ウランバートル

ウランバートル

[1] ウランバートル

Webページ

[2] チョイバルサンの町 - モンゴルGanGanスローライフのススメ, , http://mongolwalker.blog.fc2.com/blog-category-17.html

モンゴルGanGanスローライフのススメ

“ガンガン”とはモンゴル語で“おしゃれな”という意味。ウランバートル在住日本人のスローな日常、ちょっと変わったニュース、海外生活お役立ち情報などを綴ります。

4月のはじめにチョイバルサンへ行ってきました。ウランバートルから東へ約600キロ。人口4万人ほどの町です。チョイバルサンへはバスで大地をひた走ること14~15時間。でも真ん中のヘンティまで舗装道路があるので、割と楽です。チョイバルサンへは何度か行っているのですが、今回のバスを見てびっくり。 いつの間にか、こんな大型バスにグレードアップされていました。 ついこの間まで、こんなロシア製の古い小さなバスだったんです。このロシア製のバスは、未舗装の土の大地を走るときに威力を発揮します。もちろん乗り心地は良いとは言えませんが、モンゴルならではの旅情のある乗り物でした。今は、もうこの小さいバスはないんだそうな。モンゴルもどんどん変わっていきます。 切符は片道3万1500tg、約1800円。朝の8時過ぎにウランバートルを出発して、チョイバルサン到着は夜10時過ぎ。途中、2回ほど食事のためゴアンズに寄ります。トイレタイムは乗客からの要望に応じて随時。 こんな観光バスみたいのが、荒野の大地を走るというのも、なんか不似合いな感じがしますが、大型で乗り心地も良く、さほど疲れませんでした。でこぼこの土道はかなーり速度を落としてノロノロ運転でしたが。 さて、チョイバルサンの町をご紹介しましょう。 これは町の中心にある“若者”広場。人っ子一人…あ、見えますね。 そして、中央図書館。 こちらはザハ(市場)です。 ザハでりんごやみかんを買ったのですが、ウランバートルのものより概して新鮮でおいしかったです。聞くところによると、チョイバルサンには東に国境を越えた中国のハルピンから品物がやってくるとのこと。どうりで果物が新鮮なはずです。 こんな大きなノミンデパートもあって、品揃えはウランバートルにひけを取らないどころか、ウランバートルより安いんでない?というものもチラホラ。 町の中華料理屋では、なかなかおいしい中華が食べられます。みんなで分けて大満足。チョイバルサンはウランバートルに比べたらまだまだ家賃も安いし、のんびりしていて住みやすそうです。 町のはずれを流れるヘルレン川。氷がとけたばかりでした。 帰り

[3] ロシア・モンゴル鉄道旅行記 (3/3) 佐納康治, , http://www.asahi-net.or.jp/~hc7y-snu/sanoo/Travel32/Travel32c.html

12月31日(土)

翌日、午前6時30分に、列車はウランバートルに到着した。今までに比べてかなり寒い。持参の温度計を出すと、たちまち氷点下30度近くまで下がった。

さて、モンゴルもビザを取るためにホテルを予約させられたのであるが、それには到着時と出発時の送迎代が含まれている。だから、出迎えが来ているはずである。駅の外に出て、それらしい人を探そうとしたが、その前にタクシーの運転手に捕まった。こっちはちゃんと出迎えがいるのだから、タクシーはいらないのだが、向こうは商売なのでなかなか引き下がらない。

そのうち、ひげを生やしたオッサンが来て、ロシア語で私はあなたの出迎えだと言う。この人は英語を話さず、しかも私の名前を知らなかった。モンゴルで外国語と言えばロシア語だから、英語を話さないのはさほど不思議ではないが、出迎えなら当然こちらの名前ぐらい知っているはずである。しかし、他にそれらしい人はいないし、そのオッサンが指さす車には、「ジョールチン」(私が手配を頼んだ日本の旅行会社から紹介されていたモンゴルでの現地旅行会社)と大きく書かれていた。そのオッサンは、今日の朝の汽車で到着する日本人をバヤンゴルホテル(私が予約してあったホテルの名前)まで送り届けるようにと聞いていると言った。そこまで話が具体的なら信用しよう、そう思って、車に乗った。しかし、念のため後部座席にのって、いつでも飛び降りられるように身構えていた。

車で10分ぐらい走り、バヤンゴルホテルに着いた。やっぱりこの出迎えのオッサンは本物であったようだ。お礼を言って、部屋に上がった。部屋は最上階(10階だったと思う)の眺めの良いところで、しかも広い。イルクーツクのインツーリストホテルのシングルルームの2倍の広さはある。シャワーではなく、ちゃんとした風呂であるし、韓国製の石鹸及び歯磨きセットも置いてある。ベッドもふかふかだ。そんなことは日本では当り前のことだが、ここではつい感動してしまった。しかし、よく見渡すと、壁などは薄いベニヤ板で、風呂も一番安い部類のユニットバスである。部屋の広さを除いては、設備的には日本の5000円位のビジネスホテルと同じである。モンゴルのように土地が余りまくっている国では、部屋の大小はあんまり値段に関係するとも思えないから、やはり設備が大事である。これで一泊220ドル(!)も取るわけだから、冷静に考

[4] モンゴル・ノモンハン紀行, , http://outdoor.geocities.jp/halhingolnomonhan/mongolia2010/mong10_10.html

平成22年8月29日(日) 日程9日目、モンゴル第8日目

今日の予定は、市内観光と昼食の後に空路でチョイバルサンからウランバートルに移動である。

昨夜は雨が降ったのだろうか?灰色の雲が低く垂れ込めるどんよりとした朝だ。 本日は特に予定も無いので、朝食は遅めの9時からだった。目が覚めてからずいぶん時間を持て余すことになるので、暇つぶしにカメラを片手にホテルの周囲を散策してみることにする。先に散歩に出かけていたSTOさんが「今日は寒いですよ~」と言った。ポロシャツで一旦玄関まで出たのだが、やはり忠告通りフリースを着込んで出かける。

【朝の散歩】

ホテルはチョイバルサンの町の中心部に位置するため、周囲には何やら役所か企業のオフィスらしき建物が並んでいた。いわゆるここは“オフィス街”なのであろう。 オフィス街と言っても日本で想像するようなものとは程遠く、廃屋に見える建物も多い。それでもレンガ造りの古びたビルの前には10台程車が並んでおり、事務員の女性だろうか?玄関の前を掃除していた。その横をグレイハウンドのような痩せた灰色の犬が力無さげに歩いている。

人の気配はほとんど無いのだが、散策を続けるに従いポツリポツリと人に出会う。人通りが少ない中、朝早くからうろついている私を見て、出会った人々は一様に、不思議そうな表情をする。(とはいえ、嫌悪感のある表情ではない。)

私としてはこの小雨交じりの天気の中、 古びたコンクリート壁の建物 や、 庶民の生活が感じられる場所を撮影対象として探していたのだが、中途半端な人通りの中ではかえって目立ってしまい、カメラを向けて良いのやら悪いのやら・・・。そう考えると盗撮のようになってしまい、まるでスパイのようだ。

それでも5階建てのレンガ造りの集合住宅を見つけることができ、少しだけチョイバルサンの“生活の匂い”みたいなものを写真に収めることが出来たように思う。

09:00朝食

荷物を玄関に置いて食事。その間、タイシルが荷物の番をしていた。朝食はおかゆとトースト、サラミと目玉焼き、ピクルスだった。おかゆは米の粉を煮詰めたような感じで、粉砕された米の粉が少しザラザラした食感がする。

我々が食べ終わると、交代でタイシルが食堂に行った。

10:05。時間通りに大型観光バスが迎えに来た。チョイバルサンにも観光バスがあるのかと関心している

[5] チョイバルサンへのバス旅行 - モンゴルGanGanスローライフのススメ, , http://mongolwalker.blog.fc2.com/blog-entry-37.html

モンゴルGanGanスローライフのススメ

“ガンガン”とはモンゴル語で“おしゃれな”という意味。ウランバートル在住日本人のスローな日常、ちょっと変わったニュース、海外生活お役立ち情報などを綴ります。

ウランバートルから東へ600キロ、中国国境に近いモンゴル国の東の果てに、人口4万人ほどのチョイバルサンという町があります。 バスで陸路を行くと、荒野をひた走りに走って14時間。朝8時にウランバートルを出て、夜の10時にあちらへ着くという寸法。去年の8月に一度行っているのですが、今回冬の最中、再びチョイバルサンへ行くことになりました。 まだ暗い8時前、ウランバートルの東の町外れにある長距離バス乗り場へ。バスの前に掲げられた“Дорнод”とは、目的地のドルノド県のことで、チョイバルサンはドルノド県の県庁所在地にあたる中心町です。 これは夏に行ったときの写真ですがバスの中はこんな感じ。リクライニングはおろかクッションもないうすっぺらな座席に前後左右もきっちきち。さらに、これでもか!と詰め込まれる荷物で通路も満杯状態。かなーり体力を消耗する旅です。こういうバスで、モンゴル人のおじいちゃんおばあちゃん、さらには赤ちゃん連れのお母さんもフツーに乗って長距離移動してるんですから、モンゴル人ってやっぱすごい。。。 バスはこのような雪の大平原をひた走りに走ります。夏は焼け付く太陽の光にバスのエンジン熱、砂埃のトリプル・パンチで大変でしたが、冬の田舎道、意外と快適! 冬は道中が危険と聞いて、ちょっと心配していましたが、実際は夏より楽だったなー。 ときどき雪原の真ん中でのトイレ・タイムがあります。夏と違って用を足すのは男性のみ。 お昼12時頃、夕方7時頃と1日に2回、お食事タイムがあって途中の食堂に止まります。私は夏に行ったとき、帰りの食堂で食べたスープにあたってしまい、ウランバートルに着くまでの5時間ほど、激揺れのバスの中で生き地獄状態でした…。普段胃腸は弱くないほうなんですが、やはり体力消耗の長距離移動ですので、モンゴル人ほど強健でない外国人は、パンやおにぎりを持参するのが安全策かと思われます。 あとはひたすら大地をひた走り。大空をぐるっと横切った太陽が地平線へ沈んでしまった後もバスは走り続けます。 そして夜10時過ぎ、チョイバルサンのバス発着所に無事到着。乗車時間約14時間。バス代は

[6] 退職のち放浪, , http://tameike.net/journey/mongol8.htm

退職のち放浪 ライブ(17)

モンゴル編 �G

捻挫した足首がなかなか直らない。大分普通に歩けるようになったものの、まだ走るには至らない。痛みも少し有る。そこで温泉に行く事にした(何も無くても行ってしまう私であるが)。

モンゴルにも何ヶ所か温泉がある。しかし温泉で保養というよりは、さらに一歩進んでサナトリウムの意味合いが濃いらしい。

最近では日本への留学生が日本の温泉を真似て作っている露天風呂もある。日本人を中心とす外国人が訪れると聞くが、今回は伝統的な温泉に行ってみる事にした。

ホジルトサナトリウムへの道

場所はかつてのモンゴル帝国の首都であるハラホリン(日本ではカラコルムとして有名)の南に位置する【ホジルト】という街だ。ウランバートルからは約400キロ。ハラホリンまでは舗装されているのでバスで約8時間である。

ホジルトは昔は栄えていたが、現在はとても寂れた街だ、とモンゴルの方に聞いていた。ならば温泉に入って揉んでもらって飲むまでまでだ。

とりあえずモンゴルなので、必ずウオッカはどこにでもあるだろう。がしかし、現地の人に振る舞った場合、ウオッカだと、どれだけあっても簡単に飲まれてしまうに違いない。そこで赤ワインを1ケース持ち込む事にした。これなら4-5日はもつだろう。

ウランバートルの国営デパートではブルガリアのワインが12本で30000T(3000円)だ。そして結構うまい。比べちゃあいけないのだろうが私が学生の頃はまだワインが高く、1本がこの程度の値段だったので驚きだ。

ドラゴンセンターというバスターミナルへ行く。バスの出発は8時頃と聞いていたのだが、どうせ出発は満席になってからだろう、そう思い15分ほど遅れていくと、待っていたかの如く乗って直ぐに発車した。しかもまだ2席が空いている(しかも“バスの通路の隙間”ではなくて正規の2席)。どうも以前乗ったチョイバルサンへ行くバスとはシステムが違い、ほとんど定刻で満席を待たずに出発するらしい。

ホジルト行きのバスは2台有ったのだが、周囲のアドバイスを無視して、多少混んでいるがきれいなバスを選ぶと結局は2台連なって走るのだった。両方とも30人乗りの中型バスだ。

途中、ものすごい砂嵐がやってきて、視界が40メートル程度の事が有った。さすがにモンゴル。遮るものが何も無いので一旦吹き荒れるとたいへんな事になるようだ。アスフ

[11] コラム-Circuit(34), , http://nodahokubu.web.fc2.com/column4/column34.html

7月30日。06時。洋子さん、ひとみさん、吉郎少年、つれあい、わたしは空港へ向かうべく部屋をでて、アパートの門前で通訳のガル青年と落ち合う。ところが、予約しておいた迎えの車がきていない。運転手に携帯電話をかけるが通じない。タクシー会社もこの時間なので埒があかない。アパート前の道路に車を停めてたむろしていた連中(こんな早朝に彼らは何をしているのだろう、たむろしているとしかいいようがない)に、かたっぱしから、空港まで行ってくれないか、と声をかける。ひとりがOKして、彼の車で出発する。こういう、自家用車をタクシー代わりにつかうのは(日本流にいえば“白タク”)、ウランバートルではよくあることだという。街角に立って手を上げていると自家用車が止まる。行き先と値段の交渉をして折り合えば、変じてそれはタクシー(白タク)と化す。料金相場もきまっていて、正規のタクシーとほぼおなじく1km=300Tg(トゥグリク、約30円)である。走りだすとドライバーは車の走行距離メーターを0(ゼロ)にする。これで目的地までの公正な距離が計られるわけである。

白タクが走りだし大通りへでて、ヤレ一安心と思ったのもつかのま、車のスピードが上がっていかない。ドライバーはしきりにアクセルを踏むがフカフカと頼りなげな音がするだけで、そのうち止まってしまう。アクセルの故障である。フライトが07時20分なのでいささか焦る。この車を捨て、交通量はすくないがともかく走っている車を止めまくって、やっと1台と交渉がまとまる。走りだしてしばらく、市街地から空港へ向かう道路へでたところで霊柩車にでくわす。われらの行く手をふさぐがごとく走る霊柩車は、日本製のあの霊柩車である。えっ、この時間に葬式なの! まさか、まだ午前6時を回ったばかりである。それよりなにより、モンゴルの葬儀で霊柩車をつかうのか。死者を運ぶ車はあるだろう。目のまえを行くのは日本から輸入された霊柩車にはちがいないが、この車がこの地で日本とおなじ目的でつかわれているとは思えない。だとしたら何に利用されているのだろうか。!と?をいっぱい乗せたまま白タクは霊柩車を追い越し、とばしにとばして空港へと走りこんだ。なにやら、われらの前途に多難ありとおもわせる旅立ちであった。

07時20分、EZA909便(30人乗りのプロペラ機)はチンギス・ハーン空港を離陸し、チョイバルサンへ向

[13] 8月22日 モンゴル② ホブド〜|chutokukuriのブログ, , http://ameblo.jp/chutokukuri/entry-12065212749.html

ちなみに、僕はウランバートルの手前にある ハラホリン(カラコルム) という町に行きたいのだが、その街に直接行くバスは無く、ウランバートルから引き返してその街に行かなければならないらしい。

[16] シベリア鉄道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E9%89%84%E9%81%93

シベリア鉄道 (シベリアてつどう、 露 : Транссибирская магистраль )は、 ロシア 国内南部を東西に横断する 鉄道 。全長は9,297kmで、 世界一 長い鉄道である。これとは別に、第二シベリア鉄道( バイカル・アムール鉄道 、バム鉄道)もある。

正確には ロシア連邦 中南部に位置する チェリャビンスク州 の チェリャビンスク から シベリア 南東部の 沿海州 にある 日本海 岸の ウラジオストク までの7,416kmの区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めた モスクワ - ウラジオストク間9,297kmを指す事が多い。モスクワからシベリアまでは、従来はモスクワから北東へ向かうモスクワ - ヤロスラヴリ - キーロフ - ペルミ - エカテリンブルク 経由の路線を使っていたが、2000年代以降はこれより南寄りのモスクワ - ウラジーミル - ニジニ・ノヴゴロド - キーロフ - ペルミ - エカテリンブルクの路線が使われる。さらに南寄りのモスクワ - ムーロム - カナシ - カザン - エカテリンブルクの路線、モスクワ - リャザン - サマーラ - ウファ - チェリャビンスクを経由する路線もありうる。 「ロシア号」 はモスクワの ヤロスラフスキー駅 を出発し、 ウラジオストク駅 まで約7日間をかけて走破する。

ロシア語 では、モスクワ - ウラジオストクを結ぶ本線(広義のシベリア鉄道)を " Транссибирская магистраль "「シベリア鉄道」 と呼ぶほか、 モンゴル国 の ウランバートル 経由で 北京 まで結ぶ路線を " Трансмонгольская железная дорога "「モンゴル鉄道」 、 中国東北部 経由で北京まで結ぶ路線を " Китайско-Восточная железная дорога " 「 東清鉄道 」と呼ぶのが通例である。以上3つが更に広義のシベリア鉄道である。

航空機 が登場する前は、 日本 と ヨーロッパ を結ぶ 欧亜連絡運輸 において最速の交通路でもあった。その後、第二シベリア鉄道と呼ばれる バイカル・アムール鉄道 (バム鉄道)も建設された。

東洋と西洋をまたぐ路線であるために 中国 、 北朝鮮 、 モンゴル との直通運転がある。 国境 を越えると人種や文化、景色

[17] Баян–өлгий 1 : 世界はこんなにおもしろい, , http://sunnynao.exblog.jp/23842887/

11月に入りました。

モンゴル・チョイバルサンは日が暮れ暗くなるのがどんどん早くなりました。

暗くなると早く夕飯食べなきゃ…と思って準備して食べ終わっても、

まだ19時だったΣ(* & *)>なんてことが再び起こるようになってきました。(去年も冬そうでした…)

とまぁそういったわけで、、、

夜22時頃にお腹が空いてしまうというとても危険な季節に入っております。

そしてもう最高気温もマイナスが見られるようになってしまいました。

また数日後から少し温かいようですが…まぁ寒いですよね。

くしゃみ、鼻水、どうにかしたいです(_ _;))))

さてずいぶん夏休みから時間が経ってしまいましたが、

夏の旅行の記録を更新していこうと思います。

え〜と次はバヤンウルギーですかね。

6月下旬〜7月上旬にかけてモンゴルの西の端へ行ってまいりました。

せっかくこの旅行では日記を書いていたのに(いつもの超小さな字のやつです)、

8月チョイバルサン戻ってきて紛失…(- д -;)

日本の一時帰国から戻った時にはあったのに!!

家のどこかに埋もれているのかもしれません(_ _;)))すごい大量の荷物で戻ってきたので…。

まぁ仕方ありません。分かる範囲で書きます。

ではバヤンウルギー旅行記、始まり始まり。

2015.06.27.

協力隊隊員の宿泊所にガイドのアルタンさんに迎えに来てもらい空港へ!

[18] 「モンゴル・ノモンハン戦跡研修」, , http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm

海外研修報告

草原の戦跡を訪ねて(2)

常務理事 高橋 義洋

モンゴルの大草原、道なき道を3百キロ走破

首都ウランバートルから約6百キロ、モンゴルの最東端にあるドルノド県(北はロシア、東と南は中国と国境を接している)の県都チョイバルサンを出発して一路東へ3百キロのキャラバンが始まったのは6月27日13時50分であった。

その日、ウランバートルから1時間20分程のフライトで到着したチョイバルサン空港は一面に短い草がまだらに生えた平地の中にあって、見渡す限り360度地平線が遙かに見える。

これが滑走路かと疑問に思えるような荒っぽいコンクリート舗装、辺りには航空機の掩体と見られるものが散在している。

聞けば、この空港は元来ソ連軍により作られたもので、1990年の民主化までは約1万人のソ連軍がチョイバルサン一帯に駐屯していた(町の郊外に、当時のソ連軍が使用したであろうそれらしき施設の残骸がかなり広い地域に残っているのを見た)という。

そうだとすれば、あの掩体は中ソ対立厳しい頃、中国の攻撃に備えたものであろうと納得。

空港に我々を迎えたのは7両の四輪駆動車(トヨタ・日産各1両の他はロシア製の車両)の車列、全員分乗して空港から15分ほどの市内のホテルへ向う道路の状況は、四輪駆動車が出迎えたことを納得させるにふさわしいものであった(尤もその後のキャランバンに比べれば、序の口とは後で気付いたこと)。

チョイバルサンの町は人口3万というが、広い平原にまだらに集落が散在するような寂しげな町で、それでもさすがに中心部にはちょっとした街並みがあり一応設備の整ったホテルもある。

昼食を摂ったホテルの従業員に尋ねると「日本人を見たのは初めてだ」とのことで遥々着たかの感を強くした。

町のはずれに遠くウランバートルの北東部から延々と流れてきたヘルレン河がある。

この水が更に東進してハルハ河と合流し、中ソ国境のアルグン河更にアジア最大のアムール河となって太平洋に注ぐ、なんと4千5百キロの流れかと考えると気が遠くなる思いがする。

この町はチョイバルサンの出身地ということで名付られた。

チョイバルサンは1920年、スヘバートル(既述)等と共にソ連政府に選ばれてモスクワで共産主義の洗脳を受け、後日モンゴル人民革命(1921年)を指導した七人の一人。

スヘバートル(人民軍総司令官)の死

[19] ノモンハン1 of aizenkai, , http://www.jinruiaizenkai.jp/kolumno/mongolio/cn23/nomonhan-1.html

山崎 光男

6月25日(土)夕刻、東京からAさん(88歳)一行6名がウランバートル空港に到着した。Aさんは65年前、ノモンハンで多くの戦友を失った。他のメンバーも60歳を越えた年配の方々で共にノモンハン慰霊の旅を志してきた。

私は予てから、この旅を企画したETT社のアンハー専務から「山崎さん、一緒に行きませんか?」と度々誘われていた。

「それはよいですね。絶好の機会です」と気軽に返事をしておいた。私自身は目的地まで片道千キロと知ってはいたが、舗装道路を高速で走りぬけ、途中のホテルで熱いシャワーや食事をいただきながら快適な旅ができるものと思い込んでいた。

わたしの返事があまりに軽く感じられたのであろう。アンハーは本気にはしていなかった。

当初、この旅は全区間を車で往復する予定であったが、ウランバートルからチョイバルサン(3分の2行程ほど)まで往復国内便が出ることになった。当然、参加者は喜んだ。

ところが途中で往路だけしか便が出ないということになった。そして、出発の間際になって、さらに往路も便が欠航となった。普段は温厚なアンハーも激怒してしまった。航空会社は何の謝罪もしなかったらしい。日本ならば補償問題になっただろう。

最初の計画に戻すしかない。アンハーの決断は早かった。あいかわらず私は、起伏に富んだ草原の道・2千キロを走行するということが、どういうことか全く理解していなかった。

出発を目前に控えて「山崎さん、明日出発です。本当に行くんですね?」とアンハーが念を押した。「あー、行きますよ。何時に出発ですか?」「11時ごろになるでしょう」と彼が応じた。

翌朝8時に起床して朝食を準備し始めたとき、彼から携帯電話に連絡が入った。

「今から出発です。山崎さんのアパートに来ています。」

私はあわてて洗面具と着替えをバックに突っ込み、アパートを飛び出した。「これもモンゴル式なのだろう」と自問しつつ。

日本からの一行はフラワーホテルに昨夜到着していた。Aさんの他に男性が一人、残り4人は女性であった。新彊ウイグル自治区のウルムチやタクラマカン砂漠に行ったことのある女性もいた。それなりに旅慣れした方々なのであろう。

私は急いでホテルのトイレに駆け込み朝の用便を済ました。目の前にトイレットペーパーが1巻あった。私はそれをバックに入れた。草原で済ますときには必需品とな

[20] 成田国際空港 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF

開港:1978年5月20日

航空機発着回数:208,704回(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)

航空旅客数:32,793,596人(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)

国内線 3,236,265人

国際線 29,557,331人

うち日本人 16,455,065人

うち外国人 7,396,734人

うち通過客[1] 5,705,532人

航空貨物取扱量:1,952,207トン(2012年)日本第1位

空港敷地面積:940ha(計画1,080ha)

滑走路

A滑走路:16R/34L, 4000×60m(16R・34LともILSを装備 16RはCatⅢb)

着陸帯 ‐ 4120×300m

B滑走路:16L/34R, 暫定2500×60m(16L・34RともILSを装備)

着陸帯 ‐ 2620×150m(暫定。当初計画 2620×300m)

誘導路:延長 約25.5km 幅30m(一部23m、暫定計画を含む。計画延長は約34.2 km、計画幅は30m)

航空保安無線施設

ILS 4式 (計画 ILS 6式)

VOR/DME 2式(Aラン・・成田VORDME、Bラン北総VORDME)

エプロン:面積 約218ha (計画面積は約260ha)

スポット:137スポット(工事により一部閉鎖中のものを含む) (計画は143スポット)

運用時間:24時間

利用時間:6:00 - 23:00 (例外24:00)(人間の生活時間帯に制限)

誘導路の延長・エプロンの面積の推移は「誘導路の延長とエプロンの面積の推移」参照

空港機能[編集]

日本を代表する空の玄関口(ハブ空港)の一つであるが、歴史的経緯(成田空港問題)により、開港後35年以上経過した2014年現在も、建設計画自体が完了していない。開港後の拡張工事も進まず、騒音問題から23時〜6時(JST)の離着陸禁止や[2][3][4]、東京都区部からのアクセス時間の長さ、国内線乗り入れ便数の極端な少なさなどの問題もあり、羽田空港の再拡張や再国際化や24時間運用が進められた。これに対し、成田空港も京成成田空港線の開業によるアクセス向上や、発着枠の拡大、23時~24時の例外的離着陸容認などで、競争力を高めようとしている[4]。

1992年の第2ターミナル完成に伴い、管制塔からの航空機視認性が悪化するため新たな

[21] 成田国際空港 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A9%BA%E6%B8%AF

開港:1978年5月20日

航空機発着回数:208,704回(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)

航空旅客数:32,793,596人(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)

国内線 3,236,265人

国際線 29,557,331人

うち日本人 16,455,065人

うち外国人 7,396,734人

うち通過客[1] 5,705,532人

航空貨物取扱量:1,952,207トン(2012年)日本第1位

空港敷地面積:940ha(計画1,080ha)

滑走路

A滑走路:16R/34L, 4000×60m(16R・34LともILSを装備 16RはCatⅢb)

着陸帯 ‐ 4120×300m

B滑走路:16L/34R, 暫定2500×60m(16L・34RともILSを装備)

着陸帯 ‐ 2620×150m(暫定。当初計画 2620×300m)

誘導路:延長 約25.5km 幅30m(一部23m、暫定計画を含む。計画延長は約34.2 km、計画幅は30m)

航空保安無線施設

ILS 4式 (計画 ILS 6式)

VOR/DME 2式(Aラン・・成田VORDME、Bラン北総VORDME)

エプロン:面積 約218ha (計画面積は約260ha)

スポット:137スポット(工事により一部閉鎖中のものを含む) (計画は143スポット)

運用時間:24時間

利用時間:6:00 - 23:00 (例外24:00)(人間の生活時間帯に制限)

誘導路の延長・エプロンの面積の推移は「誘導路の延長とエプロンの面積の推移」参照

空港機能[編集]

日本を代表する空の玄関口(ハブ空港)の一つであるが、歴史的経緯(成田空港問題)により、開港後35年以上経過した2014年現在も、建設計画自体が完了していない。開港後の拡張工事も進まず、騒音問題から23時〜6時(JST)の離着陸禁止や[2][3][4]、東京都区部からのアクセス時間の長さ、国内線乗り入れ便数の極端な少なさなどの問題もあり、羽田空港の再拡張や再国際化や24時間運用が進められた。これに対し、成田空港も京成成田空港線の開業によるアクセス向上や、発着枠の拡大、23時~24時の例外的離着陸容認などで、競争力を高めようとしている[4]。

1992年の第2ターミナル完成に伴い、管制塔からの航空機視認性が悪化するため新たな

[22] ロシア・モンゴル鉄道旅行記 (2/3) 佐納康治, , http://www.asahi-net.or.jp/~hc7y-snu/sanoo/Travel32/Travel32b.html

12月26日(月)

翌朝、つまり列車に乗り始めて4日目の朝、ウランウデには現地時間の午前8時に到着した。この辺りのモスクワ時間との時差は5時間、つまり北京時間と同じである。一晩の間にまた時差のあるところに来たことになる。昨日ザバイカルスク時間からチタ時間になったときに時計を遅らせるのを忘れていたから、ここでまとめて2時間時計を遅らせる。ウランウデはかなり大きな工業都市であった。真っ黒なばい煙を黙々と吐く工場がいくつも連なっているのが車窓から見えた。セレンゲ川鉄橋を渡ると、ウランウデ駅はすぐであった。外に出てみたが、全く寒くない。気温は氷点下15度まで上がっていた。ここではブリヤート系の乗客がほとんど降りてしまったので、少し車内はすいてきた。同室であった中国人の3人連れは、ノホシビルスク行きの車両に空席ができたからと言って、部屋を移動して行った。

その後、列車はバイカル湖沿いに比較的景色の良いところを走る。不思議なのは、 バイカル湖が全く凍っていない ことである。陸上はかなり厚い雪にすっぽりと覆われているのに、バイカル湖にはひとかけらの氷もないのである。これが今年だけの現象であるのか、それとも毎年そうであるのかは、他の乗客や車掌に尋ねてみてもよく分からなかった。

イルクーツクには、現地時間午後5時すぎに着いた。なお、ここもモスクワ時間と5時間の時差(北京時間と同じ)がある地域である。モンゴル時間も同じであるので、これ以後、日本に着く直前まで時計を進めたり遅らせたりする必要はなくなった。

イルクーツクは北緯50度を超えているので、日の入りが早い。到着した午後5時にはすでに真っ暗闇である。予約してある(というより、ビザをもらうために強制的に予約させられた)ホテルは、イルクーツク随一のインツーリストホテル。アンガラ川に面した外国人専用の高級ホテルである。私はガイドブックも何も持っていなかったので、出発前に旅行会社でおまけにもらった簡単なイルクーツク市内地図だけがたよりであった。駅前から適当に市電に乗り、アンガラ川を渡ったところで降りて、積もった雪の中をてくてくと歩いて行った。寒くはなかったが(ちなみに、駅の寒暖計は氷点下14度を示していた)、雪の中はもともと歩きにくいのに加えて街灯が充分にないので、余計におっかなびっくりで歩かなければならない。しかも持ってきた簡易地図は縮尺

[23] Baasan Online チョイバルサンの歩き方, , http://baasanonline.blog.fc2.com/blog-entry-96.html

モンゴル最東端に位置するドルノド県チョイバルサンで活動しているチョイバル隊員による街案内です。(つい先日新隊員を迎え、総勢5名になりました!) 高台からの景色 〈チョイバル暮らし〉 (文=平成25年度2次隊 武政太(たけまさ・ふとし) 職種:理学療法士) ドルノド県の県都チョイバルサンは首都ウランバートルから東へ約660キロ、飛行機で約1時間半、バスで12時間から15時間ほどのところにあります。人口は約5万人。モンゴルで4番目の規模です。インフラは比較的安定していて、停電や断水はほとんどありません。 スーパーも数多くあり、それなりの規模のザハ(市場)もあります。韓国料理、中華料理のレストランはありますが、日本料理のお店はなく、日本の調味料などもあまり手に入りません。しかし、Wi-Fiのあるカフェもあり、日本人にとってそれほど住みにくくない場所です。 ちなみに、昼間から酔っぱらっている人をよく見かけます。仕事がなくて昼間からお酒を飲んでいる人も多いようで、酔っぱらい同士がけんかをしているところを見ることもたびたびあります。[武政] <チョイバル特産> (文と写真=平成25年度1次隊 苅谷いづみ(かりや・いづみ) 職種:小学校教諭) チョイバルサンの特産品といえば、小麦粉工場「ドルノドゴリル」社の製品。ここドルノド県で現在唯一営業している工場です。昔は、近郊でウランが出て、炭鉱で栄えていました。ロシアが作った絨毯や羊毛の工場等もありましたが、現在は小麦粉工場だけになりました。当時作られた鉄道は、ウランバートルではなくロシアに続いています。(現在は貨物運搬のみ) ドルノドゴリルが出している小麦粉やパン、麺はこの辺り一帯の商店に並んでいます。次に多いのが、ブリヤートパン。(もちもちしていて結構おいしい。ドルノド県にはブリヤート人* が多く住んでいます。) *ブリヤート人:ロシア連邦やモンゴル国、中華人民共和国に住むモンゴル系民族 ドルノドゴリルの小麦粉 また、はちみつで作ったクッキーがドルノドの土産品として出されています。(←これまた美味しい♪)ドルノド県産のヨーグルトをはじめとした乳製品は新鮮で、値段も安いです。(冬は見かけませんが・・・) ザハ(市場)やスーパーで地産の食材を見ると、つい手が伸びてしまう…これも地方隊員の楽しみの一つです。 はちみつのクッキー [苅谷]

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