京義線

京義線

[1] 京義線

Webページ

[2] 韓国鉄道の旅臨津江駅と臨津閣, , http://www.geocities.jp/tabinosyasoukara/dmz2.html

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臨津江駅

かつては、ソウルと中国国境の新義州を結んでいた京義線は、朝鮮戦争により北は 開城 、南は 汶 山 で分断されます。それから45年を経た2000年に、太陽政策を掲げた当時の金大中韓国大統領と北朝鮮の金正日

総書記の間で行われた南北首脳会談によって、分断された南北の京義線の再連結に合意します。

韓国側は2001年に 汶 山駅から−雲泉駅− 臨津江駅 (イムジンガン)まで6.0kmが、2002年には 民間人出入り統制線 となっている 臨津江 (イムジン河)を渡り、南北軍事境界線の両側に幅2kmずつ設けられている非武装中立地帯(DMZ)の 都羅山 まで3.7kmが延長されました。

2003年には南北のレールがつながったものの列車の運行については膠着状態が続き、試運転の後に韓国側から南北共同開発の北朝鮮開城工業団までの間で貨物列車の運行を開始したのは、この地を訪問した翌年の2007年のことです。

通勤列車は、ソウルから1時間余りで 汶 山駅に到着し、大半の乗客はここで下車してしまいます。係員が乗ってきて、車内の清掃し、シートをソウル向きに転換して行きます。

残ったわずかな乗客を乗せて列車は復活区間に入ります。ここから先は単線です。やがてホーム片面だけの駅、臨津江に到着します。ここから先の 民間人出入り統制区域 に入るには、臨津江で一旦下車して、ホームにあるDMZツアーのカウンターでパスポートを見せて

チケット購入(1200円ぐらいだったと思います。安い!)の手続きをする必要があります。

臨津江駅で受け付けるDMZツアーの1回の定員は180人だそうですが、この列車から降りた乗客は50人に満たない人数でした。

臨津閣

次の列車まで、1時間10分の待ち時間を利用して、臨津江駅のすぐ北にある 臨津閣 (イムジンガッ)に向かいます。ここは、北朝鮮の手前の許可なく自由に出入りできる最後の地点です。

かつて京義線を走ったのでしょう、蒸気機関車と2両の客車が 北に向かって 保存されています。ハングルは読めませんが、英語で書かれた“LET

THE IRON HORSE RUN AGAIN”( 鉄馬を再び走らせたい )の文字に、韓国の人々の統

[6] 鴨緑江断橋 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E7%B7%91%E6%B1%9F%E6%96%AD%E6%A9%8B

鴨緑江断橋 (おうりょっこうだんきょう、 中国語 : 鸭绿江断桥 、 英語 : Yalu River Short Bridge )は 中華人民共和国 (中国)と 朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) 国境 の 鴨緑江 に建設された 鉄道橋 (鴨緑江第一橋梁)の遺構。 朝鮮戦争 の際に 国連軍 の爆撃によって破壊され不通になっている。

沿革 [ 編集 ]

鴨緑江断橋は中国と北朝鮮国境の鴨緑江に 1909年 に 京義線 の「 鴨緑江橋梁 」として建設された 鉄道橋 である。12連の トラス橋 で、橋の中央部は船舶が通行できるように旋回する 可動橋 であったが、 1934年 3月に可動を停止した。

朝鮮戦争 中の 1950年 11月8日 、国連軍による爆撃によって橋梁の中央部から北朝鮮側までが破壊され不通になったが、歴史的遺産としてそのまま保存されている。この橋のすぐ上流に鴨緑江第二橋梁が 1943年 に完成して、現在は 中朝友誼橋 と呼ばれて利用されている。 [1] [2]

脚注 [ 編集 ]

^ 鴨緑江断橋 (百度百科、中国語)

^ 鴨緑江断橋 (互助百科、中国語)

参照 [ 編集 ]

中朝友誼橋 (鴨緑江第二橋梁)

鉄道橋

京義線 ( 平義線 )

座標 : 北緯40度06分54秒 東経124度23分29秒  /  北緯40.1149度 東経124.3914度

[7] 中朝友誼橋 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%8F%8B%E8%AA%BC%E6%A9%8B

Cho-Chung uŭikyo

Amnokkang ch'ŏlkyo

Jo-Jung uuigyo

Amnokgang cheolgyo

中朝友誼橋 (ちゅうちょうゆうぎきょう)は 中華人民共和国 遼寧省 丹東市 と 朝鮮民主主義人民共和国 平安北道 新義州市 を結ぶ 橋 で、中国側の正式名称は 鴨緑江大橋 で [1] 、以前このように呼ばれていた時代もあった。 鴨緑江 に架かる全長946.2 m 、橋脚12の 橋 である。下流側を 鉄道 、上流側を 道路 が通る 鉄道道路併用橋 である。

1990年 10月 に中朝両国の合意に基づき現在の橋の名前となる。鴨緑江大橋(中国側)・鴨緑江鉄橋(朝鮮側)などとも呼称される。 アジアハイウェイ1号線 の一部となっている。

概要 [ 編集 ]

橋の上には 道路 や 線路 ( 単線 )が通っており、有効な出入国書類( パスポート や ビザ 、 中朝辺境地区出入境通行証 など)があれば、 自動車 や鉄道で中朝国境を行き来できる。なお原則、 歩行者 が歩いて橋を渡ることはできないため、後述の タクシー を利用することになる。

中朝友誼橋を通る鉄道には 旅客列車 ( 北京 - 平壌 間の 国際列車 、列車番号:(中) K27/K28 (朝)6/5又は丹東 - 平壌間)が毎日定期運行(朝鮮行きは朝、中国行きは夕)されており、 貨物列車 も毎日運行されている。時刻表上で所要10分である。ただし丹東・新義州両駅では入国審査・税関検査などのための停車時間が非常に長い。

また、中朝双方の 税関 には国境間のみ営業を許されている特別な乗り合いタクシーがあり、 行商人 や旅行者が利用することができる。政治的な事情、特殊な事情がない限り、双方の 国境 は 国慶節 や 旧正月 の時期でも完全に閉鎖されるということはなく、土日も含め、 中国標準時 の8時頃から17時頃( 平壌時間 +30分)まで開いている。

[8] “まっちの街歩き”ブログ 【能登半島一周その1】七尾は衝撃的な簡易郵便局の宝庫だった, , http://match345.blog28.fc2.com/blog-entry-166.html

▲能登半島の付け根、富山県との県境がある七尾市大泊町付近で。長い長い能登路はここから始まった。 広島・岡山シリーズ が終わった後は、夏の北陸シリーズ。去る7月26日~28日、友人N氏と一緒に 石川県・能登半島 を旅してきた。 今回の旅程は、3日間ひたすら海沿いを走り続け、能登半島をクルマで一周するというシンプルかつ壮大なもの。個人的に能登という土地にはいろいろと縁があり、既に 2008年の夏 には半島の先っぽにある禄剛埼(ろっこうざき)まで行ったこともある。そして同行のN氏も北陸に数年間住んでいた経験がある。いろんな意味で懐かしさを感じさせる旅行だった。 さて、初日の7月26日。愛知県一宮市の自宅を出発したのは早朝の5時半。尾張一宮駅でN氏と合流し、東海北陸道、能越道を経て富山県氷見市の氷見北ICに到着したのがちょうど9時だった。

手始めに、氷見北ICにほど近い稲積簡易郵便局と八代郵便局に立ち寄ってから、最初にやって来たのは氷見市の北西部に位置する 胡桃(くるみ) という小さな集落(▼)。 こんな感じの寂しい山村で、有名な観光地でも何でもないところ。しかもこの集落、悲惨なことに大正時代から幾度となく 地すべり の被害に遭っているという。 ところがこの度重なる地すべりは、いつも集落の中央に位置する 火神社 だけを避けるようにすべっていったようで、この神社は「 すべらない 」=「 合格祈願 」の神社としてじわじわと有名になってきているらしいのだ。 ▲こちらがその 火神社 。全く観光地化されていない、山の中の素朴な小さな祠だ。 実は同行のN氏、ここの絵馬を奉納して見事医師国家試験に合格している。今回はそのお礼参りも兼ねてやって来たのだ。全国から受験生が集まるような大きな神社を想像していたが、意外とこぢんまりとしたスポット。私も教育関係の仕事をしているので、ここで教え子たちの合格祈願をしてきた。 丘陵地にある胡桃集落から今度は長い下り坂を下って、再び富山湾沿いへ。本日3局目の 宇波郵便局 に寄りつつ、郵便局のある 灘浦地区 の集落を少しだけ散策。 ▲宇波郵便局近くの街並み。昔ながらの商店が点在する街道筋のようなところだ。 このあたりの風景にも心惹かれるものがあったが、今日のメインは石川県の能登半島。富山県の人には申し訳ないが、国道160号(能登立山シーサイドライン)をさ

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