富山城

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[1] 富山城

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[2] 富山)中世富山城の遺構か 戦国後期の堀跡見つかる :朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASH9C5HKCH9CPUZB00R.html

富山市埋蔵文化財センターが、旧総曲輪小学校跡地(同市総曲輪4丁目)で行っている発掘調査で、富山城の原型となった中世富山城か当時の城下町のものとみられる遺構などが見つかり、12日に一般公開された。中世富山城の遺構はこれまで、富山城址公園内でしか見つかっておらず、同センターの担当者は、「城や城下町の範囲を探るきっかけになるのでは」と話している。

中世富山城は1543(天文12)年ごろ、戦国期の守護代・神保長職(ながもと)が築き、その後、佐々成政が拠点にしたとされる。

同センターによると、戦国後期~江戸前期(16世紀後半~17世紀前半)の中世富山城内か、その城下町を囲っていたとみられる堀跡が見つかった。土中の炭素年代を測定したところ、戦国後期のものと分かった。城の規模を知る手がかりになる可能性があるという。深さ1・75メートルだが、幅や方向は不明。来年度、詳しく調べる予定。

[3] 富山)利長公の石垣石材58個出土 富山城外堀跡から:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASHC53CT4HC5PUZB001.html

富山市埋蔵文化財センターが旧総曲輪小学校跡地(同市総曲輪4丁目)の富山城外堀跡で行った発掘調査で、1883(明治16)年に取り壊された二ノ丸二階櫓御門(やぐらごもん)の石垣の石材58個が見つかった。櫓御門の石垣石材がまとまって見つかったのは初めて。

石垣は江戸初期の1605(慶長10)年、加賀藩の前田利長が築城した際に造られた。09(同14)年の城の焼失、61(寛文元)年の初代富山藩主・前田利次による城の修復を経て、1831(天保2)年、大火での損傷後に解体修復したとされる。櫓御門は、現在の富山市大手町交差点付近にあった。高さ、幅とも約12メートルある城最大の門で、藩主を守る要所だったという。

見つかった石材は一辺0・5~1メートル。慶長期のものとみられる小型の刻印や、天保期の修復時にしるしたとみられる石の積み直し順を示す墨書があったため、櫓御門石垣の石材と判明。地上部の石垣石材は約600個と推定され、今回の石材は取り壊し後に外堀に廃棄されたと考えられるという。

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