多幸湾

多幸湾

[1] 多幸湾

Webページ

[2] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou-6.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7

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いざ天空の廃道へ! 〜STEP6〜 歴史を知る

ふと、気になった衝動から探検を始めたわけであるが、

すごい発見は嬉しく思うが、大きな疑問が残ってしまった。

なぜ、あんなところに道が?

いったい何をしていたのか?

気になってしまう。

この鉄塔。

この道。

これは一体全体なんだろうか・・・。

ではでは、疑問解決のために調査開始!

まずは、聞き込み調査!

調査その1 母に聞いてみる。

そしたら、すぐに。

<あぁー、あそこは昔、蚕をやってたぁっつぅでー

!

早速、有力情報!

なんと蚕を飼育していたとのこと。

そもそも昔は、だいたいの家庭で蚕を飼育し生糸を作っていたらしい。

<だけん、どんな感じでそこに造られたかは知らないやぁー

しかし、詳細はわからないとのこと。

ここで、この本の登場。

調査その2 「神津島村史」を調べる

「神津島村史」

ペラペラ・・・

おっ!

第3章 第6節 養蚕業 p167

いつのころから判らないがかなり古くから行われていた。本島には野生の桑の木が多く、かなり大木になっているものもあり、葉肉が厚く養蚕には良質の飼料であるといわれていた。

村内にも機織り機も普及していてまゆを紡いで布地を織り、「地織り」と称して着物にする者もあり、今でもそれが残っている。

養蚕業の最盛期には野生の桑のみででは足りず畑に苗木を育成して増産に励みマユの選別に熟練した娘たちが集団で本土の養蚕業に出向き指導した時代もあった。

昭和十三年ごろは約二二〇貫の数量を上げ一三〇〇円くらいの収入があったことことが、「東京府市町村概観」に記されている。

特に蚕室は設けず、住宅の畳を上げて部屋を臨時の蚕室にして操業したので、温度調節等には苦労したようであるった。

桑の質は非常に良いことと、孤立した島だけに桑及び蚕の病菌がなかったため、種マユに適していたので、昭和時代に入ってからも盛んに続けられたが絹の需要が減少し、昭和初期には絶滅してしまった。

あれ?

あれれ?

有力手がかりなし・・・。

あちゃー。すこし行き詰りです。

・・・休憩。

温泉にでもいこう。

ふぅー

と、

[4] 神津島周遊記 2 - ちっこいチャリ。, , http://blog.goo.ne.jp/chiichari7/e/ab89df442940934f35748040d252d372

5月2日から5月5日迄、ゴールデンウィークにチャリ旅行へ行ってきました。

今回は伊豆諸島の神津島です。

BD-1にテントを積んで、風の向くまま気の向くまま、まったり走ってきましたよ。

2009年5月3日(日)の旅の軌跡 (クリックで大きいマップが見れます)

* * * * * * * * * *

10時 定刻通りにさるびあ丸は神津島の多幸湾側に到着しました。

神津島は終点の島。乗客は大分減っていて、スムーズに下船することが出来ました。

周りを見たところ自転車乗りは自分だけのようです。

まぁ、海を観光の売りにしている島にわざわざチャリ持って来る物好きなんざぁ、

そうはいないって事で、でも独占状態ってのはちと言い過ぎですかね?

曇り空なのに太陽の出てる中途半端な天気。海風は涼しいんだけど照り付ける日差しはすっかり初夏のもの。

どうせ太陽出てるなら、スカッと抜ける様な青空であってもらいたいものだ。

目の前に広がる見たこと無い景色に少年の心を取り戻した俺は・・・いや、違う。

精神年齢の低い俺は、無意識のうちに早足になり目の前の客を追い越していきました。

逸る気持ちを抑えつつ適当な場所でチャリを展開。荷物をしっかりチャリに搭載して、

ペダルを力いっぱい踏み込みます。

で、港を出たら2分でリゾート。多幸浜はプライベートビーチのようです。

砕けたガラスのような白い砂とエメラルドのような透明感のある海。

これは伊豆諸島に来る度に俺が思う感想ですが、今回はつい口に出てしまいました。

「此処、東京かよ?」

多幸湾の近くの日向神社。こじんまりした可愛らしい神社。

この旅の安全とかを祈願します。

参道から戻ると何にも振動与えてないのにGPSの電源が落ちてた。んだよ〜ッ!

でも先に言ってしまうと、落ちたのはこの一回きりで、この後は無事でした。

まずは海岸線沿いの神津本道を南に向かって進みます。

この神津島には一周道路というものが存在しないので、今回は島一周というノルマを自分に課す事無くまったり走れるのですが・・・。やっぱり島なので坂は付き物。

ですが、上りきったときにはこのような絶景が待っててくれるから止められない。

こちらは三浦湾展望台からの雄大な眺望。

12時 空の玄関口、神津島空港に到着。

神津島は調布飛行場から45分で来れる東

[5] 963 砂糠崎2=神津島村砂糠山(東京都)20,000年も続いた後期旧石器時代を生き繫いだご先祖さまたちは偉大だなぁ:でんでんむしの岬めぐり:So-netブログ, , http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-06-06

でんでんむしの岬めぐり

草木もなびく佐渡の岬めぐり中。自称『岬評論家』でんでんむしの日本全国津々浦々突端出っ張りコレクション。電車とバスときどきタクシーとレンタサイクルでってスゴくない? 年表もね。

[6] 神津島 - 地質概説 -, , https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kozushima/page3_1_9.html

神津島周辺の地形

地質概説

地史(地質図を含む)

岩石

地質各説

神津島

氷長石化作用を受けたデイサイト溶岩

流紋岩単組成火山

秩父山火砕堆積物(Cb)

面房火山(Mb)

長浜火山(Nh)

観音浦火山(Kn)

ハシルマ火山(Hm)

砂糠山火山(Sn)

221m山火山(Nn及びCbの一部)

262m山火山(Nr及びCbの一部)

那智山火山(NC及びCbの一部)

松山鼻火山,大沢火山及び高処山火山

じょうご山火山(Jg及びCbの一部)

花立火山(Ht及びCbの一部)

穴の山火山(Ay及びCbの一部)

神戸山火山(Kb及びCbの一部)

天上山火山(Tj)

祇苗島

恩馳島

文献

2014/03/25

このデータ集は5万分の1地質図幅

「神津島地域の地質」(一色,1982)から抜粋,再構成したものである.

このデータ集を引用する場合,次のように引用すること.

一色直記 (1982) 神津島地域の地質.地域地質研究報告 (5万分の1 図幅),地質調査所,75 p.

砂糠山火山(Sn)

島の東海岸,観音浦から横瀬鼻・砂糠崎を通って,多幸湾東北東端の釜が下に至る海食崖や横瀬鼻の北西約0.3kmで海に至る大川の川底に露出する流紋岩溶岩を砂糠山火山と呼ぶことにする.この火山は Tsuya(1929)の第一期のε1-Lava,谷口(1977)の砂糠山溶岩にほぼ相当する.その分布範囲は南北約2km,東西約0.6kmである.溶岩の厚さは,例えば砂糠山稜西側では,海面上だけでも約150m,上部から下部への岩相変化,すなわち塊状軽石質-真珠岩質-黒曜石質-石質から(第14図),溶岩上半部だけしか露出していないと考えられるので,実際には200-300mはあるのではないかと推定される.溶岩流出に先立って放出されたと考えられる火砕物の存在は確認されていない.谷口 (1980)は彼の砂糠山溶岩(谷口,1977によれば黒雲母流紋岩)が「角閃石片を含むきわめてスフェルライ卜質な,厚さ60cm程度の岩脈によって貫入されている」と記載している.この岩脈の特徴は,「(a)きわめてスフェルライト質で,角閃石,斜長石,石英,ガラス,基盤岩及び砂糠山溶岩等の破片を多数有する.(b)顕著な“流動分化”(但しこの場合は,上記鉱物片や岩片が軸部に集中する)を示す.(c

[7] 道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道, , http://yamaiga.com/road/sanukayama/main2.html

2013/4/1 11:16 (歩行開始から19分後) 【現在地】 / 【現在地(遠望)】

砂糠山への海岸道路、半ば。

「山行が史上最大」の規模を持ったガレ場を横断して進むと、次に現れたのは、先ほどのガレ場とは全く異なった印象を持った別のガレ場。

前のは粒の細かな礫だけが積もった、スキー場のゲレンデのような崖錐であったが、今度のはもっと遙かに荒々しい、巨岩の大雪崩。

ここでうっかり新たな落石に巻き込まれでもしたら、絶対無事では済まないだろう。

しかも、避けようがないので正面から足を踏み入れてみると、これが、全然まだ不安定なのである。

転石多数! 極めて危険な状況!

落石に巻き込まれたら無事では済まないのに、落石を全く起こさずに通り抜ける事は難しいという罠!

巨岩の山に息を遮られる思いがして、喘ぐように見上げると、そこにはもはや原形を留めなくなった山の形だけがあった。

先ほどのような、崩壊地でありながらも数学的には調和の取れた安定の姿(=安息角)はまるで見あたらず、ただ闇雲に崩壊せんとする乱然の姿である。

この道が突いてしまったのかも知れない、山体崩壊という魔巣の大きさに戦慄を憶えた。

ここを“完全に安全に”通りぬける術など、端から存在しないことを理解する(というか思い知る)。

だが、私も進まないワケにはいかないのである。

最もマシそうな波打ち際へと進路をとった。

それから5分後――

――私はまだ、同じ崩壊地の横断を続けていた。

前の崩壊地のように見通しは効かないが、崩壊斜面の規模は同レベルかそれ以上と思われた。

普通は、廃道の所々に崩壊現場があるものだが、ここでは逆で、崩壊現場の所々に廃道が見え隠れするのみだ。それさえも、かれこれ5分の間は見る事が出来ていない。

そして、こうしてしばらく道を見ないと、途端に不安になってくるのだ。この膨大な瓦礫の底で、道がひとりでに終わっているのではないかという不安である。

今の私にとって、 この道の存在は、とても大きな意味を持っていた。

オブローダーにとって、道(それも車道であること)があることは、何よりも励みになる。

これが無くなれば、きっと廃墟と化しているに違いない“山上の建物”を求めるという行為は、私にとって一挙に色褪せかねない…。

もう楽でないことが確信出来るだけに、モチベーションを保つのは

[12] チャリンコ日記別冊・050912-14真鍋研合宿・神津島, , http://nabe.la.coocan.jp/hp2005/0509kozu/KOZUMAIN.HTM

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平成17(2005)年9月12日(月)〜14日(水)

真鍋研究室夏期合宿・久々の神津島

まだ工事中です。文章を徐々に追加充実中、少々お待ち下さい。

旅 の 記 録

竹芝客船ターミナルからジェットフォイルで出発。以前は夜行で行ったもの。夜行が辛くなってからは、早朝の列車で伊東まで行って朝の船に乗ったこともある。空港ができてからは調布から新中央航空で行くことが可能だが、それ以後は神津島には行っていない。朝に東京を出て午後にはハイキングが出来るとは、神津島も近くなったものだ。

ジェットフォイル(ガスタービンエンジン駆動のウォータージェットで推進するハイドロフォイル/水中翼船)は78�q/hの高速で航行する。東京湾内は一定以上の長さの船は徐行が義務付けられているが、この船は船体が短いから湾内も高速で、神津島の場合全行程の1/3ぐらいが東京湾内だから、この差は大きい。しかしシートベルト着用で3時間以上じっとしているのは苦痛。

[13] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7 作成日2014.3.19

導入

なぜ、そこに道があるのか!?

誰もがそう思ってしまう道が神津島にあった。

インターネットでふらふらネットサーフィンをしていたら見つけてしまったその道。

国土交通省の「ウォッちず」という誰でも閲覧可能な地図サイトの神津島の地図をご覧下さい。

灰色の四角い記号は何か建物のある記号。

点線の記号は車道ではないが、徒歩道などがある印である。

つまり、地図から読み取れば、

ここには建物があり、道があるということになる。

あるということになるが、

あの有名なgoogleマップの航空写真でここを見てみると・・・

建物らしきものはあった!

しかし・・・道は。。。

というか、道の部分は崖ではないかと思われるのだが・・・

むむむ〜、

一体全体ここはどうなっているのだろうか!?

疑問は膨らむばかりである。

・・・よし、行ってみよう!

海岸線は磯伝いに、そこから山に向かっていくのは谷であると思われるから、なんとかいけるだろう!

というわけで、いざ、疑問を解決に参りましょう!

2013年12月6日(金) 横浜大桟橋

やってまいりました。 ここは、神奈川県、横浜大桟橋。

秋から春にかけての金、土曜日夜は、竹芝桟橋を出航した各島経由神津島行の大型客船は横浜を経由します。運賃も少し安くなり、家から近いので横浜から乗船します。

出航時間は23:30。

待ってました。今宵、お世話になる「かめりあ丸」です。

この船も2014年6月7日に東京竹芝桟橋を出航するのが最後。

神津島を翌6月8日に出航すると引退となります

残り少ないであろう、かめりあ丸をかみ締めながら島に向かいます。

いざ、乗船!

2013年12月7日(土) 船中泊、神津島到着

2等席で大広間の雑魚寝。

エンジンの音を感じながら船は南へと進んでいきます。

朝6時、夜が明ける前に伊豆大島へ到着。

多くのお客さんが下船していきます。

ダイヤモンド富士ならぬ、ダイヤモンド利島を見れるのも船旅の醍醐味。

見えてきました。我が故郷神津島。

長年住み、長年遊んでいましたが、まだまだ知らない場所がたくさんある大冒険島だ。

今回は村落の港「前浜港」とは反対側の「多幸湾」に入港。

つまり今回の

[14] 「平成12年(2000年)神津島・新島地震」災害状況(2000年6月)|アジア航測|空間情報コンサルタント, , http://www.ajiko.co.jp/article/detail/ID4TC38PQ31/

7月3日13時頃に、神津島の斜め撮影を実施いたしました。雲で天上山山頂付近はみえておりません。おもに、海岸沿いの斜面崩壊の映像について紹介いたします。

2000年6月26日午後6時半すぎ、東京都伊豆諸島三宅島で群発地震の発生がはじまりました。1983年の噴火の時など、地震発生の2時間後に噴火している例もあることから、気象庁では、噴火の恐れが高いとして午後7時33分「緊急火山情報」を出し、警戒を呼びかけました。朝までには、三宅島の、坪田、三池、阿古、伊ケ谷地区の住民が、北の大久保地区に避難しました。幸いにも、翌27日朝までに危惧された山腹割れ目噴火は発生しませんでしたが、午前9時頃、阿古西方約1kmの地点で、変色水域が確認されました。また、阿古から伊ケ谷にかけて、東西方向の地割が複数確認され、海岸の崖では数箇所のがけ崩れも確認されました。これらの現象と傾斜計やGPSの観測結果を総合すると、三宅島の西側にマグマが貫入したと思われました。三宅島の状況については、三宅島2000年噴火のページをご覧ください。 その後、三宅島と神津島の間の海域で群発地震が発生し、その位置は時間とともに西北西方向に移動していきました。そして、7月1日の午後4時すぎ、神津島付近でM6.4の最大の地震が発生し、神津島では震度6弱を観測しました。そのため、島内各地で多数の崩壊が発生、1名の方が亡くなる災害が発生しました。 アジア航測では、直後の7月3日に斜め写真撮影を実施、7月4日には1:5000の縮尺で、島内全域の垂直写真撮影を行いました。 このページでは、これらの写真を順次、緊急公開します。防災対策や崩壊メカニズムの研究に役立てていただければ幸いです。

履歴

[15] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926377813254

メモ