尚巴志の墓

尚巴志の墓

[1] 尚巴志の墓

Webページ

[2] 英雄・尚巴志の墓を訪ねる: レキオ・島唄アッチャー, , http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-6340.html

琉球を統一した英雄・尚巴志の墓が読谷村伊良皆(イナミナ)にあるというので訪ねた。墓のある国道58号線の東側は、米軍の嘉手納弾薬庫地域として接収されている。ただ、沿線沿いは黙認耕作地として、農作物つくりに利用されていると聞く。戦前は、伊良皆の主な集落がこちらにあったそうだ。

国道から入ると砂利道に、警告看板が目立つ。嘉手納空軍の第18航空団と防衛省、読谷村、地主会の名前で「娯楽行為は許可されていない」と4WD、バイク運転者に警告している。でも、そのわきをオフロードバイクが警告を無視するように走っていった。

墓を訪ねる人は、場所が分かりにくくて、5回挑戦してやっと見つけた人もいる。でも、私は事前に第一尚氏の系統の人たちが書いた本に掲載された地図を頼りに行ったので、1回で着けた。途中の道路わきに井戸のある標柱がいくつもあり、村の人たちが住んでいた往時をしのばせる。

道路わきに尚巴志の墓を示す石碑が見えてきた。車を止めて山道に入っていった。この森は、南城市佐敷の出身である尚巴志の墓があるので「佐敷森(サシキムイ)」と呼ばれている。 山道を120㍍ほど進むと墓が見えてきた。

琉球が3つの小国に分かれていた時代、尚巴志が中山王を倒して1406年に父、尚思紹が国王に即位した。1416年に北山を滅ぼすと、1422年に尚巴志が2代目中山王となった。1429年に南山も征服し、琉球三山を統一した。日本史でいえば、秀吉が日本を統一したのに例えられる。その意味で、古琉球の英雄とみられる人物だ。 ここには、3代目尚忠、4代目尚思達も葬られている。

大きな岩山の洞穴を使って陵墓としている。尚巴志は在位18年に及び、68歳で死ぬまで活躍した。しかし、その息子の尚忠は在位5年で死去。4代目、尚思達も在位5年で世を去り、子どもがいなかったので、叔父にあたる尚忠の弟、尚金福が即位した。やはり在位4年で亡くなったという。不運というか短命な国王が続いた。

なぜ首里から遠く離れた読谷村に第一尚氏の王墓があるのだろうか。 それは第7代尚徳王の時、農民上がりで先代尚泰王に取り立てられていた金丸(後の尚円王)がクーデターを起こした。そのとき、首里にあった天山陵墓が焼き打ちされることを恐れて、側近たちがその前にいち早く抜け出して、金城町の大日寺の奥に尚巴志らの遺骨を隠したという。寺院に入ったので、金丸の追手は追

[3] 尚巴志の墓 | 沖縄の風景, , http://coralway.jugem.jp/?eid=912

お墓巡りが趣味か?と、思われそうですが、先週、 尚泰久の墓 を訪ねた時から「これはやっぱりお父さんのお墓にも行かないと」、と思っていました。 三山を統一し琉球王朝を築いた 尚巴志(しょう・はし) の墓は、読谷村伊良皆にあります。 国道58号線の伊良皆信号の近くを東に曲がります。このあたりは米軍の嘉手納弾薬庫ですが、その一部が黙認耕作地となっていて通行できるのです。 そこには、かつての街道(宿道)が続いていました。 米軍基地内にあることで、沖縄らしい道が残されていることが皮肉です。 ところどころで石畳の跡を残しながら道が繋がっていて、やがて、旧伊良皆集落の「上ぬカー」に到着します。 豊富な水量で、湧き水の前から川になっています。 上ぬカーに車を停めて、少し引き返した所にこんな石標があります。 ここから、森の中を少し歩きます。この辺りの森を「佐敷森(さしちむい)」と呼びます。尚巴志の生地(現在の南城市佐敷)にちなんで名付けられたのでしょう。 静かな、豊かな森です。 小川に沿って5分も歩かないうちに墓所に到着しました。 石標が、ここが尚巴志と尚巴志の次男で第3代国王の尚忠、尚忠の子で第4代国王の尚思達の墓であることを示しています。 尚巴志の墓です。 元々、尚巴志の墓は首里城の近くにありましたが、第二尚氏の尚円、つまり金丸のクーデターにより焼き払われてしまいました。 尚巴志の家臣であった平田子(ひらたし)と屋比久子(やびくし)が間一髪、遺骨を持ち出すことに成功し、この場所に墓を移したと伝えられています。 しかし、金丸は無茶苦茶をしますね。 権力を手にしたのですから、敗者に対して礼を尽くしてもよさそうなものですが、酷いやつです。 平田子と屋比久子はよくやりました。家臣のかがみです。 遺骨を移した先が何故、読谷だったのかは不明ですが、安全な場所を探して、この地にたどり着いたのかもしれません。 大きなガジュマルが墓を護るかのように、根を張りめぐらせていました。 上ぬカーに戻り、その裏手、道を挟んだ傾斜地に平田子の墓があります。 カーとの位置関係はこんな感じです。 そして、そのすぐそばに屋比久子の墓もあります。 二人は死後も尚巴志を護っているのですね。 ますます、いい人達です。 上ぬカーでは、子供たちが水遊びをしていました。 湧き水の中に、小魚やエビが住んでいるので、それを捕まえる

[4] 尚巴志の墓(第一尚氏・第二代王), , http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1321.html

〜コ メ ン ト〜

1406年に中山王・武寧を、1416年に北山王・攀安知を、

1429年に南山王・ 他魯毎 を滅ぼし、三山を統一し、

第一尚氏王統の始祖となった尚巴志の墓。七代続いた

第一尚氏の歴代王は首里の天山陵に葬られていたが、

第二尚氏の祖となる金丸(のちの尚円王)擁立の

クーデターで一族と家来たちは首里を追われ、亡き王

たちの遺骨を守って各地に逃げ落ち、二代目・尚巴志王、

三代目・尚忠王、四代目・尚思達王の遺骨は平田之子、

屋比久之子という家臣によってここ読谷村の地に隠された

と伝えられている。(近くには平田之子、屋比久之子の墓も

残されている。)現在、墓は佐敷森(サシチムイ)と呼ばれる

雑木林の岩陰にあり、近年コンクリートブロックで修理され、

墓蓋には尚巴志王・尚忠王・尚思達王と三代の王の名が

刻まれている。

[5] 尚巴志(しょうはし)の墓|沖縄の裏探検, , http://ameblo.jp/quox-umiyamagusuku/entry-10484642039.html

読谷(よみたん)村の伊良皆(いらみな)旧集落の通称サシチムイにあります。米軍の黙認耕作地帯の中です。 巴志は1372年に南部地方の佐敷(さしき)に産まれます。 巴志は隣地の大里(おおざと)グスクを攻略して勢力をつけると、当時の中山王であった武寧(ぶねい)の政治が乱れているのを理由に武寧を討ちます。 その後、父の思紹(ししょう)を中山王へ即位させて自らは山北王を討伐します。 1421年に思紹が死去して、翌年51歳で王位を継いで在位期間中に山南王を滅ぼし、単独王統による初めての統一国家を樹立して、初代琉球国王となりました。 1430年、明(中国)の皇帝から皮弁服(ひべんふく)や王御冠(たまんちゃーぶい)が送られ、巴志は正式な琉球国王と認められます。翌年には皇帝より『尚姓』を賜ります。 尚姓は国王以外に名乗る事を許さない姓でした。 尚巴志は1439年6月1日に死去し、墓は首里グスク近くに建てられたとされています。神号は『勢治高真物(せじたかまもの)』とされました。 1469年、重臣だった内間 金丸(うちま かなまる)が当時の王、尚徳の政治に反発してクーデターに成功します。 尚巴志の墓が破壊されると聞き付けた旧臣の平田子(ひらたしー)と屋比久子(やびくしー)が、墓から尚巴志の遺骨を持ち出して読谷山(ゆんたんざ、現 読谷村)へ隠し現在の場所へ葬りました。 墓には三代王の尚忠(しょうちゅう)、四代王の尚思達(しょうしたつ)も葬られています。 王墓の手前を右に上がって行くと、尚巴志の骨を隠した忠臣平田子の墓があります。 『サシチムイ』は『佐敷森(さしきもり)』の意味に変換できますが、尚巴志の産まれ育った当時の佐敷と似ていたのでしょうか。 近辺は集落の跡が色濃く残り、草木を押し広げて進むと井戸跡があったりします。 金丸は尚巴志の王統を滅ぼした後、名を『尚円(しょうえん)』と改めます。 統一国家を継続する為に尚姓を利用した智謀高い策士でした。 尚巴志がどんな気持ちで眠っているのかは伺い知れません。

[6] 尚巴志王三代の墓, , http://heiwa.yomitan.jp/4/3522.html

尚巴志王三代の墓

琉球王尚巴志とその子尚忠(しょうちゅう)、またその子尚思達(しょうしたつ)3人の王名が刻まれています。金丸(第二尚氏の始祖)によって第一尚氏は滅び、その一族が遺骨を運び出し、この地に建てたといわれています。

[7] 「第一尚氏王統三代の陵墓」を訪ねる! - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜, , http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/19ba9e71ae7bc1de332526499b32bacb

結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

読谷村旧伊良皆村落にある「第一尚氏王統三代の陵墓」を訪ねました。

1429年、当時、「北山・中山・南山」の三山に分かれていた琉球を、「尚巴志」が統一し、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝が成立しました。しかし、尚泰久王の子尚徳王のとき、前王の重臣であった金丸が王位に就き、第二尚氏王統に替わりました。そのとき、尚徳ゆかりの「平田子」や「屋比久子」が、第一尚氏王統の陵墓「天山陵」から遺骨を運び出し、読谷村伊良皆の「佐敷森」の岩陰に、第一尚氏の三王の遺骨を埋葬したといわれています。埋葬した平田子、屋比久子の墓も、三王の墓の近くに建てられています。

「尚巴志王(しょう はしおう、1372年 - 1439年6月1日、在位1421年 - 1439年)は、尚思紹王の子で、琉球王国・第一尚氏王統、第2代目の国王。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。父・思紹、母・美里子の娘の長男として生まれる。父の思紹は、「鮫川大主(さめかわうふぬし)」ともいわれ、伊平屋島から馬天港へ渡ってきた。21歳のとき、父の後を継いで南山の佐敷按司となる。1406年、中山王武寧を攻撃して察度王朝を滅亡させ、首里(現在の那覇市)を首都とした。また父・尚思紹を中山王に即位させた。1416年、北山国を討伐し、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。1421年、尚思紹王の崩御により中山王に即位。1429年、南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。また那覇港の整備を進め、中国をはじめ日本、朝鮮、南方諸国等、海外諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。」

引用(尚巴志王 - Wikipedia尚巴志王 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%B7%B4%E5%BF%97%E7%8E%8B )

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[8] 尚巴志のお墓を訪ねてきました:沖縄の空の下で, , http://yasuyasu.ti-da.net/e3840947.html

ウチナー生まれ、ウチナー育ちのわたしが、大好きなこの島で思った事や日々の出来事をつらつらと綴っていきます。

三山統一を果たし、琉球王国を築いた尚巴志(しょうはし)。

1406年(34歳)に武寧を倒して中部を制圧し、1416年(44歳)に今帰仁城を攻略して北部を支配下に入れ、さらに1429年(57歳)に南部を手に入れて全島を制圧しました。

それからは首里城を王都とし、王国繁栄の土台を築きました。

尚巴志が死んでからは王位継承戦争がたびたび勃発。

そして1469年に重臣の内間金丸(うちまかなまる)を中心とする勢力がクーデターを敢行し、金丸が尚円(しょうえん)を名乗って即位します。第二尚氏のはじまりですね。

金丸派のクーデターで先王たちの墓は焼き払われました。そこまでする金丸派のやり方に良いイメージはありませんが。

尚巴志の2人の家臣、屋比久之子(やびくぬしー)と平田之子(ひらたぬしー)は、首里から読谷村まで遺骨を運び出し、山中に隠し墓を造ったと伝えられています。

お墓の場所は大体このへんと聞いていたのですが、本当にこの場所で当たっているのか不安な中での運転でした。

読谷村伊良皆交差点近くの米軍弾薬庫基地内にありますが、黙認耕作地のエリアになっています。

米軍基地の入り口左の細い道を進むと10分程行った所に墓標発見!

平田大一さんの舞台、「翔べ!尚巴志」はこの場面から物語が始まるのです。

私が琉球の歴史に興味を持ち始めたのも、「現代版組踊り」に出会ってからなのですよ。

足跡をたどる旅で、私も歴女の仲間入りです(笑)

脇の小道をトコトコ歩いていくと、ありました!尚巴志のお墓です!

すみません。感動でブレブレです(笑)

第一尚氏王「尚思紹(しょうししょう)」のお墓は航空自衛隊知念分屯基地内、「佐敷ようどれ」に祀られています。

尚巴志のお墓の近くに、綺麗な水が湧き出ているカーがありました。

ふと、森を見上げると、小さな小道発見。

上っていくとそこには屋比久之子と平田之子のお墓がありました。

死んでなお、尚巴志をお守りしているのですね。

私はこみ上げてくる熱い思いに、空を仰ぎました。

履歴

[9] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926368113772

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