吉野川

吉野川

[1] 吉野川

Webページ

[2] 新町橋 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%BA%E6%A9%8B

新町橋(しんまちばし)

国道438号の新町川に架かる平面の橋である。徳島県徳島市新町橋1丁目(南岸)と元町2丁目(北岸)を結ぶ。

徳島県徳島市の町名。新町地区に属している。新町橋一丁目から新町橋二丁目まで存在する。郵便番号は〒770-0904。

[編集] 概要

南岸には新町橋東公園があり、この地域出身の考古学者である鳥居龍蔵のモニュメントが建てられている。

北岸には藍場浜公園と新町川水際公園があり、阿波踊りシーズンは新町橋を中心とした一帯に屋台や阿波踊りの連で賑わっている。

新町橋の上からは、南岸部に眉山が、北岸部に城山が一望できる。

[編集] 歴史

徳島藩政初・蜂須賀家政入国の天正13年頃に架けられたと思われるが、その史料は未見である。城山から眉山に通ずる道路橋として架けられた。両岸にならぶ白壁の土蔵から阿波藍が積み出され、川筋には出船入船で賑わい、徳島商人の勢威は、日本全国に知れ渡っていった。

「新町橋まで 行かんか こいこい」と盆踊りに騒く踊り子たちはこの唄をはやし立て、橋上で踊るのを心意気とした。

[編集] 新町橋一丁目 - 二丁目

町名としての新町橋は、本橋の南岸に位置し新町地区に属している。新町橋一丁目から新町橋二丁目まで存在する。郵便番号は〒770-0904。

人口:93人(2009年12月。徳島市の調査より)

世帯数:39世帯(同上)

[編集] 地理・概要

吉野川の支流である新町川に架かる新町橋南岸に位置。中央を国道438号が通っており、新町橋一帯は「新町橋通り」と呼ばれ商店街が広がっている。しんまちボードウォークや阿波おどり会館・眉山ロープウェイ等の観光スポットが存在し、毎年阿波踊りの時期は「新町演舞場」が設営される。南には徳島市のシンボル・眉山が聳える。

河川:新町川

山:眉山

[編集] 施設

[3] 眉山山頂 Part2(ロープウェイ・展望所), , http://www33.tok2.com/home/m35rx4/bizan2.htm

眉山山頂 Part2(ロープウェイ・展望所) (2010年4月19日撮影) DSLR-A700

ロープウェイの眉山山頂駅には無料展望休憩所や展望レストランがあります。展望台からの眺めは素晴らしく、海に流れ込む吉野川や徳島の町並みが望めます。天候条件が良ければ大鳴門橋や淡路島、和歌山までの眺望を楽しめます。

大きな地図で見る

展望休憩所とロープウェイ山頂駅

眉山ロープウェイ乗り場山頂駅

ロープウェイ時刻表

映画「眉山」

ロープウェイ山頂駅から見た徳島市街

徳島駅前・新町橋周辺

新町川、徳島県庁(中央部)

国道11号かちどき橋、徳島県庁周辺

徳島駅前

新町橋

国道11号吉野川大橋

展望休憩所

中央部の山は徳島城跡

吉野川

吉野川大橋

徳島駅前、新町橋周辺

徳島市役所

徳島県庁

建設中の四国横断道

眉山を出発

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[5] 荒川 (関東) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_%28%E9%96%A2%E6%9D%B1%29

歴史[編集]

荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。

利根川東遷事業[編集]

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。

荒川放水路[編集]

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。

計画に至る過程[編集]

明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ

[6] 玉川ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E3%83%80%E3%83%A0

概要[編集]

国土交通省東北地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、高さ100.0メートルの重力式コンクリートダムである。雄物川水系に建設されたダムの中では最大規模のダムであり、玉川・雄物川の治水と秋田市や秋田平野への利水、そして玉川の水質改善(河川水の中性化)を目的とした特定多目的ダムである。ダムによって形成された人造湖は宝仙湖(ほうせんこ)と命名された。

地理[編集]

玉川は雄物川水系においては皆瀬川・成瀬川・役内川と共に「雄物川四大河川」と呼ばれる主要な支流である。八幡平付近を水源とし、玉川温泉を経てダム地点を通過、日本一深い湖・田沢湖の東側を概ね南向きに流れる。その後抱返り渓谷などの景勝地を形成し、桜並木で有名な角館付近で檜木内川を合わせる。その後は南西に流路を変え、大曲市付近で雄物川へと合流、日本海に注ぐ。ダムは玉川の最上流部に建設された。

ダムの名称は河川名から、貯水池の名称は水没した地域が「宝仙平」と呼ばれていたことからそれぞれ命名されている。なお、完成当時の所在自治体は仙北郡田沢湖町であったが、平成の大合併により周辺自治体と合併して仙北市となっている。

沿革[編集]

1935年(昭和10年)より内務省主導で施行された「河水統制事業」は玉川も対象となった。戦争による中断の後1950年(昭和25年)の国土総合開発法の施行に伴い雄物川水系は「阿仁田沢特定地域総合開発計画」の対象となり、河川総合開発事業が実施された。雄物川本川にはダム建設の適地が無く、支流にダムを建設し治水・利水を図ろうとした。

建設省東北地方建設局は玉川を始め皆瀬川とその支流の成瀬川、および役内川に多目的ダムを建設する計画を立てた。玉川に鎧畑(よろいばた)ダム、皆瀬川に皆瀬ダム、成瀬川に肴沢(さかなざわ)ダム、役内川に川井ダムをそれぞれ建設して雄物川の治水安全度を向上させようという計画であった。鎧畑ダムは1957年(昭和32年)に、皆瀬ダムは1963年(昭和38年)にそれぞれ完成したが肴沢ダムは早々に計画が立ち消え、川井ダムも1960年代半ばには計画が消滅し四大河川にダムを建設する計画は不完全なまま終了した。鎧畑・皆瀬の両ダムは完成後秋田県に管理が移され、建設省による河川改修は堤防整備などに重点が置かれていた。

だがその後も治水計画上問題となる洪水が起き、さらに秋田港を中心とする秋田市の

[7] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[8] 淀川大堰 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E5%A0%B0

淀川大堰付近の空中写真。淀川大堰左岸(右下)の毛馬水門を経て南東方向へ分流するのが旧淀川(大川)である。1985年撮影。

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

淀川大堰(よどがわおおぜき)は大阪府大阪市都島区毛馬町4丁目と東淀川区柴島2丁目にまたがる、一級河川・淀川本流に建設された堰である。

国土交通省近畿地方整備局と独立行政法人水資源機構が共同で管理を行う可動堰で、1964年(昭和39年)に完成した長柄可動堰を改造して1983年(昭和58年)に完成した淀川最下流にある河川施設である。大阪府と兵庫県への上水道と工業用水道供給を目的にしている。

沿革[編集]

古くから京阪神の大動脈として利用されていた淀川であるが、戦後高度経済成長に伴って阪神工業地帯の生産が拡大。それに伴って大阪市を中心とする地域では人口が爆発的に急増した。このため従来の水道施設では増え続ける人口へ対処できないことから、新たな水資源の開発が課題となった。

1962年(昭和37年)、水資源開発促進法が制定されて首都圏と関西圏への水資源需要に対応するための水資源開発公団[1]が発足。淀川水系は利根川水系と共に水資源開発を重点的に行う「水資源開発水系」に指定された[2]。これにより淀川水系では淀川水系水資源開発基本計画が策定され、上流部に高山ダム(名張川)・青蓮寺ダム(青蓮寺川)・室生ダム(宇陀川)が建設された。下流部には新淀川と旧淀川分離の際に建設された可動堰があったが、これを改良して大阪府・兵庫県への新規上水道・工業用水道供給を行うことを目的に改造。1964年8月1日に旧大阪中央環状線・長柄橋沿いに長柄可動堰が完成した。

その後建設省近畿地方建設局[3]は1971年(昭和46年)3月に淀川水系の治水計画の基本となる淀川水系工事実施基本計画を改定し、淀川下流部[4]における計画高水流量を大幅に改定した。この中で200年の一度の水害に対応する治水計画にするため、予想する流量を当初計画の約二倍にあたる毎秒12,000tの洪水量とした。こうした大幅な流量増加に対応すべく上流では日吉ダム(桂川)・比奈知ダム(名張川)の建設、中流部では堤防の増強、下流では新淀川・旧淀川の掘削と拡張によって治水を行おうとした。ところが、下流部の河道掘削と拡張を行う際に、長柄可動堰は洪水を安全に流下させる阻害要因に

[9] 富士川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D

富士川(ふじかわ)は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。

甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた。

釜無川本谷として、南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、長野県富士見町にて八ヶ岳などからの源流とする立場川と合流しながら、山梨県北杜市まで長野・山梨両県の県境を成す。北杜市にて山梨県域に入ってから尾白川、塩川、御勅使川などと合流しながら甲府盆地を南流し、西八代郡市川三郷町と南巨摩郡富士川町の町境で笛吹川と合流する。ここまでを釜無川と呼ぶ。

釜無川の名前の由来には諸説あり、上流の「釜無山」にちなむというものや、「水量が豊富で流れが速いため、釜を洗おうとするとすぐに流されて無くなってしまうから」という伝承に近いものなどが挙げられる。その中でも有力視されているのが、絶え間なく流れる様子を表した「クマナシ(隈無し)」に由来しているというものである。

一般的に釜無川と笛吹川の合流点より下流を富士川と呼び、そのまま富士山の西側を南流し、途中早川、常葉川、波木井川など更に下って静岡県に入ると稲子川や芝川などの支流を合わせ、富士市の雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ。

呼び方[編集]

正式には「ふじかわ」と濁らない発音であり、東海道新幹線富士川橋など橋付近のに掲げられている看板には英語標記で「FUJIKAWA」と記載され、国土交通省の発行の記述は「ふじかわ」と記載されている。また流域の静岡県、山梨県では「ふじかわ」と呼ばれ、これは静岡における4音の川で、2音目が濁るもの(安倍川、地名の旧芝川町(現・富士宮市)など)で共通のルールであるが、全国的には「ふじがわ」と誤って発音されてしまうことも多い。

辞書での呼び名はまちまちで、講談社の日本語大辞典、三省堂の大辞林(goo辞書、excite辞書含む)では「ふじかわ」と記載されている一方、岩波書店の広辞苑、小学館の日本語大辞典やYahoo辞書でも利用されている大辞泉では、「ふじがわ」と誤って表記されている。他、NHKのアナウンサーでさえ「ふじがわ」と誤って発音をする場合がある(2012年のNHK大河ドラマ・平清盛では「ふじかわのたたかい」)。

「ふじがわ」と発言される理由

[10] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[11] 五色浜, , http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/goshikihama.htm

波打ち際に敷き詰められた色とりどりの小石。夏には海水浴場としてにぎわう洲本市の五色浜には、近くの地層から洗い出されたチャートや結晶片岩などの小石が波に打ち寄せられ、並んでいます。

小石の色は、白・赤・茶・黒・灰色などで、それに緑や黄も交じっています。波をかぶって小石がぬれると、それぞれの色が透明感をまして鮮やかになり、宝石のようにまぶしく陽の光をはね返します。

車窓に播磨灘を見ながら、淡路島の西岸を車で走り、五色浜に着きました。淡路交通バス停「五色浜」の近くから、浜へ下りることができます。

訪れたときは、潮が満ちていたために、砂浜の幅はそう広くありませんでした。浜辺では、連休中の観光でしょうか、いくつかの家族連れが遊んでいました。

砂の上には、丸い小石がいく筋かの帯をつくって並んでいます。小石は大きさが2cm以下のものが多く、大きくても10cmまでです。大きなものは、護岸の下に集中していました。海の中にも、小石の並んだ帯が見えるので、潮が引くともう少し小石の風景が広がるのかもしれません。

小石の種類は、結晶片岩とチャートが多く、砂岩や泥岩などの堆積岩、花崗岩などの深成岩もそれらに交じっています。また、安山岩や緑色岩、凝灰岩も見られてなかなか多彩です。

これらの小石は、この海岸の裏手に広がる地層中から礫が波に洗い出されたものです。今は、護岸によって波による洗い出しが少なくなっていると思われます。波の寄せる海辺にきれいな小石の広がるこの風景を、いつまでも大切にしたいですね。

五色浜の海岸から上がり、道路を渡って少し北に歩くと、大きな露頭があります。採土場として削り取られた崖のようですが、ここで五色浜の小石のみなもとが観察できます。

ここで見られるのは礫岩の地層で、含まれる礫の量や大きさの違いによって層理が見られます。礫の大きさは、最大で15cm程度、どれも角が丸くなっています(円礫〜亜円礫)。礫の種類は、チャートが多く、結晶片岩や砂岩などがこれに続きます。結晶片岩の礫は平たい形をしているので、露頭の表面からぴゅっと飛び出しています。

礫の周りの基質は、褐色の砂岩です。固結度が弱く、ハンマーの先で引っかくとボロボロと崩れます。このような地層に波が打ち寄せると、地層がどんどん崩れて、その中から礫が洗い出されます。

この地層は、大阪層群五色浜累層(新第三紀

[12] 埼玉県小川町〜寄居町 東上線に絡む道路(後編) ( その他趣味 ) - 埼玉発 おとなの小探険 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/40958360.html

カントリーサインがあるわけでもないが、ちょうどこの辺が比企郡小川町と

大里郡寄居町の境になっている。

[13] , , http://homepage2.nifty.com/pow-dream-shino/kokuhou46.htm

第45章 建築美を探して

第226話 神秘への道程

2010年9月18日午後、僕らは鳥取県東伯郡三朝町の三仏寺参道前に立った。

国宝建築探訪を始めた10年近くも前からずっと気になっていたこの神秘的な建築と出逢うために。

三仏寺投入堂に行くんだぞ!

と力んで言っても、僕の周りの多くの人達は「何それ?」と不思議な顔をする。

「ほら、誰か偉い人が断崖絶壁のくぼみに、投げ入れたというお堂だよ。」

※「誰か偉い人」というのは修験道(しゅげんどう)の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)のことらしい。

「知らないけど...」

特に東日本出身の若い人はこんな感じだ。だけどweb上の写真を見せると、

「ああ知ってる、知ってる、何かで見たことがある!」

ということになる。つまり、知名度は低いが、「知姿度」は高いということだ。それほどテレビや雑誌等にはよく紹介される建築なのだ。しかし、その実物を間近で観ようと思うと、それはもう小さくない決心が要る。理由は三仏寺投入堂への道程が国宝建造物随一の難所であるからだ。

今日の僕らは3人連れ。ずっと国宝倶楽部に参加している北関東の「あきらくん」、もうひとりは僕がこの「国宝の力」を更新しなくなった5年ほど前から入部した二人目の「あきらくん」だ。便宜上、「あきらくん�U」と呼ぶことにしておこう。(失礼) 5年も「国宝の力」を更新しなかったのは、ここに集まって下さる皆様には申し訳なかったと思うが、僕が国宝探訪に飽きたわけではない。仕事やプライベートで忙しかったこともあり、単純に時が流れてしまったのだろう。でもその間、羽黒山や信州、高岡や平泉への国宝倶楽部の活動は(どれも再訪だけど)継続し、僕自身もここにはupできていないが多くの国宝に出逢っている。東日本の国宝建造物と仏像はすべて制覇した。そして、どうしても一度は投入堂を観ておきたいという二人の「あきらくん」の強い要望に押し切られた形で、僕は小さくない決心をした。

山歩き用の靴でないと不可(用意していない人は何故かわらじを履く羽目になる)ということで、3人ともトレッキングシューズだ。Gパン、Tシャツにゴムいぼ付きの軍手、重たくなるといけないので、背中のリュックには愛用のEOS7Dと広角から望遠をカバーしたタムロンの優れものレンズ(と思っている)1本のみ。首にタオルを巻いて、リュッ

[14] 公報check(2016年6月) ( その他趣味 ) - Yahoo!ブログ 道徒然話 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/kasuga_3z/13761570.html

下手な写真と文章で、主に「道」、ちょっと「鉄・ゲーム」でウェブサイトと同時並行でやっていこうと思った次第であります。

[15] 甲州街道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93

概要 [ 編集 ]

元は「古甲州道」であり、甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。 江戸 ( 日本橋 )から 内藤新宿 、 八王子 、甲府を経て 信濃国 の下諏訪宿で 中山道 と合流するまで38の 宿場 が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、 正徳 6年( 1716年 )4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。 中馬 による陸上運送が行われた。江戸の町において 陰陽道 の 四神相応 で言うところの 白虎 がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。

歴史 [ 編集 ]

甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年であり、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。

近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は 徳川家康 の江戸入府に際し、 江戸城 陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、 甲府城 を有する 甲府藩 が 親藩 であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。

参勤交代 の際に利用した 藩 は 信濃 高遠藩 、 高島藩 、 飯田藩 である。それ以外の藩は 中山道 を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。

近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『 甲州道中分間延絵図 』や『 甲州道中図屏風 』が知られる。また、 宇治採茶使 は甲州街道を利用した。

宿場 [ 編集 ]

多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くと

履歴

[16] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926409265655

メモ