いつも坂道の貴重な情報を教えてくれるFB友から 旧東富坂の抜け穴 を調査せよ!との指令が。
ぬっ抜け穴ぁ〜?ってぇ興味シンシン。
旧東富坂って何度か走っていますが、その江戸情緒無さに、全く気にも止めていませんでした。いやはや、人それぞれの視点とは違うものです。行かねばなりません。
旧東富坂坂上より
再度行ってみると、
相変わらずの都会です。
丸の内線の脇道ですものぉ。
あれっ?ほんと。
不気味なトンネルがあります。
今まで全く気付きませんでした。
旧東富坂の抜け穴。
旧東富坂
むかし,文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷(にがや)といい,この谷をはさんで,東西に二つの急な坂があった。
東の坂は,木が生い繁り,鳶(とび)がたくさん集まってくるので「鳶坂」といい,いつの頃からか,「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)
富む坂,庶民の願いがうかがえる呼び名である。
また,二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。
明治41年,本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として,現在の東富坂 (真砂坂) が開かれた。それまでは,区内通行の大切な道路の一つであった。
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
坂道説明板は古いタイプ。昭和63年とは、すでにこの説明板自体が歴史に成りつつあります。これだけ放置しておくとは何かの疑惑が匂います。
東富坂周辺。
西富坂の方は「鳶職が多く住んでいたので」という説もあり、 金剛寺坂の項 で紹介した永井荷風先生の幼少期を語った小説「狐」にも近所の鳶の棟梁が出てきて、わたくし的には鳶職説に愛着があります。しかし、 東富坂 の方は切絵図でみる限りは武家地が多く、鳶職は住みそうにありません。
抜け穴をくぐり向こう側から。
抜け穴をくぐって行くと丸の内線の線路の向こう側に出ます。
この抜け穴はなぜあるのか?なぜ必要なのか?
無くてもそれほど遠回りにならないのに。
それが問題です。。。
まずは切絵図から見てみましょう。
なぜある?「ぬけ穴」
嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より 赤矢印 が東富坂、 青矢印 が西富坂。
東富坂は西富坂と対峙しているクランクのある坂道です。
このクランク部分がトンネルになったのかぁと一瞬思います。
お江戸のクランクは軍事目的ってぇことが多いの