寸又川

寸又川

[1] 寸又川

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[2] 法政大学 軽登山サークルSPRINGのブログ : 3月21,22日 日向林道・寸又川左岸林道調査 南ア深南部, , http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/7864692.html

高尾山から槍ヶ岳まで登るインカレ軽登山サークルのブログです♪

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【メンバー】 粂田 力 2015年3月21~22日 南アルプス深南部 寸又川山域の林道を調査 [1日目]寸又峡温泉-飛龍橋-寸又川右岸林道-千頭ダム-天地吊橋分岐-日向林道出合い-寸又橋-寸又川側から逆河内側に乗越すコル上-寸又橋-日向林道出合い-お立ち台-寸又川左岸林道-お立ち台▲ [2日目]お立ち台-1367.6-1670-1367.6-お立ち台-日向林道出合い-天地吊橋分岐-天地第一吊橋-千頭ダム-寸又川右岸林道-夢の吊橋-寸又峡温泉 夕食:手造りの店さとう 日帰り入浴:翠紅苑 今回の山行の目的は、不動岳ヒコーキ平尾根からアプローチをするために日向林道が通行が(完全に)不可能かどうかを調査しにいくこと 本記事と合わせて4ヶ月前の 丸盆岳東尾根 黒法師岳 前黒法師岳 周回 をご覧いただくとこのあたりの最近の状態がわかってくるかと思います 時期的には丸盆岳東尾根の方が紅葉も川の水の色も綺麗でした 私自身、学生生活最後の山行、記事になりますので寂しい限りです 林道情報気になる方のため写真を多めに またブログをご覧になっている新入生の方!この記事は個人山行と言って個人企画の登山です 全体登山でこんなにマイナーな山域へは入りません あくまで個人の趣味の世界ですのでそのへん心配しなくても大丈夫です 3月21日 今日明日は土日で観光の車も多いので、温泉街下の水車のある駐車場に駐車 1時間仮眠 おにぎり食べて、準備して 千頭林鉄の機関車をみる 作業員客車をみる カモシカを通り過ぎてゲート横のおばちゃんにあいさつして出発 天子トンネル手前に落石 まだ片づけてないところをみると最近落ちたのか 往きは体力温存するため飛龍橋をゆく 左に曲がれば前黒法師岳登山口や青薙沢、釜滝へ向かう大間川林道 沢屋さんたちの記録をみる限り最近は山犬の段から無理矢理、沢におりている人ばかりで大間川林道は通れるのだろうか?崩壊地は気合いで突破したとしていくつか朽ちかけた橋があったはず、、、 今日も起点は千頭ダムなので右岸林道を進む 尾崎坂展望台で休憩 また林鉄の機関車の

[3] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[4] 廃線レポート 千頭森林鉄道 [総扉ページ], , http://yamaiga.com/rail/senzu/main.html

その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。

昭和46年版「千頭営林署管内概要」より

昭和44年当時の千頭(せんず)営林署は、全国350の営林署のなかで最大の予算規模を誇っていた。

このことは同署発行の「管内概要」自らが「特異」だとしているが、確かに誰もが知っている青森や秋田、それに木曽などの“林業国”を差し置いて、静岡県の一部を所管する千頭営林署がそのような地位にあった事は意外である。

ということは当然のことながら、千頭営林署を所管する東京営林局の中でも同署が最大の営林署であった。

膨大な予算は、首都の名を冠する東京営林局が半ば宿命的に持たされていた、わが国の林業の模範となりまた先進的でなければならないという性格を反映させたものでもあった。

それに、ちょうどこの昭和44年というのは、東京営林局管内最後の森林鉄道「千頭森林鉄道」が廃止された年であり、当時は代替となる林道が年10km以上という、現在としては考えられないくらいのハイペースで建設されていたのである。

だが、千頭営林署が全国最大の予算で事業を行っていたのはこの年だけではなく、それほど珍しい事ではなかった。

大規模予算の本当の理由は、「千頭の山」で林業を円滑に行うためには、それが必要なコストだったからに他ならなかった。

そしてもちろん、それに見合った収穫が見込まれたからであった。

地形は早壮年期〜満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°〜40°、山頂近くは10°〜30°となる。標高は、300m〜2591mとその差が著しい。

同上 より

左の写真を見ていただければ、どれほど険しい地形から木が伐り出され、そして運ばれていたのかがお分かりいただけるのではないだろうか。

千頭森林鉄道が昭和初期の開通以来、廃止となる昭和44年までのあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく運転されていたのは、目も眩むような絶壁にしつらえられた幅762mmの線路であった。

本稿が取り上げるのは、この「日本一の事業規模」を誇っていた千頭営林署のあらゆる事業に欠くことの出来な

[5] 田舎吊り橋 Vol.17 静岡千頭「天地吊橋」【ぶんかびと】, , http://bunkabito.jp/magazine/article_tsuribashi/vol_0017/index.html

猿並橋から遥か先、近づく事すら困難なマイナー吊り橋。

前回紹介した「猿並橋」の先には4本の吊り橋がある。 しかし、ここから先の山は南アルプス深南部。 名前から想像できるように、素人が簡単に入れるような山ではない。 吊り橋へのアクセスは相当に困難で、大げさではなくリアルに命がけである。 猿並橋には「熊出没注意!」の看板があったが、そこから遥か山奥に入って行く訳だから、普通は立ち入る場所ではないのだ。

そんな深い山奥に、嘗ては林業のために造られた吊り橋が何本も存在していた。 しかもその多くがとんでもない高さや長さだったらしく、想像するにとても魅力的な吊り橋だったようだ。 とても残念なことだが、山が深すぎることと、余程ストイックな登山家か渓流釣り師でもない限り人が入らないため、どんどん劣化が進行して崩落し、ワイヤーだけを残して無惨に朽ち果ててしまったようだ。 そんな過酷な環境の中でも、必要なものは修復あるいは架け替えられて残っているのだ。 今回はそんな中の1つ、そんなに目立たないタイプの吊り橋を紹介しよう。

長く危険な道のり。

猿並橋を超えると、突然急勾配の山道を登らされる。 この急勾配は朝日岳を目指す登山道な訳だから当然だ。 少し登ると元々は車道で今は廃道となっている寸又川左岸林道に出る。 ここで朝日岳への登山道とは別れて、延々続くなだらかな上り坂の寸又川左岸林道を北へ歩く。 元々車道なので道幅は広いものの、その道中は落石だらけで驚く程危険。 ガードレールなんかは殆ど落石によって壊れ、崖の下に落ちてしまっている。 更に、場所によっては崖崩れが起きてしまっていて、その崩れた部分を超えて行かなければならないところもあった。

そんな滅多に人が入らない南アルプスの自然の雄大さは半端ではなく、深い山々に囲まれた林道には無数の小さな滝があり、ニホンザルの群れや、ホンシュウジカの他に、天然記念物のニホンカモシカにも出会うことができた。 しかし、もしも出会ったのがツキノワグマだったら・・・・と思うと恐ろしくなる。

延々上り坂の寸又川左岸林道を登って行くと、道が二手に分かれているところに着いた。 ここを左に入ると日向林道で、今度は下り道になる。 日向林道を暫く行くと、遥か下に千頭ダムが見えてきた。ここで長かった林道から別れ、ここからは細い山道を千頭ダムの所まで一気に下ることになる。 こ

[7] 寸又峡 無想の吊り橋 – 雑記, , http://www.seotaro.com/blog/?p=2060

実は通販で頼んでいたタイヤが間に合わなくてスリックタイヤで来てしまいましたが、路面は締まっていて結構走れてしまっています。右手に朝日岳、左手には寸又川を挟んで前黒法師岳を望みながら気持ちよく走れてます。前黒法師岳の山肌には林道寸又川右岸線が併走していてあちらも面白そうです。

起点から15kmぐらい走ったでしょうか、正午を少しまわって12:30、標高1065mの林道分岐に辿り着きました。右側が光岳登山口へ向かう寸又川左岸林道、左側が無想の吊橋に向かう日向林道になります。

地図を見ると光岳登山口まではずいぶん先です。ここまで走った距離の3倍はあってとても日のあるうちには帰れないでしょう。誰が名付けたのか「無想の吊橋(夢想の吊橋、または無双の吊橋とも呼ばれているようです)」は永野さんの本 ※1 で、とにかく怖ろしいということは知っていました。この間の夢の吊り橋が全然物足りないものだったこともあってどうしても見たくなり、吊橋まで往復することにする。

分岐からはいきなり結構な下りになるのですが、こちらの林道は寸又川左岸林道と違いかなり荒れててスピードは上げられません。こぶし大の岩がごろごろしているのですが、ふかふかの落ち葉の下に隠れてしまっているのでかなり神経を使います。

途中、路肩が崩壊してました。役目を終えて廃道となる運命なのでしょうか。

[8] 道路レポート 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区, , http://yamaiga.com/road/itisiro/main2.html

2010/4/19 17:20 【現在地】

渡谷橋を渡ると大井川左岸の大字東藤川に入るが、200mほどで今度は川根路橋(昭和58年竣工)が現れ、県道はそのまま橋を渡って右岸(大字奥泉)に戻る。

この橋の袂に、わずか数軒の家から成る谷畑集落へ下る道が分岐している。

何の標識も見あたらないが、長島ダムや接岨峡および井川(静岡市)方面へ大井川の本流をさかのぼる道は、県道接岨峡線が昭和58年に開通するまで、ここを右折していた。

いまは町道になっているようだが、元は東京営林局の大井川林道であった。

あっという間に家並みは途絶え、川と山に挟まれた1車線の登り道になった。

そこに現れた、吊橋の主塔の跡。

附属して何か小屋のようなものが建っているが、その正体は不明。

しかし橋については、昭和27年の地形図に既に【記載】がある。

この吊橋の次世代が昭和37年の奥泉橋(おそらく最初の車道橋)で、その次が現在ある川根路橋だろう。

なお、奥泉橋は長さ180m幅7mの3連ガーダー橋であったこと以外、詳細不明。(『橋梁史年表』より)

主塔跡付近から眺める大井川の景色。

写真中央奥の山がV字に切れているところが大井川の川谷で、そこから対岸の奥泉集落を孕む形で大きく蛇行して眼下に達している。

少なく見積もっても対岸までの距離は150m以上あり、ここに架かっていた吊橋は、人道用であったにしてもなかなか壮大なものだったろう。

更に進むと、小さなコンクリート橋が現れた。

廃道化こそ免れているが、欄干は一部崩れたまま修理もされず、舗装路のくせに顕著な“ダブルトラック”を見せている。

現在の通行量が、舗装に見合わぬ量でしかないことを教えている。

17:26 【現在地】

入口から350mほど進むと、右後方から別の舗装路が合流してきた。

地形図を見る限りこの道は行き止まりだが、行き止まりには神社と日当たりの良い緩斜面が描かれており、おそらくは茶畑があると思う。

私は直進するが、路面のタイヤ痕は右折側が優勢だ。

直進すると、また橋があった。

橋の右に映っているのはタンクで、沢の水をホースで組み上げて溜めていた。

また、橋の前後の路面が濡れているが、このあたりは山がかなり水気を含んでおり、裸のままの法面から自然に垂れて水たまりを作っていた。

この水たまりを踏んで橋の上にタイヤ痕を残した軽ト

[9] 道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道), , http://yamaiga.com/road/mituno/main5.html

2015/3/10 14:26 【現在地】

大量の食器片や陶器片が散乱する鬱蒼とした杉植林地を東に抜けると、ようやくはっきりとした道の跡に出会う事が出来た。

とはいえ、杉植林地にいたときにはまるで道を見失っていた(地形が緩やかなので形跡がないようだ)わけで、ここで道を見つけたのも、すんなり一発では行っていない。少しうろうろさせられた。

だが、最終的に「緩やかな杉林」から「険しい斜面」に移動する過程を素直に受け入れれば、それは漏斗の中を通るように行動範囲が狭まることを意味しているから、やはり一番自然に足が向いたところに道形は待ち受けていたのである。

思えば、慰霊碑前を出てから初めての明確な道路跡である。これにはホッとした。

14:40 【現在地】

道を見つけてから、しばらくはとても順調に進行し、GPS画面内の現在地も着実に千頭へと近付いていた。

そんな足が十数分ぶりに止まったのは、この写真の場面だった。

これ、 キテ るな…。

確かにここまでも順調とは言いながら、ちょっと岩の配置や崩れ方が違っていたら、一気に難しい場面になりそうだと思う場所が数ヵ所あった気がする。

それがここに来て遂に、良くない方に転んでしまったようだ。

あと一つか二つ、具合の良い岩の出っぱりでもあったら、「これまで」と大差なく、スッと行けたはずなんだよ…。

…なんて、恨み言をいっても始まらない。

むしろ、惰性で危険地に飛び込んでしまう前に、ちゃんと違和感に気付いて足を止めたことを、評価してやろう(自分に対して何様ナンだこの表現w)。

というわけで、正面突破がムリで、高巻きも現実的でない地形となれば…。

残るは“下巻き”ということになる訳だが…

直前に歩いていた部分は、ご覧の通りの 屈託なき回廊状の狭隘絶壁通路…!

眼下20mほどの所には、幸いにして横断移動ができそうな樹林帯斜面が見えているが、まずはその高さまで下りることが一仕事で、結局ここでは50m以上は来た道を戻り、小さな尾根を回り込むために通路の回廊性が薄れたピンポイントを狙って、尾根を下降。

それから眼下に見た斜面を慎重に横断して……

どうにかこうにか、正面突破を諦めた谷筋の直下に到達。

後はここから“桃色の矢印”のように谷を攀じ登り、路肩や橋台の一部だったらしき石垣が僅かに残る路盤(黄色の矢印)へ、復帰したのであった!

寸又峡

寸又峡

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926439521390

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