田浦

田浦

[1] 田浦

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[2] 隧道レポート 旧 田浦隧道 <前編> (横須賀市の明治隧道), , http://yamaiga.com/tunnel/yokosuka_meiji/main4.html

「旧 田浦隧道」はどこにあったのか。

「旧」と付くくらいだから、当然いまの「田浦隧道」の傍だろう。

そう思うのが普通である。

「旧 田浦隧道」についても、まずは周囲の道路環境の変化の中での盛衰を見ていきたい。

明治20年

近世の「浦賀道」は「国道45号」に指定されていたが、この道には田浦〜逸見間の十三峠を始め、田浦〜船越間や、船越〜追浜間にも急坂の山越えがあって、車両の通行は不可能だった。

長浦湾の奥に位置する船越地区では、江戸時代から埋め立てによる新田の開発が進められていた。この広大な平地に目を付けた海軍は土地の収用をし、明治19年に横須賀鎮守府の水雷営と水雷修理工場が建設され、船越周辺には多数の工員やその家族が住むようになった。

だが周辺の田浦や浦郷や追浜方面から船越に入るためには、急な山道を越えて歩くか、渡し船によらねばならなかった。

明治20年に横須賀市域最初の民生のトンネルとして誕生した「梅田隧道」は、追浜や浦郷地区の人々が通勤のために建設した。

明治26年

明治26年には、今度は田浦方面から船越へ入る「田浦隧道」が開通した。

明治36年に船越の軍工場は大幅に拡張され、海軍工廠造兵部となる。当時7000人が働き、最盛期となる昭和10年代には3万人が働いた。船越地区の田園風景は全く姿を消し、梅田隧道や田浦隧道も通勤路として大いに賑わった。

大正11年

横須賀に近代的な道路網が出現する少し以前、僅か10年ほどではあったが、この地域の交通路として大変重宝されたものがあった。それは海軍が設置した「横須賀水道」という軍用水道の水道路である。大正7年には田浦〜横須賀間の一般者の通行が許可され、11年には田浦〜逗子も許可された。

これらの隧道のうち当時の姿を留めているのは、逗子市との境に掘られた「盛福寺隧道」で、重厚な煉瓦造りとなっている(立入禁止)。

昭和4年

昭和4年当時の道路網である。

大正9年に国道31号へと改称された道は、いよいよ本格的な改良工事を施され、これが昭和3年までに完了した。

このとき相次いで建設された浦郷、船越、田浦、吾妻、長浦、吉浦、逸見の7本のトンネルのうち、大正12年完成の船越隧道は(従来の)田浦隧道に隣接して建設された。

また、昭和4年には船越〜逗子間の県道が改良工事を完成し、峠に沼間隧道が開通している。

これらの道の開通によ

[5] 田浦をあるく「今も残る古道」|横須賀市, , http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2482/walk_taura/b10078.html

更新日:2010年11月1日

田浦をあるく「今も残る古道」

長浦~田の浦をむすぶ古道が、今も残っている。明治43年手掘りのトンネルができるまでは主要道路であったが、今では吾妻神社へ通じる唯一の山道となっている。

[6] 直線階段の先にあったものとは!: 三浦半島なんでも探偵団 ~B面~, , http://miura-and-others.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-35fe.html

さて、今日は元気だったので、直線階段に挑戦しました。

登る前にまずは予習です。 この階段がある付近の住所は田浦泉町。 この階段の下も、また昇りきったところも田浦泉町。 つまりこの町はダブルデッカーになってます。 その間の行き来がどれくらいあるのかは知りませんが、車で行こうとしたら超遠回りになってしまいます。 (おそらく車だと3Kmくらい、階段だと300mくらい) そういうこともあってこの階段ができたのかも、です。

予習はこれくらいにして、と。 さあいよいよ挑戦です。 写真だとあの迫力がなかなか伝わらないのですが、ホントにジャーンと立ちはだかっています。 覚悟をきめてえっちらおっちら登り始めました。 真ん中よりちょっと上の部分で、田浦泉町の上の段に行く分かれ道が右に延びていましたが、直線階段はその分岐点よりさらに延びています。

段数を数えると、183段で頂上に着きました。 そこにあったものは、、、、

ちょっとした広場になっていて、なにやら厳重にガードされた小屋が現れました。 そこに書いてあった看板を読んでみると、な、な、なんと!

ずい道入口??? 水道局管理??? なぜこんな山の中腹にトンネルの入り口が???

小屋をしげしげと眺めてみましたが、ヒントはありません。 想像するに、この階段のふもと付近には、横須賀に向かう水道管が敷設されていて、そこに通じるマンホールみたいなトンネルがあるのか? でもそうだとしても、なぜにわざわざこんな上に入口を作っているのか??? うーん。

さてトンネルの謎は解けず、もやもやした気持ちのまま帰ることに。 お約束の、上からの写真も撮りました。 でも写真で見ると下から撮っても、上から撮っても同じように見えます。(笑)

田浦泉町の上の段への分かれ道に入って、直線階段を横から見た写真。 角度的には40度くらいかな? スキー場のゲレンデで40度となると、上級者用のナントカの壁、なんて言われますよね。 まさにそんな感じでした。

さあ、明日は筋肉痛か?

[7] 神奈川県横須賀市 孤高の橋?と謎の道(その3) ( その他趣味 ) - 埼玉発 おとなの小探険 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/40986472.html

跨道橋に着いた。

結果的には誰も利用者がいないような橋ではなかった。

しかしまあ、せっかくだからこの橋にスポットライトを当ててみよう。

橋の名は田浦橋、昭和58年(1983)8月竣功である。

横横のこの区間の開通は昭和59年4月である。

こういう立地での架橋はたいてい生活道等の分断の補償なのだが、ここの場合は

そうではなさそうだ(詳細がわかる方が居られたらご教示頂きたい)。

[9] 東京駅から電車で60分、「都心からもっとも近い廃村」はこうして生まれた (週刊SPA!) - Yahoo!ニュース, , http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160608-01127656-sspa-soci

ある時から村に刻まれていた歴史が止まり、放置されたままになっている廃村。そのどこか中二病心をくすぐられる響きと、実際に足を踏み入れてわかる独特の佇まいは、マニアを生み出すほどの魅力を持っている。 ⇒【写真レポ】田浦駅からスタート 廃村と聞くと、人口が少ない地方にあるイメージだが、実は東京駅から1時間ほどの場所にも存在していたのをご存知だろうか。本記事はその「都心から一番近い廃村」の様子をレポートする。

◆駅から見える海上自衛隊の基地

東京駅からJR横須賀線で約1時間。横須賀駅からほど近い田浦という場所にその廃村はある。駅周辺は山に囲まれ閑散としているが、少し歩くと昔ながらの商店街や海上自衛隊の学校があり、自然と人工物が混在した風景が広がっている。

※Google Map 35.293186, 139.627353

そして駅から盛福寺というお寺を目指し15分ほど歩くと、京急本線とJR横須賀線が交差するポイントが見えてくる。それが今回の目的地「田浦廃村」の目印だ。ちょうど踏切を超えたエリアからが廃村になるのだが、草も伸び放題で手入れされておらず、どこか異世界への入り口のような雰囲気を漂わせている。

◆家電や衣服類はそのまま

いざ入ってみると、細い一本道がひたすら山の頂上へと続いており、途中には錆びた自転車や台車が点在。アブやハチなどの害虫をかわしながら歩いていくと、早速「立ち入り禁止」の看板とともに朽ち果てた家屋があちらこちらに出現。

外壁にはスプレーで数字が書かれており、どうやら建て壊しをする順番を示しているようだ。

誰かに割られたのか、窓ガラスがない一軒の家の中を覗いてみると、電子レンジなどの家電から学生服まで、以前人が生活していたことがわかる残留物が多く残されていた。

鳥の剥製、人形の頭なども確認することができ、静けさも相まって不気味さに拍車をかける。途中にあったアパートの前にたどり着くと、散乱した郵便物を発見。日付を見たところ「平成3年」の印刷がしてあり、人の手も入らないままここで四半世紀以上歳月が経ってしまっていることがわかる。

◆約30年手付かずの状態の理由は

一体なぜこのような有様になってしまったのだろうか。横須賀市田浦の行政センターに問い合わせてみたところ「この辺りを開発しようとした業者が、何かしらのトラブルで断念せざるを得なくな

[10] 隧道レポート 国道16号 横須賀隧道群, , http://yamaiga.com/tunnel/yokosuka/main.html

三浦半島レポのデビュー戦を、いかにも山行がらしい廃隧道「佐島隧道」で飾った(飾れてないか)私だが、むしろ私がこの三浦半島という地で一番行ってみたかったのは、これから紹介する隧道群だった。

そしてそれは期待通りに、私の心を並の廃隧道以上に掴んだ。

現役でありながら。

横須賀市史は「交通・運輸の推移」という節を設け、その中で「横須賀は地形上、トンネルが多く…」と概観している。

続けて「(市内のトンネルは)(昭和)60年4月1日現在64ヶ所を数えるが、30年には既に42ヶ所のトンネルが開削されていた。」と、古い隧道が多く存在することに触れている。

これから紹介する国道16号の隧道群は、奇しくも路線番号に等しい16本の隧道で構成されている。

そのうち最も古いものは船越隧道で、大正12年に生を受けて以来ずっと現役である。

また、15番目に開通した新浦郷隧道でさえ昭和36年竣工と決して新しくない。ただ一つ、最後に完成した新横須賀隧道のみが平成2年竣工と若いのみである。

そして現在はこの16本の隧道は全てが、上りもしくは下り線専用として利用されている。(右の写真は田浦隧道で典型的な光景)

そのことが、他の道路ではあまり見られない、この隧道群に特有な交通風景を作り出している。

右の地図をご覧頂きたい。

また、もしお手許に道路地図帳があるならば、是非見てみて欲しい。

余り大縮尺でない道路地図の方がギツギツさが伝ると思う。地図を描く人もここには頭を悩ませた筈だ。狭い範囲に太線で描くべき国道が輻輳せざるを得ない。

道は突如街中で二股に分かれたかと思うと、狂ったように隧道を連続させている。

実は、遠くない未来、これら隧道群が大規模な改修を受ける公算が高まっている。

そうなれば、この土木遺産級の隧道達はどうなってしまうのか。 …不安は大きい。

軍港都市として発展し、戦後は米軍基地と共に歩んできた横須賀。

その海(港と基地)と山に挟まれて南北に細長い都市部の中心を国道16号が縦断している。

これと平行して半島の中央丘陵地に自動車専用道路としての有料バイパス「横浜横須賀道路」が通っているが、距離の離れた両者のアクセス性に難があり、国道16号の混雑は一向に厳しい状態を脱していない。

写真は京急本線の汐入駅(横須賀中央駅の隣駅)付近より北方を望む。

前方のマンションが居並ぶ

[11] 隧道レポート 国道27号旧道 吉坂隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/kissaka/main2.html

吉坂隧道の東口は、どこにある?

前回、西口を発見したが、内部は落盤のため坑口からわずか20mほどで完全に閉塞していた。

隧道の通り抜けができなかったので、今度は東口を探してアプローチしたい。

ただ、東口の位置については、大きな謎があった。

それは、「 大鑑 」に本隧道の全長として記載されている141.5mという数字は、峠を潜り抜けるには短すぎるという問題だ。

右図に付した青丸は、西口を中心に描いた半径141mの円だが、この長さでは到底峠を貫くことが出来ないのである。

極端にトンネル内部の勾配を大きく取れば、吉坂峠の頂上辺りに抜けることは不可能でないかも知れないが、それはあまりにも不自然である。

…結論として、 「大鑑」のこの数字は誤りなのだ。

しかし、それは現地探索も机上調査も終えた今の見解であり、探索前の段階では東口の位置を考える上での大きな障害になっていた。

前回の冒頭でも述べた通り、吉坂隧道はそれが極端に短命な存在であったためか、歴代の5万分の1地形図に正しい姿で描かれたことがない。

そのため、発見できないことへの警戒が普段よりも強くあり、そのためやや念入りの事前調査を行ってから探索に望んだ経緯があった。

旧地形図に代って旧隧道の位置確定の役に立ってくれたのが、古い航空写真だった。

右図は 昭和27(1952)年の航空写真 だが、ここにお目当ての吉坂隧道が写っており、坑口前後の道から坑口の位置を推測することが可能である。

そして、変化後の画像はそれから11年後の 昭和38(1963)年 に撮影されたものである。

2枚の写真を比較してみると、この短い期間に吉坂隧道の西口に通じる「旧道」は、完全に見えなくなってしまった。

新トンネル(青葉隧道)建設に伴う残土(ズリ)で埋め立てた可能性が高そうである。

そして懸案である東口の位置であるが、 青葉隧道の東口から非常に近い位置に存在していたように見える。

…場所はだいたい分かったが、これはこれで新たな懸案事項となってしまった。

下手したら建設位置が重なってしまっていて、そのために旧坑口が破壊されてしまった可能性もありそうだ。

(だから今回は西口により大きな期待を抱いていたのだが、閉塞していたものは仕方ない。)

2016/10/17 16:27 《現在地》

これから現道の青葉隧道を通って、吉坂隧

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[23] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926399558066

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