伊豆諸島

伊豆諸島

[1] 伊豆諸島

Webページ

[2] 新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6

気候は年間を通じてやや温暖。常夏と言うことは無いが、東京よりは暖かく、降雪することはめったに無い。また、外洋に面しているため風が強い日が多く、特に冬は「西ん風」と呼ばれる強い西風が毎日のように吹く。

東京からわずか160km南に位置するものの、空気は非常に清浄で、星空や海の美しさは、首都圏とは比べ物にならない。

歴史・文化[編集]

縄文時代から人が暮らしていた可能性があるとされており、出土品も存在する。また、現在でも島特有の方言や題目が残っていたり、冠婚葬祭時には、都心部ではすでに消滅しているような伝統的な儀式を今でも行うなど、旧来の文化が島民の生活に色濃く残っている。

江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため温かい雰囲気がある。

また流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている。

長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は漫画『地獄先生ぬ〜べ〜』などにも引用されるなど、非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する。

かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいる、と言ういくつもの逸話が村にある。

今でもその話を信じる習慣は残っていて、1月24日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ご

[3] 神津島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B4%A5%E5%B3%B6

本島は式根島とは10kmほどしか離れていない。伊豆諸島の有人島としては最も西にある。ひょうたん型をしており天上山(標高571m)を中心とした北部と秩父山のある南部とに大きく分けられる。

天上山には火口原があり、ここに、「表砂漠」「裏砂漠」と呼ばれる砂地がある。頂上が平坦で高度もあまり高くないにもかかわらず、本州では2000m級の高山に生育しているような高山植物も見られる山である。天上山は838年(承和5年)に大規模な噴火をしたことが『続日本後紀』の記録などから明らかになっている。

南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落がある。島の他の地域には字滝川、字高処山のように字があるが、この地域には字も町名も指定されていない。

御蔵島や青ヶ島など伊豆諸島には断崖絶壁に囲まれた島が多い中、神津島は比較的平坦で砂浜海岸が多い。また近海を黒潮が流れており、観光事業は発足していないが、マッコウクジラなどの鯨類もいる。

歴史[編集]

本島は、840年(承和7年)に伊豆国賀茂郡上津嶋として名が現れる。

神津島では、砂糠崎(さぬかさき)や沢尻湾、ほか恩馳島で黒曜石が産出し、後期旧石器時代から石器の材料として採取され、大量に本州に送られた。その流布範囲は広く、東は東京都、西は静岡県西部、さらに内陸部の山梨県北杜市の横針前久保遺跡にまで達し、半径約180kmまで拡がっていた。これは同時に旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠でもある。採掘は縄文時代まで続いた。

神話によれば伊豆の島々を造った神様が集まるところということから「神集島」の名が生まれ、それが転訛して神津島といわれる。古文書の中には「神集島」と書かれたものもある。

江戸時代初期、キリシタンの朝鮮人女性ジュリアおたあが流罪になり、神津島で没したという伝説があり、島内には墓所とされるものがある。また、ジュリア祭が毎年行われている。

関連項目[編集]

STARHORSEシリーズ - セガの競馬メダルゲーム。架空のGI競走「WORLD BREEDERS' CUP TURF」及び「WORLD BREEDERS' CUP」で開催される架空の競馬場 極東競馬場の舞台であると表現されている。

外部リンク[編集]

[4] 八丈町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E7%94%BA

歴史[編集]

年表[編集]

1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制が施行され、八丈支庁の八丈島に大賀郷村・三根村・樫立村・中之郷村・末吉村が設置される。

1947年(昭和22年)5月3日 - 地方自治法が施行され、八丈小島に鳥打村・宇津木村が設置される

1954年(昭和29年)10月1日 - 三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併し、八丈村となる。

1955年(昭和30年)4月1日 - 八丈村は大賀郷村・宇津木村を編入。

同日、八丈村は町制施行し八丈町となる。

1966年(昭和41年)3月 - 八丈小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」が提出される。6月に八丈町議会が請願を採択。

1967年(昭和42年)9月 - 八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。

1968年(昭和43年)10月 - 土地買収に関する住民との協議が成立。

1969年(昭和44年)6月 - 八丈小島全島民の移住が完了(全島民撤退時の島の人口は旧宇津木村9戸31人、旧鳥打村15戸60人)。「全国初の全島民完全移住」として注目された。

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

八丈町町域の変遷(年表)

月日

現八丈町町域に関連する行政区域変遷

[5] 道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道, , http://yamaiga.com/road/sanukayama/main7.html

今回の探索日は2013年4月1日で、翌々日の早朝に無事帰宅した私は、旅の興奮の醒めぬうちに早速、あれやこれやの机上調査をスタートした。

その成果を発表する前に、机上調査中にこういうもの(→)を見付けて笑わせていただいたことを書き記しておきたい。

私が探索中に窓口を訪ね、衝撃の“養蚕施設”証言を得た神津島観光協会の公式ツイッターアカウント( @kozusima さん)が、こんなツイートで世の中の【島フェチ】を島へ呼び込もうとしていたのである。

フェチだぞ、フェチ。

フェチって……、あれだろ…。

まあ、私が探索中にだいぶやばくなっていることは否定しきれない(詳しくは この漫画 に…)が…。

いずれにせよ、オブローダーの説明が面倒だと思った私が、自己紹介を適当にした結果が「史跡マニア」なわけである。

で、相変わらず観光協会サイドは「 養蚕場所として使われた(使おうとした?)神津島のある場所 」という(少し当日よりも自信がなさそうな)表現で、“養蚕施設”説を推している。

本当かよ!

島の外から恐縮であるが、私がっきっちり カタ 付けたる!!

文献調査 〜『伊豆諸島東京移管百年史(下巻)』および『神津島村史』を読む〜

遠くの図書館から取り寄せるまでも無く、最寄りの日野市立図書館に所蔵されていた上記の史誌が最初のターゲットとなった。(こんなとこでも、伊豆諸島が確かに東京“都内”なのだと実感する)

そして、個人的な疑義はさて置いて、島民の証言があるという理由から、最も有力な説とみられた「養蚕」について調べてみると…。

2冊とも、神津島の養蚕について専門に述べたページが1ページずつあった。

どちらも1000ページを越える大冊であるから、この分量は多いとは思えない。もちろん文章も読んだが、砂糠山で大規模な養蚕事業が行われたことについては、記述がなかった。

が、それでもこれら文献は、私の大きな誤りを正す役割を果たした。

[8] 道路レポート 青ヶ島大千代港攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/oochiyo/main11.html

主な参考資料

伊豆諸島東京移管百年史 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和56年刊)

黒潮に生きる東京・伊豆諸島 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和59年刊)

青ヶ島の生活と文化 (青ヶ島村教育委員会/昭和59年刊)

青ヶ島島史 (青ヶ島村/昭和55年刊)

I 大正時代 =大千代浦への最初の築港計画と顛末=

絶海の孤島を地で行く青ヶ島に、人が住み始めた正確な時期は定かではない。しかし、文献にその暮らしぶりが現われる近世には、島の北部にあって集落に最も近い海岸である 神子ノ浦 が、もっぱら港として使われていたようだ。明治45年の地形図にも、港の記号はこの一箇所にのみ書かれている。もっとも、この当時に運行されていた本土間の定期便はわずか年3回という有様で、当時の内地人のほとんどが、伊豆大島や八丈島の存在は知っていても、青ヶ島のことは知らなかったし、生涯訪れることなどない場所だっただろう。

港とは名ばかりの、地形としてはただの荒磯に過ぎなかった神子ノ浦に替って、小さくとも接岸設備を有する(それも昭和40年代までは艀専用の小さなものだったが) 三宝港 が、島の南西端に東京府の事業として最初の完成を見たのは、昭和9(1934)年であった。敢えて集落から遠く離れた不便な場所が選ばれたのは、そこに三宝鼻(大三宝、小三宝)という大岩が海岸線に突き出していて、島では貴重な小湾という天与の地形があったことからだった。

昭和10年の地形図では、港の記号は神子ノ浦から三宝港に移動しているのが見て取れる。以来、三宝港は島の港として唯一無二の存在として重要視され、今日に至るまで想像を絶するレベルの増強を受け続けている。その成果として、苦難の艀作業から脱却し、今や500トンクラスの中型客船が直接接岸できる、訪問者の多くが「城塞」をイメージするような島内最大の人工物となった。

我らが 大千代港 は、この三宝港に次ぐ第2の港(神子ノ浦も入れれば3代目)として計画・実行されたものであるが、大千代浦に港を作ろうという計画の萌芽は相当に古い。少なくとも文献上に築港計画が現われる順序としては三宝港とほぼ同時期であり、しかも実際に工事が行われたことが伝わっている。

島の東側の大千代浦築港の当時の書類は現在不明であるが、大正5年9月ごろに築造をはじめた ことは次の記録によって証し得る。青ヶ島西沢営業所から村役場

[10] 八丈島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B3%B6

[編集] 歴史

考古学的には縄文時代から人が住んでいて、勾玉が出土している[要出典]。

律令制度においては東海道駿河国を派遣している。

平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている[要出典]が、八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。

秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された(実際には「徳川の臣に下る」ことを条件とした赦免が用意されていたが、五大老まで務めた秀家がこれに甘んじることはなかった)[要出典]。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したが、数年後に島へ戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守っている。

最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送った。1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免。彼が流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されている。また、吉村昭の『漂流』は、18世紀末、漂着した無人島での十数年の自給生活を経て自力で船を建造し生還した船乗り達の実録だが、彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島であり、五ヶ村四千戸が地役人を中心に統治され本土との連絡も緊密な様子が終盤に描写されている。

太平洋戦争の際には、連合軍の南方からの侵攻に備えるべく、小笠原諸島が陥落した際の次なる防衛拠点とされていた。また東日本では唯一の回天基地も造られた。結局八丈島での戦闘は起こらなかったものの、「防衛道路」や「鉄壁山」などにその跡が残っている。

戦後の八丈島は観光産業が発達し、1960年代にはその温和な気候から日本のハワイとの異名をとり、首都圏からの新婚旅行先としても人気が高かったが、海外旅行の制限が廃止され、本物のハワイが身近になった1970年代以降観光客の入込数は減少傾向にある。ただし現在でも観光が島にとって重要産業であることに変わりない。

[編集] 方言

詳細は「八丈方言」を参照

上代東国方言の名残を残している独自の八丈方言を使用している。八丈島の方言

[11] 鵜渡根島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%B8%A1%E6%A0%B9%E5%B3%B6

経緯 - 北緯34度28分21秒、東経139度17分38秒

面積 - 0.4km²

外周 - 3.3km

標高 - 210m

その他の情報[編集]

かつてはニホンアシカの生息地の一つだった。

この島周辺には大きなサメが住み着いている。

御蔵島から利島に移り住んだミナミハンドウイルカが当島周辺や式根島、新島等にも住み着いている。

この島は今では無人島であるが、明治時代には養蚕を営む人が住んでいたので、島には今も神社があり、そこに祭られている神鵜渡根后明神がこの島の由来にもなっている。

本島には磯場が点在し大型の、尾長メジナ、イシダイ、イシガキダイ、モロコ、カンパチ、ヒラマサ、マグロ、カジキ、イサキ、シマアジなどが釣れ、釣り人が渡船を使ってしばしば上陸する。しかしこの周辺の海域は時化やすく、年に50回くらいしか渡礁できない。

[12] 神津島周遊記 2 - ちっこいチャリ。, , http://blog.goo.ne.jp/chiichari7/e/ab89df442940934f35748040d252d372

5月2日から5月5日迄、ゴールデンウィークにチャリ旅行へ行ってきました。

今回は伊豆諸島の神津島です。

BD-1にテントを積んで、風の向くまま気の向くまま、まったり走ってきましたよ。

2009年5月3日(日)の旅の軌跡 (クリックで大きいマップが見れます)

* * * * * * * * * *

10時 定刻通りにさるびあ丸は神津島の多幸湾側に到着しました。

神津島は終点の島。乗客は大分減っていて、スムーズに下船することが出来ました。

周りを見たところ自転車乗りは自分だけのようです。

まぁ、海を観光の売りにしている島にわざわざチャリ持って来る物好きなんざぁ、

そうはいないって事で、でも独占状態ってのはちと言い過ぎですかね?

曇り空なのに太陽の出てる中途半端な天気。海風は涼しいんだけど照り付ける日差しはすっかり初夏のもの。

どうせ太陽出てるなら、スカッと抜ける様な青空であってもらいたいものだ。

目の前に広がる見たこと無い景色に少年の心を取り戻した俺は・・・いや、違う。

精神年齢の低い俺は、無意識のうちに早足になり目の前の客を追い越していきました。

逸る気持ちを抑えつつ適当な場所でチャリを展開。荷物をしっかりチャリに搭載して、

ペダルを力いっぱい踏み込みます。

で、港を出たら2分でリゾート。多幸浜はプライベートビーチのようです。

砕けたガラスのような白い砂とエメラルドのような透明感のある海。

これは伊豆諸島に来る度に俺が思う感想ですが、今回はつい口に出てしまいました。

「此処、東京かよ?」

多幸湾の近くの日向神社。こじんまりした可愛らしい神社。

この旅の安全とかを祈願します。

参道から戻ると何にも振動与えてないのにGPSの電源が落ちてた。んだよ〜ッ!

でも先に言ってしまうと、落ちたのはこの一回きりで、この後は無事でした。

まずは海岸線沿いの神津本道を南に向かって進みます。

この神津島には一周道路というものが存在しないので、今回は島一周というノルマを自分に課す事無くまったり走れるのですが・・・。やっぱり島なので坂は付き物。

ですが、上りきったときにはこのような絶景が待っててくれるから止められない。

こちらは三浦湾展望台からの雄大な眺望。

12時 空の玄関口、神津島空港に到着。

神津島は調布飛行場から45分で来れる東

[13] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main.html

ついに行ったった、 青ヶ島 あおがしま !!

青ヶ島は、東京都心から南へ遙か360km、黒潮の絶海に浮かぶ、伊豆諸島における最南の有人島である。

緯度的にも長崎市より南であり、私の訪問地における南極を圧倒的に更新する存在。

私は初めての島旅を同じ伊豆諸島の新島と神津島に得た2013年当時から、この地の訪問を夢見ていた。

これまでに行った全ての島旅は、ある意味において、この離島ビギナー向けではない島へ挑むためのトレーニングであった。そんな大仰な気構えさえ持つほどに、青ヶ島は私にとって“高嶺の花”だと思える存在だった。

それは旅人として、あるいは、オブローダーとしてもである。

このわずか約6km 2 (河口湖と同程度)、外周9kmの小さな島には、土木を愛するものを惹きつける魅力がある。

私はそのことを、この島を体験した幸運な数人の情報提供者によって、ここ10年ほどの間に何度か唆された。

そのために、私はいつか自転車と一緒にこの島へ渡ってみたいと思うようになった。

私が初めて行きたいと思った島は、実はこの青ヶ島である。

多くの特徴に彩られたこの島の一般的なプロフィールについては、既に多数の情報が巷にあるから、ここでは簡単に箇条書きで触れるに留める。詳しく知りたい方は、別途この島の名前を検索すると良い。でも、敢えて知らないまま読み進めるのも一興かもしれない。

《 青ヶ島についての “ごく一般的な” 情報 》

都心から南へ約360km離れた太平洋上に浮かぶ、面積約6km 2 、外周約9kmの小さな島。

最寄りの島は八丈島だが、約64km離れている、文字通りの絶海の孤島。伊豆諸島では最南端の有人島。

東京都青ヶ島村を一島のみで構成しており、人口は約170人。同村は日本で最も人口の少ない自治体。

世界的にも珍しい二重のカルデラを持つ小型の火山島で、固有の生物や植物もある。

江戸時代の天明5(1785)年(今から230年ほど前)に最後の大噴火があり、多くの住民が焼死。生き残った人々は八丈島に避難し、以後数十年無人となった。

島には旅客船が発着する港と、ヘリポートがあり、海路と空路で訪問が可能。本土からの直通便はなく、船もヘリも八丈島との往復である。

有人島としては、日本でも有数の訪問が難しい島として知られる。(後述)

さて、私にとって青ヶ島訪問の最初にして最大の関門と

[14] 道路レポート 東京都道211号若郷新島港線, , http://yamaiga.com/road/tpr211/main12.html

現在地は、「 東京都 新島村 若郷 」。

この短い地名にも、この地が歩んできた本土とは少しだけ違った“日本史”が、しっかりと刻み込まれているという話をしたい。

少し探索の本編からは脱線するが、お時間を下さいな。

まずは、「新島村」なのに、その前に「○○郡」がないことに気付く。

これは伊豆諸島や小笠原諸島の島々に共通する特徴だが、近世以前より今日まで郡に所属したことがない。

例えば近世には伊豆国や駿河国に所属していたが、その際も「伊豆国新島」などと呼ばれていた。

そして明治11年に全国の郡名を改めた郡区町村編成法が成立した際も、新島を含む一部島嶼地域への適用が見送られたことで、郡名を得る機会を失った。

このような政治的な“仲間はずれ”が公然となされた理由はなんだったのか。

それは、伊豆諸島は人口の多さから考えて一郡にまとめざるを得ないが、それぞれの島が海で隔てられていて交流(交通)もほとんど無いことから、どこに郡役所を置くとしても役場所在地以外の島が不便になりすぎるという判断だったのだ。

当時の郡は、現在の名前だけの郡とは違って、県と町村の間に入る確然たる行政組織であっただけに、こうした配慮がなされたのだった。

しかし、このように郡区町村編成法から除外され、さらにその後釜となる明治21年の市制および町村制からも除外となった伊豆諸島は、同じように除外されていた沖縄などの島嶼地域と共に長らく地方政治上の冷遇を託つ事となった。

これらの島々では近世同様に世襲制の名主が都府県の監督(明治33年には郡制に準じる扱いとして大島島庁が設置され、大正9年に新島はその管轄下となった)を受けつつ村政を受け持ったほか、住民の代表(議員)を選挙し国政に参加させる可能性さえも否定されていた。(同時に地方税制度も施行を見送られたため、近世までの厳しい“年貢”の取り立てからは解放された)

ちなみにこのことと関連して、新島村には大字というものも存在しない(新島村「大字若郷」ではない)。

都市部を中心に従来の大字を廃止して、「○○町」などへと改名するケースはよくあるが、新島村には最初から大字が存在しなかった。

これも大字というものが、市制や町村制を施行した際に従来の村名(いわゆる藩政村)を残すために編み出された制度だったことによる。

本土の人々が明治の初期に政治参画を求めて自由民

[24] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

[25] 道路レポート 東京都道211号若郷新島港線, , http://yamaiga.com/road/tpr211/main.html

東京都には、これまで当サイトのレポートでもその一部をご覧頂いてきたとおり、東京という大都会の他に、奥多摩町や檜原村のような山岳地帯が存在する。

そしてさらにもう一つの大きな場面としては… 離島 がある。

具体的には、伊豆諸島や小笠原群島に属する200を越す島や岩礁がこれにあたるが、今日一般人が定住している島は伊豆諸島に9島、小笠原群島に2島があるのみだ。

そしてこれらの有人島も無人島も全て東京都に所属していて、東京諸島という総称も存在する。

東京諸島の広大な地域(海域)の広がりは、東京福岡間に匹敵する1200kmをも越えており、実は東京都こそが日本一の広がりを持った都道府県といえる。

しかしこれら島嶼(島しょ)と呼ばれる東京都のエリア人口は少なく、平成20年当時のデータだが、28,741人と記録されている。

これは東京都民1,279万人の0.22%に過ぎない数字だ。

ともかく、海の上にも東京は尋常でなく広がっている。

平成19年に東京都民の仲間入りを果して以来、そんな漠然とした意識をもってはいた。

だがいかんせん島とは縁遠い秋田暮らしが長かったこともあり、私の中で島は「島である」というだけで、遙か遠い異国のような印象であった。このまま島を知らずに、いつか東京を離れる日が来るのだろうかと、そんな風にも考えていた。なにせ私は今まで探索目的で本州の外へ出たことはなく、離島ではないものの、島の探索レポートとしてはミニレポ1本を数えるのみという体たらく。

自分の足だけでは近付けないという島の物理的障壁は、精神的な隔絶にも繋がっていた。

だが、私が突如島への興味に目覚める出来事があった。

場所は自宅のPCモニタ前である。

時期は…ちょうど1年くらい前だった。

次の地図を見てください。

左の道路地図は、最近の新島(にいじま)を描いている。

新島は上の全体図にも見えるが、伊豆諸島の有人島の中では大島から数えて3番目の島で、東京港からだと150kmほど離れている。本州の最寄りである伊豆半島の静岡県下田市付近からでも40kmほどあるから、東京の離島の中ではまだまだ“近場”とはいえ、離島に違いはないし、ビギナーな私にはこれくらいが相応しいという位置と見える。ちょうど地球が太陽系第3惑星である事とも不思議な符合でしょ?笑

さておき、島にお住まいの方には全く不本意な差別と

[26] 道路レポート 旧三原山ドライブウェイ, , http://yamaiga.com/road/miharayama/main.html

“島さ行がねが”シリーズの次なる舞台は、 大島 へ。

私に島の楽しさを教えるためにあつらえられたかのような絶妙さで、東京の沖合に浮かぶ個性豊かな多数の島々からなる伊豆諸島。

このうち大島、またの名を伊豆大島は、同諸島中最大の面積と最大の人口を有する本土に最も近い島である。伊豆半島との最短距離は22kmほどで、東京港から約100kmの南方海上に浮かぶ。

島には観光名所が豊富にあり、海路・空路とも便数は潤沢であるから、同諸島中では圧倒的に訪れやすい。

長径15km、短径9kmの南北に細長い楕円形の島は面積91㎢で、中央に聳える複式成層火山の三原山(標高758m)が営々と形成した、我が国の中でも活発な活動を続ける火山島のひとつである。

直近では昭和61(1986)年11月に大規模な噴火が発生し、当時の全島民約1万人が1ヶ月にわたって島外避難を余儀なくされた出来事は、ブラウン管に写し出された鮮明な噴火の映像と共に記憶している方は多いと思う。

伊豆半島の東岸、東伊豆町稲取港から遠望した、大島の姿。

島のほぼ全体が、複式成層火山である三原山により形成された、火山島である。

全体的になだらかなシルエットは、非常に流動性が高い玄武岩質の溶岩による。

ハワイのキラウエア火山、イタリアのストロンボリー火山と共に、世界三大流動性火山に数えられている。

そんな大島にあったのが、表題の「 三原山ドライブウェイ 」である。

この道路は、伊豆諸島中の歴史の中で唯一の有料道路だ。

それも、「ドライブウェイ」という名のイメージ通り、自動車専用の道路だった。

道路運送法に定められた「一般自動車道」という種類の道であったため、自動的に 自動車以外(原付も、自転車も、もちろん歩行者も)の通行は許されなかった。

「一般自動車道」は一種の私道であり、大島登山自動車道株式会社という民間企業が一切の管理を行っていた。

右図は、島に有料道路が有った当時(昭和57(1982)年)の道路地図だ。

有料道路を意味する青色の線が、三原山の中腹から山頂にかけて伸びている。

三原山ドライブウェイという道路名や、麓側の入口近くにある料金所の記号、そして普通車800円大型車3200円という通行料金も見て取れる。

また、巻末の有料道路一覧表には、自動二輪車の通行料金が600円であったことや、 全長が4.1kmで

[27] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main9.html

12:12 《現在地》

辿り着いた海抜80mの 分岐地点。

三宝港(青宝トンネル南口)から、“日本最凶”ではないかと思われる急勾配でもって駆け上がってきた都道は、ここで進路を180度転換している。

そんな厳しい線形を少しでも緩和するためか、この前後だけは勾配が緩やかで、かつ2車線分に匹敵するくらいの道幅が確保されているが、非常に急な斜面上でのことであるから、拡幅するにも土地の確保は容易ではない。したがって、道の周囲は垂直に近いコンクリートの擁壁でガチガチに固めらる状況になっており、これが男子心をくすぐった。

前回書いた“継ぎ接ぎ”の道路風景の最たる眺めであろう。

そして、道を“強化する”作業は今も続けられている。

分岐地点の真上には、高層マンションほどもあろうかという巨岩が、オーバーハング気味に覆い被さってきているのだが(なんという憎たらしい自然の配剤だろう)、今やその全体がコンクリートの吹き付けによって固められ、さらには高級メロンのように鉄製の落石防止ネットが覆っていた。

だが、これだけしてもなお心許ないと思われたか、今度はその基部を補強するような大規模な治山工事が進められている模様である。

辺りには巨岩の前ではまるで模型のように見える工事用足場が組まれており、その内部で着々と工事が進められていた。この日(土曜日)も作業は続行中だった。

で さ、

ここは分岐だって言ったじゃない。

確かにここが、昨日途中で断念した残所(のこじょ)越の旧道の入口なんだけどさ、

それが……

酷いんだ。

こんななんだ。

道が見えないって?

大岩に塞がれてます。

まさしく、異次元の廃道封鎖方法…!

こんな落石、あってたまるかよ?! 笑えるほどピンポイントに道だけを封鎖する形になってて、

まるで意思のある巨人が置いていったみたいだが、路肩の防護壁が押しつぶされているので、

これが自然に落ちてきたままの姿であることは明白だった。

工事関係者のものとみられる軽トラ (ちなみに島内の車は品川ナンバー) と比較しても、この大きさ。

この先に旧道があるのだが、「廃道だから立ち入り禁止だよ」と言わんばかりの的確過ぎる落石の位置である。

しかし、前述した通り、これは意図的に置かれたモノではあり得ない。

というか、島に常備されている機械力だけでは、この岩を動かすことが出来ない気が

[34] 若郷村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E9%83%B7%E6%9D%91

地理[編集]

現在の新島村の北部に位置する。

村域のほとんどは山がちな地形である。

村は太平洋に面している。

歴史[編集]

沿革[編集]

1923年(大正12年)10月1日 - 伊豆諸島への島嶼町村制の施行に伴い、若郷村が単独で村制施行し若郷村が発足。大島島庁管轄。

1926年(大正15年) - 大島島庁が島庁廃止に伴い大島支庁に改組。

1940年(昭和15年)4月1日 - 伊豆諸島の島嶼町村制が普通町村制に移行。

1954年(昭和29年)11月1日 – 若郷村は新島本村に編入。同日若郷村廃止。

変遷表

1868年

以前

大正12年

10月1日

昭和29年

11月1日

平成4年

4月1日

現在

[35] チャリンコ日記別冊・050912-14真鍋研合宿・神津島, , http://nabe.la.coocan.jp/hp2005/0509kozu/KOZUMAIN.HTM

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平成17(2005)年9月12日(月)〜14日(水)

真鍋研究室夏期合宿・久々の神津島

まだ工事中です。文章を徐々に追加充実中、少々お待ち下さい。

旅 の 記 録

竹芝客船ターミナルからジェットフォイルで出発。以前は夜行で行ったもの。夜行が辛くなってからは、早朝の列車で伊東まで行って朝の船に乗ったこともある。空港ができてからは調布から新中央航空で行くことが可能だが、それ以後は神津島には行っていない。朝に東京を出て午後にはハイキングが出来るとは、神津島も近くなったものだ。

ジェットフォイル(ガスタービンエンジン駆動のウォータージェットで推進するハイドロフォイル/水中翼船)は78�q/hの高速で航行する。東京湾内は一定以上の長さの船は徐行が義務付けられているが、この船は船体が短いから湾内も高速で、神津島の場合全行程の1/3ぐらいが東京湾内だから、この差は大きい。しかしシートベルト着用で3時間以上じっとしているのは苦痛。

[36] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

[37] ベヨネース列岩断続的に海面変色|NHK 首都圏のニュース, , http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20170328/5085721.html

伊豆諸島の青ヶ島の南にある海底火山「ベヨネース列岩」で、熱水の噴出が原因とみられる海面の変色が、断続的に発生していることがわかりました。 気象庁は、今後、小規模な海底噴火が起きる可能性があるとして、噴火警報を継続し、周辺の海域では警戒するよう呼びかけています。 伊豆諸島の青ヶ島の南南東およそ65キロの海域にある海底火山「ベヨネース列岩」では、3月24日の海上保安庁の上空からの調査で、海面の変色が確認され、気象庁が噴火警報を発表しました。 海面が変色していたのは、ベヨネース列岩の一部で過去に繰り返し噴火が起きている「明神礁」と呼ばれる水深が50メートル程度の浅い岩礁で、25日、海上保安庁が改めて調査したところ、再び「明神礁」で海面の変色が確認されました。 海面の変色は、観測を始めたときには見られませんでしたが、しばらくすると変色し始め、直径200メートルから300メートルにまで広がったあと、1時間ほどで消えたということです。 気象庁は、熱水が海底から噴出していることが原因とみられるとした上で、変色は断続的に発生しており、今後、小規模な海底噴火が起きる可能性があるとして、「ベヨネース列岩」の噴火警報を継続し、周辺の海域では海底噴火に警戒するよう呼びかけています。 また、海上保安庁も航行警報を継続し、付近を航行する船舶に注意を呼びかけています。

[38] 暇人\(^o^)/速報 : 【画像あり】 沖縄の海がヤバ過ぎる件 いきてえええええええええええええ - ライブドアブログ, , http://himasoku.com/archives/51791188.html

1: バーミーズ(北海道):2013/07/17(水) 06:35:01.89 ID:iI6ohT9U0

島たび|沖縄本島からサクッと行ける島【1時間以内】 沖縄本島周辺にも島はたくさんある。魅力的な離島は多いけど、ここでは沖縄本島から「1時間内」で行ける離島をいくつか紹介します。 http://matome.naver.jp/odai/2136974743637036501 ◆ナガンヌ島 渡嘉敷村に属する島で、沖縄本島(那覇市)からクルーザー船で約20分のところにある。 ◆クエフ島 渡嘉敷村に属し、沖縄本島(那覇市)から約25分のところにある島。 ◆コマカ島 南城市に属する島。 白い砂浜と透き通る青い海に囲まれており、マリンレジャーが楽しめる無人島。

20: ロシアンブルー(茸):2013/07/17(水) 06:48:25.16 ID:PQCMgUKaP

俺が行くときだけ雨になる

12: マレーヤマネコ(東日本):2013/07/17(水) 06:39:48.75 ID:qCA7TTd30

通はこっちの方に行く

16: バリニーズ(新疆ウイグル自治区):2013/07/17(水) 06:43:40.10 ID:dRxjLVG70

>>12 角島も海が綺麗だな この辺りは、アオリイカを釣りによく行った

44: 猫又(茨城県):2013/07/17(水) 07:19:37.82 ID:dIO95W530

>>12 これどこ?

52: ギコ(WiMAX):2013/07/17(水) 07:26:41.27 ID:kj5GJag00

>>44 山口の角島大橋

18: クロアシネコ(愛知県):2013/07/17(水) 06:45:35.55 ID:uubOhbfc0

名古屋より涼しい沖縄

27: イエネコ(沖縄県):2013/07/17(水) 07:00:46.36 ID:TAzRWPRA0

>>18 そうなんだよ。愛知から来てるけど毎日AC無しでグッスリ寝てる。 起きても汗ぐっしょりになってない。信じられんわ実際 愛知だとACオールでも寝起き汗ぐっしょりだったのにな 昼間も日陰なら内地より涼しい。

23: ジャパニーズボブテイル(チベット自治区):2013/07/17(水) 06:56:51.14 ID:2YWLTexo0

うわー娘を連れていってやりた

[39] 古道の旅「手広 谷戸坂の切通し」(神奈川県 鎌倉) | ひなたびBLOG, , http://www.hinatabi.com/blog/20101031_tebiro_kiridoshi.html

鎌倉の切通しの一つ「手広 谷戸坂の切通し」をご紹介します。

いわゆる「鎌倉七口」とは別の切通しですが、原型のよく残っている道の一つ。

かまくら景観百選に選定されています。

観光化されていないためひっそりとしていますが、あじさいなど季節によって変わる要素もあり飽きさせません。

切通しの正体は江ノ島道

この古道の正体は、文献不明ながら藤沢から江ノ島に抜ける「江ノ島道」の脇街道で、戸塚宿から江ノ島を結んでいたようです。

少し距離を離して女坂と男坂があり、見事な切通しと掘割が見られます。

男坂は尾根道への直登コースで距離は短いが傾斜が急。

女坂は迂回ルートになり距離は伸びますが、傾斜はゆるいです。

謎なのが2本も必要かということで、メインルートでもなく、大仏の切通しの傾斜を考えると男坂でも急すぎるというわけでもないので、2本の必然性が感じられません。

道の形態としては、女坂の方が稜線を通ることから「かまくら道」の要素が強いので古そうではあります。

手広は暴れ川と言われた柏尾川の流域であり、深い沼地が広がっていたそうで、このあたりもヒントになるかも。

男坂のほうが道幅が細く、少ない交通量を想定しているようにも思えます。

男坂の隣には廃止になった鎖大師参道(隧道)があるのですが、男坂があればあえて必要のない参道なのでこれまた成立時期が気になるところ。

女坂入り口(手広側)

手広交差点から西鎌倉方面へ歩き、鎖大師正門の道路向こうにある細道(斜面沿い)を進むと見つかる。

西鎌倉側の入り口よりは見つけやすいので、こちらから登ることをおすすめ。

写真にある草生した階段が入口です。

女坂 切通し部分

閑静な住宅地から登ると、いきなり蛇行した切通しに。

入り口のやぐらには現役のお墓あり。

女坂 切通し部分

女坂が維持されてきた理由の一つは墓地の存在でしょう。

切通し以外に到達できる道がありません。

女坂 掘割部分

切通しを抜けると大規模な掘割にたどり着きます。

ほぼ直線コース。

七口と遜色ない規模であることから、かつての交通量の多さが想起されます。

女坂 石碑群(年代は江戸時代から昭和まで)

なぜか男坂側にはない石碑群。

年代は豊富です。昭和になってからも造られていたことが意外です。

女坂 稜線の光景

女坂の最上部は畑になっています。

車道からは見えないの

[40] 日本産ノコギリクワガタの話, , http://returns.blog.shinobi.jp/%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%EF%BC%88%E8%87%A5%E8%9B%87%E5%B3%B6%EF%BC%89/

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トカラ列島にはトカラノコギリクワガタが採れる4つの有人島がある。

口之島、中之島、諏訪之瀬島、悪石島である。

そして現在は無人島となっている臥蛇島に

初めてクワガタの調査目的で入島したのは

松下泰平氏、田花雅一氏、小森祐司氏の3名。

1998年6月28~29日、かつては有人島であったが、

諸般の理由で1970年に島民たちの集団離島を強いられて

28年の月日がたっていた。

採集記録は8♂♂3♀♀。

すべて小型種だった。

翌年、松下泰平氏と田中祐二氏が再上陸。

1999年7月6~10日の渡航だった。

38♂♂12♀♀の大漁だった。

この時大歯も採集されている。

この2回の採集記は月刊むし340号・350号に記載されており、

これに加えて3名の人が臥蛇島に採集目的上陸しているらしい。

ほとんどの方が標本家の方で

生き虫を持ち帰ったのは松下泰平氏だけとのこと。

現在、出回っている臥蛇島産トカラは松下氏が

DREAMというショップに卸し、

それが別井敏明氏にわたり、LIFE THE BEETLEで

販売されたものである。

私が所持している個体も同じ流れの中で入手した。

月刊むしの採集記を読んでいると

個体数はそれほど多くないようだ。

理由は島の大半が竹林に覆われており、

雑木林が極端に少ないからである。

また島には崖が多く、しかも無人島で難所極まりない。

正直、ブリーダーの私にとっては

良くぞ生き虫を持って帰ってくれたと言いたい。

そして今年の臥蛇島産トカラは初めて数十頭産んでいる。

きっちりとデータを取って記録を残して行きたい。

鹿児島県鹿児島郡十島村大字臥蛇島産 F5 松下泰平氏採集 1999.7.6~10.

[41] 伊豆諸島 新島町巡り 新島編 | 雑記 | ^迷走局 <電脳神奈川県民は眠らない>, , http://wander-dept.net/article/13_niijima/niijima.html

伊豆諸島 新島町巡り 新島編

10分ほどで連絡船が新島港(前浜港) に到着しました。

無料巡回バス『ふれあいバス』で若郷地域に向かう

連絡船にしきを降りた港の直ぐ先に、市営の無料バスが待っていました。

乗車料は無料で、にしきの到着時間に合わせてあります。

若郷地域に向かう、平成新島トンネルを通過します。

平成16年04月23日に開通した、約2400mのトンネルです。

徒歩・自転車の通行が禁止されているため、車・バイクなどを利用する必要があります。

若郷会館(旧若郷小学校)

平成19年03月に廃校された旧若郷小学校です。今は、「若郷会館」として地域の総合施設として利用されており、管理人さんもいます。

中にはトレーニングルームや、図書館、そして小学校時代の記念品の数々が展示されている部屋がありました。

また芸術イベント等、様々な催しに利用されています。

学校の奥に見える崖は、平成12年に発生した地震によって崩れるような被害が発生したそうです。

中は総合施設ということで、図書館・記念館・トレーニングルームなどが用意されています。

昼食

ファミリーマートダイエイにて、天丼を購入。

若郷港は商業施設が皆無で、食事はこちらでしか調達できません。

他にも、親子丼などを作ってくれるようです。

若郷前浜海岸

若郷前浜海岸を、本町方面に歩きます。途中から消波ブロックの生産施設となっていました。

かなり巨大なもので、これらをつり下げるクレーンや、コンクリート型も相当な大きさでした。

若郷港(渡浮根港港)

海岸を歩くと、港が見えて来ました。道が断絶された際は、この港から本町へ向かう船便があったようです。

この日は誰も居ませんでしたが、魚を上げる施設や多くの船がありました。

若郷渡浮根展望台

若郷渡浮根展望台

淡井浦海岸

展望台から歩いて30分。淡井浦海岸に到着しました。

港の反対側に位置するこの砂浜は風景が素晴らしく、サーファーにも人気があるそうです。

漁船に乗っていた漁夫が白衣を着た人魚に引き込まれたという伝説があるのは別として、この付近は神社の聖域であるため禁漁区に指定されているようです。

新島ロラン局

スケジュール上断念した新島ロラン局を見る事ができました。アンテナは高さ200mもあるのですが、本町方面からだと山に隠れてしまい発見しにくくなっています。

ロランCは海上航行用に作ら

[42] 962 砂糠崎=神津島村砂糠山(東京都)“石言葉は摩訶不思議”という黒曜石の帯が取り巻く岬を回る:でんでんむしの岬めぐり:So-netブログ, , http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-06-04

でんでんむしの岬めぐり

草木もなびく佐渡の岬めぐり中。自称『岬評論家』でんでんむしの日本全国津々浦々突端出っ張りコレクション。電車とバスときどきタクシーとレンタサイクルでってスゴくない? 年表もね。

[43] 調布飛行場 事業用航空機の運航再開へ NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150829/k10010208361000.html

調布飛行場を離陸した小型機の墜落事故を受けて、飛行場を管理する東京都は定期便などを除く航空機について運航の自粛を求めていましたが、測量や写真撮影などを行う事業用の航空機について安全が確認できたとして来月1日から運航の再開を認めることになりました。

飛行場を管理する東京都は事故を起こした小型機のような自家用機については、事故原因が明らかになるまで運航の自粛を要請することにしています。 一方、伊豆諸島を結ぶ定期便や緊急の医療搬送などの航空機はすでに運航を認めていて、測量や写真撮影などを行う事業用の航空機についても安全を確認したうえで運航の再開を認める方針を示していました。 都によりますとすべての機体で整備士による点検が終わり、今月下旬の国の臨時監査でも安全対策が確認できたということで、来月1日から事業用の航空機の運航再開を認めることを決めました。 今回の決定について調布市は「都の管理責任の下、これまで以上の安全対策を講じてほしい」としています。

[44] 甑島列島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6

歴史 [ 編集 ]

古代・中世 [ 編集 ]

甑島列島には約8000万年前の 白亜紀 の地層が残っている。日本国内では初めて ケラトプス の化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてであり、藺牟田にある地層からは 翼竜 や ワニ など爬虫類の化石も発見されている [19] 。 上甑島 の 里 遺跡は、甑島列島唯一の 縄文土器 が出土した遺跡である [20] 。上甑島の里遺跡、 江石 遺跡、 桑之浦 遺跡、下甑島の 手打 遺跡、 片野浦 遺跡からは 弥生土器 、 土師器 、 須恵器 などが出土している [20] 。

上甑島の桑之浦には 神功皇后 の 三韓征伐 に関する伝説が残る [21] 。 奈良時代 には薩摩 隼人 族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される [21] [3] 。 平安時代 初期に編纂された『 続日本紀 』が「甑島」という名の初出であり [5] 、 遣唐使 船が甑島に停泊したことが記された [21] 。平安中期に編纂された『 和名抄 』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する [21] 。甑島列島の各地に 平家の落人 伝説が残っている [21] 。 鎌倉時代 中期から370年間、13代に渡って 小川氏 が統治を行ない [22] [12] 、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された [21] 。里には 承久の乱 で功績を挙げた小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の 日置郡 田布施(現 南さつま市 )に移封されて甑島の統治から離れた [23] 。

近世・近代 [ 編集 ]

江戸時代 には 島津藩 の直轄地となり、島津藩が採用した 外城制 の枠組みの中で 地頭 (領主)が派遣された。里・ 中甑 ・手打には地頭仮屋が置かれ、ひとつの集落の中に士族の居住地である麓、農民の居住地である在、漁民の居住地である浜が置かれた [24] [22] 。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ [25] 、薩摩藩の 南蛮貿易 の中継基地にもなった [26] 。甑島列島は 天草 や 長崎 と同じく キリシタン 文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には

[45] 熊本空港 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%A9%BA%E6%B8%AF

熊本空港 (くまもとくうこう、 英 : Kumamoto Airport )は、 熊本県 上益城郡 益城町 にある 空港 。国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港として 空港法 第4条1項5号に該当する空港として政令で定める空港 [1] に区分されている。愛称は 阿蘇くまもと空港 [注 1] 。

概要 [ 編集 ]

熊本市 から北東へ約20kmの 阿蘇山 の山麓にある。 空港ビル は益城町にあるものの、 滑走路 のほとんどは 菊池郡 菊陽町 にある。

空港周辺が霧の多い場所であるため、 ILS カテゴリーIIIb(CATIII-b)で運用しており、(規定以下の横風・機体側の装備・操縦士の保持資格が整えば)自動着陸が可能である。

年間利用客数は、国内3,009,611人、国際45,826人(2013年度) [3] 。 福岡空港 、 鹿児島空港 に次ぐ九州3位となっている。

国の一般会計からの繰り入れを考慮しない営業損益は、2011年度より黒字に転じた [4] [5] 。

陸上自衛隊 の 高遊原分屯地 を併設し、また民間機と 滑走路 を共用しているため、自衛隊機の発着も見ることができる( CH-47J(A) 、 OH-6D 、 UH-1 などの ヘリコプター が多い)。

空港ラウンジ は以下のとおりである。

サクララウンジ - JAL 上級会員専用ラウンジ

ANAラウンジ - ANA 上級会員専用ラウンジ

ASO - クレジットカード ・有料ラウンジ

歴史 [ 編集 ]

1960年 4月1日 - 熊本飛行場(熊本市健軍町)供用開始(滑走路長1,200m)。 北緯32度48分30秒 東経130度45分58秒  /  北緯32.808432度 東経130.766240度

1971年 4月1日 - 現在地に移転。熊本空港供用開始(滑走路長2,500m)。

1972年 12月 - 全日空熊本乗員訓練所開所。

1977年 - 滑走路長3,000mに延伸、供用開始。

1983年 4月1日 - 国際線ターミナル供用開始。

1995年 9月 - カテゴリーIIIa運用開始( 釧路空港 とともに日本初)。

1999年 8月1日 - くまもと未来国体 にあわせて国内線ターミナル増築オープン。

1999年 9月30日 - 全日空熊本乗員訓練所閉所。

2006年 4月13日 -

[46] 「五島列島」旅 その27(野崎島) 野首集落のキリシタン墓地跡 | ISLAND TRIP(アイランドトリップ), , http://www.islandtrip.jp/2016/04/220801.html

桜が散ったら急に気温が高くなってきましね。どうも、いづやん( @izuyan )です。

五島列島旅の第二十七回をお送りします。無人島である野崎島、そこに今も建ち続ける「旧野首教会」を見るという旅の大きな目標は達成されたわけですが、まだ島を離れるまでは時間があります。

無人島にダム?

「旧野首教会」の撮影と見学を済ませて、さらに島の西側に向かいます。斜面を登って道を進むと、海が見えてきたと思いました。が、最初に見えてくるのは大きな池です。これ、実はれっきとした「ダム」なのです。

無人島にダム・・・? まあそう思いますよね。僕も思いました。

しかもこのダム、島が無人になってから作られたものだそうです。それって無駄では?と思いたいところですが、このダムの水は海底の送水管を通ってお隣の有人島、小値賀島の農業かんがい用水として使われているそうです。

喫茶タートルのトムさんにちらっとお聞きした、島に来る移住者は農業従事者が多い、ということとも無関係ではないでしょう。水資源確保はどの島でも重要な課題だからです。

それにしても、やはり知らないと島でいきなりダムが現れたら面食らいます。ダムのすぐ向こうには海が見えるのもまた不思議です。

海側の斜面には土砂流出を防ぐためか、ネットのようなものが敷かれていました。

ダムの横を回って、下り坂を行くと「野首港」にたどり着きます。船が着いた野崎港より新しい係接岸のようです。後で聞けばチャーター船が時おり泊まることもあるそうです。休憩所もあったりして、ここだけ見ると無人島には見えません。

「こんなところまでキュウシュウジカが!」と思ったら、ただのモニュメントでした。

日の光が海の底に届いて、目がさめるような景色が広がっています。夏場だったら確実に泳ぎたくなる海です。

海を前に残されたキリシタン墓地跡

その場で国土地理院の地図を見ると、この野首港周辺にもかつては建物があったようですが、おそらくダム建設の時に撤去されたのでしょう。往時のことを伝えるものは何もないように思えました。

と、海から山の方に顔を向けると、海岸そばの灌木の中に石の十字架が立っているのが目に入りました。

「キリシタンの墓だ・・・」

思わずつぶやいてしまいます。

よくよく見ると、その周りにも灌木に覆い尽くされかけた墓石が見え隠れしています。浮足立った足取りで近づこうとしますが、灌木

[47] 12倍に拡大の西之島 噴火後初の上陸調査 | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161025/k10010743931000.html?utm_int=news_contents_news-main_002

およそ2年間にわたって活発な噴火活動が続いた小笠原諸島の西之島で噴火後、初めてとなる上陸調査が行われ、島では以前から生息していた海鳥や植物などが確認されました。専門家などは、一連の噴火のメカニズムや、今後、島の生態系がどのように変化していくかさらに詳しく調べていくことにしています。

今回、調査を行った島の海鳥の生態に詳しい森林総合研究所の川上和人主任研究員によりますと、溶岩に覆われずに残った元の島の陸地では、噴火前から島に生息していた「アオツラカツオドリ」が、巣を作って卵を温めている様子や「カツオドリ」の巣の痕跡とともに、ことし誕生したと見られる若い鳥も見つかり、噴火のあとも島で海鳥の繁殖活動が続いていると見られることが確認できたということです。 また、火山灰などに覆われて枯れたのではないかと考えられていた「オヒシバ」というイネ科の植物も今回の上陸調査で元の島の陸地に生えていることが確認されたということです。 一方で、流れ出した溶岩などによって新たにできた陸地には、海鳥がとまって羽を休めたり、鳥のふんが付いている様子は確認できたものの、平らな場所はほとんどなく、巣などは確認できなかったということです。 川上主任研究員は「これから新たな陸地に生物が広がっていく際の、スタートとなるデータを取ることができて、非常に貴重な調査となった。今後は調査結果を元に生物の分布状況を調べ、生態系がどう広がっていくかや狭い陸地をどのように住みわけているかなどを明らかにしたい」と話していました。

調査に参加した東京大学地震研究所の前野深助教によりますと、今回の調査は島の西側の、元の島の陸地やその周辺で行われました。元の島の陸地の周辺には波によって砕かれたと見られる溶岩のかけらなどが多数、打ち上げられていて、元の陸地まで50メートルほどにわたって新たな海岸ができていました。 今回の噴火で流れ出した溶岩の厚みは、先端の部分で厚さが4メートルから5メートルほどあり、最も厚いところでは10メートル以上に達しているということです。 溶岩の先端では、海水に触れて急激に冷やされたことでできたと見られる、ガラス質を多く含んだ層が確認され、前野助教は活発に溶岩が流れ出していたことを示す痕跡だとしています。 海岸には500メートル以上離れた島の中央付近の火口から、噴火に伴って飛んできたと見られる直径50センチ

[48] 世界遺産・コモドの海 #2 チェンホー号に乗船 | のぶろぐ, , http://nob-log.info/2015/07/27/komodo-cruise-cheng-ho-2/

2日目は朝5時起床

モーニングコールがかかってくるはずでしたがかかってこない?

時差で時間間違えてるかなーと思いつつロビーへ行くとすでに人がいたのでチェックアウトをしていざ空港へ

デンパサールの国内線は去年と比べてもお幅に綺麗になっていて

・ムダな荷物のセキュリティ検査がなくなった

・チェックインカウンターに1列で並ぶように仕切りができた

・空港使用料を払わなくてよくなった

という感じですごくスムーズにチェックイン出来るようになりました

これなら自分で乗継しなきゃいけない事があっても大丈夫だと思います

ターミナル内もすごく綺麗になっていて高いけどコーヒーも飲めるし快適

ただし、飛行機が何時に飛ぶんだかはさっぱりわからないのは相変わらずです。。

搭乗口の前でホテルで貰った朝食を食べつつ待ってると急に呼ばれてバスに乗って飛行機へ

前回はLCCのライオンエアーでしたが今回はガルーダ・インドネシア

なので預けて荷物が43キロまで無料!これも凄く楽でした、、が帰りにトラブルもありましたけどね(^_^;)

飛行機からはタンボラ山とサンゲアン島が見えました

写真は多分どっちかじゃないかと・・・w

さてさて、1時間半ぐらいのフライトで空港に到着して港へ

いやー、暑い暑い

空港を省略しましたが、ラブハンバジョの看板とコモドドラゴンの像がなくなり

変な空港ターミナルがほぼ完成してました

ラブハンバジョは今急速に人口が増えているそうなのでその準備だとは思うけど・・・もったいないですね

そして10分もかからず船に到着

今回の船はチェンホー号

すぐ横には前回乗ったシーサファリ号もとまってました

スケジュールはホワイトボードに書いてあります

朝食がホテルでもらったやつ、飛行機内で出た機内食に引き続き3回目・・w

昼食も直ぐなので食べませんでした

ブリーフィングまで時間があるので船をウロウロ

船の2階の後部はソファーエリア

今回泊まった部屋

前回のシーサファリ号よりだいぶ広いです

タオルも毎日交換してくれるし、シャワーも一応お湯が出るし快適空間です

1階のデッキ

船の乗って最初に器材をセッティングしたらあとはそのままタンクをチャージしてくれるし、運んでくれるので重い思いはありません

タンクチャージする際も器材に触るのは日本人スタッフのじゅんこさんが必ずやってく

[49] 漁船、絶壁を上る がけの上の船揚場へ東京・青ケ島, , https://www.youtube.com/watch?v=FqfN9jY9uH4

■アサヒ・コム動画 http://www.asahi.com/video/

(動画=5倍速、音声なし)

 港に戻ってきた漁船がワイヤにつり下げられ、まるでロープウエーのように海岸の絶壁を上ってゆく――。 
 人が住む島としては、伊豆諸島で最南端の東京都青ケ島。キハダマグロ漁が最盛期の今、がけの上にある「船揚場」と青ケ島港の間で漁船を上げ下ろしする「索道」も一年で最も頻繁に使われている。 
 火山島の青ケ島は、海岸線がすべて切り立った絶壁。港に岸壁はあるものの、船だまりがない。このため、港に帰ってきた漁船は長さ約100メートルのワイヤを渡した索道で海面から約30メートルの高さにある船揚場まで引き上げられる。 
 キハダマグロ漁について漁師の広江末博さん(43)は「今年は黒潮の流れが変わったのか、大物が少ない。もっと大型の魚が寄ってくるのに期待したい」と話している。 

※「Channel ASAHI」にアップロードされている動画の改ざんや、朝日新聞社の許可なく商用・営利目的で利用することを禁じます。

履歴

[56] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926377813310

メモ