寸又峡

寸又峡

[1] 寸又川寸又峡

Webページ

[2] 道路レポート 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区, , http://yamaiga.com/road/itisiro/main.html

【周辺地図(マピオン)】

今回採り上げるのはタイトルの通り、静岡県道388号接岨峡(せっそきょう)線の旧道にあたる道である。

右図に赤く示したラインが、それである。

地図上では、この旧道にこれといった不自然さは見あたらないと思うが、冒頭で「県道の旧道」と言い切らず、「旧道にあたる」という遠巻きな表現をしたのには訳がある。

もう一度地図を見て貰いたい。

この場所は、川根本町の中心地である千頭地区から5km半ほど北に入った奥泉地区で、寸又峡へ向かう県道77号川根寸又峡線と、接岨峡へ向かう県道388号接岨峡線が二岐に分かれている。

寸又峡へ向かう道と、接岨峡へ向かう道が、混在している場所。

この2系統の道が、それぞれのペースで新道を建設してきた結果、「旧道にあたる道」は、少しだけ複雑な変遷を遂げているのだ。

その過程で、名前も何度も変わってきた。

本編に入る前に、一帯のルートの変遷を地図上で見てみよう。

鍵になるのは、大きな文字で示した“3本の橋”たち。

渡谷(とや)橋、川根路(かわねじ)橋、泉大橋である。

※右のように枠が赤い画像は、カーソルオンで表示が変わります。もし変わらない方は、こちらから【表示】して下さい。

昭和27年と42年の地形図を比較してみる。

なお、右下の円部は奥泉地区の拡大図である。

上の2枚の地形図から分ることは、昭和27年当時、接岨峡へ通じる道と寸又峡へ通じる道は、奥泉集落内で分岐して“いなかった”ということだ。そして、この当時はまだ、自動車が通れる道が奥泉まで到達していなかったことも読み取れる。

対して昭和42年版になると、渡谷橋を通って大井川の左岸伝いに接岨峡を目指す車道が開通している。

だがこの道は県道接岨峡線ではなく、森林開発公団が建設した「大井川林道」という林道だった。

『森林開発公団十年史』によると、大井川林道は昭和35年から40年の間に建設され、全長は14.4km。 その一部として渡谷橋が完成したのは昭和36年だった。

一方の奥泉集落を通って寸又峡へ通じる道も車道に変わっているが、こちらもほぼ同じ時期に東京営林局が建設した林道である(『本川根町誌』による)。

おおよそ15年の間に相次いで林道が開通し、一帯の交通事情は一変したことが理解される。

(本編とは関係しないが、大井川鉄道も中部電力の専用線から旅客も扱

[3] 寸又峡 無想の吊り橋 – 雑記, , http://www.seotaro.com/blog/?p=2060

実は通販で頼んでいたタイヤが間に合わなくてスリックタイヤで来てしまいましたが、路面は締まっていて結構走れてしまっています。右手に朝日岳、左手には寸又川を挟んで前黒法師岳を望みながら気持ちよく走れてます。前黒法師岳の山肌には林道寸又川右岸線が併走していてあちらも面白そうです。

起点から15kmぐらい走ったでしょうか、正午を少しまわって12:30、標高1065mの林道分岐に辿り着きました。右側が光岳登山口へ向かう寸又川左岸林道、左側が無想の吊橋に向かう日向林道になります。

地図を見ると光岳登山口まではずいぶん先です。ここまで走った距離の3倍はあってとても日のあるうちには帰れないでしょう。誰が名付けたのか「無想の吊橋(夢想の吊橋、または無双の吊橋とも呼ばれているようです)」は永野さんの本 ※1 で、とにかく怖ろしいということは知っていました。この間の夢の吊り橋が全然物足りないものだったこともあってどうしても見たくなり、吊橋まで往復することにする。

分岐からはいきなり結構な下りになるのですが、こちらの林道は寸又川左岸林道と違いかなり荒れててスピードは上げられません。こぶし大の岩がごろごろしているのですが、ふかふかの落ち葉の下に隠れてしまっているのでかなり神経を使います。

途中、路肩が崩壊してました。役目を終えて廃道となる運命なのでしょうか。

[4] 法政大学 軽登山サークルSPRINGのブログ : 3月21,22日 日向林道・寸又川左岸林道調査 南ア深南部, , http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/7864692.html

高尾山から槍ヶ岳まで登るインカレ軽登山サークルのブログです♪

2014年度新規メンバー募集についてはこちら→→【http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/7220709.html】

【メンバー】 粂田 力 2015年3月21~22日 南アルプス深南部 寸又川山域の林道を調査 [1日目]寸又峡温泉-飛龍橋-寸又川右岸林道-千頭ダム-天地吊橋分岐-日向林道出合い-寸又橋-寸又川側から逆河内側に乗越すコル上-寸又橋-日向林道出合い-お立ち台-寸又川左岸林道-お立ち台▲ [2日目]お立ち台-1367.6-1670-1367.6-お立ち台-日向林道出合い-天地吊橋分岐-天地第一吊橋-千頭ダム-寸又川右岸林道-夢の吊橋-寸又峡温泉 夕食:手造りの店さとう 日帰り入浴:翠紅苑 今回の山行の目的は、不動岳ヒコーキ平尾根からアプローチをするために日向林道が通行が(完全に)不可能かどうかを調査しにいくこと 本記事と合わせて4ヶ月前の 丸盆岳東尾根 黒法師岳 前黒法師岳 周回 をご覧いただくとこのあたりの最近の状態がわかってくるかと思います 時期的には丸盆岳東尾根の方が紅葉も川の水の色も綺麗でした 私自身、学生生活最後の山行、記事になりますので寂しい限りです 林道情報気になる方のため写真を多めに またブログをご覧になっている新入生の方!この記事は個人山行と言って個人企画の登山です 全体登山でこんなにマイナーな山域へは入りません あくまで個人の趣味の世界ですのでそのへん心配しなくても大丈夫です 3月21日 今日明日は土日で観光の車も多いので、温泉街下の水車のある駐車場に駐車 1時間仮眠 おにぎり食べて、準備して 千頭林鉄の機関車をみる 作業員客車をみる カモシカを通り過ぎてゲート横のおばちゃんにあいさつして出発 天子トンネル手前に落石 まだ片づけてないところをみると最近落ちたのか 往きは体力温存するため飛龍橋をゆく 左に曲がれば前黒法師岳登山口や青薙沢、釜滝へ向かう大間川林道 沢屋さんたちの記録をみる限り最近は山犬の段から無理矢理、沢におりている人ばかりで大間川林道は通れるのだろうか?崩壊地は気合いで突破したとしていくつか朽ちかけた橋があったはず、、、 今日も起点は千頭ダムなので右岸林道を進む 尾崎坂展望台で休憩 また林鉄の機関車の

[5] 川根本町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E7%94%BA

行政[編集]

歴代町長

杉山嘉英(2005年10月16日〜 2009年10月15日)

佐藤公敏(2009年10月16日〜 2013年10月15日)

鈴木敏夫(2013年10月16日〜、1期目)

庁舎

川根本町役場 本庁舎(郵便番号428-0313 静岡県榛原郡川根本町上長尾627)

川根本町役場 総合支所(郵便番号428-0411 静岡県榛原郡川根本町千頭1183-1)

川根本町教育委員会(郵便番号428-0411 静岡県榛原郡川根本町千頭1183-1)

産業[編集]

農業

全国的に知られる「川根茶」の産地で、天皇杯や全国品評会等で産地賞受賞などを多く受賞している。また農業生産額では、ほとんどを茶(生葉)、荒茶が占めている。

2000年での農家1戸あたりの平均経営耕地面積は0.41haと、県平均の0.69haのおよそ6割に過ぎず、経営規模は小さいといえる。

林業

町の森林面積は、町全体の約94%を占めている。そのうち国有林の比率が高いのが特徴で、県内国有林の28.6%を占めている。

工業

町には少数だが精密機械、電気機械、製茶(仕上茶製造工場)等の企業が立地している。2001年の時点で、事業所は35か所、従業者数は719人、製造品出荷額は89億円弱となっている。

県全体の水準と比較して1事業所当たりの規模が小さいこと、従業員1人当たりの出荷額が低いことが特徴。

建設業

全産業に占める建設業の比率を見ると、事業所数が13.1%、従業者数が18.8%を占め、県全体よりも高い数値を示している。特に従業者数の構成比は、県全体の水準7.6%の2倍以上の数値を示しており、地域の雇用の受け皿として重要な産業であることがうかがえる。

商業

2002年の商業統計をもとに、地域内の小売業を見てみると、店舗数は215店、従業者数702人、年間商品販売額は約68億円となっている。このことから、町内には大規模小売店舗立地法に基づく店舗面積1,000m²以上の大型店舗がなく、小規模店舗が多いことが分かる。

観光

町内には日本で5か所のみという原生自然環境保全地域の大井川源流部、静岡の自然100選に選ばれたブナの原生林などの美しい自然に加え、寸又峡温泉、接岨峡温泉、白沢温泉、千頭温泉の温泉、さらには大井川鐵道のSL通年運転や日本で唯一のアプト式鉄道などの様々な観光資源がある。

主な学校[編集]

[6] ミニレポ第218回 静岡県道77号川根寸又峡線旧道 奥泉地区, , http://yamaiga.com/mini/218/main.html

【周辺図(マピオン)】

今回紹介するのは、静岡県川根本町の奥泉地区にある、 静岡県道77号川根寸又峡線 の短い旧道である。

左図の通り、現在の県道は、奥泉集落の南にある大井川の小さな蛇行を、渡谷橋と川根路橋という2本の橋で串刺しにする形で、ほぼ直線的に通過している。

だが、このような線形があるとき、橋を介さない川沿いの旧道を想定するのは、もはやトンネルの脇に旧道を探すことと同じくらい、オブローダーにとって自然な行為である。

そして事実、ここには旧道が存在した。

実際にこの旧道を探索したのは2015年のことだが、2010年に初めてこの地区での探索を行った当初から、ここに旧道がある事は知っていた。

左図に旧「大井川林道」と表記した道を、「 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区 」の表題でレポートしているが、そこでもこの旧道の存在に触れている。

わずか600mほどの短い旧道なのだが、存在を把握しつつも探索までに時間を要した理由は、そこが短い割には“大変そう”だったということと、基本的には現道から見通せる程度の規模なので、優先順位があまり高くなかったのである。

だが、比較的短時間で探索出来るこうした小さな旧道は、 大きな探索 が終わった後の日が暮れるまでの空き時間を無駄にしないという目的にはちょうど良かったので、今回遂に探索する事になったのだ。いわゆる、スキマ時間の探索である。

探索レポートの前に、この川沿いの短い旧道が現役だった期間について、これまでに入手した情報を総合して考察しよう。

まず旧版地形図を見較べてみると、 昭和42(1967)年版では車道としてこの川沿いの道が描かれている。

現在の県道を構成する渡谷橋と川根路橋のうち、昭和36(1961)年に大井川林道の一部として開通した渡谷橋はこの当時すでに架かっていたが、 川根路橋は昭和48(1973)年に初めて架設されたので、その時に川沿いの道が旧道化したもの と思われる。

なお、この昭和42年版地形図にも描かれているとおり、川根路橋には先代と呼ぶべき奥泉橋なる橋があった。

これは昭和37(1962)年に開通したという記録があるが、現在も片岸に残る 吊橋の主塔跡 や、 昭和45(1970)年撮影空中写真 に写る非常に華奢な姿を見る限り、自動車を通せるような規模では無かったと思う。 (「橋梁史年表

[7] 帆越山トンネル旧道 – 日記的な何か, , http://morigen.net/blog/?p=2215

はい、 今日 は神社からこんにちは。

早速残念なお知らせですが、本当は景色見に来たんだけど何も見えなかったです。景色なら 前 に見たんだし、 今日は2人で来たことが大事。うん、そうだ。それに雨の日は滑るから(実体験)よしたほうがいいです。

そういうこともあって近くの旧道に来ました。

旧道に入ると右には神社があります。さっきの神社は本殿でこっちは里宮。神にお願い事するだけなら別に本殿まで行かなくてもいいんです。

カーブを曲がると覆道が見えてきました。

1車線幅で途中に急なカーブのある危険な覆道です。越波を防ぐためか海側はには小さな明り取りの窓だけのこしてコンクリートで塗り固めトンネルのように暗いのに灯器の類はありません。

徐行の徐の字間違えてますやん。

覆道の形が途中から変わりちょっと明るくなりました。幅は一部分だけ広がっていて、離合時の退避帯として使えそうです。

覆道を抜けると山側に大きな平場が出来てました。でも道路はいまだ中央線なし。

おっと先にはまた覆道がありました。

2本目の覆道。これも手前と奥とで壁の有無の違いがあります。

奥の方は越波を防ぐためか壁のある覆道ですが、未舗装かと思うほど地面は泥だらけ。川のように水が流れなきゃここまでにはならないでしょう。

覆道を抜けると舗装が無残に剥がれてました。

3本目の覆道。見てください右の巨大な擁壁を。やはりよっぽど越波がひどい地帯なんですね。

3本目の覆道は短くカーブしています。出た先は海側の岩壁が波除けの壁のように働いています。

そしてすぐに4本目の覆道。

この辺りが帆越岬の先端です。

短い5本目の覆道。

すぐさま6本目の覆道。これは始め壁が有りカーブして、後に柱だけになります。

覆道の中はなぜだか舗装が剥がされています。切り口がまっすぐで深さも一定。明らかに人為的です。

6本目の覆道の先は完全に道路が流されきって影も形もありません。

こういう状態が170m程続きます。

7本目の覆道です。舗装が復活してからはアスコンと普通のコンクリートが交互に敷かれています。

8本目、最後の覆道。

コンクリート塊のバリケードを乗り越したら現道の帆越山トンネルの坑口前に到着です。

今歩いたあんな危険な道とは1世代も2世代も違うなしょうしゃな帆越山トンネルです。道路はもちろん2車線、高さも幅も大型車両を優優通す立派なトンネルです。トン

[8] 隧道道 田野畑村の隧道(1), , http://zuidou.blog31.fc2.com/blog-entry-400.html

ある日のこと。 どこか面白そうなとこ、ないかな~なんて感じでウォッちずを眺めていたら、ある場所で目が釘付けになった。 “ココ”をクリック! 海岸線に記載された、複数の怪しげな隧道マーク。 で、行ってみた。 神奈川県から片道10時間もかかってしまったが・・・。 上の写真をご覧ください。 10時間かけて行った甲斐がありました。 乞次号。

[23] 隧道道 栃折隧道, , http://zuidou.blog31.fc2.com/blog-category-32.html

まきき氏の驚愕の発想により、栃折隧道の封印は解除された。 赤丸で囲んだところに、秘密の通路があったのだ。 反対側坑口は、青いビニールシートで覆われていた。 扁額を確認しなければならない。 ビニールシートの隙間に無理矢理デジカメを突っ込み、やっと撮れたのが下の一枚である。 ゲロゲロ~・・・ 得体の知れないものも沢山写ってしまった・・・。 出口の先から続く道。 100mほど下ると、国道471号線が見えてきた。 国道側からみた、栃折隧道方面。 中央やや左に写る謎の物体は、まきき氏の生霊である。 現在の栃折峠。 この峠を越えるために、栃折隧道が掘られたのだ・・・。 さて、我々の冒険もこれにて終了であります。 様々な困難を乗り越えつつ、栃折隧道を完抜けすることができました。 ありがとう、栃折隧道。ありがとうまきき氏・・・。 って、アンタ! 俺のハナシ聞いてんの!? 上の写真は、栃折隧道に魂を抜かれて呆けたまきき氏である。 これにて一件落着。 ご清聴を感謝いたします。 (トンコレでも栃折隧道が公開されてます! リンク先からGO!) (完)

崩落部分を振り返って見た、の図。 激しいですな・・・。 ゴール近くの隧道は、落盤だらけ。 危ないですな・・・。 向かって左側から右側に、巨大岩石がドカーン! ここは危険です。 みなさん、近寄るのはやめときましょう・・・。 終点。 厳重に封鎖されていた。 ここの通過は許しません、という強い意志が感じられた。 我々の冒険もとうとうこれまで。 私は十分満足し、引き返そうとした。 でも、まきき氏が驚くべき行動に出る! 厚手のビニールシートをめくってみる。 この発想に当方は度肝を抜かれた。 普通は思いつきませんよ。 この状況下で、はぁーん!!と感心してしまった。 まきき氏の飽くなき探求心がそうさせたのだ。 めくったビニールシートのその先に、懐かしいおひさまの光があった。 (上の写真は、byまきき氏)

[24] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[25] 廃線レポート 千頭森林鉄道 [総扉ページ], , http://yamaiga.com/rail/senzu/main.html

その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。

昭和46年版「千頭営林署管内概要」より

昭和44年当時の千頭(せんず)営林署は、全国350の営林署のなかで最大の予算規模を誇っていた。

このことは同署発行の「管内概要」自らが「特異」だとしているが、確かに誰もが知っている青森や秋田、それに木曽などの“林業国”を差し置いて、静岡県の一部を所管する千頭営林署がそのような地位にあった事は意外である。

ということは当然のことながら、千頭営林署を所管する東京営林局の中でも同署が最大の営林署であった。

膨大な予算は、首都の名を冠する東京営林局が半ば宿命的に持たされていた、わが国の林業の模範となりまた先進的でなければならないという性格を反映させたものでもあった。

それに、ちょうどこの昭和44年というのは、東京営林局管内最後の森林鉄道「千頭森林鉄道」が廃止された年であり、当時は代替となる林道が年10km以上という、現在としては考えられないくらいのハイペースで建設されていたのである。

だが、千頭営林署が全国最大の予算で事業を行っていたのはこの年だけではなく、それほど珍しい事ではなかった。

大規模予算の本当の理由は、「千頭の山」で林業を円滑に行うためには、それが必要なコストだったからに他ならなかった。

そしてもちろん、それに見合った収穫が見込まれたからであった。

地形は早壮年期〜満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°〜40°、山頂近くは10°〜30°となる。標高は、300m〜2591mとその差が著しい。

同上 より

左の写真を見ていただければ、どれほど険しい地形から木が伐り出され、そして運ばれていたのかがお分かりいただけるのではないだろうか。

千頭森林鉄道が昭和初期の開通以来、廃止となる昭和44年までのあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく運転されていたのは、目も眩むような絶壁にしつらえられた幅762mmの線路であった。

本稿が取り上げるのは、この「日本一の事業規模」を誇っていた千頭営林署のあらゆる事業に欠くことの出来な

[26] 橋梁レポート 無想吊橋 , , http://yamaiga.com/bridge/musou/main.html

※このレポートは「廃線レポ 千頭森林鉄道逆河内支線 第5回」の続きとなります。

当地までのアプローチについては、前記レポをご覧下さい。

本橋の名称については、無想吊橋、夢想吊橋、無双吊橋など複数あるようですが、いずれが正解か断定できませんので、本項では前者を採用しました。一応の根拠などについては、後日の「考察編」にまわしたいと思います。

千頭山への入山、その第一目的は「千頭森林鉄道」の攻略であった。

そして全部では無いが、この日の目的とする内容は果すことが出来た。

それからもうひとつ、第二の目的があった。

無想吊橋の攻略である。

寸又峡の支流である逆河内の奥地には凄まじく高い吊橋が架かっており、しかもそれが廃道同然になっているという情報は、私が関東に移住した当初から多くの方に教えていただいた。

テレビで放映されていたという典拠もよく聞いたが、私は残念ながらその放映を見ていない。

ただ、とにかく凄まじい橋がそこにあるから、崩れ落ちて消えてしまう前に見ておいたほうが良い。

そんな熱っぽい…勧誘と言っても良いような情報提供を、何件も頂いていた。

だが私には、すぐさまそれに飛びつくことが出来なかった。

正直、既にテレビが取り上げているという事実は、その内容は知らないけれども私の感覚を萎えさせたし、検索エンジンを使えばより最近の状態をモニタ越しに見る事は出来たが、「完全に知ってしまう」ことを恐れた私は、せっかくの先人たちが橋に近付く段になると、毎回見るのを止めてしまっていた。

それに私にとっての最大の問題は、下調べのつもりで入手した近隣の旧版地形図に描かれた壮大な森林鉄道の姿(もちろん「千頭森林鉄道」である)を見てしまったことで、林鉄の探索を除外してピンポイントに吊橋を目指すという割り切りが出来なかった。

現地は最寄りの集落から林道を20km近くも入ったところなので、そう気軽に行って戻ってくる気にもなれず、計画を欲張ってしまった。

それで千頭林鉄の探索の準備を始めたところから時間を要し、「ヤマビル多発で夏場はちょっと…」という悪条件もあって、最初の計画からは1年以上も費やした末の千頭林鉄第一次探索となり、そこで無想吊橋へのファーストアプローチをやっと叶えたのであった。

なお、テレビ番組では「日本一恐ろしい橋」と宣伝されていたらしい(未確認)橋だ。

こういう安

[27] 田舎吊り橋 Vol.18 静岡逆河内「新逆河内吊橋(無想吊橋)」【ぶんかびと】, , http://bunkabito.jp/magazine/article_tsuribashi/vol_0018/index.html

危険な廃林道をひたすら進む

前回の「天地吊橋」から千頭ダムに戻り、再び山ビルだらけの過酷な山道を登って日向林道に戻る。 ここからまたもや長い廃林道歩きとなる。 日向林道は一度延々と下って川のすぐ傍まで近付き、再び延々と登って行く。 相変わらず荒れ果てた林道には、「源平崩れ」と名前まで付けられた大きく崩れた斜面や、谷になった箇所から流れ落ちた小さい滝が、林道全体を南アルプスの天然水浸しにしていたり、あるいは落石によって転がり出た巨大な岩が大きく道に横たわるなど、危険が山のようにある。 恐ろしいことに、ツキノワグマの物だと思われる、大きい動物の糞も落ちていた。

そのような難所続きの林道を登って視界が開けると、そこには南アルプスの山々が広がり、素晴らしい景色が続いていく。 林業が盛んだった1970年代の頃に使われていたと思われる小屋が林道の少し下に見えたが、その人工的な建物を含めても、人間の気配は全く感じない。

そういった原風景を横目に蛇行する日向林道を進むと、目の前に信じられない光景が飛び込んできた。 深い谷のとんでもない高さに細い吊り橋が掛けられているのである。 これが今回紹介する「新逆河内吊橋」である。

無想と呼ばれる吊り橋

昭和51年に撮影された航空写真 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)【ccb-76-18_c5b_2】より

日本でこれほどの吊り橋は他に残っていない。 数々の難所を越え、ようやくたどり着いた伝説の吊り橋。 私たちの目に映ったその衝撃は、はかりしれないものであった。 高さ約80メートル、長さ140メートルの景観はまさに圧巻。 遠くから見える光景は、もはや現実味すらなかった。 そして、素直に「感動」してしまっていた。

実はこの場所には嘗て「無想吊橋」という吊り橋があり、更にそれを渡った先にある小さな流れ込みである白沢を渡す短めの吊り橋が架かっていて、どれもとんでもない高さでありながら、針金と薄い板で作られた不安定な吊り橋であった。 無想吊橋とその先の白沢を渡す吊り橋は、1970年代後半には既に崩壊して渡れなくなってしまい、その3本の吊り橋の中で最も長く、高い位置に架けられたこの「新逆河内吊橋」だけが残ったのだ。 しかし、その名前のインパクトからか、残された「新逆河内吊橋」が今では「無想吊橋」や「新・無想吊橋」と呼ばれている。 川根本町や静

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