奥羽山脈

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[1] 奥羽山脈

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[2] 鉄道写真:中山峠と〈奥の細道〉を行く 陸羽東線・中山平−堺田, , http://www5.plala.or.jp/stmlo9600/sl/sl164.html

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・奥の細道に沿った陸羽東線

164. 

中山峠と「奥の細道」

・陸羽東線/中山平−堺田

〈0001:中山峠を登る〉

〈0002:梁を渡る〉

〈0003:中山平から堺田へ進入〉

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〈紀行文〉

今回は陸羽東線の下り列車を、鳴子温泉を過ぎてV字谷の大谷川の断崖をのごって台地状の中山平を過ぎて、国道47号線とからみながら開けた高原のような雰囲気を感じさせる中山峠手前の辺りで撮った二大をお目に掛けたい。重連の発車地点である川渡の先で荒尾川を渡って西岩の断崖を登り始めた陸羽東線は支流の大や川を四回渡っている。その最三大や川橋梁では中山平の先で大や川と、それに流れ込む軽井沢川、そして砂利道の国道47号線を一括して跨いで大家川の北側の山すその高台をサミットに向かって最後の勾配を登っている。ここからはしばらく道路と鉄路は並走しており、築堤を進む列車を下から仰ぎ見て追い掛ける構図も素晴らしい。

やがて宮城/山形の県境が近づいて来ると、陸羽東線が改良された国道を堺田架道橋で跨いでイル所に手合うのだが。渡しが通い始めた昭和43ねん頃の昔の砂利道の国道は大谷川と関沢川と一緒に第四大谷川橋梁の下を潜って峠に向かっていたのだった。この第四大谷川橋梁は大谷川の最も上流に位置しており、長さも高さも違う橋桁が各一連が煉瓦積みの橋台と、石積みの橋脚に架かっていた。

このような峠のサミットでもない所が県境となっているのには人間臭さが感じられる。その昔から北出羽街道の中山越における新庄領と伊達領の境目は明確な線引きが行われていなかったようで、後に紛争が絶えなかったが、幕府の裁定に持ち込まれて、正保2年(1645年)に境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解したと云う

こうして大谷川の端に「境分杭」が立てられ国境の目印となった。この境目は今日も県境として引きつがれている。二万五千分の一地形図を見ると、第四大谷川橋梁は山形県

[3] 道路レポート 塩那道路 (県道中塩原板室那須線) その5, , http://yamaiga.com/road/enna/main5.html

←地図を表示する。

21.8km地点、長者平。

いよいよ、残りの距離も30kmを切った。

海抜は1500m。

主稜線から東に分かれて、長者岳(海抜1640m)を経て小佐飛(こさび)山に繋がる稜線上の小さな鞍部に位置する、狭いが平らな地形だ。

稜線上なので、路傍の笹の向こう側には、大蛇尾川(おおさびがわ)の深い谷が広がり、道路側には今までずっとその周囲を巡るように走ってきた小蛇尾川(こさびがわ)の谷が落ちている。

この地点での撮影では、かならず手を合わせるのがしきたりとのことなので(ゆーじ氏ルール)、私もそれに倣った。

長者のイメージとのことだが??

これは、修験者では?

10分ほど休憩し、緩い登りの稜線上に漕ぎ出す。

この先も、海抜1800mの頂点へ向けての登りが続いており、稜線には達したとはいえ、先は短くない。

手の届く位置(右手)に稜線の痩せたスカイラインを見ながら、林道らしい塩那道路を少々進むと、まるで登山の示道標のようなビニルテープが道の上に覆い被さる枝に、括り付けられているのを、見た。

それを見、何だろなと思いつつも、そのままチャリの速度をゆるめず、そのテープの揺らめく下を通過した私は、

撮られた〜!

盗撮されたー!!

噂には聞いていた、 塩那道路の監視カメラは実在した!

道から2mほど刈り払われ、その奥の立木の幹に括り付けられたカメラが、無人のまま道の様子をうかがっている。

そして、このカメラは道に動く物があると、自動的にシャッターが切られる。

いわゆる、センサーカメラだ。

確実に、撮られたという実感があった。

なぜなら、私がその前を通過したとき、フラッシュが点灯し、しかも、パシャっという独特の音が耳に届いたのだ。

とられたYO!!

どーするYO!!

後続のゆーじ氏にも、「そこにカメラあるぞ」と伝えはしたものの、前を通らねば先には進めず、彼も自らカメラの前に進み出てパシャリ。

二人とも、これでタイーホ間違いないしか?!

帰宅後、ある読者からこんなニュースが届いた。

栃木県のローカル紙「毎日新聞栃木版」に、今年12月10日、あるニュースが記載されたという。

そこには、こんな記事が…。

撮影された写真は、近く同署のホームページに解説をつけて掲載し、一般に公開する方針だ。

終わった…。

なんとまあ

[5] 道路レポート 天野橋と天野新道, , http://yamaiga.com/road/amano/main.html

【位置(マピオン)】

東北最大の都市である仙台の中心部を流れる広瀬川に沿って、関山街道という奥羽山脈越えの重要な道が延びている。現在の国道48号である。

熊ヶ根(くまがね)は関山街道の宿場町として発展した集落で、仙台と国境関山峠のほぼ中間(仙台市中心部から約20km)にある。

この辺りの地形の特徴は、典型的な河岸段丘にある。

広瀬川とその支流である大倉川および青下川の水面が浸食基準面であるが、これら河川により四分されたほぼ同じ標高を持った段丘面上に、熊ヶ根、萱場、苦地、道半などの集落が点在する。集落を隔てる段丘崖の高さは、おおよそ50mもある。

ある人は、平成18(2006)年にこの地の地形を、“ 杜の都のグランドキャニオン ”と名付けている。

さて、こうした地形的特徴を持った場所は、土木技術が貧弱な時代においては特に交通の難所であった。

最低でも、幅100m、深さ50m程度の峡谷を一跨ぎ出来るような架橋技術を持つことで、初めて我々は、移動のたびに段丘崖を上り下りする苦労から解放されたのである。

この地図中に見える、広瀬川を渡る熊ヶ根橋や、青下川を渡る青下橋は、共に現代の技術で架けられた巨大な橋である。

そして、熊ヶ根橋が架けられる前の旧国道のルート(野川橋)も、地図に描かれている。

だが、青下橋の旧道についてはどうだろうか。

それが、今回紹介する 天野橋 である。

今ある青下橋は2代目で、初代の青下橋( 橋台が残っている )は昭和33(1958)年に架けられた。

青下川を段丘面から段丘面へと初めて一跨ぎで渡った初代青下橋が出来る以前に、天野橋が使われていた。

最新の地理院地図でも、天野橋がある位置には破線の道が描かれているが、橋の記号は無く、道自体も橋の東側で途切れて描かれている。

なお、天野橋の存在を私が知るきっかけとなったのは、平成20(2008)年8月に宮城県在住の 盃氏 より寄せられた、次のような情報提供メールであった。

旧青下橋の下流の現青下橋。その更に下流、広瀬川との合流点に廃橋が架かっており、その先は廃道が崖っぷちを登っております。

この廃道は、昔(戦前?)は車が走ったそうです!

廃橋は、確かコンクリ製で、小さいものでしたが、歩いて渡るのも気が引けるくらいの状態だった気がします。この12年間未確認です。

履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926366738959

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