国道158号

国道158号

[1] 国道158号

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[2] 道路レポート 国道158号旧道 水殿ダム〜奈川渡ダム, , http://yamaiga.com/road/r158_midono/main6.html

2008/7/2 10:23 【現在地(別ウィンドウ)】

この「新入山トンネル」だが、

実は 「しんにゅうやま」ではなく、

「にゅうにゅうやま トンネル」 と呼ぶ。

…と、読者の一人がコメントを下さった(大笑) ←座布団全部上げます。

動と静。

1面2相を一洞に宿した入山隧道。

いま、県道に供された「静」の坑口より脱出なる。

そこにあるものは、我々と、皆様のご想像通り……。

信濃川水系最大の湖、 梓湖(あずさこ)だ。

奈川渡ダムによって貯留された水の総量は1億2300万立方メートルもあり、これは同じ長野県の諏訪湖の2倍の容量である。(アーチダムとしては、全国6位の貯水量)

こうして目前にすると、確かに巨大だ。

しかし、この湖の膨大な水量は湖面の大きさより、その深さによるところが大きい。

沈んでいる谷の深さは、このダム堤体付近で湖面から数えて120mを超えている。

湖の平面形は平仮名の「く」の字を逆さにした形で、ダムはその頂点にある。

向かって左の腕が奈川で、沿う道は境峠を越えて木祖村(県道26号)や、野麦峠を超えて飛騨高山方面(県道39号)へと通じる。

右の腕は梓川の本流で、沿うのは国道158号。安房峠を頂点に飛騨方面へ通じる。

いずれの腕も、上流5km以上にわたって細く長く、そして深い湖水を連ねている。

前回の最後に、「未発見の廃道」を匂わせる記述をしたが、その謎解きは取りあえず後回しにして、少し周辺を確かめてみよう。

その中にも、いろいろとこの「入山隧道」の過去を思わせるものがある。

新入山の西側坑口から出ると、湖面を望む丁字路になっている。

左折方向にも、私にとって思い出の深い“オイシイ隧道”たちが並んでいるが、今回は右折だ。

こちら側も、国道158号と合流するまでの約150mが県道26号に指定されている。

新入山隧道の坑口前の様子。

左写真は、木祖側から坑口へ接近した際に目にする青看。右折して隧道へ侵入することは出来ないことが、シンプルに表現されている。

遠方に見える建物は、道路左がレストハウス、右が「梓川テプコ館」という東電のPR施設だ。

そして、昭和40年代らしくシンプルな作りの坑門。

こちら側からは進入出来ないので、お馴染みの「トンネルナンバーのプレート」も取り付けられてはいない。

代わりに、進入禁止の規制標識が

[7] 道路レポート 国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯, , http://yamaiga.com/road/r158_sawando/main.html

廃道の中の廃道。

皆様にとっての廃道とは、どんなイメージだろう。

草むした砂利道、苔の生えたアスファルト、ひび割れたコンクリート、消えかけた白線、色あせた道路標識、忘れられた路傍の石碑、照明の消えた真っ暗な隧道、落石に埋もれたガードレール、路面を奔る沢水、崩れ落ちた橋や路肩、草いきれのする藪、弱音、諦め、安堵とガッツポーズ…

ここには、それら考えられる要素のほとんど全てのものがある!

廃道の中の廃道とは、決して険しいだけの廃道だとは思わない。

ここには、演出過剰なほどに分かりやすい、“廃道の真景”がある。

それゆえ、以前執筆させていただいた『 廃道をゆく (イカロス・ムック)

』にも、巻頭企画としてこの道を紹介した。

この道を辿ることは、廃道の酸いも甘いも同時に体験することに他ならない。

同書にて一度紹介済みではあるが、本とネットでは表現方法も異なることであるし、今回はより詳細なレポートを作成したい。

都合により、このレポートの完結までには数日間の更新停止を数度挟むと思いますが、なにとぞ気長にお楽しみ下さい。

国道158号は、福井県福井市と長野県松本市を結ぶ約250kmの一般国道で、中部日本の内陸部を東西に連絡する路線である。

この地域には南北方向に走向する地溝および山脈が連続しており、路線内には険しい峠が複数ある。

そのなかでも、北アルプスの穂高連峰と乗鞍岳の間を越える岐阜長野県境「安房(あぼう)峠」は冬期閉鎖を余儀なくされる最大の難所であったが、平成9年に念願の安房トンネルが開通したことで長年の困難は解消された。

だが、この安房峠越えの道。

険しいのは峠だけではなかった。

むしろ、安房峠が飛騨国と信濃国の最短距離にありながら、歴史的には南方に大きく迂回する野麦峠の方が両国を結ぶ街道の本道とされて来たのは、安房峠そのものよりも、その信濃側(長野側)アプローチとなる梓川渓谷の、尋常でない険しさのためであった。

右の地図を見ていただきたい。

密に描かれた等高線の最も密なところ、さらに多数の崖の記号を従えて描かれているのが、梓川渓谷である。

どこまでが谷で、どこからが山腹なのかの区別は難しいが、稜線に対する谷の深さは1000mを下らない。

北アルプスの名を冠するに足る、極めて険しい山岳の描写だ。

そして、梓川の流れに寄り添う、一筋の道がある。

[8] 道路レポート 国道158号旧道 水殿ダム〜奈川渡ダム, , http://yamaiga.com/road/r158_midono/main.html

右図は、安曇三ダムと通称される梓川に連なる3つのダムを中心とした、松本市安曇地区(旧安曇村)のマップである。

3つのダムは、東京電力が昭和30年代以降に開発したもので、主に発電、次いで農業水利と洪水頂設に用いられている。

最も下流の稲核(いねこき)ダムから水殿ダムをへて奈川渡ダム、そしてその上流端である沢渡まで、水面高低差200mを付けながら、梓川には約15kmも湖が連続していることになる。

ダム有るところに、廃道あり。

このセオリーはこの場所でも生きている。

梓川の本流に平行する国道158号はもちろん、奈川渡で南に分かれる県道26号、そして前川渡で分かれる県道84号のいずれにも、当然のように水没を喫した廃道が存在する。

おいおい紹介していくことにもなるだろう。

だが、私にとってこの国道158号の梓川筋は、単に廃道を巡って終わりという、行きずりの場所ではない。

日本中の道の中でも、ここの現国道には殊更おおきな思い入れがある。

右の地図にも描かれているが、奈川渡ダムの周辺はとにかくもの凄いトンネル連続地帯になっていて、明かり区間よりもトンネルの占める距離の方が長いほどなのである。

そして、これらのトンネルが

…幼かった私の心に

…二度と治らぬ病を

…暗くて狭い隧道への飽くなき憧憬を

…植え付けてしまった。

旧安曇村内の国道158号関連のレポートとしては、最も松本寄りの 「猿なぎ洞門(橋場地区)」 を公開済である。

次は水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間をお伝えしたいと思う。

いよいよ、我がオブ心の故郷、トンネル連続地帯にも掛かるレポートになるだろう。

これは、今回のレポート範囲のダムが出来る前の地図。

ちょうどこの地図が描かれた昭和28年に、従来は県道「松本船津線」であった梓川沿いの道が、二級国道158号「福井松本線」へ昇格したのであった。

地図を見ても分かるとおり、この区間には当時隧道はひとつも無かった。

そして、奈川渡付近では谷底を通っていた。

ここは明らかに奈川渡ダムによって水没しているであろうが、一方でその下流の水殿ダムは、必ずしも旧道に影響しなかったかも知れない。

地図を見る限り、水殿ダムから下流の稲核ダムにかけての道は、ダムが出来る以前からかなり高い山腹に付けられていたようだ。

続いて、現在の地形図を見てみよう。

今回

[9] 道路レポート 国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯, , http://yamaiga.com/road/r158_sawando/main8.html

2008/7/2 16:32

国道158号の沢渡〜中ノ湯間にある、長さも旧道化時期も異なる5つの旧道区間を順に攻略してきた我々は、いよいよ 最後のステージ へ。

それが、現道の 赤怒谷トンネル に対応する旧道である。

赤怒谷トンネルは全長396mで、竣工は昭和59(1984)年とされる。

これは全ステージの中で2番目に新しい旧道区間である。また、地図上で測った旧道の長さは450mで、これは 全ステージ中最短 である。

ゲームなら、基本的に最後のステージが一番の難関だが、現実はどうだろう。

なお、スタート直後の沢渡集落で“モナ王”をかじったのは昼時だったが、今ではもう夕方の入口と言って良い時刻になった。

この間に移動した距離は、現道換算ならせいぜい6.5kmといったところだ。(登り坂とはいえ、本来は自転車で30〜60分の距離だ)

旧道はそれよりは少し遠回りだが、ここまでの全ての旧道を途中で引き返さず一発で突破してきたので、旧道経由の移動距離も、おそらく7.5kmくらいでしかないだろう。その中には現道を走った距離も含まれているわけで、時間を使わされる“難所”が多かった事を物語るスロー進行ぶりだった。

泣いても笑っても最後のステージ、がっつり攻略してやるぜ!

現在地は、ステージ4の終了地点から現道を300mほど中ノ湯側に進んだ所にある、赤怒谷トンネルの坑口前だ。

旧道は例によって、この坑口前から左に逸れて入るのだが、その事よりまず目を引くのは、トンネルの山側に聳え立つ巨大な禿げ山の斜面だ。

トンネルの名前が伝えるとおり、この場所の名前は「 赤怒谷(あかぬたに) 」というらしいが、まさにこの一木一草育たぬ赤茶けた谷は、山の怒りのエネルギーが地上にあふれて出来たもののように見えるのだ。

前回までの「白薙ぎ」や「天然開渠」なども、名が体を現す素晴らしいネーミングだったが、今回の「赤怒谷」も負けていない。

なお、赤怒谷トンネルのトンネルナンバーは「19」で、この先の(旧)釜トンネルに「20」の番号が振られている。前者は国道158号、後者は県道上高地公園線と、路線は異なっているが、トンネル番号はひと続きになっている。

そしてこれが、上と同じ位置から撮影した、旧道のある渓谷上流の眺めだ。相変わらず狭い谷を大量の水が迸っている。

だが、その白い波濤の向こうに、明

[16] 道路レポート 国道158号旧道 猿なぎ洞門, , http://yamaiga.com/road/r158_saru/main.html

平成3年10月18日、

国道の現役の洞門が巨大な土砂崩れに呑み込まれ、あっという間に破壊されるという事故が発生した。

しかも、その模様は偶然にも、対岸の集落に住む安曇村役場職員によってビデオ撮影がされていた。

真新しいコンクリートの洞門が、落雷のような轟音とともにひしゃげ、無惨に崩れ落ちて行くショッキングな映像は、当日夕方のニュース映像にも使われており、ご記憶にある方もおいでだろう。

私もおぼろげながら見た記憶がある。

現在もこの映像は土木の世界において各種の解析に用いられているという。

これは、長野県松本市と福井県福井市を結ぶ国道158号上で、関東方面から上高地へと向かう玄関口の安曇村島々地区、「猿なぎ洞門」での出来事だった。

一歩間違えれば、昭和46年に静岡県の国道150号で発生した石部洞門崩落事故や、平成8年に北海道の国道229号豊浜トンネルでの崩落事故のような大惨事になっていただろう。

かくいう私も、かつて乗鞍への家族旅行の行き帰りに何度となく通った洞門だった。

自身にとっても思い出の地である猿なぎ洞門、そして乗鞍への再訪を、私は先日、実に十数年ぶりに果たした。

かつて私がオブローダーとしての資質を醸成させる、その重要な役割を果たした国道158号に、オブローダーとなった私がいろいろと返礼をするというのが目的だった。

詳しくはこのレポートの後に続くレポートで語ることになるだろうが、国道158号こそは幼い私が一番ワクワクする道だったのだ。

十数年ぶりの再訪。

当然、猿なぎ洞門も崩落事故によって廃止されたと思っていたのだが、実際の状況を確かめるのはこれが初めてである。

地図からそれらしい場所のあたりを付けた私は、いよいよ再開の朝を迎えた。

2008/9/9 6:00 【現在地】

ここは新旧道分岐地点… ではない。

目指す猿なぎ洞門は、直進した300mほど先にあるはずだ。

早くも、白っぽい崩壊斜面…この辺では「なぎ」という…が、見えちゃってる。

左の谷は上高地から流れてくる梓川だ。

ここではまず、 【この写真】 と同じアングルを目指すことにする。

撮影地は橋場集落ということであったが、そこはここから左の道を下って梓川を渡った対岸である。

右の地図を見て欲しい。

すでに問題の猿なぎ洞門は廃止され、危険区域をまるまる地中へ逃げる「

[17] 中ノ湯インターチェンジ - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E6%B9%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B8

中ノ湯インターチェンジ(なかのゆインターチェンジ)は、長野県松本市にある安房峠道路のインターチェンジである。平面交差で国道158号に直接接続されている。 このインターチェンジには料金所がないが、平湯ICに設置されている料金所で精算する。

[18] 隧道レポート 釜トンネル , , http://yamaiga.com/tunnel/kama/main2.html

上高地の衛兵こと、釜トンネル。

国道158号に面する中ノ湯側坑口には、新旧の坑口が仲良く並んでいた。

当然我々のターゲットは“釜トン”こと旧隧道だったが、人の目もあり進入は不可能だ。

そこで我々は計画を変更して、上高地側坑口へと向かうことにしたのである。

平成17年に開通したばかりの(新)釜トンネルは全長1310mもあり、完全2車線で防災設備も完備した近代的トンネルである。

だが、この立派なトンネルを通ることが出来るのは、特別な許可を与えられた車…主にバスやタクシーのみである。

それでも、年間200万人を超す上高地の観光客がこぞって通行しているのだから、過剰な設備投資と安易に言えるものではない気がする。

自動車にとってはただの通過地点に変わってしまった“釜トン”だが、一方で今も自由に通行できるチャリにとって、たった一本で145mもの高低差を稼ぎ出すトンネルが印象に残らないはずがない。

「二度はない。」 そう思うほどのほどに苦しい道であった。

その通過にたっぷり20分近くも要していることからも、分かって貰えよう。

2008/7/2 17:21

連続11%の急勾配に耐え抜き、脱出した先は、産屋(うぶや)沢という。

トンネルから続く坂を登りきったところで突如平坦になって短い橋を渡るが、この下の小さな沢が産屋沢である。

釜トンの入口が中ノ湯なら、出口は産屋沢と、昔から知られた名前だという。

釜トン自体のカリスマは失われてしまったとはいえ、梓川の車窓の大なる変貌は、依然として釜トンの存在感を確認させてくれるものだ。

中ノ湯までの車窓はずっと急峻なV字谷の底にあったが、この産屋沢まで来ると、上高地を象徴するあの風景…大正池…を彷彿とさせる、壮大な山間の堆積平野に変わっている。

実際、ここから大正池まではもう2kmほどだ。

川べりを行くこの県道「上高地公園線」も、トンネルであんなに登らされたのがまるで嘘のように、あとは終点上高地までほぼ平坦である。

え? 上高地?

なにそれ? 美味しいの?

…というわけで、 Uターン!

つうか、 Ob ( オブ ) ターン??

nagajisさんとも笑ったんだが、ここまで登ってきて上高地へは行かないとか、どんだけマゾだって話だよ(笑)。

17:22

新トンネル上高地側坑口の目の前で分かれ、梓川河原の方へ急激に下っていく道

[22] 道路レポート 梓湖に沈んだ前川渡(長野県道乗鞍岳線旧道), , http://yamaiga.com/road/maekawado/main.html

これを執筆している平成28(2016)年の夏は、関東地方を中心に降水量が不足しており、各地のダム湖で深刻な渇水が報告されている。

そんなニュースを耳にして思い出したのが、今から8年前の平成20(2008)年8月に訪れた、長野県松本市の奈川渡(ながわど)ダムのことだ。

私は何度がこのダムを訪れているが、このときほどに低い水位を目にしたのは1度きりだ。

今回は、そんな折に行った湖底での廃道探索の模様を紹介しよう。

「ダムある所に廃道あり!」

…という格言があるかは知らないが、アーチ式ダムとして本邦第3位の堤高155mを誇る奈川渡ダムは、諏訪湖の2倍の1億2300万立方mという貯水量を持つ梓(あずさ)湖を、昭和43(1968)年のダム完成と同時に誕生させた。

この巨大な湖は、かつて梓川の川縁を通行していた諸道を水没させ、トンネルばかりが幅を利かせる付替道路へ生まれ変わらせた。

今回紹介するのは、この梓湖に水没した道路のうち、 長野県道84号乗鞍岳線の旧道 (大野川〜前川渡間)である。

現在の地図を見ると、梓川の支流である前川沿いの県道乗鞍岳線は、前川が梓湖に注ぐ1.5kmほど手前で川縁を離れ、3本のトンネルと梓湖を渡る大きな橋によって国道158号と結ばれている。この交差点の名前を 前川渡 (まえかわど)といい、湖に沈む前からあった旧来の地名なのだろう。 (この付近には奈川を渡る所に奈川渡、前川を渡る所に前川渡、根木の沢を渡るところに沢渡(さわんど)といった独特の命名法則があるようだ。)

なお、前川沿いの付替道路は昭和41年に着工され、43年のダム完成時に開通したという記録がある。

一方、県道乗鞍岳線は昭和39(1964)年に初めて県道認定を受けているので、ここには “湖に沈んだ県道” があるはずだった。

多くの水没旧道がそうであるように、現在の地形図には影も形も見えないけれども…。

、ダム完成直後に発行された地形図、昭和47(1972)年資料修正版5万分の1「乗鞍嶽」には、「大野川」という文字のすぐ上でトンネルに入らず右に分岐して、そのまま湖に突っ込む道が描かれている。

合流すべき旧国道も完全に湖面下にあり、この旧道が果たしてどの位置まで辿る事が出来るのかは水位次第と思われたが、実際には水位以外にも探索を難しくする要因があることを、私は現地で理解すること

[24] 中の湯温泉 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%B9%AF%E6%B8%A9%E6%B3%89

[編集] アクセス

鉄道・バス:アルピコ交通上高地線新島々駅より上高地行き路線バスで約45分で中の湯バス停へ。(あるいは松本バスターミナルから高山濃飛バスセンター行き特急バスで約75分。冬季は特急バスのみ。)バス停前の「中の湯売店」からは旅館の送迎車を利用。なお、朝は1回だけ旅館から大正池までの送迎がある。

マイカー:安房峠へ通じる国道158号の旧道沿いにある。ただし、冬季(概ね毎年11月中旬から翌年4月下旬頃)は、旅館へ通じる区間を含む旧道が閉鎖されるため、岐阜県(平湯温泉)側および長野県側双方から旅館まで直接マイカーで乗り入れることができない。このため冬季間は中の湯バス停前の「中の湯売店」から旅館に電話をかけ、安房峠道路の中ノ湯インターチェンジの旧道接続部にあるゲート(中の湯ゲート)を開いてもらう必要がある。

[編集] 泉質

硫黄泉(旅館)

鉄泉(卜伝の湯)

[編集] 温泉地

一軒宿の「中の湯温泉旅館」が存在する。上高地観光の拠点になるほか、焼岳登山の中の湯コースの登山基地としても利用価値が高い。近年は閉山後の上高地を徒歩で釜トンネルを通って訪れる人の基地として使用される例も増えている。

一軒宿はかつて、国道158号と上高地への県道の交差点近くに旅館が存在した。2005年6月まで交互通行だった釜トンネルの信号待ち中、梓川の対岸に存在した旧中の湯温泉の露天風呂に入浴する浴客は、上高地への車窓名物の一つだった。しかし、安房トンネル工事が原因の水蒸気爆発により、安房峠途中の現在地へ移転を余儀なくされる。移転後の現在地からは穂高連峰が遠望できる。

かつての中の湯温泉旅館の場所に近い釜トンネル入り口付近には、中の湯売店と、洞窟風呂である「卜伝の湯」が残る。「卜伝の湯」は30分単位の貸切りとなっており、入浴希望の宿泊者は予約時間に合わせて旅館から送迎車に乗って入浴に行くことになる。卜伝の湯への日帰り入浴は中の湯売店でも受け付けており、空き時間さえあれば外来入浴もできる。

旧旅館があった梓川沿いの場所は、崖地のあらゆる所で温泉が湧出しており、一帯は湯気と温泉の匂いに包まれている。旧中の湯の源泉とは別の野湯も多く存在する。沢渡温泉の源泉も当地にある。但し、旧中の湯の源泉とは別の安房トンネル工事の際に発見された源泉を利用している。旧中の湯の源泉は、現旅館にポンプで汲み上げられるも

[25] 道路レポート 国道158号旧道 猿なぎ洞門, , http://yamaiga.com/road/r158_saru/main2.html

2008/9/9 6:50

でかい!

間近で見ると、洞門は巨大だった。

そして、それ以上に入口を塞いでいる岩の大きいこと!!

こんなものがゴロゴロと落ちてきたのでは、さしもの剛構造物、コンクリート洞門も破壊を免れなかった。

この洞門、見ても分かるとおり、決して古いものではない。

土砂崩れが起きたのは平成3年だが、全長30mの猿なぎ洞門が完成したのは、昭和59年である。

しかも、事故当時はちょうど、洞門を高山側へさらに30m延長する工事中であった。

洞門を破壊した崩壊現場である斜面を見上げる。

まるでスプーンで掬ったような、土砂崩れ跡の特徴的な地形がくっきりと残っている。

しかし、それでも崩壊斜面はコンクリートの真新しい吹きつけで覆われていた。

よくもあんな所で工事したものである。

いつも思うが、高所作業の人たちは本当に、すごい。

道は復旧されることなく廃止されたが、この崖の対岸には集落があるわけで、崩れっぱなしで放置というわけにも行かなかったのだろう。

なお、前編では崩壊の模様が録画および放送されたと書いたが、その映像の一部が 「社団法人 斜面防災対策技術協会 富山県支部」 サイトで見ることが出来る。(“サンプル映像”の最後にちょこっと入っている)

洞門の高さと同じほどもある大岩の脇から、猿なぎ洞門の内部へ進入を試みる。

こりゃ…ひどい…。

洞門が原形を留めている部分でも、内部まで大量の土砂が侵入しており、とても無事とは言えない状況。

舗装されているはずの路面は、少しも見ることが出来ない。

なお記録によると、30mの洞門のうち高山側(こちらは松本側)の10mは、土砂と一緒に川まで押し流されてしまったという。

だから、ここに残っているのは20m足らずということになる。

そして、私はこの時点で、 ある信じがたい異変に気付いてしまった。

目の錯覚だと思いたかったのだが…。

お、おお、 恐ろしすぎる……。

これが、崩れ落ちた大岩を支えている坑門部分。

表面には細かな傷や、コンクリートが剥離した跡が無数にある。

とても四半世紀を経ただけのコンクリート構造物とは思えない傷み方である。

ちなみに銘板は存在しない。

現役当時の写真を見る限り、この洞門に扁額はなく、道路標識と同じタイプの金属製の銘板が取り付けられていた。

その残骸も見られないが、

[26] 上高地 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%AB%98%E5%9C%B0

上高地は、飛騨山脈(北アルプス)の谷間(梓川)にある、大正池から横尾までの前後約10km、幅最大約1kmの堆積平野である。かつて岐阜県側に流れていた梓川が焼岳火山群の白谷山の噴火活動によってせき止められ池が生じ、そこに土砂が堆積して生まれたと考えられている。狭義にはこの平野のうち、観光名所として知られる河童橋の周辺だけを指す場合もある。この高度でこれほどの広さの平坦地は、日本では他に例が少ない。

気候的に山地帯(落葉広葉樹林帯)と亜高山帯針葉樹林の境界線付近の高度に位置しているため、ブナ・ミズナラ・シナノキ・ウラジロモミ・シラビソ・トウヒなど、両者の森林の要素が混在し、更にヤナギ類やカラマツを中心とする河川林や湿原が広がるなど、豊かな植生で知られている。最終氷期(ウルム氷期)には、上高地の上部に位置する槍沢と涸沢には山岳氷河が発達し、もっとも拡大した時期には氷河の末端が上高地最深部の横尾にまで達していたと考えられている。現在も氷河によって形成されたカール地形が残っている。気候は亜寒帯湿潤気候である。1月の平均気温は-7.7℃、最低気温は-20℃を下回り非常に寒さが厳しい。一方、8月の平均気温は19.7℃で日中でも22℃ほどにしかならず夏季はかなり涼しい。

[編集] 上高地の生物

梓川や大正池には渡りをしないマガモが住んでおり、ほとんどの個体は人を恐れない。ニホンザルも通年住んでおり、冬季は下北半島の北限ニホンザルよりも厳しい条件である当地で越冬する。

[編集] 外来種

もともと梓川や大正池にはイワナが優占種として生息していたが、1925年以降カワマス、ブラウントラウトが放流された。現在ではイワナとカワマス、ブラウントラウトの純粋種の他に、放流された3魚種の自然交雑種が生息し、イワナは優占種では無くなった[1]。自然交雑種のF1(雑種第1代)は雑種強勢の特長が現れるが、戻し交配を含むF2(雑種第2代)は繁殖力が極端に弱く雑種崩壊を起こし、純粋種の減少が進んでいる[2]。

上高地に生息するゲンジボタルが、人為的に持ち込まれた可能性が高いと、安曇野市が2010年11日に長野市で開いた研究会で民間の自然環境調査団体が発表した。ゲンジボタルは2000年ごろから梓川沿いの池で確認されるようになり、上高地の水温は年間通して10度以下で、ホタルの成育に適さないが、この池は温泉の影響

[27] 道路レポート 奈川渡ダムの謎の道, , http://yamaiga.com/road/nagawado/main5.html

2008/9/8 17:43

現在地は地形図に描かれている道から少し外れ、もっと高いところにいると思われる。

いずれにしても、ダムを支える側壁とでも言うべき コンクリートガチガチの山腹 は、かなり近づいているはずだ。

いったいこの遊歩道はどのようにして、ダムの駐車場を目指すのだろう。

スパルタンな鉄階段が終わると、久々に地に足の着いた道が現れた。

が、実際には、木製桟橋がことごとく崩れ落ちた跡だと思われる。

素直に遊歩道だと考えるにはさすがに狭すぎるし、この急斜面、いくら何でも手すりくらいはあっただろう。

倒木とは違う質感をもった木片も、辺りには散乱している。

自他共に認める“キノラー”である私にとって、廃道に育つキノコは特別な存在である。

廃道の養分を吸って育つキノコには、何かその道の情念チックなものが宿っているようにさえ思う。

まるで何かを訴えかけてくるかのような、異様なデカキノコである。

ひょろ長い姿は端正といっても良いだろうが、大きすぎてグロテスクになっている。

私にしては珍しく、このキノコは破壊しなかった。

や、 やべーな…。

桟橋が無くなっている状態でここを進めというのは、スパルタにも程がある。

それでも何となく進めてしまいそうに見えるのは地面に土があるからだが、この土というのもだいぶ信用のならないものだ。

裸の岩の上に薄く落ち葉が乗っているだけでも、土があるように見えてしまうのだから。

どうしようか…。

ここまで来たからには、ぜひ突破したいが……。

とりあえず、いけるところまで前進してみることにする。

実は目指すべき地点もはっきりしないのであるが…。

振り返ってみても、私が踏んだ痕跡がうっすら残っているだけで、道らしいものは皆無だ。

あまりの状況に、焦り始める。

このままにっちもさっちもいかないような場所に入っちゃったらどうしよう。

前方が、嫌に明るい。

そこには、巨大なダムの堤体と、その向こうにある夕焼け色の湖面が見えた。

この明るさは、むしろ嫌な予感がする。

オブローダーとしては、ダムから丸見えのような場所には出たくないというのが一つ。

そしてもう一つは、土があり岩があるという本来の斜面に較べ、人工的な壁はいかんともし難いという、先行きへの不安である。

やや登りながらも水平移動を意識しながら進んでいくと、小さな尾根に

[29] 道路レポート 長野県道26号 奈川木祖線 奈川渡ダム〜奈川, , http://yamaiga.com/road/npr26_nagawa/main.html

【周辺地図(別ウィンドウ)】

このレポートは、「 道路レポート 国道158号 水殿ダム〜奈川渡ダム 」の続編である。

nagajis氏とタッグを組んで梓川筋の隧道・旧道・廃道を手当たり次第に攻略する旅は、その重要な経由地である奈川渡ダムに到達後、少し寄り道をすることにした。

ターゲットは、奈川渡で国道158号より分岐して旧奈川村から木祖村方面へ繋がる県道26号「奈川木祖線」にある、4本の隧道たちだ。

水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間にも5本の隧道があったが、ダムへのもう一つの接近路である県道26号にある隧道は4本。

由来もダム工事に関する路線の付け替えということで前者と共通する。

なお、前回レポートの冒頭でも語ったとおり、私にとってこの一帯は、 “トンネルではない「隧道」への目覚め” のエリアである。

特に我が家では、毎回この県道26号から梓川筋へ入っていた憶えがある。17.8年も前だから、当時は長野自動車道も未完成で、東京方面からの入路として必ずしも松本経由は最短ではなかったのかも知れないし、ハンドルを握る親父の好みだったのかも知れない。(帰りはいつも松本経由だったので)

ともかく、今回の探索では最後に遭遇することになるだろう「角ヶ平隧道」こそ、幼少の私にとって、 なぜだか分からないが興奮する隧道達との出会いと再開の場所 であった。

そこは、今日の ヨッキれんの原点 であるといっても、決して過言ではないはずだ。

大人になって初めて… 十数年ぶりの再会。

果たして隧道は、どうなっているのだろう。

地図を見る限り、当時と同じで5本健在であるようだが…。

ナガジスさん、すまないね〜。 俺の思い出拾いにつきあわせちゃって…。

「 イイヨイイヨー 」

読者さんにも、すまないね〜。

2008/7/2 10:24

県道26号の起点は、入山隧道内部の洞内分岐地点と、そこから約200m離れた奈川渡ダム交差点の、合計2箇所あることになる。

だが、そう厳密に考えなくても、起点から約200mほどで両者は合流する。前回紹介した、新入山隧道の坑口前の交差点で。

左の写真は、そこからさらに100mほど南へ進んだ地点だ。

早速、県道26号として1本目の隧道が見えている。

右に広がる広大な水面は、これでほぼ満水位の梓湖だ。

この湖面は、かつての梓川の右支流奈川を5k

[30] 道路レポート 長野県道26号 奈川木祖線 奈川渡ダム〜奈川, , http://yamaiga.com/road/npr26_nagawa/main3.html

2008/7/2 11:07

宮ノ下隧道の旧道、北側の入口として考えられるのはここしかない。

この道は入山集落へ向かうための市道であり、当初旧道とは無関係と判断し素通りしていた場所だが、交差点の形を少し変えてやれば確かに旧道らしい。

全長600mを越える長大な廃隧道。

その洞内アプローチへの希望を胸に、いざ北口へ接近開始!

旧道へ右折する。

写真右の路肩を見て欲しい。

擁壁やガードレールが路面の高さに合っていないが、これは新道に据え付けを行う際、旧路盤を掘り下げていることを意味している。

少し進むと、前方を行くnagajis氏がチャリを止めた。

…見てますね。

nagajisさん、魅入ってますね。

廃隧道。

全長600mクラスの廃隧道は、沢山ありそうで意外に数が少ない。

なかなかのレア物件である。

でた。

旧宮ノ下隧道。

この北口は僅かな廃道さえ従えず、現役道路脇に唐突な坑口を残していた。

誰が見てもトンネル(隧道)と分かるものが、まったく遺跡のようになって放置されている姿は、かなりシュールである。

オブローダーの世界でもう少しメジャーな物件になっていても不思議はない。

そんなハイインパクトな風景だ。

遠目にはかなり大きな坑門に見えたが、近づいてみてその理由が分かった。

もしこれが煉瓦造りならば“ねじりばんぼ”になったのではないかと思えるような、スキューした坑門だったのだ。

軸方向に対し、坑門の面は30度近く斜行している。

山岳トンネルとしては非常に珍しい。そう言っても差し支えがない程のスキュー坑門である。

なぜこれほど大きくスキューしているのかを考えてみたが、よく分からない。

少しでもコンクリートの使用量を抑えようとしたのだろうか…。

立地の異様さに肝を抜かれ、肝心の報告が遅れた。

まことに残念ながら、こちらも坑口は塞がれていた。

南口同様、コンクリート壁と土盛りと土嚢の山というふうに、念入りだ。

使われなくなった40km/h制限の道路標識が、スキューの分だけ残った洞内に投棄されていた。

また、写真には写っていないが、南口同様の標識類が坑口に取り付けられている。

目立つカーブミラーは、後付けのものだと思う。

県道が現役だった当時から、ここは入山集落へ向かう道との分岐地点ではあったはずだが。

洞内から見晴らす坑口前の風景。

この立地は、「

[31] 隧道レポート 国道27号旧道 吉坂隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/kissaka/main2.html

吉坂隧道の東口は、どこにある?

前回、西口を発見したが、内部は落盤のため坑口からわずか20mほどで完全に閉塞していた。

隧道の通り抜けができなかったので、今度は東口を探してアプローチしたい。

ただ、東口の位置については、大きな謎があった。

それは、「 大鑑 」に本隧道の全長として記載されている141.5mという数字は、峠を潜り抜けるには短すぎるという問題だ。

右図に付した青丸は、西口を中心に描いた半径141mの円だが、この長さでは到底峠を貫くことが出来ないのである。

極端にトンネル内部の勾配を大きく取れば、吉坂峠の頂上辺りに抜けることは不可能でないかも知れないが、それはあまりにも不自然である。

…結論として、 「大鑑」のこの数字は誤りなのだ。

しかし、それは現地探索も机上調査も終えた今の見解であり、探索前の段階では東口の位置を考える上での大きな障害になっていた。

前回の冒頭でも述べた通り、吉坂隧道はそれが極端に短命な存在であったためか、歴代の5万分の1地形図に正しい姿で描かれたことがない。

そのため、発見できないことへの警戒が普段よりも強くあり、そのためやや念入りの事前調査を行ってから探索に望んだ経緯があった。

旧地形図に代って旧隧道の位置確定の役に立ってくれたのが、古い航空写真だった。

右図は 昭和27(1952)年の航空写真 だが、ここにお目当ての吉坂隧道が写っており、坑口前後の道から坑口の位置を推測することが可能である。

そして、変化後の画像はそれから11年後の 昭和38(1963)年 に撮影されたものである。

2枚の写真を比較してみると、この短い期間に吉坂隧道の西口に通じる「旧道」は、完全に見えなくなってしまった。

新トンネル(青葉隧道)建設に伴う残土(ズリ)で埋め立てた可能性が高そうである。

そして懸案である東口の位置であるが、 青葉隧道の東口から非常に近い位置に存在していたように見える。

…場所はだいたい分かったが、これはこれで新たな懸案事項となってしまった。

下手したら建設位置が重なってしまっていて、そのために旧坑口が破壊されてしまった可能性もありそうだ。

(だから今回は西口により大きな期待を抱いていたのだが、閉塞していたものは仕方ない。)

2016/10/17 16:27 《現在地》

これから現道の青葉隧道を通って、吉坂隧

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