泙川

泙川

[1] 泙川

Webページ

[2] 利根川水系幻のダムめぐり - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/160729197070_3.htm

片品川の流域には、戸倉ダムのほかにも計画されていたダムがある。片品川の中流、観光名所でもある吹割の滝のすぐ上流で東側から合流してくる泙川には高さ146m、総貯水容量5000万立方メートルという巨大ロックフィルダム、平川ダムが計画されていた。利根川水系では奈良俣ダムよりやや小さいけれど、全国的に見れば5指に入る巨大ロックフィルダムである。

[3] 薗原ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%97%E5%8E%9F%E3%83%80%E3%83%A0

薗原ダム(そのはらダム)は群馬県沼田市利根町(旧利根郡利根村)穴原地先、一級河川・利根川水系片品川に建設されたダムである。

国土交通省関東地方整備局が管理する特定多目的ダムで、利根川の治水と首都圏への利水を司る利根川水系8ダムの一つである。堤高76.5mの重力式コンクリートダムで、8ダムの中では藤原ダム(利根川)・相俣ダム(赤谷川)に次いで三番目に建設されたダムである。ダム湖は薗原湖(そのはらこ)と呼ばれる。

沿革[編集]

1947年(昭和22年)のカスリーン台風により甚大な被害を受けた利根川流域の総合的な治水対策を図るため、建設省(現・国土交通省)は1948年(昭和23年)より利根川の有力支川である片品川に多目的ダムを建設するための予備調査を開始した。その後経済安定本部の諮問機関・治水調査会の答申を元に「利根川改訂改修計画」が1949年(昭和24年)に立案され、1952年(昭和27年)には治水・利水の根本対策として利根川水系8ダム計画が策定された。

この中で片品川では老神温泉地点と薗原地点がダム建設地点候補に挙ったが、1953年(昭和28年)に薗原地点に建設を決定し1958年(昭和33年)に実施計画調査に入った。この間76戸85世帯の水没住民に対する補償交渉が行われた。だが住民の反対運動は極めて激しく、その激烈さは当時九州で起こっていた蜂の巣城紛争にも劣らぬものであったという。水没地には老神温泉の旅館5軒も含まれており、こうしたことも反対運動を激しくさせた。建設省は水没する源泉補償として10か所の試掘を行うなど温泉に対する補償も並行して行われた。結果補償交渉は難航しながらも妥結し本体工事に着手、1965年(昭和40年)に完成した。

目的[編集]

ダムの目的は第一にカスリーン台風時の出水を基準とした計画高水流量にも耐えられる利根川の洪水調節である。ダム地点で計画高水流量(毎秒2,350トン)を毎秒800トンカットし、他の利根川上流ダム群と連携して伊勢崎市八斗島(やったじま)地点における計画高水流量(毎秒17,000トン)を毎秒3,000トン程度カットする。これに加え利根川の堤防補強と下流の遊水池群との連携した治水により、利根川の洪水を調節する。また、不特定利水については、利根川沿岸地域の農地1,200haに対し、慣行水利権分の用水補給として最大で毎秒70トンを供給す

履歴

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