諏訪湖

諏訪湖

[1] 諏訪湖

Webページ

[2] 水路をゆく・第二運河 松川の舟通しと和船のことなど, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1640.html

(『 松川遊覧船ふたたび…5 』のつづき) ● 松川遊覧船の中村珠太専務にうかがったお話と、著書「 神通川の河川文化~川魚漁と川舟から~ 」を参考に、気になる松川舟通しをはじめ、松川で見たご当地の和船について、以下にまとめさせていただきました。 松川舟通し! いやもう、想像をはるかに超えた、驚異の舟航施設(?)といってもいい過ぎではありませんでした! 【 ▼ 「続きを読む」 をクリックしてご覧ください 】 ● 私の感想は後にして、まずは舟通しの件を箇条書きにまとめてみましょう。 イ)松川舟通しの構造について 1)前扉(松川側扉体)のみ、リモコンで舟上から開閉操作ができる。後扉(神通川側扉体)は機側操作のみ。 2)前扉は下げることで開く。下の写真の状態は半ば閉じた状態で、全閉するともう少し上がる。 ロ)松川舟通しの運用について 1)通常は前扉のみ下げて通航する。面倒なので下げずに乗り越すこともあり。同様の理由で後扉もほとんど操作しない。 2)本来は前扉をもっと上げて、松川の流量を確保しなければならないが、やはり面倒なのでそのまま。 ハ)高水敷の水路について 1)舟を押すなり、ロープで引くなりして出入りしている。水深や段差の点は、舟が軽量なので問題でない。 2)かつては現在のように曲流しておらず、もっと直線に近い流路で、神通川の上流に向けて伸びていた。 ● いやもう、何が驚いたって、一番びっくりしたのはイ-2! このゲート、下げて開くんだ! ● こういった造りの扉体を、何と呼んだらよいのでしょう? 水面下に沈むことで開く扉体といえば、大阪で見た閘門のサブマージブル・ラジアルゲート(『 東横堀川閘門…1 』参照)が思い出されましたが、この伝でいくと、「 サブマージブル・スライドゲート 」とでも呼ぶべきなのでしょうか。 いや、起伏ゲートやライジングセクターゲートなど、「沈んで開放する」構造の水門はいくつもあるものの、ローラーゲート・スライドゲートのように、一枚板が上下するタイプで実見したのは初めてだったので、驚かされたのです。 ● そうなると、「 富山の極小閘門! 松川舟通し水門…4 」で、「呑口の洗掘を防ぐためか、鋼矢板の基礎護岸が追加されて」と書いたのは、大いなるカン違いだったことになります。下がった扉体が収まるだけの、いわば戸袋の深さを確保するためのものと、見てよい

[19] 糸魚川静岡構造線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E9%9D%99%E5%B2%A1%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%B7%9A

国の天然記念物 新倉の糸魚川-静岡構造線

画像の中央、崖の右上から左下に斜めに走るラインが構造線の露頭である。

山梨県南巨摩郡早川町新倉(あらくら、地図)

1918年に、東北帝国大学(現東北大学)の地質学者・古生物学者である矢部長克(1878年〜1969年)によって提唱された。

しばしばフォッサマグナと混同されるが、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの西辺」であって、「フォッサマグナ」ではない。フォッサマグナは、糸静線から東に大きく広がる地溝帯、すなわち「線」ではなく「面」である。

特徴[編集]

(ここでは自然地理的な特徴について述べる。人文地理的な特徴は「中部地方#地域性」を参照すること。)

糸魚川静岡構造線に沿って日本アルプスが造られており、飛騨山脈や赤石山脈の高山が沿線に連なり、天険を形成する。生態系は、糸静線を境にして大きく異なり、東半分を東北日本、西半分を西南日本という。糸静線沿線の主な山や高地には、白馬岳、乗鞍岳、上高地、赤石岳、身延山などが連なる。

日本海側の東西境界線は新潟県と富山県の境に位置する親不知であり、内陸側の東西境界線は諏訪湖である。太平洋側については、静岡市付近ではあるが詳細ははっきりしておらず、安倍川の他、薩埵峠付近や大崩海岸付近などともされる。

北部フォッサマグナ[編集]

日本海が形成された時期の新第三期中新世後期までは東西方向に引っ張られる力が作用し大きな陥没地帯が形成されていたが、中新世末期以降は力の方向が逆転し圧縮方向に変化した。その為、隆起と沈降を示す地形が交互に現れている。隆起地形としては、上水内丘陵地帯(主に妙高火山群の山々)と中央隆起帯(長野県中部から群馬県にかけての地域で志賀高原、八ヶ岳などとその周辺)があり、隆起地形の間には逆断層の長野盆地西縁断層系があり地震活動が活発である[1]。なお、最北部の西頚城山地での活動は終了しており変動地形学的に見ると活断層ではない[2]とする見解もある。

北部フォッサマグナの東側(信越地域:長野県北部から新潟県頚城地域)には、大峰面[3]と呼ばれる第四紀の70万年前に海岸平原であったとされる頃に形成された花崗岩質の礫及びシルトによる平坦な地形が広がっていた[4]が、その後の地殻変動により浸食され現在は、標高900m前後の山々に痕跡が残る[5]。

糸静線上の松本盆地から長野盆地に向か

[20] 水陸両用バスの運行始まる 長野 諏訪湖 NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160313/k10010441541000.html

陸上と湖の湖面上の双方で景色を楽しむことができる「水陸両用バス」の運行が、長野県の諏訪湖で、ことしも始まりました。

12日はバスの発着地点となっている諏訪湖畔の観光施設に地元の観光関係者が集まり、テープカットをして運行開始を祝いました。 バスは家族連れなどおよそ30人を乗せて湖畔から水しぶきを上げて湖に入り、およそ20分間のクルージングが始まりました。12日は、最低気温が氷点下2度1分と肌寒い天気でしたが、乗車した人たちは湖上から見える景色を楽しんでいました。乗車した小学1年生の女の子は「楽しかった。いろいろな景色が見えた」と話していました。 運行会社の高澤正義諏訪営業所長は「湖上からは北アルプスや八ヶ岳、天気がよければ富士山も見えるので、大勢の人に楽しんでもらいたい」と話していました。 諏訪湖の水陸両用バスは来年1月9日まで運行される予定です。

[21] 道路レポート 梓湖に沈んだ前川渡(長野県道乗鞍岳線旧道), , http://yamaiga.com/road/maekawado/main.html

これを執筆している平成28(2016)年の夏は、関東地方を中心に降水量が不足しており、各地のダム湖で深刻な渇水が報告されている。

そんなニュースを耳にして思い出したのが、今から8年前の平成20(2008)年8月に訪れた、長野県松本市の奈川渡(ながわど)ダムのことだ。

私は何度がこのダムを訪れているが、このときほどに低い水位を目にしたのは1度きりだ。

今回は、そんな折に行った湖底での廃道探索の模様を紹介しよう。

「ダムある所に廃道あり!」

…という格言があるかは知らないが、アーチ式ダムとして本邦第3位の堤高155mを誇る奈川渡ダムは、諏訪湖の2倍の1億2300万立方mという貯水量を持つ梓(あずさ)湖を、昭和43(1968)年のダム完成と同時に誕生させた。

この巨大な湖は、かつて梓川の川縁を通行していた諸道を水没させ、トンネルばかりが幅を利かせる付替道路へ生まれ変わらせた。

今回紹介するのは、この梓湖に水没した道路のうち、 長野県道84号乗鞍岳線の旧道 (大野川〜前川渡間)である。

現在の地図を見ると、梓川の支流である前川沿いの県道乗鞍岳線は、前川が梓湖に注ぐ1.5kmほど手前で川縁を離れ、3本のトンネルと梓湖を渡る大きな橋によって国道158号と結ばれている。この交差点の名前を 前川渡 (まえかわど)といい、湖に沈む前からあった旧来の地名なのだろう。 (この付近には奈川を渡る所に奈川渡、前川を渡る所に前川渡、根木の沢を渡るところに沢渡(さわんど)といった独特の命名法則があるようだ。)

なお、前川沿いの付替道路は昭和41年に着工され、43年のダム完成時に開通したという記録がある。

一方、県道乗鞍岳線は昭和39(1964)年に初めて県道認定を受けているので、ここには “湖に沈んだ県道” があるはずだった。

多くの水没旧道がそうであるように、現在の地形図には影も形も見えないけれども…。

、ダム完成直後に発行された地形図、昭和47(1972)年資料修正版5万分の1「乗鞍嶽」には、「大野川」という文字のすぐ上でトンネルに入らず右に分岐して、そのまま湖に突っ込む道が描かれている。

合流すべき旧国道も完全に湖面下にあり、この旧道が果たしてどの位置まで辿る事が出来るのかは水位次第と思われたが、実際には水位以外にも探索を難しくする要因があることを、私は現地で理解すること

[22] 初夏の上高地○上高地公園線旧道と釜上洞門 - みのみのの「清流梓川のせせらぎ・上高地」 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/minominofx66/11097183.html

上高地へやってきました。上高地の入り口「釜トンネル」の北側坑口から長野県道24号上高地公園線の旧道を下流方面へ向かって歩きます。旧道とは道路が新しいルートができた際に、それ以前に使われていた道路が使われなくなったことを表しています。旧道は車が全く通っていないので、道路の整備や管理が行き届かず、朽ち果てるままになっています。

現在地は釜トンネルの北側にある産屋沢橋から釜トンネルに沿って南へ続いている旧道を歩いています。上の地図には旧道のルートは書いてありません。新しい道路が完成すると、これまで使われなくなった道路は地図上から抹消されてしまうのです。ただ現実には朽ち果てた旧道として残っているので歩くことができます。

上高地公園線の旧道には巨大なスノーシェッドが覆いかぶさっています。平成7年に竣工した「釜上洞門」と呼ばれていて、「洞門」とは落石や雪崩から道路を守るためにある覆いのようなものです。覆いと行っても鉄筋コンクリート製の頑丈な造りとなっています。釜上洞門の入り口から振り返って上高地方面を撮影しています。

[32] 列島横断 廃校廃村をめぐる旅(6), , http://heyaneko.web.fc2.com/gh31.html

列島横断 廃校廃村をめぐる旅(6)

長野県小谷村横川,戸土___________

________________________新潟県糸魚川市大久保,梶山,上沢

8/3/2008 小谷村横川,戸土,糸魚川市大久保,梶山,上沢

# 31-1

「列島横断 廃校廃村をめぐる旅」も大詰めの第三陣になりました。目標は長野県塩尻市から日本海に面する新潟県糸魚川市までの間の廃校廃村,小谷村横川・戸土,糸魚川市大久保・梶山・上沢・虫川・菅沼,旧青海町橋立の8ヶ所です。その前後にも,いくつかの廃村を訪ねる(再訪を含む)予定です。

日程は,梅雨明けとお盆休みの間の8月上旬,「廃村(3)」の旅の始まり(平成17年8月)と同じく,keikoとのバイク2台のツーリング,3泊4日です(年休の取得は2日)。途中,戸土あたりで,第二陣(飯田市松川入・大平)でご一緒した信州大学の佐合さんと合流する予定を立てました。

並行して進めてきた全国の「廃校廃村・高度過疎集落」リスト作成も、7月中旬にひと通りの見直しが終わり,まとまる見当がつきました。

# 31-2

旅の出発は平成20年8月2日(土),天気は晴れ。泊まりの信州・大町の民宿「ポッポのお宿」は,4年半ぶり(「廃村(3)」では初)の「とほの宿」です。

南浦和出発は朝8時。keikoの希望もあり,高速は関越道所沢IC〜本庄児玉ICのみで,R.462を通って群馬県上野村,ぶどう峠通行止のためR.299を通って十石峠,長野県旧八千穂村,麦草峠を経由して,諏訪湖に到着したのは午後3時40分。この日は廃村には立ち寄らない淡々とした走りです。

塩尻峠を越えて塩尻市街、R.19とR.20の交点(高出交差点)から先は第三陣の道になります。松本市街を避ける安曇広域農道は,ロードサイドショップがいっぱいです。大町市街を過ぎて,大町スキー場間近にある「ポッポのお宿」到着は夕方6時40分。この日の走行距離は327kmでした。

# 31-3

旅2日目(8月3日(日))の起床は朝5時頃。霧の中,単独でバイクで出かけたのは旧美麻村高地,廃村(3)の旅の最初に訪ねた廃村です。

3年前,ガケ崩れで通行止になっていた高地に向かう県道は,補修がなされて,無理なく通れるようになっていました。高地分校跡到着は6時20分。バイクで来れてひとまず満足。3年前は綺麗に光っていた

[33] [mixi]原田橋通行止め - Love!佐久間町 | mixiコミュニティ, , http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1415346&id=69395360

原田橋通行止め

2012年05月05日 10:14

mixiユーザー

現在原田橋がケーブル損傷のため通行不能となっています。 ようやく河川敷に仮設道路ができました。 仮設道路の通行可能時間と期間は5月2日〜5月27日。 時間は午前5時〜午後7時の間です。 川が増水した場合は通行止となります。 しばらく復旧しそうにありません・・・ 浜松市hpの情報 http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/life/traffic/bridgekisei/index.htm 佐久間観光協会の情報 http://sakuma-kanko.net/H24HaradabashiStop.html

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[1]2012年05月05日 13:51mixiユーザー河川敷回りですか…(-.-;)

浦川地区からの佐久間病院通院は痛いですね…。

いっそ開き直って、「天竜川河川敷を歩いて渡ろうイベント」でもいかがでしょうか?

諏訪湖から河口までで、天竜川河川敷を歩いて通学していたのは、私の知る限り下川合地区の佐校生だけです。

背丈より高い草木を掻き分けて通学するワイルドな風景に、常に感心しておりました。

今も、見られるんでしょうか…? イイネ!返信[3]2012年05月08日 23:52mixiユーザー通行止めも土壇場決定で、看板屋も知らなかったくらいバタバタだったようで…。

早く復旧するといいですね。 イイネ!返信[4]2012年05月10日 22:09mixiユーザー本日5月10日より

仮設道路の通行時間が延長されました

午前4時から午後10時まで通行可能となりました

バイク、歩行者は通行できません

イイネ!返信[5]2012年05月26日 10:42mixiユーザー仮設道路の通行期間が延長されました。

当初5/27までとされていましたが延長されました。

【緊急用通路の通行可能期間】

浜松市が実施する原田橋の「評価」が完了するまで

【緊急用通路の通行制限】

通行が可能な時間

午前4時から午後10時

ダムの放流があるまでは通行可能ってことでしょうか・・・ イイネ!返信[6]2012年06月16日 07:10mixiユーザー6月末にも制限付き再開 (静岡新聞2012/6/13)

浜松市は今週中にも補修工事に着手し

早ければ今月末にも開通予定

[34] 滋賀県 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C

概要[編集]

令制国の近江国(江州)と完全に一致する。県名は大津が属していた郡名「滋賀郡」から採用された。「滋賀」の発音は、共通語では「し」にアクセントを置く(頭高型アクセント)が、地元では「が」にアクセントを置く(尾高型アクセント)ことが多い(「滋賀県」とする場合は共通語も地元の方言も同じアクセント)。

「近江」が「近つ淡海」に由来し、現在も滋賀県が「湖国」と呼ばれるように、琵琶湖は県のシンボルである。産業用水、近隣府県約1,400万人の飲用水の源、観光資源としてその存在は大きく、地域性も琵琶湖を挟んで異なる(後述「#地域」参照)。琵琶湖があるために内陸県で唯一漁港を持ち、その数も20港と、海に面する5府県より多い。水運交易が盛んだった中世や近世には若狭湾と上方を繋ぐ中継地として、大津や堅田など内水系の重要港湾が数多く発展した。東海道・東山道(中山道)・北陸道が合流する陸上交通の要衝でもあり、「近江を制する者は天下を制す」として度々戦乱の舞台となった。

交通利便の良さは人材の流出をもたらし、戦前まで滋賀県は流入人口よりも流出人口の方が多かった。中世から近代にかけては多くの出身者が近江商人として全国各地に進出し、「琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる」という諺まで生まれた[1]。太平洋戦争後、高速道路の整備やトラック流通の興隆に伴って交通利便のよさが再認識され、流通拠点や工場・研究開発施設が相次いで進出、近年はJR西日本のアーバンネットワーク拡大に伴って京都府や大阪府のベッドタウンとしても注目されるようになり、首都圏以外の地方では数少ない人口増加県へと転じた[2]。尚、開発が進むのは京都や大阪に近い南部であり、北部とは経済格差が起こっている。南部では新興住宅地が広がり、駅前にはマンションが建つなど賑わいがある一方で、北部や西部は田園風景が広がり、のどかな雰囲気がある。ただ人口が停滞している湖北・湖東地域であっても地域再生の議論や実践が活発である[3]。

滋賀県は近畿地方に分類され、文化的・経済的に京都・大阪との結び付きが強いが、中部地方との交流も盛んである。近畿圏整備法で定める「近畿圏」と中部圏開発整備法で定める「中部圏」の両方に含まれ、滋賀県知事は近畿ブロック知事会と中部圏知事会議の両方に出席している(福井県と三重県も同様)。また福井県・岐阜県・三重県とともに「日本まん

[35] 琵琶湖 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を持つ[1]。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。河川法上は一級水系「淀川水系」に属する一級河川であり、同法上の名称は「一級河川琵琶湖」である。

地理[編集]

滋賀県の面積の6分の1を占め、流れ出る水は瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。また、湖水は淀川流域の上水道として利用され、京都市は琵琶湖疏水から取水している。陸上から見た地形により最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側部分を北湖(太湖)、南側部分を南湖と呼んでいる。一方、湖底地形から見ると、北湖盆(North Basin)、中湖盆(Central Basin)、南湖盆(South Basin)に分けられ、北湖盆と中湖盆の境界は沖島北方付近で鞍状の湖底地形が存在している[2]。北湖は面積623km2 平均水深41m、南湖面積58km2 平均水深4m[2]。

琵琶湖を取り巻く各自治体は、大きく湖南・湖東・湖北・湖西に分けられる。※区分については「滋賀県#地域」を参照。

湖を取り囲む山地からの流れが源流で、京阪神の水がめとしての機能も担っている。また、古くから水上交通路としても利用されており、明治時代に鉄道が開通するまでは、京や大坂から東国・北陸への物資輸送の中継地として利用されていた。

古代湖であり、魚類や底生動物など50種以上の固有種を含む生物相に富む。明治から昭和の初期までは、琵琶湖の周囲に大小40数個の内湖が広がり、多くの生物を育んでいた。しかし琵琶湖の洪水防御のため、1943年から始まった河水統制事業により、事業が終了する1952年までに平均水位が数十cm低下したことや、これに前後して内湖の大半が干拓されたこともあって琵琶湖の自然は大きく変化し、固有の風致や生態系が大きく損なわれた。現在、滋賀県は一部の内湖を復元することを計画[3]しており、生態系の回復や水質浄化が各方面から期待されている[4]。

東京湾中等潮位 (T.P.) 基準で+84.371 m、大阪湾平均干潮位 (O.P.) 基準で+85.614 mの高さが琵琶湖基準水位 (B.S.L.) と定められており、「琵琶湖の水位」とはB.S.L.を±0 mとした水位のことをいう。B.S.L.は、1874年(明治7年)に鳥居川観測点において「これ以上水

[36] 湖山池 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E5%B1%B1%E6%B1%A0

湖山池 (こやまいけ)は、 鳥取県 鳥取市 の北部にある 汽水湖 である。「 池 」と付く湖沼の中では 日本 最大の広さである。 島根県 の 神西湖 は姉妹湖にあたる。

概要 [ 編集 ]

湖山池は鳥取県内では、 中海 の次に大きい湖沼である。古代に 日本海 から湾入した場所が、 砂丘 の発達や 堆積 により、海と分離されてできた 海跡湖 である。大小多数の小 島 が浮かぶ。最大の島である 青島 には、湖岸から架橋されており、桜の木が多数植えられた道路で徒歩や自転車により一周することができ、キャンプも可能である。数本の河川が流入、湖山川によって 日本海 と結ばれる。鳥取市郊外の行楽地の一つである。

鳥取市三津地区では、全国的にも珍しい 石がま漁 が冬季に行われている。石の隙間に潜む魚を棒でつついて追い込み捕獲する漁法で、県指定無形民俗文化財に指定されている。地元自治会やNPOが保存に努めている。漁期間中には 石がま祭 も行われる。

広大な水田を有していた長者が、日没までに田植えが終わらなかったため、扇子で夕日を招き返して田植えを終えたが、一夜明けると田は全て池に変わっていた、という「 湖山長者 」の伝説が知られる(似たような話が 岐阜市 の ゆうべが池 に伝わっている)。古くから開けた地域であり、青島周辺には 縄文時代 から 弥生時代 にかけての 遺跡 がある。また 戦国時代 には東側の湖畔に 因幡国 守護所である 布勢天神山城 がおかれ、西側の湖畔に突き出た半島には国人領主 吉岡氏 の居城である 防己尾城 が築かれた。

最寄駅は JR 山陰本線 湖山駅 、 末恒駅 、それに 1995年 7月27日 以降 鳥取大学前駅 が加わった。また鳥取大学前駅-末恒駅の間では車窓南に湖山池の美しい風景が見える。ちなみに反対の海側は松林である。

2013年3月、アザラシが発見される。2012年3月に水門が全面開放となった湖山川を通じて日本海から入ってきたと考えられる [2] 。

2014年10月19日、約30年ぶりに 遊覧船 の運航を再開 [3] 。

画像 [ 編集 ]

[37] 湖山池 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E5%B1%B1%E6%B1%A0

湖山池 (こやまいけ)は、 鳥取県 鳥取市 の北部にある 汽水湖 である。「 池 」と付く湖沼の中では 日本 最大の広さである。 島根県 の 神西湖 は姉妹湖にあたる。

概要 [ 編集 ]

湖山池は鳥取県内では、 中海 の次に大きい湖沼である。古代に 日本海 から湾入した場所が、 砂丘 の発達や 堆積 により、海と分離されてできた 海跡湖 である。大小多数の小 島 が浮かぶ。最大の島である 青島 には、湖岸から架橋されており、桜の木が多数植えられた道路で徒歩や自転車により一周することができ、キャンプも可能である。数本の河川が流入、湖山川によって 日本海 と結ばれる。鳥取市郊外の行楽地の一つである。

鳥取市三津地区では、全国的にも珍しい 石がま漁 が冬季に行われている。石の隙間に潜む魚を棒でつついて追い込み捕獲する漁法で、県指定無形民俗文化財に指定されている。地元自治会やNPOが保存に努めている。漁期間中には 石がま祭 も行われる。

広大な水田を有していた長者が、日没までに田植えが終わらなかったため、扇子で夕日を招き返して田植えを終えたが、一夜明けると田は全て池に変わっていた、という「 湖山長者 」の伝説が知られる(似たような話が 岐阜市 の ゆうべが池 に伝わっている)。古くから開けた地域であり、青島周辺には 縄文時代 から 弥生時代 にかけての 遺跡 がある。また 戦国時代 には東側の湖畔に 因幡国 守護所である 布勢天神山城 がおかれ、西側の湖畔に突き出た半島には国人領主 吉岡氏 の居城である 防己尾城 が築かれた。

最寄駅は JR 山陰本線 湖山駅 、 末恒駅 、それに 1995年 7月27日 以降 鳥取大学前駅 が加わった。また鳥取大学前駅-末恒駅の間では車窓南に湖山池の美しい風景が見える。ちなみに反対の海側は松林である。

2013年3月、アザラシが発見される。2012年3月に水門が全面開放となった湖山川を通じて日本海から入ってきたと考えられる [2] 。

2014年10月19日、約30年ぶりに 遊覧船 の運航を再開 [3] 。

画像 [ 編集 ]

[38] 東郷池 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E6%B1%A0

概要 [ 編集 ]

長さ2kmほどの 橋津川 を通じて 日本海 につながっており、 シジミ が獲れる。池の中央付近の湖底からは温泉が湧くという全国でも珍しい池であり、湖畔には はわい温泉 と 東郷温泉 がある。また、冬には池から湯気が立つ神秘的な風景も見られることがある。

古くは 入江 であり、 砂 の 堆積 により海と隔てられて 潟湖 になったと考えられている。北側の海との間にある丘陵・ 馬ノ山 には馬ノ山(橋津) 古墳 群があり、当地の港を支配した 豪族 のものといわれる。 鎌倉時代 の 正嘉 2年( 1258年 )に描かれた 東郷荘絵図 にはほぼ現在のものと同じ様子が描かれている。また、現在日本海に直接流れ込んでいる 天神川 は 江戸時代 の河川改修までは橋津川に合流していた。一説に古くは東郷池に直接流れ込んでいたという。

周辺には 伯耆 一宮 の 倭文神社 、 羽衣石城 跡、東郷湖羽合臨海公園、 鉢伏山 、中国庭園燕趙園などがある。展望台は湯梨浜町宮内の出雲山展望台と同町白石の鉢伏山展望台などが知られており、標高の高い鉢伏山からは池全体を一望することができる。

交通 [ 編集 ]

山陰本線 松崎駅 下車すぐ、または 倉吉駅 からバス10分。

山陰自動車道 はわいインターチェンジ から車で5分弱。

湖畔の名所・施設 [ 編集 ]

燕趙園

東郷温泉

ゆアシス東郷龍鳳閣 [1]

はわい温泉

東郷湖羽合臨海公園

あやめ池スポーツセンター

脚注 [ 編集 ]

[39] 神西湖 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%A5%BF%E6%B9%96

神西湖 (じんざいこ)は、 島根県 出雲市 の西部に位置する 汽水湖 である。西南に 三瓶山 (さんべさん)を拝み、 アシ や ガマ に囲まれ、 シジミ がよく穫れる。2005年度のシジミの収穫量は約1万7千トンであり、全国の湖沼中6位である。また単位面積当たりで見れば全国の湖沼中1位である。

姉妹湖として 鳥取県 の 湖山池 がある。

地理 [ 編集 ]

流入河川として 十間川 (じっけんがわ)、流出河川として 差海川 (さしみがわ)がある。湖の西側には 湖陵温泉 がわく。

なお、河川法上は差海川、神西湖ともに十間川として指定されている。

歴史 [ 編集 ]

『 出雲国風土記 』に 神門水海 (かんどのみずうみ)として記述が見られるが、この湖は現在の約3倍の周囲長を持っており、現在の形とはかなりかけ離れている。当時、湖周辺は滑狭(なめさ)と呼ばれ、 大国主命 の 后神 生誕の地として伝わっている。神西湖は以下のように変化した。

縄文時代 [ 編集 ]

現在の 宍道湖 にあたる湖域全体とその西岸陸域は全て 日本海 に繋がっていて、 島根半島 の西側をえぐる大きな湾が存在していた。その湾に南から注ぐ 斐伊川 と 神戸川 の強い堆積作用により湾は次第に埋め立てられ、東側と西側に分断された。東側が現在の宍道湖の原型であり、西側に残った湾部が現在の神西湖の原型である。

弥生時代 [ 編集 ]

堆積作用が進むにつれて湾は次第に小さくなり、日本海と分断され、汽水湖となった。

江戸時代 [ 編集 ]

神西湖の北部が埋め立てられ縮小し、さらに1635年と1636年の大洪水で、今まで繋がっていた斐伊川と神門川の 川違え が行われ、斐伊川は宍道湖に、神西湖から切り離された神門川は直接日本海に注ぐようになった。これにより神西湖と日本海を結ぶ河川がなくなり、大雨で度々溢れるようになった。そのために湖西側を開削し排水路を設けた。これが現在の差海川(さしみがわ)である。また 新田 開発に伴って湖の東側から流入する十間川(じっけんがわ)が開削された。これにより現在に通じる形態が完成した。

神西湖九景 [ 編集 ]

近江八景 にならって江戸時代中期に神西湖九景が選ばれた。

田中山の清嵐

正久寺の晩鐘:現在正久寺の跡のみ。

鵜来の秋月

掛前の帰帆

蛇島の暮雪

差海の夕照

水原の落雁

椎崎の夜雨

小野

[40] 精進湖 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%B9%96

精進湖 (しょうじこ)は、 山梨県 南都留郡 富士河口湖町 にある 湖 。 富士五湖 のひとつで、西から2番目、東から4番目にあたる。 富士箱根伊豆国立公園 の特別地域内にある [1] 。

概説 [ 編集 ]

同じ富士五湖の西湖、本栖湖と同一の水脈を有しているので水面標高も同じく約900mで、湖水の水位が連動する傾向がある。最大水深は15.2mで 河口湖 と並び3番目の深さ。0.5平方キロメートルと五湖中でもっとも湖水面積が狭く、流入河川および流出河川はない。

2013年 (平成25年) 6月22日 、「 富士山-信仰の対象と芸術の源泉 」の構成資産(富士山域)の一つとして、 世界文化遺産 (日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。

成因 [ 編集 ]

富士山 の 火山 活動によって形成された 堰止湖 で、 本栖湖 ・ 西湖 と同じ水位である。かつては単一の大きな湖( 剗の海 ;せのうみ、「背の海」の意か)であったと考えられている [2] が、 富士山 の 溶岩流 でまず南西の本栖湖と分断され、『 日本三代実録 』に拠る 864年 (貞観6年)の 貞観大噴火 の溶岩流によって西湖と分断された。

名前の由来 [ 編集 ]

精進湖という湖名は、富士参詣者が湖で 沐浴 して精進潔斎したことに由来する説や、(かつての単一湖「せの海」という名称も関連し)富士の背にあたることから「背地」(せのち)と呼ばれたとする説 [3] がある(『 甲斐国志 』による)。

水質と生物相 [ 編集 ]

栄養湖 で プランクトン が多く、湖色も緑色。1930年代の調査でも富栄養化していた [4] がそれ以降も富栄養化は進行している [5] ため、透明度は3m程度で有る。赤潮が発生することもある [6] 。 ヘラブナ や ワカサギ 、 ブラックバス [7] 、 タニシ などが生息している。

周辺 [ 編集 ]

右岸には、 甲府 から右左口宿を経て 駿河国 へ至る軍用道路である 中道往還 (現 国道139号 )が通る。 精進湖北側から見る 富士山 は手前に 大室山 を配しているため、「子抱き富士」とも呼ばれる。前景は 青木ヶ原樹海 であり、樹海の中に 中道往還 ( 国道139号 )が走っているため、精進湖北側から望む富士山は手前に建造物がなく樹海の緑に覆われ、絶景である。

かつては湖北部に集

[41] 道路レポート 国道158号旧道 水殿ダム〜奈川渡ダム, , http://yamaiga.com/road/r158_midono/main6.html

2008/7/2 10:23 【現在地(別ウィンドウ)】

この「新入山トンネル」だが、

実は 「しんにゅうやま」ではなく、

「にゅうにゅうやま トンネル」 と呼ぶ。

…と、読者の一人がコメントを下さった(大笑) ←座布団全部上げます。

動と静。

1面2相を一洞に宿した入山隧道。

いま、県道に供された「静」の坑口より脱出なる。

そこにあるものは、我々と、皆様のご想像通り……。

信濃川水系最大の湖、 梓湖(あずさこ)だ。

奈川渡ダムによって貯留された水の総量は1億2300万立方メートルもあり、これは同じ長野県の諏訪湖の2倍の容量である。(アーチダムとしては、全国6位の貯水量)

こうして目前にすると、確かに巨大だ。

しかし、この湖の膨大な水量は湖面の大きさより、その深さによるところが大きい。

沈んでいる谷の深さは、このダム堤体付近で湖面から数えて120mを超えている。

湖の平面形は平仮名の「く」の字を逆さにした形で、ダムはその頂点にある。

向かって左の腕が奈川で、沿う道は境峠を越えて木祖村(県道26号)や、野麦峠を超えて飛騨高山方面(県道39号)へと通じる。

右の腕は梓川の本流で、沿うのは国道158号。安房峠を頂点に飛騨方面へ通じる。

いずれの腕も、上流5km以上にわたって細く長く、そして深い湖水を連ねている。

前回の最後に、「未発見の廃道」を匂わせる記述をしたが、その謎解きは取りあえず後回しにして、少し周辺を確かめてみよう。

その中にも、いろいろとこの「入山隧道」の過去を思わせるものがある。

新入山の西側坑口から出ると、湖面を望む丁字路になっている。

左折方向にも、私にとって思い出の深い“オイシイ隧道”たちが並んでいるが、今回は右折だ。

こちら側も、国道158号と合流するまでの約150mが県道26号に指定されている。

新入山隧道の坑口前の様子。

左写真は、木祖側から坑口へ接近した際に目にする青看。右折して隧道へ侵入することは出来ないことが、シンプルに表現されている。

遠方に見える建物は、道路左がレストハウス、右が「梓川テプコ館」という東電のPR施設だ。

そして、昭和40年代らしくシンプルな作りの坑門。

こちら側からは進入出来ないので、お馴染みの「トンネルナンバーのプレート」も取り付けられてはいない。

代わりに、進入禁止の規制標識が

[42] 道路レポート 奈川渡ダムの謎の道, , http://yamaiga.com/road/nagawado/main2.html

2008/9/8 17:27

大白川の河床付近から30mほど強引に岩場の斜面をよじ登ると、そこに「謎の道」が、案の定といえる廃道姿を晒していた。

国道側が塞がれていて通行できない隧道…これを仮に「1号隧道」と称することとする…の、ダム側坑口前に登り着いたのであるが、坑口前にはまるで旧道を匂わせるような、隧道へは入らず崖側につながる平場も存在している。

まずはこの平場を探ってみる。

もしここが普通の道であったなら、この線形は旧道とみて間違いないだろう。

隧道以前の旧道の線形そのものである。

しかし、この道はまだ「謎の道」であるから、断言は出来ない。

確実に言えると思われるのは、奈川渡ダムの工事かそれ以降に建設された道だろうということだ。

ダムが造られる以前には、この道が接続している国道は影も形もなかったのであるから。

旧道のような平場の突端には、コンクリート製の1×2×1m程度の水槽(空)と、廃看板が捨てられていた。

水槽は元からここに設置されていたものらしく、何となく「トイレ」から上屋を取り外したもののような気がしたが、もちろん確証はない。

これが平場の上に捨てられていた看板。

どうやら、この「謎の道」についてのものというわけではなく、国道の入山トンネルに関するガイドであるらしい。

トンネル内分岐について書いているように思われる。

落ち葉が乗っている看板の全文を確認すべく、掃除をしなかったのはうっかりミスであったが…。

なお、これは予想通りのことであるが、旧道顔をした平場は10mほどの地点で途絶えている。

その先、国道までの区間は垂直の崖になっていて、国道側から見た景色の鏡像のようである。

もしこの道が旧道であるとしたら、ここにはかなり高い桟橋が欲しいが、痕跡を留めてはいない。

しかし線形的に見て、ここが隧道以前の旧道跡だというのは、かなり確かだと思う。

私はここで引き返し、「謎の道」本線を奥へ進むことにした。

と、その前に…

隧道、隧道。

せっかく中に入る機会を得た隧道。

これ一つを迂回するのに、たっぷり30分かかった。

…なのに、正直この隧道自体にはさほど魅力を感じていなかったからなのか何なのか、私はろくに中に入りもせず、坑門を正面から捉えた写真さえ撮影していなかった。

…まあ、全面コンクリート巻きで出口が見通せる20mほどの隧道と

[43] 甲州街道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93

概要 [ 編集 ]

元は「古甲州道」であり、甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。 江戸 ( 日本橋 )から 内藤新宿 、 八王子 、甲府を経て 信濃国 の下諏訪宿で 中山道 と合流するまで38の 宿場 が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、 正徳 6年( 1716年 )4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。 中馬 による陸上運送が行われた。江戸の町において 陰陽道 の 四神相応 で言うところの 白虎 がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。

歴史 [ 編集 ]

甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年であり、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。

近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は 徳川家康 の江戸入府に際し、 江戸城 陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、 甲府城 を有する 甲府藩 が 親藩 であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。

参勤交代 の際に利用した 藩 は 信濃 高遠藩 、 高島藩 、 飯田藩 である。それ以外の藩は 中山道 を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。

近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『 甲州道中分間延絵図 』や『 甲州道中図屏風 』が知られる。また、 宇治採茶使 は甲州街道を利用した。

宿場 [ 編集 ]

多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くと

[44] 国道418号線を走ってみる・その6 (長野県阿南町→天龍村→遠山郷) - きたへふ(Cチーム)のブログ, , http://blog.goo.ne.jp/cars-kitahefu/e/64665ace1443115fe51c85d8c6d9b1e3

きたへふ(Cチーム)のブログ

ファミスタとは特に関係ありません。タブレット・スマホをご利用の方は、できればPCモードで御覧ください。

【記事作成日:2017/11/13、現地訪問日:2016/10/23】

このエントリでは国道418号線走行記の その5(長野県平谷村→売木村→阿南町) の続きとして、長野県阿南町から天龍村そして飯田市(旧南信濃村)の遠山郷に至る最終区間について記載しています。その他の区間については、下記リンクを参照ください。

・ その1(福井県大野市→岐阜県旧根尾村)

・ その2(旧根尾村樽見→八百津町)

・ その3(八百津町→恵那市)

・ その4(岐阜県恵那市→長野県平谷村)

・ その5(長野県平谷村→売木村→阿南町)

・ その6(長野県阿南町→天龍村→遠山郷) …このページ

1. 阿南町→天龍村(平岡)まで

この区間の地図 ( google mapのデータ )

2016/9/3の朝より岐阜県の樽見(現本巣市、旧根尾村)より国道418号線単独区間走行の旅を行っていたブログ主ですが、長野県阿南町の道の駅 信州新野千石平まで来たところで日没サスペンデッドとなってしまいました。

道の駅 信州新野千石平 (2016/9/3訪問時)

そして約1ヶ月半後の2016/10/23、ブログ主は横浜の自宅を夜明け前に出発し、中央道+国道151号で飯田市側から南に下って道の駅 信州新野千石平に再びやって来ましたのでありました(9:00頃到着)。そして30分ほど休憩して、国道418号線を巡る旅は再開となります。

01-国道151号線から右に入ります (道の駅は写真の左後ろ側)

道の駅までの道中(特に中央道)では完全防寒装備をしていたにも関わらず寒さに震えていたブログ主ですが、ここから先はふつーの装備で出発します。

道の駅からは一旦来た道(国道151号)を飯田市街地側に200m程戻って、右側に分岐する国道418号線の方に進んで行きます。

02-この先大型車両通行不可

右の方に「この先 おきよめの湯から 大型車両(ホイルベース5m以上) 通り抜け出来ません 」との警告看板が出ています。

03-天竜まで17km、南信濃まで28km

田んぼと町工場の横道のようなところを抜けていきます。南信濃が国道418号の終点なので、あと一息な感じがありま

履歴

[45] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926376912219

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