この机上調査で解明したい、国道256号の “地形図に描かれていない区間” に関する最大の「謎」は、
並行する県道があるのに、廃道状態の国道が放置されているのはなぜか?
道路界広しといえども、なかなか見られない不自然な現状に対して、納得出来る理由を見出そうというのが、この机上調査の最終目的である。
道路に関する謎を解き明かすセオリーは、来歴を調べることだ。
道の現状を見ただけでは分からないことは多い。現に私も現地探索だけでは上記の謎の答えを導き出せなかった。
まずは、今回探索した道がどのような経緯で誕生したのかという来歴を探ることから始めよう。
なお、今回私が探索したのは、伊那山脈を越えて伊那谷と遠山谷という2つの生活圏を結ぶ歴史的な峠道である 小川路峠 の一部だ。
本稿では小川路峠や秋葉街道についての一般的解説はほぼ省略したが、 小川路峠は近世に秋葉街道として大いに発展し、近代以降も引き続き地方交通の主流となるべく改良を目論まれたものの、車道化が難しい険阻な地形に邪魔されて思うようにならなかった“苦闘の峠道”である ――というくらいの大まかな認識で大丈夫なように書いたつもりだ。
第1章: 旧版地形図には描かれていた “地形図に描かれていない国道”
�@ 地理院地図(現在)
�A 昭和26(1951)年
�B 明治44(1911)年
まずはいつものように、旧版地形図のチェックから。
ここに掲載した地理院地図、昭和26(1951)年版、明治44(1911)年版からなる3世代の地形図を見比べてみると、 “地形図に描かれていない国道”の正体は、明治以前から存在していた古道だったことがはっきり分かる。
明治と昭和のどちらの地形図でも、道は「府縣道」であることを示す太い二重線で描かれており、かつ「荷車が通れない=車道ではない」ことを示す片破線になっている。また、途中の2kmごとに水準点の記号が描かれており、険しい山道でありながら幹線道路として重視されていたことが伺える。
もっともこれについては、現地探索中に石垣や道形を前にさんざん「古道」とか「近代車道」と言っているので、予想通りである。
どう見てもあれは近年の国道指定時に急ごしらえで作られた道ではなく、古くからあった道だった。この国道に限らず、当サイトがこれまで紹介してきた多くの不通国道や不通県道が古道を路線に指定