雑炊橋

雑炊橋

[1] 雑炊橋 (ぞうすいばし) , 雑炊橋 (ぞうしばし)

Webページ

[2] 道路レポート 国道158号旧道 猿なぎ洞門, , http://yamaiga.com/road/r158_saru/main.html

平成3年10月18日、

国道の現役の洞門が巨大な土砂崩れに呑み込まれ、あっという間に破壊されるという事故が発生した。

しかも、その模様は偶然にも、対岸の集落に住む安曇村役場職員によってビデオ撮影がされていた。

真新しいコンクリートの洞門が、落雷のような轟音とともにひしゃげ、無惨に崩れ落ちて行くショッキングな映像は、当日夕方のニュース映像にも使われており、ご記憶にある方もおいでだろう。

私もおぼろげながら見た記憶がある。

現在もこの映像は土木の世界において各種の解析に用いられているという。

これは、長野県松本市と福井県福井市を結ぶ国道158号上で、関東方面から上高地へと向かう玄関口の安曇村島々地区、「猿なぎ洞門」での出来事だった。

一歩間違えれば、昭和46年に静岡県の国道150号で発生した石部洞門崩落事故や、平成8年に北海道の国道229号豊浜トンネルでの崩落事故のような大惨事になっていただろう。

かくいう私も、かつて乗鞍への家族旅行の行き帰りに何度となく通った洞門だった。

自身にとっても思い出の地である猿なぎ洞門、そして乗鞍への再訪を、私は先日、実に十数年ぶりに果たした。

かつて私がオブローダーとしての資質を醸成させる、その重要な役割を果たした国道158号に、オブローダーとなった私がいろいろと返礼をするというのが目的だった。

詳しくはこのレポートの後に続くレポートで語ることになるだろうが、国道158号こそは幼い私が一番ワクワクする道だったのだ。

十数年ぶりの再訪。

当然、猿なぎ洞門も崩落事故によって廃止されたと思っていたのだが、実際の状況を確かめるのはこれが初めてである。

地図からそれらしい場所のあたりを付けた私は、いよいよ再開の朝を迎えた。

2008/9/9 6:00 【現在地】

ここは新旧道分岐地点… ではない。

目指す猿なぎ洞門は、直進した300mほど先にあるはずだ。

早くも、白っぽい崩壊斜面…この辺では「なぎ」という…が、見えちゃってる。

左の谷は上高地から流れてくる梓川だ。

ここではまず、 【この写真】 と同じアングルを目指すことにする。

撮影地は橋場集落ということであったが、そこはここから左の道を下って梓川を渡った対岸である。

右の地図を見て欲しい。

すでに問題の猿なぎ洞門は廃止され、危険区域をまるまる地中へ逃げる「

[3] 梓川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%B7%9D

[編集] 地理

長野県松本市の北西に位置する飛騨山脈(北アルプス)槍ヶ岳に源を発し南流する。上高地で大正池を形成し、梓湖(奈川渡ダム)に注ぐ。島々宿で東に向きを変え、新淵橋を過ぎたところから右岸の波田と左岸の梓に河岸段丘をつくる。松本市大字島内で奈良井川を合わせ犀川と名を変える。奈良井川との合流点手前のラーラ松本付近では拾ヶ堰や勘左衛門堰が地下横断をする。

[編集] 歴史

仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、保高見ノ熱躬(ほたかみのあつみ:後に「熱躬」を「安曇」と改称)が郡司であったため熱躬郡(あつみぐん)とし、境界の川も「熱躬川(あつみがわ)」とした。この熱躬川が、天智天皇7年(668年)に「梓川」と改称された[1]、とある。「熱躬川」であったにもかかわらず、梓川を「あつみがわ」ではなく「あずさがわ」と呼ぶ理由としては、二十巻本の和名抄(巻5)で、信濃国安曇郡を「阿都之(あつし)」と訓じてあることがあげられる。この「あつし」の訓は、「あづさ」の音にきわめて近い。

一方で、流域は古来より梓の産地であり、梓弓の材料として朝廷にも献上されていて、このことが川の名前の由来になったとも言われている[2]。

[編集] 利水

梓川の水は、発電用と、農業用灌漑のために、古くから用いられてきた。このため、新淵橋よりも下流の松本盆地での流量は豊かだとは言えない。

[編集] 発電用

水路式発電所は上高地に近い上流から、盆地部に下りての昭和電工赤松発電所・梓水力発電所まで、流域の各地に造られて古くから稼働してきた。1969年(昭和44年)11月には、奈川渡ダム、水殿ダム、稲核ダムの梓川3ダムが完成した(それまで梓川にはダム式発電所がなかった)。この梓川3ダムは揚水発電所として運用され、電力需要の多い時間に発電のためにいったん下流に放水された水を、電力需要の少ない夜間に再度揚水して上流のダム湖にためるようになっている。このために、下流のダム湖の上端が上流のダムの下まで来るように造られている。

[編集] 灌漑用

「堰」は一般には、川を堰き止める構造物をさすが、松本盆地ではその堰から取水して水を流す人工河川をも「堰」(読みは「せぎ」)といい、たくさん存在する。梓川から取水するものだけでなく、烏川から取水する烏川

[4] 道路レポート 国道158号旧道 猿なぎ洞門, , http://yamaiga.com/road/r158_saru/main2.html

2008/9/9 6:50

でかい!

間近で見ると、洞門は巨大だった。

そして、それ以上に入口を塞いでいる岩の大きいこと!!

こんなものがゴロゴロと落ちてきたのでは、さしもの剛構造物、コンクリート洞門も破壊を免れなかった。

この洞門、見ても分かるとおり、決して古いものではない。

土砂崩れが起きたのは平成3年だが、全長30mの猿なぎ洞門が完成したのは、昭和59年である。

しかも、事故当時はちょうど、洞門を高山側へさらに30m延長する工事中であった。

洞門を破壊した崩壊現場である斜面を見上げる。

まるでスプーンで掬ったような、土砂崩れ跡の特徴的な地形がくっきりと残っている。

しかし、それでも崩壊斜面はコンクリートの真新しい吹きつけで覆われていた。

よくもあんな所で工事したものである。

いつも思うが、高所作業の人たちは本当に、すごい。

道は復旧されることなく廃止されたが、この崖の対岸には集落があるわけで、崩れっぱなしで放置というわけにも行かなかったのだろう。

なお、前編では崩壊の模様が録画および放送されたと書いたが、その映像の一部が 「社団法人 斜面防災対策技術協会 富山県支部」 サイトで見ることが出来る。(“サンプル映像”の最後にちょこっと入っている)

洞門の高さと同じほどもある大岩の脇から、猿なぎ洞門の内部へ進入を試みる。

こりゃ…ひどい…。

洞門が原形を留めている部分でも、内部まで大量の土砂が侵入しており、とても無事とは言えない状況。

舗装されているはずの路面は、少しも見ることが出来ない。

なお記録によると、30mの洞門のうち高山側(こちらは松本側)の10mは、土砂と一緒に川まで押し流されてしまったという。

だから、ここに残っているのは20m足らずということになる。

そして、私はこの時点で、 ある信じがたい異変に気付いてしまった。

目の錯覚だと思いたかったのだが…。

お、おお、 恐ろしすぎる……。

これが、崩れ落ちた大岩を支えている坑門部分。

表面には細かな傷や、コンクリートが剥離した跡が無数にある。

とても四半世紀を経ただけのコンクリート構造物とは思えない傷み方である。

ちなみに銘板は存在しない。

現役当時の写真を見る限り、この洞門に扁額はなく、道路標識と同じタイプの金属製の銘板が取り付けられていた。

その残骸も見られないが、

履歴

[5] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926422716944

メモ