千保川

千保川

[1] 千保川

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[2] 古城万華鏡�V, , http://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_11.html

富山に負けたくなくって言うわけではありませんが、高岡にだってその昔、舟橋はあったのです。『高岡史料』には、

「高岡の町数六十有余、しかして古にありて今、これなきものあり。・・・往古舟橋町と称し、および長舟町と称せしものありしとの伝説あり」と、かつて高岡に舟橋町・長船町の地名があったことを記しています。そして、

『右澤氏旧記』の一文をその根拠として引用しています。

「・・・高岡町は昔、関野が原と言っていた。千保川の川淵には、舟橋町という町があった。すなわち、横田町の内御宮(有磯正八幡宮)から橋までの間のことで、今の横田横町のことだ。わが右澤家はここに居住した。・・・千保川の今の 横田 橋 のと

ころは、大昔のこと、急流で川幅の広い大川になっていたので、舟橋をかけていた。舟橋にはたくさん人の往来があった。小舟を百艘つないで、その金鎖を川向こうの東のほうは、 大法寺の前 の藤のつるのからまりついた老松の大木につないでいた。川の手前の西のほうは、川淵に大きな岩があったのでこれに巻きつけていた。その頃は、 川原町 から旅篭町までことごとく石の川原で、中島町は、砂の中洲であった。横田町のうち、有磯正八幡宮から今の横田橋までの間を大昔は 舟橋町 といい、わが先祖はそこに住んで、舟橋を管理する役人をしていたのである。・・・以下略」

「大昔」とは、「 川原町 から 旅篭町 までことごとく石の川原で、 中島町 は、砂の中洲であった。」という描写から判断して、「関野之古図」に描かれる風景が広がっていた頃、高岡開町前後の時代、のことでしょう。

『右澤氏旧記』をそのまま信用するならば、かつて千保川には、大法寺前から舟橋町=横田横町までをつなぐ舟橋が架けられていたということになります。これは、直線距離にして約450メートルにも及ぶ長さです。その頃にかけられていた高岡の千保川の舟橋は、富山の神通川の舟橋をはるかにしのぐ壮大なものであったと考えざるを得ません。

何だか、ここでも富山に対するライバル心がむき出しとなった観がありますが、450mに及ぶ舟橋など、そりぁもう日本一の舟橋に、・・・間違いない。いや、驚きました。

また、『高岡町由緒聞書』という古文書には、

「長舟町 千保川の舟橋を架けさせたる舟大工、あまた居住につき町名と相成り申し候。津幡江屋新兵衛 手洗野屋彦兵衛は最初のものに

[3] 富山の街道(ふるみち) 2007年11月25日 三昧小路, , http://2802rzm.gooside.com/furumicji/sanmai_syouji.html

三昧小路 (さんまいしょうじ) 高岡市(鴨島町) 高岡市波岡〜長江方面

高岡の中心街から郊外である、波岡・長江方面に向かう道です。

途中、火葬場があった小路を通るので、三昧小路という名が付いてます。

三昧とは、「焼き物」、「火葬場」を意味しています。

走行日 2007年11月25日 晴れ

車種 新家MTB

地元のケーブルTVで高岡の昔話を放映しているんだけど、

「三昧小路」の話がでてた。MTBの整備後の試乗にかこつけてたどってみました。

まずは旧北陸道の鴨島町高札場跡からスタート。 (地図) えっ!違うんじゃないかい。と思った人は鋭い。w ここは高岡の中心地で人が集まって通行の邪魔になるので、 こちら に移されたのです。画像直進は旧北陸道経由金沢方面。右折は旧北陸道経由富山方面。左折は戸出街道で砺波方面です。今回は直進です。

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