ハルハ

ハルハ

[1] ハルハ

Webページ

[2] 「モンゴル・ノモンハン戦跡研修」, , http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm

海外研修報告

草原の戦跡を訪ねて(2)

常務理事 高橋 義洋

モンゴルの大草原、道なき道を3百キロ走破

首都ウランバートルから約6百キロ、モンゴルの最東端にあるドルノド県(北はロシア、東と南は中国と国境を接している)の県都チョイバルサンを出発して一路東へ3百キロのキャラバンが始まったのは6月27日13時50分であった。

その日、ウランバートルから1時間20分程のフライトで到着したチョイバルサン空港は一面に短い草がまだらに生えた平地の中にあって、見渡す限り360度地平線が遙かに見える。

これが滑走路かと疑問に思えるような荒っぽいコンクリート舗装、辺りには航空機の掩体と見られるものが散在している。

聞けば、この空港は元来ソ連軍により作られたもので、1990年の民主化までは約1万人のソ連軍がチョイバルサン一帯に駐屯していた(町の郊外に、当時のソ連軍が使用したであろうそれらしき施設の残骸がかなり広い地域に残っているのを見た)という。

そうだとすれば、あの掩体は中ソ対立厳しい頃、中国の攻撃に備えたものであろうと納得。

空港に我々を迎えたのは7両の四輪駆動車(トヨタ・日産各1両の他はロシア製の車両)の車列、全員分乗して空港から15分ほどの市内のホテルへ向う道路の状況は、四輪駆動車が出迎えたことを納得させるにふさわしいものであった(尤もその後のキャランバンに比べれば、序の口とは後で気付いたこと)。

チョイバルサンの町は人口3万というが、広い平原にまだらに集落が散在するような寂しげな町で、それでもさすがに中心部にはちょっとした街並みがあり一応設備の整ったホテルもある。

昼食を摂ったホテルの従業員に尋ねると「日本人を見たのは初めてだ」とのことで遥々着たかの感を強くした。

町のはずれに遠くウランバートルの北東部から延々と流れてきたヘルレン河がある。

この水が更に東進してハルハ河と合流し、中ソ国境のアルグン河更にアジア最大のアムール河となって太平洋に注ぐ、なんと4千5百キロの流れかと考えると気が遠くなる思いがする。

この町はチョイバルサンの出身地ということで名付られた。

チョイバルサンは1920年、スヘバートル(既述)等と共にソ連政府に選ばれてモスクワで共産主義の洗脳を受け、後日モンゴル人民革命(1921年)を指導した七人の一人。

スヘバートル(人民軍総司令官)の死

[3] コラム-Circuit(34), , http://nodahokubu.web.fc2.com/column4/column34.html

7月30日。06時。洋子さん、ひとみさん、吉郎少年、つれあい、わたしは空港へ向かうべく部屋をでて、アパートの門前で通訳のガル青年と落ち合う。ところが、予約しておいた迎えの車がきていない。運転手に携帯電話をかけるが通じない。タクシー会社もこの時間なので埒があかない。アパート前の道路に車を停めてたむろしていた連中(こんな早朝に彼らは何をしているのだろう、たむろしているとしかいいようがない)に、かたっぱしから、空港まで行ってくれないか、と声をかける。ひとりがOKして、彼の車で出発する。こういう、自家用車をタクシー代わりにつかうのは(日本流にいえば“白タク”)、ウランバートルではよくあることだという。街角に立って手を上げていると自家用車が止まる。行き先と値段の交渉をして折り合えば、変じてそれはタクシー(白タク)と化す。料金相場もきまっていて、正規のタクシーとほぼおなじく1km=300Tg(トゥグリク、約30円)である。走りだすとドライバーは車の走行距離メーターを0(ゼロ)にする。これで目的地までの公正な距離が計られるわけである。

白タクが走りだし大通りへでて、ヤレ一安心と思ったのもつかのま、車のスピードが上がっていかない。ドライバーはしきりにアクセルを踏むがフカフカと頼りなげな音がするだけで、そのうち止まってしまう。アクセルの故障である。フライトが07時20分なのでいささか焦る。この車を捨て、交通量はすくないがともかく走っている車を止めまくって、やっと1台と交渉がまとまる。走りだしてしばらく、市街地から空港へ向かう道路へでたところで霊柩車にでくわす。われらの行く手をふさぐがごとく走る霊柩車は、日本製のあの霊柩車である。えっ、この時間に葬式なの! まさか、まだ午前6時を回ったばかりである。それよりなにより、モンゴルの葬儀で霊柩車をつかうのか。死者を運ぶ車はあるだろう。目のまえを行くのは日本から輸入された霊柩車にはちがいないが、この車がこの地で日本とおなじ目的でつかわれているとは思えない。だとしたら何に利用されているのだろうか。!と?をいっぱい乗せたまま白タクは霊柩車を追い越し、とばしにとばして空港へと走りこんだ。なにやら、われらの前途に多難ありとおもわせる旅立ちであった。

07時20分、EZA909便(30人乗りのプロペラ機)はチンギス・ハーン空港を離陸し、チョイバルサンへ向

[5] トゥヴァ人民共和国 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

この地域は、元代のタンヌ・ウリャンハイ(英語版)(漢字表記:唐努烏梁海)に相当する地域で、元滅亡後はオイラトのジュンガル・ホンタイジ国とKhotogoidのAltan Khanateに支配される複雑な歴史を送ってきた。清代になると、オイラトと東モンゴルを支配するハルハに対して清がタンヌ・ウリャンハイを巡って争った。1755年に乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を滅亡させて、清がタンヌ・ウリャンハイを併合した。

しかし、緩衝国となっていたジュンガルが無くなったことでロシアの進出が始まった。1727年のキャフタ条約を切っ掛けに、清朝が国境警備兵をサヤン山脈からTannu-Ola mountainsに移していた。1839年になるとロシア帝国がこの地域に入植を開始し、サヤン山脈に2つの金鉱山を開いた。それでも1911年まで名目上は清の領土であったが、分離独立運動を経てロシア帝国の保護国になった。その際、タンヌ・ウリャンハイの領土は、東部のフブスグル湖周辺を割譲することとなった。

歴史[編集]

1917年のロシア革命に続いて1920年に共産軍はトゥバに進攻した。この地域の混乱はトゥバの独立宣言を伴った。1921年8月14日、ボリシェヴィキはトゥヴァ人民共和国を設立。タンヌ・トゥバとして1926年まで存在した。首都は現在のクズル。1926年のソ連とモンゴル人民共和国が条約によって独立を認識した。これ以外の国はこの国の存在を認めていない。

トゥヴァ人民共和国の最初の指導者はトゥヴァ人民革命党(英語版)書記長のドンドゥク・クーラル(英語版)であった。クーラルはチベット仏教を国教として、ソ連の移住者とプロパガンダを制限し、モンゴルとの結びつきを深めようとした。これを危惧したソヴィエト・ロシアはこの国に対し圧力をかけ、1929年、ドンドゥク・クーラルは逮捕された。1930年、ソ連はクーラルが指名した5名の東方勤労者共産大学のメンバーをトゥヴァの臨時人民委員に指名した。スターリンに忠実な政府は、トゥヴァ人民革命党の三分の一を粛清して、伝統的遊牧生活の改革と共産化を進めた。

このときスターリン張りに仏教とその他の信仰を排除しにかかった。これはこの時期のラマの統計からわかる。1929年に25の大ラマと4000の近くのラマや神官が確認されているが、1931年には大ラマ1つと15のラマしか残ってお

[6] トゥヴァ共和国 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

主な産業[編集]

鉱工業、畜産、毛皮獣捕獲

資源[編集]

非鉄金属、希金属、石炭、アスベスト、鉄鉱、金 銅、イリジウム、雲母、岩塩、グラファイト、大理石、マグネサイト、硫黄[1]

地形[編集]

北はサヤン山脈によってハカス共和国、クラスノヤルスク地方と接し、南はほぼタンドゥ山脈(トゥヴァ語版、ロシア語版、中国語版、英語版)(トゥバ語: Таңды-Уула)によってモンゴル国と接する。

国内を流れるほとんどの河川はエニセイ川の水系である。主要河川はウルグ=ヘム川(トゥバ語: Улуг-Хем、上エニセイ河)と、その左岸支流のヘムチク川(ロシア語版、英語版)(トゥバ語: Хемчик)である。さらに上エニセイ川は、クズル市で合流するビー=ヘム川(ロシア語版)(トゥバ語: Бий-Хем、Bii-Khem、大エニセイ川)とカー=ヘム川(ロシア語版)(トゥバ語: Каа-Хем、Kaa-Khem、小エニセイ川)よりなっている。共和国には多くの湖が存在する。

サヤン山脈と、タンドゥ山脈に挟まれた大きな盆地ともいえる地勢で、「盆地」の平均標高はほぼ1000m。最低標高は、ウルグ=ヘム川(上エニセイ河)がクラスノヤルスク地方に流出する550mで、最高地点は3,976mのムンギュン・タイガ山(ロシア語版、英語版)(トゥバ語: Мөңгүн-Тайга - Silver Mountain)である。

民族[編集]

トゥバ人64%、ロシア人32%が住む。

歴史[編集]

この地域は、清代のタンヌ・ウリャンハイ(英語版)(漢字表記:唐努烏梁海)に相当する地域で、元滅亡後はオイラトのジュンガル・ホンタイジ国とKhotogoidのAltan Khanateに支配される複雑な歴史を送ってきた。清代になると、オイラトと東モンゴルを支配するハルハに対して清がタンヌ・ウリャンハイを巡って争った。1755年に乾隆帝がジュンガル・ホンタイジ国を滅亡させて、清がタンヌ・ウリャンハイを併合した。

しかし、緩衝国となっていたジュンガルが無くなったことでロシアの進出が始まった。1727年のキャフタ条約を切っ掛けに、清朝が国境警備兵をサヤン山脈からタンドゥ山脈(トゥヴァ語版、ロシア語版、中国語版、英語版)(トゥバ語: Таңды-Уула)に移していた。1839年になるとロシア帝国がこの地域に入植を開始し、サヤン山

[7] モンゴル・ノモンハン紀行, , http://outdoor.geocities.jp/halhingolnomonhan/mongolia2010/mong10_10.html

平成22年8月29日(日) 日程9日目、モンゴル第8日目

今日の予定は、市内観光と昼食の後に空路でチョイバルサンからウランバートルに移動である。

昨夜は雨が降ったのだろうか?灰色の雲が低く垂れ込めるどんよりとした朝だ。 本日は特に予定も無いので、朝食は遅めの9時からだった。目が覚めてからずいぶん時間を持て余すことになるので、暇つぶしにカメラを片手にホテルの周囲を散策してみることにする。先に散歩に出かけていたSTOさんが「今日は寒いですよ~」と言った。ポロシャツで一旦玄関まで出たのだが、やはり忠告通りフリースを着込んで出かける。

【朝の散歩】

ホテルはチョイバルサンの町の中心部に位置するため、周囲には何やら役所か企業のオフィスらしき建物が並んでいた。いわゆるここは“オフィス街”なのであろう。 オフィス街と言っても日本で想像するようなものとは程遠く、廃屋に見える建物も多い。それでもレンガ造りの古びたビルの前には10台程車が並んでおり、事務員の女性だろうか?玄関の前を掃除していた。その横をグレイハウンドのような痩せた灰色の犬が力無さげに歩いている。

人の気配はほとんど無いのだが、散策を続けるに従いポツリポツリと人に出会う。人通りが少ない中、朝早くからうろついている私を見て、出会った人々は一様に、不思議そうな表情をする。(とはいえ、嫌悪感のある表情ではない。)

私としてはこの小雨交じりの天気の中、 古びたコンクリート壁の建物 や、 庶民の生活が感じられる場所を撮影対象として探していたのだが、中途半端な人通りの中ではかえって目立ってしまい、カメラを向けて良いのやら悪いのやら・・・。そう考えると盗撮のようになってしまい、まるでスパイのようだ。

それでも5階建てのレンガ造りの集合住宅を見つけることができ、少しだけチョイバルサンの“生活の匂い”みたいなものを写真に収めることが出来たように思う。

09:00朝食

荷物を玄関に置いて食事。その間、タイシルが荷物の番をしていた。朝食はおかゆとトースト、サラミと目玉焼き、ピクルスだった。おかゆは米の粉を煮詰めたような感じで、粉砕された米の粉が少しザラザラした食感がする。

我々が食べ終わると、交代でタイシルが食堂に行った。

10:05。時間通りに大型観光バスが迎えに来た。チョイバルサンにも観光バスがあるのかと関心している

[8] 退職のち放浪, , http://tameike.net/journey/mongol6.htm

退職のち放浪 ライブ(15)

モンゴル編 �E

夕方になり、ようやく【スンベル村】に着いた。

約8時間のドライブだった事になる。チョイバルサン行きのバスと違いとても快適で楽しい。

スンベル村

このスンベル村は、旧ソ連が協力して出来た村だということだった。1980年にはソ連の食品?工場があり、またソ連兵士達もいたのでたいへん栄えていたそうだ。しかし現在ロシア人が帰国してしまい国境警備隊を中心とした村になっている。村の人口は3,300人という事だった。

スンベル村の東側にはハルハ川が流れている(ただし『ハルハ

リバー』と英語で呼んでも一般に英語を理解するモンゴル人でも分からない。『ハフコル』と言うと通じる)。また村の北にホルステン川が流れている。その辺りが大激戦地だったのだ。

たくさんの数の戦争記念碑などがこのハルハ川の左側(中国国境とは反対側)に並んでいるのだが、それはソ連-モンゴル軍の最前線だった為だ。そしてそこは戦場ではなかった。

当時、モンゴルとソ連は軍事協定を結んでいて侵略された際にはお互いに助け合うという事になっていた。そしてその満州国との国境は現在の国境の位置という認識である。

一方満州国および日本は、このハルハ川までが満州国の国境と定めていた。従い、国境からハルハ川までの間がオーバーラップしてしまい戦争のきっかけになるのである。

そしておびただしい数の日本人がその地で倒れたのだ。

まずはホテルへ向かう。『地球の歩き方』には宿泊施設は博物館に併設されているホテルだけと書かれているが実際にはあと2つある。1つは軍のホテルで、この日は満室という事だった。そこでXAAH(ハーン)銀行の脇にある、『ベテランホテル』に泊まる事に。ホテルのグレードは軍、ベテラン、博物館の順。博物館ホテルの部屋は寒いが、ベテランホテルは暖かいのだった。どうやら日本大使館のメンバーは博物館ホテルに泊まるという事だった。ちょっと申し訳ない。

XAAH(ハーン)銀行にはスタッフが3人いた。バトルホイクさんは仕事の打ち合わせをするというので、オートマさんと私はスンベル村を散歩する事に。

この町は現在失業率が50〜60パーセントだという。当然町は失業者であふれていて、その一人が村を案内してくれた。

この町には老人と子供が目立つ。若者はウランバートルへ出ていってしまうそうだ。子供が多い理由は、

履歴

[9] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926416592651

メモ