三信鉄道

三信鉄道

[1] 三信鉄道

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[2] ミニレポ第220回 飯田線(三信鉄道) 我科駅跡, , http://yamaiga.com/mini/220/main.html

【周辺図(マピオン)】

飯田線の温田(ぬくた)駅と為栗(してぐり)駅の間に、かつて我科(がじな)駅があった。

開業日は昭和11(1936)年4月26日で、私鉄の三信鉄道が温田駅から満島駅(現:平岡駅)まで延伸されたその日に、為栗、遠山口(現在は廃止)の両駅と共に設置された由緒ある開業初期の駅だった。

だが、開業からわずか6年後の昭和18(1943)年8月1日に、我科駅は廃止される。

この日は、三信鉄道を含む4社の私鉄線が一斉に国有化され、豊橋〜辰野を結ぶ全長195km余りの国鉄飯田線が誕生した日である。

我科駅があった場所は、豊橋起点から100.9kmの地点で、 隣接する温田駅から1.3km 、為栗駅から2.4kmの距離だった。

随分と駅間の狭いことに驚きを覚えるが、私鉄由来である飯田線は元よりローカル線としては駅間距離の特に短い事で知られており、全長195.7kmに94もの駅が置かれている。そこから導き出される平均駅間距離は2.1kmで、これは東京近郊を走るJR横浜線(全長42.6km、駅数20)に近い。

ご存知の通り、飯田線沿線の人口密度は全国的にも低い水準であり、その割に駅間が短いのだから、この路線に多数の「秘境駅」が出現しているのも頷ける。

もっとも、この温田〜我科の駅間距離1.3kmというのは飯田線の水準で見ても短距離であり、東京都心にあるJR山手線(34.5km、29駅)の平均駅間距離に近い。山手線の一駅程度なら、現代人の我々でも歩いていいかなと思える。そんな立地条件が廃駅の理由になったかは、資料もなく定かで無いが、とにかく我科駅は国有化に伴って必要性を篩(ふる)われ、あえなく棄てられた。

なお、『飯田線百年ものがたり』(平成17(2005)年/新葉社)によると、昭和18(1943)年の飯田線国有化に伴い廃止された駅は我科だけではなかったようだ。

このときの廃止駅は、柿平、池場、三信上市場、早瀬、我科、開善寺前、気賀、高遠原、伊那赤坂、大田切、入舟、西町、船町と、伊那電気鉄道に属していた区間を中心に多数あった(三信鉄道区間では我科のみ)。さらに、昭和20年から25年にかけてこの廃止駅の多くが復活を果たしており、未だ廃止されたままなのは、開善寺前、伊那赤坂、入舟、それに我科という少数に過ぎない。

我科駅の所在地を地図上で見ると、右図の通

[3] 飯田線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E7%B7%9A

概要[編集]

開業・ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。長野県の上諏訪駅から愛知県の豊橋駅まで各駅停車で直通する列車もあり、辰野駅から豊橋駅までは約6時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。1983年までは旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。

もともと直結した4社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅はほぼ開通時の沿線集落ごとに設けられている。このため駅間距離が旧国鉄の地方路線としてはとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある[1]。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また地方鉄道の簡易な規格で建設されたことから速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40‰で、信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)が廃止された現在ではJR最急勾配である。

豊橋駅 - 豊川駅間はIC乗車カード「TOICA」の利用エリアに含まれている[2]。

路線データ[編集]

管轄・路線距離(営業キロ):

東海旅客鉄道(第一種鉄道事業者):

豊橋駅 - 辰野駅間 195.7km

日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者):

豊橋駅 - 豊川駅間 (8.7km)

元善光寺駅 - 辰野駅間 (61.9km)

軌間:1067mm

駅数:94駅(起終点駅含む)

飯田線所属駅に限定した場合、起終点駅(豊橋駅は東海道本線、辰野駅は中央本線支線の所属[3])が除外され、92駅となる。

複線区間:

複線:豊橋駅 - 豊川駅間(豊橋駅 - 平井信号場間は名鉄名古屋本線と共用。詳細は後述)

単線:豊川駅 - 辰野駅間

電化区間:全線電化(直流1500V)

閉塞方式:自動閉塞式(特殊)(豊川駅 - 辰野駅間)

保安装置:ATS-PT(豊橋駅 - 平井信号場間はM式ATSを併設)

最高速度:85km/h

運転指令所:東海総合指令所

全線がJR東海東海鉄

[4] 道路レポート 町道 半場神妻線, , http://yamaiga.com/road/ootuki/main2.html

2013/3/15 6:35 【現在地】

いま来た道を振り返る。

飯田線の坑門があまり大袈裟なので、その傍らで町道の方は肩身が狭そうである。

というような印象だけの話ではなく、実際に狭いでしょ。狭すぎるでしょ!

幅1.6mでさえあったように見えないのは、おそらくこの坑門が鉄道開業当初…つまり、三信鉄道として初めて誕生した昭和9(1934)年当時のものでは無くて、後に町道を少し呑み込むようにして改築されたためではないかと思う。この鉄道トンネル…名前を大月トンネルというのだが(町道にあるというトンネルと同じ名前だ)、その傾斜の付いた坑門は、三信鉄道当時の物ではあり得ない。

肩身が狭いよ〜。狭いよ〜。

線路と道路が極めて近接しているのだが、両者の間に柵がないのが怖い。

この道を走行しているときに列車が来たら、間違いなく緊張で身を堅くすることになるだろう。

鉄道の写真を撮影するのにはいいかもしれないが、悪い事はしていないのに警笛を鳴らされかねない近さだ。

余計な心配をかけたくないので、この区間は早く通りぬけた方が吉だな。

幸い路面はただの土道で悪くないので、自転車で速やかに通過することにした。

150mほど進むと、線路と道路の間に微妙な高低差が出て来たので、私は線路側から見つかる心配が無くなり、胸をなで下ろした。

だが良い事ばかりではなかった。

藪が濃くなってきたんダヨ…。

これは、夏場の通行は相当厳しそうだ。

春先に探索しても、刈払われていない去年の夏草が首くらいの高さまで残っていて、自転車を漕ぎ進めるのに苦痛を感じた。微妙に下り坂だったのは救いだったが。

一方、ここで川に目を向けると、天竜川と大千瀬(おおちせ)川の出合いが作り出す雄大な氾濫原を見渡せた。

中央やや左の一際深い谷から天竜川が流れ出ている。

その出口に近い所に日本最大級の佐久間ダムが建造されたことで、今ではかつての“暴れ天竜”の凄みを見せることは滅多にないが、氾濫原を含めた川の幅は往時と変わっていないのだろう。

6:38 【現在地】

おおっ!

なかなか小気味の良い風景が現れた。

側面に「9」の数字がペイントされた小ぶりなプレートガーダー橋が、手の届きそうな低い高さに現れたかと思えば、そのまま「8、7、6、…」という風に最後の「1」まで同じものが並んでいた。

まるでそれは、楽しみにしてい

[7] 道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間, , http://yamaiga.com/road/r256_kami/main5.html

この机上調査で解明したい、国道256号の “地形図に描かれていない区間” に関する最大の「謎」は、

並行する県道があるのに、廃道状態の国道が放置されているのはなぜか?

道路界広しといえども、なかなか見られない不自然な現状に対して、納得出来る理由を見出そうというのが、この机上調査の最終目的である。

道路に関する謎を解き明かすセオリーは、来歴を調べることだ。

道の現状を見ただけでは分からないことは多い。現に私も現地探索だけでは上記の謎の答えを導き出せなかった。

まずは、今回探索した道がどのような経緯で誕生したのかという来歴を探ることから始めよう。

なお、今回私が探索したのは、伊那山脈を越えて伊那谷と遠山谷という2つの生活圏を結ぶ歴史的な峠道である 小川路峠 の一部だ。

本稿では小川路峠や秋葉街道についての一般的解説はほぼ省略したが、 小川路峠は近世に秋葉街道として大いに発展し、近代以降も引き続き地方交通の主流となるべく改良を目論まれたものの、車道化が難しい険阻な地形に邪魔されて思うようにならなかった“苦闘の峠道”である ――というくらいの大まかな認識で大丈夫なように書いたつもりだ。

第1章: 旧版地形図には描かれていた “地形図に描かれていない国道”

�@ 地理院地図(現在)

�A 昭和26(1951)年

�B 明治44(1911)年

まずはいつものように、旧版地形図のチェックから。

ここに掲載した地理院地図、昭和26(1951)年版、明治44(1911)年版からなる3世代の地形図を見比べてみると、 “地形図に描かれていない国道”の正体は、明治以前から存在していた古道だったことがはっきり分かる。

明治と昭和のどちらの地形図でも、道は「府縣道」であることを示す太い二重線で描かれており、かつ「荷車が通れない=車道ではない」ことを示す片破線になっている。また、途中の2kmごとに水準点の記号が描かれており、険しい山道でありながら幹線道路として重視されていたことが伺える。

もっともこれについては、現地探索中に石垣や道形を前にさんざん「古道」とか「近代車道」と言っているので、予想通りである。

どう見てもあれは近年の国道指定時に急ごしらえで作られた道ではなく、古くからあった道だった。この国道に限らず、当サイトがこれまで紹介してきた多くの不通国道や不通県道が古道を路線に指定

履歴

[8] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926421143530

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