部隊は国境線を越えてビルマ(ミャンマー)へ逃亡し、ここに拠点を築いて大陸奪還のためのゲリラ戦を続けた。しかし国民党軍が地元少数民族の

反政府ゲリラと連携していることに怒ったビルマ政府は、「台湾政府による領土侵犯だ」と国連に提訴。1953年から54年にかけて国民党軍とその関係者

6500人が、さらに61年には4500人が輸送機で台湾へ引き揚げた。

ところが、台湾へ引き揚げたのはあくまで一部で、段希文将軍が率いる国民党部隊はタイ政府の統治が及ばない山奥の ドイ・メサロン を根拠地に、周辺の少数民族を支配してケシを栽培させ、資金を稼ぎながら軍事活動を続け

ていたのだ。台湾政府は彼らに武器援助を続けたほか、学校や家を建てたり農業指導も行った。

70年代に入ると、国民党部隊はタイ政府の求めに応じて対タイ共産ゲリラ作戦を行うようになり、タイ政府も彼らの存在を認めるように

なった。そして80年代半ば、段希文将軍は死去して国民党部隊は解散。ドイ・メサロンには道路が開通し、タイ政府の実効支配下に置かれるようになった。

李登輝の時代になって、公然と「台湾独立」とか「国民党はしょせん外来政権」とか言われるようになったら、タイ北の国民党落人たちは台

湾政府への忠誠心はほとんど消えてしまったようです。現在では中国への道路も通じ、「共産中国」との往来が盛んになってます。

●現地ルポは こち

を見てくださいね。

旅遊玩家 泰北看三多(1)/槍多、花多、孤兒多 台湾の報道記者による泰北レポート(中国語)

泰北

義民文史館落成了 泰北に国民党軍の記念館が完成したとか(中国語)

三輪隆文集 タイ北部の山岳地帯の少数民族の村々の話

【過去形】 「台

湾領」首吊り嶺

「首吊り嶺って、なんだそりゃ?」と思うで

[26] Баян–өлгий 1 : 世界はこんなにおもしろい, , http://sunnynao.exblog.jp/23842887/

11月に入りました。

モンゴル・チョイバルサンは日が暮れ暗くなるのがどんどん早くなりました。

暗くなると早く夕飯食べなきゃ…と思って準備して食べ終わっても、

まだ19時だったΣ(* & *)>なんてことが再び起こるようになってきました。(去年も冬そうでした…)

とまぁそういったわけで、、、

夜22時頃にお腹が空いてしまうというとても危険な季節に入っております。

そしてもう最高気温もマイナスが見られるようになってしまいました。

また数日後から少し温かいようですが…まぁ寒いですよね。

くしゃみ、鼻水、どうにかしたいです(_ _;))))

さてずいぶん夏休みから時間が経ってしまいましたが、

夏の旅行の記録を更新していこうと思います。

え〜と次はバヤンウルギーですかね。

6月下旬〜7月上旬にかけてモンゴルの西の端へ行ってまいりました。

せっかくこの旅行では日記を書いていたのに(いつもの超小さな字のやつです)、

8月チョイバルサン戻ってきて紛失…(- д -;)

日本の一時帰国から戻った時にはあったのに!!

家のどこかに埋もれているのかもしれません(_ _;)))すごい大量の荷物で戻ってきたので…。

まぁ仕方ありません。分かる範囲で書きます。

ではバヤンウルギー旅行記、始まり始まり。

2015.06.27.

協力隊隊員の宿泊所にガイドのアルタンさんに迎えに来てもらい空港へ!

[27] ノモンハン1 of aizenkai, , http://www.jinruiaizenkai.jp/kolumno/mongolio/cn23/nomonhan-1.html

山崎 光男

6月25日(土)夕刻、東京からAさん(88歳)一行6名がウランバートル空港に到着した。Aさんは65年前、ノモンハンで多くの戦友を失った。他のメンバーも60歳を越えた年配の方々で共にノモンハン慰霊の旅を志してきた。

私は予てから、この旅を企画したETT社のアンハー専務から「山崎さん、一緒に行きませんか?」と度々誘われていた。

「それはよいですね。絶好の機会です」と気軽に返事をしておいた。私自身は目的地まで片道千キロと知ってはいたが、舗装道路を高速で走りぬけ、途中のホテルで熱いシャワーや食事をいただきながら快適な旅ができるものと思い込んでいた。

わたしの返事があまりに軽く感じられたのであろう。アンハーは本気にはしていなかった。

当初、この旅は全区間を車で往復する予定であったが、ウランバートルからチョイバルサン(3分の2行程ほど)まで往復国内便が出ることになった。当然、参加者は喜んだ。

ところが途中で往路だけしか便が出ないということになった。そして、出発の間際になって、さらに往路も便が欠航となった。普段は温厚なアンハーも激怒してしまった。航空会社は何の謝罪もしなかったらしい。日本ならば補償問題になっただろう。

最初の計画に戻すしかない。アンハーの決断は早かった。あいかわらず私は、起伏に富んだ草原の道・2千キロを走行するということが、どういうことか全く理解していなかった。

出発を目前に控えて「山崎さん、明日出発です。本当に行くんですね?」とアンハーが念を押した。「あー、行きますよ。何時に出発ですか?」「11時ごろになるでしょう」と彼が応じた。

翌朝8時に起床して朝食を準備し始めたとき、彼から携帯電話に連絡が入った。

「今から出発です。山崎さんのアパートに来ています。」

私はあわてて洗面具と着替えをバックに突っ込み、アパートを飛び出した。「これもモンゴル式なのだろう」と自問しつつ。

日本からの一行はフラワーホテルに昨夜到着していた。Aさんの他に男性が一人、残り4人は女性であった。新彊ウイグル自治区のウルムチやタクラマカン砂漠に行ったことのある女性もいた。それなりに旅慣れした方々なのであろう。

私は急いでホテルのトイレに駆け込み朝の用便を済ました。目の前にトイレットペーパーが1巻あった。私はそれをバックに入れた。草原で済ますときには必需品とな

[28] 朝一番で、タフタン(パキスタン)からミールジャーベ(イラン)の国境を超えたが、何にもない, , http://midokutsu.travel.coocan.jp/across_asia/pakistan_iran.htm

1999年8月22日、日が昇りはじめて、あたりが明るくなってきたころ、バスは道路わきで停車した。

朝のひんやりとした空気にホッとしながら、バスを出る。

クエッタを出たのが、昨日午後4時過ぎ。

いまは、翌日の午前6時。

つまり、ここまで14時間かかった。

見ると、他にも、バスやトラックが何台も停まっている。

イランとの国境はもうすぐのようだ。

ここで停車しているのは、国境へ行く時間調整らしい。

パキスタンとイランの間には、1時間半の時差がある。

パキスタンが午前6時とはいっても、イランはまだ午前4時半だ。

午前4時半にイラン側の入国管理事務所が開いているとは考えられない。

公務員が、早朝から、仕事をしているはずがないからね。

パキスタンとイランの国境は、手前のパキスタン側がタフタン、国境を越えたイラン側がミールジャーヴェという。

ジーンズの左前ポケットに入れてあるパスポートを取り出して、チェックする。

僕がこのアジア横断旅行をした理由は、自分でイラン大使館へ行って、イランビザを取ったからだった。

1999年の「地球の歩き方・イラン」を読めば、個人では取れないとハッキリ書いてある。

その、みんなの憧れのイランビザを自分で取った。

それが、このアジア横断の旅へ出た、一番の理由だ。

イランのビザを個人で取ったことを自分自身が証明したってわけ。

でも、日本のガイドブックの間違い探しをするだけでは、中途半端だ。

僕がイランビザを個人で取った理由は、神が「イランへ行け」と呼びかけていたんだね。

しかも最初に取ったのがパキスタンビザ、次がイランビザ。

だから、パキスタンからイランへと陸路国境を越える。

これが僕の定めで、僕にとっては重要なんだね。

30分ほどして、バスやトラックが次々に動き出す。

僕たちのバスは、午前7時に国境へ到着。

クエッタからのバスはここでオワリ。

国境を越えたら、次の町ザヒダンへのバスなりがあるだろう。

国境はまだ開いてないようで、人がたくさん集まっていた。

ところで陸路国境を越える時に、日本人が意識しなければならないこと。

それは国境を越えたら時間が変わることがあるってこと。

例えば、パキスタンとイランの間には、1時間半の時差がある。

また、イランとトルコの間にも、中国とパキスタンの間にも時差がある。

[29] , , http://thundergate.jp/koufuku/travel/003/2014.01.26.html

午前5時30分起床。5時40分チェックアウト。暗い夜道を徒歩でツアーバスパークへ移動。6時30分バスが出発。午後1時に世界遺産ルンビニの近郊、バイワラに到着予定といいますが当てにはなりません。

↑バイワラ行きバスです。

2時間後最初の休憩。たんなる山道。男衆がこぞって立ってする。女性人おきざり。実に男性目線な休憩です。現代日本では決して体験のできない実にワイルド、実に男尊女卑な休憩です。

ポカラ行きのバス同様、山肌を縫うようにして山道をひたすら下っていきます。ガードレール?何それ?の世界です。車窓も少しは楽しみたいのですが眠気には勝てません。

2回目の休憩。こんどは街中です。同乗していた日本人のおじさんが声を駆けてきました。私が地歩を読んでいたので日本人だと分ったのだそうです。この方もバイワラ経由で世界遺産ルンビニに行くそうです。

午後2時30分。1時間半遅れでバスはバイワラに到着し、次なるバスの乗り換えが近い交差点で下ろされました。

↑ネパールのガソリンスタンドで。1リットル約100円はネパールの物価を考えればべらぼうに高いですね。

西の方角に向かう側道にルンビニ行きのバスが一台。混んでたので立っての乗車です。午後3時30分、世界遺産ルンビニに到着しました。おじさんはここに一泊するそうです。今日中にネパールを脱出する私はここでお別れしました。

ルンビニはお釈迦様生誕の地です。生まれて7日で二足歩行。天を指差し「天上天下唯我独尊」と喝破したのがこの地でのことであります。

↑まさかこんな分りやすい銅像が建っているとは思いませんでした。

足を運んだ動機はここが世界遺産であること、落語のお血脈でこの地が触れられることであります。白亜のマーヤ聖堂に足を踏み入れました。

↑マーヤ聖堂。

↑マーヤ聖堂をバックに記念撮影であります。

↑東京都庁を造った丹下健三氏がデザインした空間です。

ここは日本の調査団が発掘したところ、アショーカ王が置いたとされるブッダ生誕地を意味するマークストーンが発見された場所だそうです。紀元前3世紀〜7世紀にかけて存在した聖堂の礎石も見ることができる聖地なのです。礎石をグルっと取り囲む廊下の中央にマークストーン発掘の跡を見ることができました。敬虔なチベット信者でしょうか手を合わせ、繰り返し廊下を時計回りに回っておりました。お賽

[30] 雲南省からラオスへ - RAKUDA通信 海外添乗員の最新旅情報! , , http://blog.goo.ne.jp/caravan1341/e/64f9f5b60ad2bd7fb81e096e8e0e23b4

こんにちは、おおたぶです

まだまだ寒いですが、春はもうすぐそこまで

来ていますね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

さて私は先日、中国とラオスを巡ってきました。

ツアーでは中国雲南省のシーサンパンナから

陸路で国境を越えてラオスへ入り、北部の少数民

族の村を訪ね、ルアンプラバン、ヴィエンチャンなど

都市部も周遊してまいりました。

(図はルアンプラバンにて早朝の托鉢風景)

今回はテーマの一つである国境越えについて。

シーサンパンナ国境近くの街モンラーから車で

約40分いよいよ中国の国境が近くなってきました。

▼雰囲気はラオスですが、まだ中国です。

そしてシーサンパンナ最南端・

モ-ハンという国境の町へやってきました。

モーハンの町は綺麗に整備され、人通りはほとんど

見られませんでした。

▼国境を目指す車

そして国境ゲートに到着。かなり立派な建物が建てられて

おり、驚きました。

中国の出国審査を終えると、続いてラオスへの入国審査です。

▼中国国境ゲート。ものすごい建物です。

中国国境ゲートからラオス国境ゲートまでは約500mほどの距離があります。

▼せっかくなのでのんびり歩いて行くことにしました。

▼中国国境碑とラオス国境碑を見つけました。

▼そして歩いていくと、、なにか見えてきました!

▼ラオスっぽさ全開のこの建物。ゴールデンです。

現在建設中です。将来ここがイミグレーションになるはずです。

これまたものすごいものを見せられました。。。

▼実際はこの建物が今のイミグレでした。なんか落ち着きます。

無事にラオスへ入国完了!ここからラオス北部の旅が始まりました。

生活も言葉も風習も通貨も文化も時差もここから変わりました。

明日はラオスについてお送りします!お楽しみに!!

新ツアーも発表しました!!是非お立ち寄り下さい。

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[31] ブータン旅行記 (1/3) 佐納康治, , http://www.asahi-net.or.jp/~hc7y-snu/sanoo/Travel102/Travel102a.html

平成16年11月19日(金)

今回の旅行先はブータン。連休を利用して、短期でさっと行ってさっと帰ってくることにする。金曜日午前中に仕事を終えて、

その足で急いで関西空港に向かう。夕方の日本航空JL727便でバンコクに向けて出発。予定より少し遅れて19時15分出発、

しかしバンコクには予定通り、現地時刻の午後11時に到着。

バンコク到着が深夜になったが、明日早朝のブータン国営ドゥック航空に乗り継ぎの予定なので、タイには入国せず、

朝までトランジットルームの椅子の上で寝ている。

平成16年11月20日(土)

バンコクは24時間空港なので、夜中でも頻繁に飛行機が離発着している。私が今日乗る予定のブータン国営ドゥック航空

もなかなかマイナーな航空会社だと思うが、夜中3時ごろには、アシハバードから来たトルクメニスタン航空だとか、

アンタナナリボから来たマダガスカル航空だとか、割合マイナーな航空会社も飛んで来ている。

さすがはアジア第一のハブ空港、ドンムアン空港である。 日本の空港では直行便のないような珍しい国

からもどんどん飛行機が飛んでくる 。

朝5時まで待って、トランジットカウンターで、ブータン国営ドゥック航空への乗り継ぎ手続きをする。タイに入国せずに

乗り継いだので、空港税500バーツを節約できたのは良かった。

ドゥック航空KB125便、バンコク発、コルカタ(カルカッタ)経由、ブータンのパロ行きは、定刻より少し遅れて午前7時出発。

1時間半の飛行で、インドのコルカタに到着。ここで半時間停まり、パロに向けて再び離陸。

離陸してしばらくすると、ヒマラヤの山々が見えてきた。切り立った山々の間の谷に、吸い込まれるように飛行機は降下して行く。

両側に山の斜面が見え、翼が触れるのではないかと思ってひやひやする。谷の底に、パロの市街地が見えてくると、飛行機は一度

空港を通り過ぎてから狭い谷の中で180度旋回し、それから、パロ空港手前の山を避けて低空でS字カーブを描きながら急旋回して

パロ空港に接近し、それから無理やりに滑走路端にドスンと落ちるように着陸して、最大出力で逆噴射して何とか

滑走路の反対側の端で停まった。この着陸には飛行機に慣れた私ももうびっくりである。、 機内では、

着陸寸前に、欧米人と思われる女性の乗客数名が「キャー」と叫び声を上げるほど であった。

かつての香港の啓徳

[32] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

東京23区最強のDQNスラム地帯とかねてから評判の高い「足立区」に隣接する埼玉県八潮市は、近年つくばエクスプレスの開業でベッドタウンとしての開発がいよいよ始まろうとしている東京近郊最後のフロンティア。

つくばエクスプレスの区間快速で秋葉原からわずか17分、さらに首都高三郷線が通じている為にクルマでも電車でも交通の便が良くなった。当取材班は、この一見何にもなさそうな東埼玉の辺境地帯である八潮の街を訪れた。駅だけはやたら立派であるが周囲は殆ど宅地化されておらず、だだっ広い印象を受ける。

八潮駅を出ると、駅の南側にはひたすら原っぱが広がっている。これからマンションが続々建設されて、さぞかし近代的な街が生まれるに違いない。つくばエクスプレス沿線の駅前はどこもこんな感じでフロンティア感が凄まじい。

八潮駅南口ロータリー。実はここから亀有行きのバスが出ていたりする。北関東の田舎にでも来たかのような印象を受ける駅前のスカスカっぷりにあんぐりしてしまうが、車があると足立区や葛飾区は目と鼻の先。首都圏ってまだまだ土地が余ってるんですね。

足立区に接する八潮は、膨張する首都東京から溢れ出た「人」ではなく「工場」を受け入れて成長してきた街である。人口8万2千人という街の規模に対して工場数はさいたま市・川口市に次ぐ県内第三位。八潮にある工場の多くが狭い都心を離れて広い土地を求めて移転してきた。

23区に隣接しているとは思えない広大な田園地帯に、都心から移転、または退けられた工場や建設資材・残土置き場、産廃業者、葬儀式場、ラブホテルなどが点在する特異な風景が見られる場所、それが八潮だ。

この土地には不動産用語的に言う所の「嫌悪施設」が寄せ集められている。江戸時代の浅草・南千住小塚原よろしく東京の鬼門とされる右上部分にそうした施設が集まってしまうという土地の因縁は平成の世となった今でも受け継がれているようである。

中小企業の工場や事務所と思しき建物を見ても、殆どが工事関係の業者や塗装業といったガテン系職種のものであることが分かる。周りに何もないので余計に目立って見える。

ちなみに東京各所にいる塗装や土木など色んな現場作業の車両を見てみると

[33] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - Page 2 of 3 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/2/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

<1ページ目を読む

すっかりニュータウン臭くオシャレに変貌したつくばエクスプレス八潮駅前の風景を抜けると、その先には田園地帯に建設資材置き場が散在する、どこか殺伐とした独特の街並みが広がっている。現場作業のトラックや工事車両などはこの場所から東京都心に出て仕事をしているのだろうか、巨大なユンボのアームがいくつも錆びた鉄のフェンスから頭を覗かせている。土建屋と工場だらけの街、それが八潮である。

八潮駅から少し離れた首都高三郷線沿いに建つ、何の変哲もない3階建ての貸し倉庫。

ここがどうやらオウム施設として使われているらしい。

首都高の高架に沿って走る下道も大型車が引っ切り無しに通り抜けるような場所で排ガスだらけ、周りは工場地帯、住む環境としてはよろしいはずもないのだが、こんな場所をわざわざ選ばなければならない程、彼らは生活の場に不自由している訳だ。

見れば分かるが、ここは本来は工場関係の貸し倉庫として使われる為に建てられたはずのもの。そこにわざわざ生活の場を作り上げているのである。殆ど窓もなく、辛うじて見える窓はことごとく目張りがされていて中の様子を伺う事が出来ない。凄まじい住環境だ。

だがそこに人が暮らしている形跡は確かにある。住人の自転車置き場が建物横にあるのだ。元夫に刺されて亡くなった被害者女性もこの場所で生活していたことであろう。

一体この建物の中でどれだけの人間がどんな日常が繰り広げられているのか。迫害されながらもオウムの残党として暮らす方がマシだという日常は我々平凡な人間には理解出来る世界ではない。

そして当然のごとく貸し倉庫の周囲には地域住民による抗議の立て看板がずらりと並んでいて一目に見て異様さが伝わる。

「ここにオウムの巣があります」 だなんて書かれているので事情を知らないよそ者でも一発で事態が分かってしまう訳だ。 「出て行け出て行け出て行け」 と三連呼されたりして凄まじい嫌われっぷりだ。それでも信者達は「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」とこの場所に居座り続けているようだ。

オウムの教団施設はここ八潮市大瀬の貸し倉庫の他、足立区辺縁部の環境の劣悪な工業地帯に何箇所か点在していて、今も活動を続けて

履歴

[35] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567299219130

メモ