熊野古道

熊野古道

[1] 熊野古道

Webページ

[2] 熊野古道を歩いて来た:ハムスター速報, , http://hamusoku.com/archives/9096203.html

1 : pkpk117 :2015/11/27(金)20:59:03 ID: gkO

http://i.imgur.com/ImmwtfK.jpg

●行って来たのはシルバーウイークで一泊二日

●ぼっち旅

●古道は大半が森の中、変わり映えのない写真

●うpするのに時間がかかります

pkpk117 :2015/11/27(金)21:01:57 ID: gkO

http://i.imgur.com/8yPjXHi.jpg

(¯∇¯)久しぶりに名古屋から来たけど10年前は高速使っても

4時間近くかかったのに今は2時間半切ったか・・・・

4 : pkpk117 :2015/11/27(金)21:03:34 ID: gkO

http://i.imgur.com/RCni2CL.jpg

http://i.imgur.com/NyCKY7g.jpg

(¯∇¯)ここで車を止めてバスで那智の滝に行く

5 : pkpk117 :2015/11/27(金)21:05:04 ID: gkO

http://i.imgur.com/La6BkhS.jpg

(¯ω¯)まー朝始発便だから貸切ですな

7 : pkpk117 :2015/11/27(金)21:06:20 ID: gkO

http://i.imgur.com/3ARO36G.jpg

(¯∇¯)歩く前に御参りしていこう

9 : pkpk117 :2015/11/27(金)21:08:10 ID: gkO

http://i.imgur.com/Dx8JGNx.jpg

(;´・д・)ヒーここまで上がって来るだけで息が上がるよ

10 : pkpk117 :2015/11/27(金)21:10:15 ID: gkO

http://i.imgur.com/KOoSAlF.jpg

(¯∇¯)ここは有名な写真スポットだよね

11 : 名無しさん@おーぷん :2015/11/27(金)21:11:12 ID:YD8

いいねー、なかなか良い写真だと思うよ?

俺も逝ってみたい

13 : pkpk117 :2015/11/27(金)21:14:05 ID: gkO

>>11

ありがとねー

でも風景は本当に最初だけだよ

12 : pkpk117 :2015/11/27(金)21:12:32 ID:

[3] 田辺城水門|田辺探訪, , http://www.tanabe-kanko.jp/midokoro/jinja/suimon/

田辺城は錦水城(きんすいじょう)ともいわれ、浅野氏が会津川河口左岸に湊城を築いたあとに、元和5年(1619年)安藤直次が田辺藩主になってから築城 した平城で内堀と外堀が掘られていました。明治初年に廃城となり城郭は解体され、その後堀も埋められました。今では、会津川に面した水門跡がわずかに昔の 面影を残しています。また、町割りは外敵の侵入を遅らせるため全てT字路で交わるように計画されました。 現在、水門は公園として、市民の憩いの場となっています。

[4] ディープな京都・崇仁地区: 柳原銀行記念資料館と金網フェンスに囲まれた無数の空き地 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , https://murauchi.muragon.com/entry/789.html

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京都・崇仁(すうじん)地区: 柳原銀行記念資料館

"ディープな京都" 五條楽園 からタクシーに乗って、 同じく"ディープな京都" 崇仁地区 に入りました。以前から見学したいと思っていた、「柳原銀行記念資料館」でタクシーを降りました。

桜田儀兵衛氏の碑

桜田儀兵衛翁の顕彰碑の概要

柳原銀行記念資料館

銭座場跡

京都市崇仁隣保館新築記念

柳原銀行記念資料館の柳の木

柳原銀行記念資料館の外観 淡いグリーンの外観がとてもステキな洋風木造建築ですっ!

京都市登録有形文化財!差別に立ち向かった崇仁地域の誇り!!

柳原銀行記念資料館の側面

反対側の側面のガラス窓

こぢんまりとしていて、とてもすてきな洋館です!

中に入ってみましょう~

崇仁歴史マップ 「非人小屋」という言葉も見られます。

人権ゆかりの地をめぐる ポスター

柳原銀行記念資料館について

柳原銀行は、明治32(1899)年、柳原町(崇仁地域)の町長であった明石民蔵(あかしたみぞう)ら地元の有志によって設立されました。

被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行であり、当時、差別のために資金を得られなかった町内の皮革業者等に融資を行い、産業の育成・振興に大きく貢献したほか、その利子を地元の小学校の運営資金や道路建設資金に充てるなど、自力で差別を撤廃していく模範とされました。

大正期には、山城銀行と改称し、事業を拡大していきましたが、金融恐慌などの影響を受けて、昭和2(1927)年に倒産しました。

その後、建物は商店や借家として使用されましたが、昭和61(1986)年に道路の拡幅工事に伴う建物の取壊し案が出たことを契機として、地域では,建物をまちづくりのシンボルとして保存する運動が盛り上がり、保存に向けた様々な取組が行われました。また、平成元(1989)年に本市が実施した調査において、貴重な明治後期の洋風木造建築物であることが判明し

[5] ディープな京都・菊浜地区: 五条楽園(遊廓跡、旧赤線地帯)を探索 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , http://murauchi.muragon.com/entry/788.html

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旧五条楽園エリア(京都市下京区)

五条大橋近くのサブウェイでデジカメの電池を充電して、準備万端!いよいよ、京都のガイドブックには載っていないディープな京都、遊廓跡(旧赤線地帯)の五条楽園エリアに侵入します。

「侵入」って、まあ、公道なので誰でも自由に入れるんですけどw

潜入とか、突撃とかって言葉も似合いますが、一応この記事のタイトルは "五条楽園の「探索」"としておきました。それではレッツゴー!!

五条大橋の牛若丸・弁慶像: 五条の橋の上で出会った牛若丸と弁慶を再現した銅像

牛若丸(義経)が弁慶の長刀(なぎなた)をひらりとかわし、橋の欄干に飛び移った瞬間のモニュメントです。

五条大橋。向こう側の山が清水寺方面です。

五条大橋の上から見た鴨川の流れ

この右側の地帯が旧「五条楽園」のエリアです。

上の写真の反対側: 五条大橋の上から見た比叡山(右の山)

五条大橋の欄干。牛若丸が飛び乗った欄干の子孫ですw

反対側の岸から見た旧「五条楽園」エリア

五条大橋のたもとのガソリンスタンド脇の道(木屋町通)に入りました。流れている川は高瀬川です。

鴨川を見ながらくつろげるカフェ・エフィッシュ (efish)。見るからにスタイリッシュな空間ですね。

源融の木

源融の木

源氏物語の光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子 源融(みなもとのとおる)の邸宅「河原院」の跡があり、この榎の大樹は、この邸内にあった籬(まがき)の森の名残とされる。すぐそばには小さな社と鳥居があり、榎大明神が祭られる。

光る君(ひかるきみ)~!京都らしいですよね!こんなある意味、観光客の立ち入らないような辺鄙な場所にも歴史がある。京都ならではです!

源融 河原院跡の看板

苔むす源融の木(エノキ)の風格がすごいです!

一体何人の男がこの木を見たのでしょうか?

鴨川沿いのお地蔵さん

お地蔵さんあたりから見えた鴨川

風情ある川辺の道

[6] ミニレポ第215回 御坊市の旧昭和橋, , http://yamaiga.com/mini/215/main.html

先日、和歌山県御坊(ごぼう)市の中心部に近い日高川の河口付近を自転車で走っている時、偶然、少しばかり変わった橋に出会ったので紹介しよう。

名は「 昭和橋 」というのだが、すぐ近くの国道42号にも同名の橋が存在していることから、これらは新旧橋の関係にあるものと推定したうえで、便宜上「 旧昭和橋 」の名前で採り上げたい。

なお、これらの新旧昭和橋が架かっている川は、熊野川という。

この御坊市が立地する紀伊半島で熊野川といえば、半島最大の河川の名として多くの方がご存知だろうと思うが、この熊野川は同字異訓の全く別の河川である。

熊野に「いや」の音をあてて「いやかわ」というのが、正しい河川名となる。熊野川の昭和橋だなどいっても、恐らく御坊市にあるとは思われないだろうが、今回は小さな熊野川の小さな橋の話である。

とはいえ、ここも熊野地方であることに違いは無く、熊野古道もこの地を通っていたのであるから、小さくとも由緒ある熊野川に違いは無い。

それでは早速、旧昭和橋の“少し変わった”姿をご覧頂くとしよう。

2015/7/27 12:30 【現在地】

この橋へ国道42号からアプローチするのは難しくない。

ただ路地を一本入るだけである。

とはいえ、普通は通りすがりで立ち入るような場所ではないし、国道の歩道からは見える橋も、車道からは見えにくいので、町中にある割にはマイナーな存在だと思う。事実、探索中誰とも出会わなかった。

この写真にしれっと写っているのが今回の主役、 旧昭和橋 である。

第一印象としては、「古そうな橋」だと思った。

そう感じた理由は説明不要だと思うが、ひとことで言えば、高欄やら親柱の作りの古風さである。

そして、この橋が単なる「古そうな橋」という以上に私の目を惹いたのは、 橋上の奇妙な有り様である。

見ての通り、橋はそのちょうど中間でもって、その幅が半分くらいまで一気に縮小している。

こちら側半分は2車線くらいあるが、向こう側半分は完全に1車線分である。

なお、このように途中で幅が変わる橋で一番多いのは、橋の袂に交差点があって、橋上に右折車線を設けるためというパターンであるが、この立地はそういう場所ではないし、しかもその場合は大抵が橋の片方の車線側にだけ拡がっている。だが本橋は道路の中心線を変化させず、左右対称狭まって、或いは拡がっているのである。

[8] <全文>田辺城の絵図見つかる 田辺市教委「貴重な発見」/AGARA 紀伊民報, , http://www.agara.co.jp/news/daily/?i=290504&ampp=more&p=more

江戸時代、和歌山県田辺市の会津川河口近くにあった田辺城について、明治5(1872)年に陸軍省の調査で描かれた絵図が見つかった。その画像が15日に田辺市内である文化講演会で公表される。同市教委は「田辺城の図は数少なく、当時を知る上で貴重な資料」と話す。

文化講演会で講師を務める日本城郭史学会委員の水島大二さん(68)=和歌山市=によると、田辺城の絵図は大学時代からの城研究仲間で群馬県安中市の「しろはく古地図と城の博物館富原文庫」の富原道晴代表が、2011年に入手した約130点の絵図群の中から発見した。

絵図群は廃藩置県後、各県が作成した官制絵図の可能性が高く、明治5年に陸軍省築造局による城郭存廃調査に基づくものとみられる。

その中で見つかった田辺城の絵図は2枚あった。80・7センチ×77・8センチの絵図は城郭全体図で、39センチ×54センチの絵図は本丸図。水島さんによると、明治4年ごろから取り壊しが始まった状況が分かり、水門や大手門の守りの構造が確認できるという。

関ケ原の合戦後、紀伊の国を支配した浅野幸長の執政・浅野氏重が慶長11(1606)年に田辺城の前身となる城を築いた。その後、紀州藩主となった徳川頼宣の付家老・安藤直次が田辺領主となり、城を改修して田辺城とした。

田辺城は西に会津川、南に海を望む平城で錦水城の別名で親しまれた。本丸は幅約25メートルの内堀に囲まれた東西120メートル、南北140メートルの中にあり、140畳の大広間や表御殿、奥御殿、番所、蔵などがあった。

田辺城の絵図としてはこれまで、市立図書館所蔵(明治2年)の田辺城建物図が代表的な絵図としてあった。

講演会は市教委と紀南文化財研究会の共催で15日午後1時半から同市東陽の文化交流センター「たなべる」で。無料。水島さんが「紀伊田辺城跡見聞の記―その変遷」を演題に講演する。

問い合わせは市教委文化振興課(0739・26・9943)へ。

[9] 田辺城水門:熊野の観光名所, , http://www.mikumano.net/meguri/suimon.html

田辺城唯一の遺構

明治維新により廃城となった田辺城(錦水城 (きんすいじょう) とも言われました)。

その唯一の遺構がこの水門。

会津川河口付近、田辺大橋のたもとにあります。

城は解体され、お堀も埋められ、現在はこの水門の石垣だけが残されています。

現在は田辺城跡は錦水公園になっていて、神社もあります。

錦水神社。手すりの空いている所から下に降りることができます。

以下、解説板より。

田辺城水門

田辺市指定史跡(昭和51年3月13日指定)

田辺城は関ヶ原の合戦後、紀伊国に入国した浅野幸長(あさのよしなが)の執政・浅野左衛門佐氏重(あさの さえもんのすけ うじしげ)によって、慶長11年(1606)会津川左岸河口に築城されました。

その後、元和5年(1619)紀州藩徳川頼宣の附家老・安藤帯刀直次(あんどう たてわき なおつぐ)が田辺領主となりましたが、安藤直次は紀州藩の重臣として和歌山城かに常駐していたため、田辺譲には直次の従弟・安藤小兵衛(あんどう こへい)を留守居役として置き、小兵衛家が代々城代家老を務めてました。

明治3年(1870)田辺城は排城となり、遺構の多くは姿を消しましたが、埋門型の水門とそれに続く石垣が当時の面影を留めています。

[10] 隧道レポート 国道42号旧道 旧高浜隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/takahama/main3.html

「緊急再訪編」などという物々しい題目を付けたのは、ワケがあってのことである。

次の新聞記事をご覧頂きたい。

これは2015年10月1日付けの地元紙「熊野新聞」の紙面で、当サイト読者の さまちみ氏 が、記事掲載の翌日に送って下さったものだ。(他に複数の読者さまからも同様の情報をいただいた。皆さまありがとうございました。)

誌面に大きく掲載された写真には、見覚えのある光景の見覚えのない“惨状”が、写し出されていた。

見出しにも、 「高浜隧道そばの崩落進む 町文化財「通り穴」も閉塞」 と、これまた記憶にある名前が。

言うまでも無く、私が2年前の2014年3月26日に現地を探索し、去年2015年7月末に前後編でレポートした 国道42号旧道「旧高浜隧道」および熊野古道に属する半天然の隧道「通り穴」の崩落 を伝える記事であった。

私の探索からは1年半後、レポートの完結からは僅か2ヶ月後の出来事であり、これらの旧隧道が“新しい”方でも明治末頃の貫通から100年以上、“古い”方に至っては天和2(1682)年の紀行書にも出ているくらいだから、実に300年以上も重力に逆らって形を保っていた石門地形であったわけだから、自身の行動とのタイムラグの少なさに、何か数奇な運命を感じてしまったとしても、自意識過剰と言わるかもしれないが…許して貰いたい。 (とある私の友人は、「また店長の死神法則が発動したのか」などと、微妙に発言者が特定される綽名で私を指し笑ったが、笑えないからヤメテクレ…)

肝心の記事本文も要点を転載させて戴こう。以下の通りである。(太字は引用者による強調)

串本町高富地内の国道42号高浜隧道そばの法面崩落が進み、町指定文化財『通り穴』にも影響が及んでいる。近隣では『先週末にも崩落があった』との声もあり、裏付けるようにしおれた枝葉が岩塊に混ざり見られる状況だ。

現場は高浜隧道を二色側から見て左の法面。切り落としたように崩落が進み、岩肌が驚異的に露出している。

海岸管理者の県東牟婁振興局串本建設部によると 9月26日と28日に相次いで通報があり 状況を確認。崩落は海岸線に向かってほぼ垂直に進んでいて、国道側には既設の防護ネットがあり法面との間に設けられた土砂だまりにもゆとりがある点から、にわかな支障は考えにくいとしつつ30日には現場への立ち入りを制限して警戒を強めている

[11] 道路レポート 和歌山県道213号 白浜久木線, , http://yamaiga.com/road/wpr213/main8.html

今回の探索を通じて印象に残ったもののワン・ツーを挙げるとすれば、序盤に登場しその後の異様な展開の走りとなった 【通告の看板】 と、終盤に登場して見事に有終の美を与えてくれた “隧道” (右写真)であろう。

そんなわけだから、帰宅後に行った机上調査においても、現地探索では竣工年はおろか名称さえ明らかにならなかった“隧道”について重点的に調べた。

この項でその成果を紹介する。

古いトンネルについて調べたいとき、大抵私が最初にあたってみるのは、 『道路トンネル大鑑』 (昭和43(1968)年/土木界通信社)巻末の「隧道リスト」である。もはやお馴染みだろう。

『大鑑』は、現在では廃止されてしまった多くのトンネルが現役で頑張っていた昭和40年頃の資料という点で、比肩するもののない優れた資料なのであるが、大きな弱点がある。

それは、都道府県道以上のトンネルしか記録していないということだ。

“久木の隧道”(仮称)は、現在でこそ県道に指定されているが、果たして昭和40年当時にも県道であったのだろうかという疑問(不安)があった。

さて実際に『大鑑』の「隧道リスト」を開いてみる。

右図は和歌山県の部の一部である。このような型式でトンネルの各種データが並んでいる。

図中の一番左が路線名欄であるが、案の定、「白浜久木線」の名は見られなかった。

考えられるのは、昭和40年当時はこの県道が存在しなかったか、隧道が存在しなかったかということだが、前者の方が遙かに可能性は高いだろう。

早くもこの資料では手詰まりになったかと思われた。

実際、ここで一旦“隧道”についての調査をストップし、成果を本編後段で紹介するが、庄川越という道全体の歴史調査を進めることになった。

だが、その過程のなかで幸運にも私は、ふたたび『大鑑』に戻ってくる事が出来たのだった。

庄川越の歴史調査の結果、 昭和40年当時この道が、一般県道「三尾川紀伊富田停車場線」に認定されていた ことが判明したのである。

ピコーン! この路線名ならば、『大鑑』に載っていたぞ!

右図の赤線のところだ!! →

路線名: 三尾川紀伊富田停車場線 トンネル名: 〃 個所名: 日置川町久木 延長: 3.9m 車道幅員: 2.1m 限界高: 2.7m 竣工年度: (空 欄) 素掘,

履歴

[19] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24255448194708355

メモ