千頭駅

千頭駅

[1] 千頭駅

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[2] 道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道), , http://yamaiga.com/road/mituno/main.html

危険な探索でした。

危険と言ったら、日本の急峻を沢山集めた“南ア”エリアの十八番である。

千頭林鉄 のふるさと、川根本町に再登場を願おう。

【周辺図(マピオン)】

左図は川根本町の千頭地区周辺を描いた最新の地理院地図画像だ。

今回探索した道は、この地図をぼんやり眺めているときに、気になり出した。そして簡単な机上調査の末に、探索を決行した。

そんな緩い動機というか、きっかけから、非常に危険な探索に追い込まれた(苦笑)。

さて、この地図の中で、皆さまはどこが気になりますか?

私が着目したのは、 大井川 に沿って並走(一部重複)する 国道362号 と 県道77号 の位置関係であった。

千頭から金谷までの大井川の中流には、国道と県道が川を挟んで両側に並走しているのだが、これは 国道が右岸(西岸)、県道が左岸(東岸) という位置関係を、まるで暗黙の了解でもあるかのように保っていて、国道が左岸へ“お邪魔”するのは、おおよそ42kmの中にたった2箇所、4kmくらいしかない(平成28年現在)。

大井川の激しい蛇行を思えば、もう少し橋を架けて川を串刺しにするショートカットが多くても良さそうだが、そうした改良は、まだまだ発展途上である。

そしてこの地図の千頭付近が、そんなレアな2箇所のうちの1箇所だ。

南から千頭を目指して右岸を北上してきた国道は、「崎平」で大井川を渡り左岸へ移動。以後「田代」「小長井」を経て、静岡方面へ向かっている。

だが、地図を良く見ると、「崎平」で川を渡らず、そのまま右岸の「富沢」「三ツ野」を経由して「千頭」へ至る道も描かれている。

この状況を見て真っ先に思ったのは、「富沢」や「三ツ野」を経由する道が、国道の旧道なのではないのかということだった。

以前、 千頭林鉄 の探索を行ったので、この辺りの机上調査資料は、既に入手していた。

そして、“右岸旧道説”を確かめるべくそれらに目を通すと、早速発見した。

動かぬ証拠。

左図は、『本川根町史 通史編3 近現代』 (以後『町史』とする。なお、この書名は誤記ではない。 本 川根町が平成17(2005)年に中川根町と合併し、現在の川根 本 町になっている) より転載した、「 本川根地域概略図〜明治初期〜 」である。

この図には明治初期の(おそらく近世から引き継いだ)交通網が描かれており、中央を大きく蛇

[4] 廃線レポート 千頭森林鉄道 [総扉ページ], , http://yamaiga.com/rail/senzu/main.html

その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。

昭和46年版「千頭営林署管内概要」より

昭和44年当時の千頭(せんず)営林署は、全国350の営林署のなかで最大の予算規模を誇っていた。

このことは同署発行の「管内概要」自らが「特異」だとしているが、確かに誰もが知っている青森や秋田、それに木曽などの“林業国”を差し置いて、静岡県の一部を所管する千頭営林署がそのような地位にあった事は意外である。

ということは当然のことながら、千頭営林署を所管する東京営林局の中でも同署が最大の営林署であった。

膨大な予算は、首都の名を冠する東京営林局が半ば宿命的に持たされていた、わが国の林業の模範となりまた先進的でなければならないという性格を反映させたものでもあった。

それに、ちょうどこの昭和44年というのは、東京営林局管内最後の森林鉄道「千頭森林鉄道」が廃止された年であり、当時は代替となる林道が年10km以上という、現在としては考えられないくらいのハイペースで建設されていたのである。

だが、千頭営林署が全国最大の予算で事業を行っていたのはこの年だけではなく、それほど珍しい事ではなかった。

大規模予算の本当の理由は、「千頭の山」で林業を円滑に行うためには、それが必要なコストだったからに他ならなかった。

そしてもちろん、それに見合った収穫が見込まれたからであった。

地形は早壮年期〜満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°〜40°、山頂近くは10°〜30°となる。標高は、300m〜2591mとその差が著しい。

同上 より

左の写真を見ていただければ、どれほど険しい地形から木が伐り出され、そして運ばれていたのかがお分かりいただけるのではないだろうか。

千頭森林鉄道が昭和初期の開通以来、廃止となる昭和44年までのあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく運転されていたのは、目も眩むような絶壁にしつらえられた幅762mmの線路であった。

本稿が取り上げるのは、この「日本一の事業規模」を誇っていた千頭営林署のあらゆる事業に欠くことの出来な

[5] 廃線レポート 大井川鐵道井川線 接岨湖水没旧線, , http://yamaiga.com/rail/sessoko/main2.html

2010/4/20 8:28 【現在地】

“それ” は、思いのほか近くに待ち受けていた。

私がレールの残る路盤に降り立ち、一瞬どちらへ行こうかを迷ったものの、すぐさま上流方向を先に終らせる事を決めて歩き出したら、すぐ目の前であった。

この旧線で出会った最初の隧道。

その思いのほかに、しっかりとした姿であった。

昨日と今日と、私はこの大井川鐵道井川線の沿線で、いろいろな探索を続けていた(昨日は 【これ】 とか)。

だから、この鉄道の“隧道”は、もうそれなりに見慣れたものになっていた。現役のものも廃止されたものも、いろいろ見た。

中でも昨夕に探索した 旧第9号隧道 のインパクトは非常に大きかった。

そして今度私の前に現れた廃隧道の坑門には、昨日の「9」と同じ位置に、「 26 」の数字がペイントされていた。

それ以外に装飾、あるいは情報と呼べるものは見あたらなかった。

第26号隧道 の内部に目を向けると、敷かれたままの3本のレールが、緩やかに左へカーブしながら、見えざる闇の奥へ向かっていた。

今まで数え切れないほどの廃線の隧道を探索した記憶があるが、レールが敷かれたままというのは相当限られる。おそらく、両手で数えきれるほどだ。

さらに林鉄や鉱山関連を除いて、純粋な鉄道事業法に則った鉄道に限るならば、本当に希少と言えた。

水没前提で廃止された路盤からレールを撤去しなかった理由は、分からない。(誰か分かる方がいたら教えて下さい)

そして、この隧道は閉塞しているはずだった。

この情報も「新・鉄道廃線跡を歩く3」によるのだが、冒頭でも述べたとおり、この隧道を出た先にあるらしい新旧線分岐地点で撮影した写真には、しっかりとコンクリートで塞がれた旧線の坑口が写っていた。

だから通りぬけられる期待は全くしていないし、そんな隧道は、当然のように薄気味悪かった。

坑口部分だけは少し水が溜まっていたが、洞内は水が捌けており、レールがあるだけで、まるで現役の鉄道と錯覚するような光景があった! (ウヒョー!!)

もっとも、“現役の鉄道”といっても、一般的な鉄道ではなくて林鉄の隧道に近い感じを受けはしたが、それはやむを得ないことだろう。

まず、隧道が素掘であることが一般的な鉄道の隧道とは異なっていたし、断面の小ささもそうだった。

皆さまもおそらくご存知の通り、井川線は元々が

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