八王子城跡

八王子城跡

[1] 八王子城跡

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[2] 八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html

八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。

その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。

で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。

搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。

本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅

集合

[3] 太鼓曲輪尾根~八王子城跡: 日々楽しんで, , http://mi-ikeda.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c6e0.html

� �� �� �� �� �� �� � � 富士見台・556m

2010年1月9日(土)晴れ

高尾山の北、城山川に沿うように東西に延びる太鼓曲輪尾根と八王子城山の周回コースをゆっくり歩いてきました。 太鼓曲輪尾根は、一般ルートではありませんが、道はしっかり付いており尾根上を辿れば明瞭な登山道に合わさり富士見台へと導かれる。

JR尾駅北口ー宮の前バス停9:10-太鼓曲輪尾根取りつき9:18-登山道合流11:15-富士見台12:00/13:00-八王子神社14:10-八王子城址14:35-宮の前バス停15:00ーJR高尾駅

草むら・取りつきの竹藪

宮の前バス停で下車、少し戻り八百屋さんを右に曲がる。少し歩き左に川を見ながら進む川から離れると右前方に小高くなった草むらの中に竹藪に向かって道が付いている。

右前方に取りつき口

竹藪に入り先を左に登ると中宿橋にでる。

中宿橋・中央高速道路

橋を渡り正面の尾根に取りつくが、右にフェンス沿いに少し歩くと尾根に取りつく登山道が付いている。

笹の中にはっきり登山道があり、やがて笹の高さは2m以上になる。右に民家が見え隠れし笹がなくなると自然林の中を歩くようになる。

最初の堀切

一番最初の堀切、下を見るとやや高度感があるが、木につかまりながら下りる。右側を巻くように道が付いている。

正面を下降している所

その後も堀切をいくつも越える。下りは右や左に巻いているので下りやすいが、登り返しが結構きつい所がある。

最後の堀切

一番高度があったように思う。左に巻くように下りる。最後の登り返しが一番きつかった。 堀切と思える所は5か所だが、それらしき所もあり下ったり登ったりとなかなか歩きごたえがあった。

登りきると左からの明瞭な登山道と合流する。 ここからは一般道で左に城山や景信山を眺め富士見台に向かう。

富士見台から富士山

富士見台は、西側が切り開かれまさに富士山の展望台。テーブルでゆっくり談笑しながら昼食を楽しみ城山に向かった。

古井戸 八王子神社

展望台 があり八王子市街、新宿方面が眺めが良い。 休憩後、神社の前の階段を下り八王子城跡入口に向けて下山した。 途中の梅園では、紅梅がわずかにほころび始めていました。

八王子城跡 右に今朝歩いた尾根が見えて来ました。木々の間から弱い光が差し込ん

[4] 城外防御の拠点, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/jyougai-kyoten.html

さて探索を始めます。広い地域ですが狭い路を行ったり来たり、自転車が大活躍です。幾つもの資料や本を読み、穴の空くほどに地図を眺め、又本を読む。じっと地図を読んでいると本を誤解していたことにも気が付きます。 一先ずは高尾街道を宮の前まで行って、北西に進み城山川の流れを見るように月夜峰と呼ばれた台地に登ると城山川を挟んで北側にも台地状の尾根が続き敵の軍勢が城を目指して進む様子を、狼煙を上げて城に伝える施設だったのでしょうか。攻撃は夜中に行軍が開始され、霧も濃かったようで機能しなかったのでしょうか。現在の元八王子一丁目から三丁目までが旧城下に当たり、 現在の八王子市街地は、その後家康が関東に入府した後に旧城下の復興を断念し、新たに八王子を開発させた地域です。 北部武蔵から八王子を目指すとすれば、拝島辺りに集結し体制を整えてから進軍したのでしょうか。南下して多摩川を渡り、更に淺川を渡って水無瀬橋を渡ればここからが当時の城下と為ります。 東を水無瀬橋、南西を初沢城、北西を浄福寺城とする三角形にほぼ囲まれた地域を中心に探索してみましたので、地図を参照してください。

龍泉寺砦

水無瀬橋の上から上流よりやや西の方角をを眺めると、直ぐ近くに迫っている高台に、こんもりと見えるのが龍泉寺です。

砦といわれても狼煙台などが置かれていたか?防御ができる程の人数が詰められるような広さも無いところですが、この尾根がずっと西まで続いていて幾つかの狼煙台か連絡用の施設があったと見られていて、台地に登ると谷筋を行く道の情景が手に取るように眺めることができます。

七面堂砦

龍泉寺砦と同じように北の尾根状台地の東の先端にあり、南側と北側に夫々谷筋に、城へ続く道を見下ろす事が出来る位置にあります。同じように狼煙台等を設けてあったと考えられ、見下ろせば直ぐ下は四谷に置かれた前田の本陣に近く、初期に戦闘が開始されるよりも早く、敵の軍勢を見定める事も出きずに逃げさってしまったのではないかと、頼りなさにそう思います。

[5] 八王子城跡(太鼓曲輪) 2009/12/20:Born to run:So-netブログ, , http://born-to-run.blog.so-net.ne.jp/2009-12-20

◎9:52 西八王子出発 甲州街道、浅川ゆったりロード、町田街道、高尾街道のいつものコース。 ◎10:22 梶原八幡神社 神木梶原杉。梶原氏は鎌倉初期の地頭だったようです。 この裏の八幡社砦は、中央自動車道に削られてしまったそうです。 宮の前バス停から高尾山方面へ進んで太鼓曲輪へ行くため道(中央自動車道を渡る橋)を探したのですが、なかなか見つからないため犬の散歩をしていた方に尋ねることに。 聞いて正解です。この竹薮を抜けると橋があるとのこと。絶対わかりません。 ありました。 �「中宿橋」と呼ぶようですが、誰が渡るんでしょうね。橋を渡った後も道が見つからず、唖然としました。 やっと道が見つかったものの誰もいないし、どこへ行くのかも分からないし、犬が出てきたら怖いし、不安な気持ちでいっぱいです。 いくつかの小さなピークを超えると、いきなり崖が、、、これが太鼓曲輪の第一の『堀切リ』 のようです。尾根がコの字に削られていて、降りるのも登るのも大変です。その上、落ち葉はすべるし、石を掴んでもすぐ崩れるし、元F1レーサーのニュースが頭をよぎります。 写真で絶壁を表現するのは難しいですね。ちなみに『堀切り』とは尾根を渡って攻めてくる敵を阻止するために造られたようです。 その後もいくつか『堀切り』がありましたが、順番に『片堀切』『第二堀切』『第三堀切』『第四堀切』『第五堀切』と呼ばれているようです。これだけ続くとうんざりです。何度引き返そうと思ったことか、、、 途中分岐点がありましたが、上に向かう道(左)を選択。もしかしたらここが五叉路だったのかも??? 上から御主殿を見渡すことを楽しみに走りましたが、木が多くて結局見れませんでした。 やっと見覚えのある道に合流。前回、駒木野バス停方面へ向かったときに通った道です。もしかしたら、この先にあった不自然な崖は堀切りだったのかもしれません。 11:26 ここからは、荒井・摺差バス停方面へ。 高速道路の側道へでると、オオタカかトンビかわかりませんがたくさん飛んでいました 。 北条氏照が信長にオオタカを送ったという話もあるので、ここはオオタカということにしましょう。 ◎11:58 JR高尾駅到着 午後は楢原中学校でBrancoの交流戦観戦。夕方から高尾山へ行こうとしたのですが、時間がなくていけませんでした。

[6] 八王子城跡・太鼓曲輪尾根の堀切を見に行く - マイmy巷話, , http://blog.goo.ne.jp/18680531/e/8c42b54ee4ae2d32ee1767a371e487bd

高尾駅前からバスで八王子城山へ行く道すがら、左手に続くなだらかな尾根が前から気になっていたのです。

尾根の名前は太鼓曲輪尾根。

曲輪というのは城郭を構成した石や土で囲まれた区画(例えば本丸とか)のことなんですって。

だからこの尾根にはかつては太鼓櫓が建っていてお城を敵から守るために誰かが詰めていたのでしょうね。

…と、いうわけでめちゃくちゃ花粉が飛んでいる本日、決死!覚悟で歩いてきました〜。

高尾駅からバスでふたつめの「宮ノ前」バス停で下車。

すぐ前の商店の右を入り、御霊谷川に沿ってしばらく歩くと見えてきました。あれが今日目指す尾根ですね!

そして、その先道路右手に大きな梅の木がある広い空き地が見えてきます。

実は最初このあたりでかなり迷ってしまったのですが…この尾根に向かう取り付きはまさにこの梅の木を正面に向いてそのまま真っ直ぐ進んだ竹藪の奥なのです。

中央道の車の音に導かれるまま笹藪の中、細い道なりに進み、中宿橋で高速を越えれば右手に尾根を示す小さな標識が現れます。その先からの道ははっきりしていましたよ。

しばらく竹藪の道を進むと自然林の続く尾根となりますので地形に沿って緩くカーブしながら進んでいきます。

286ピークあたりを過ぎて次のピークを目指す途中にいきなり尾根は寸断されて崖っぷちに!

これ堀切といいまして、人工のキレット。

つまり、八王子城のような山城を構成する上で尾根づたいに敵が進撃するのを防ぐ役割を果たしているのです。

そして、このような堀切が大小6つも続くのがここ太鼓曲輪尾根最大の見どころなのですね!

そして、第一堀切からほどなく次の堀切に。ここはさっきと比べてかなり高低差のない造りで、片堀切と表示が貼ってありました。そうか、両方削らずにこっち側だけというわけか…。

そして、少し下った先、大手門へと続く道を右手に見過ごしてまた登り返せば第二堀切に到着。ここも結構落ちていますので巻いて底まで降りて行きます。底は薬研堀と言われるだけありなんだか歩きにくいです。

さてさてお次は…。

第三堀切!

ここ一帯切り出した石がかなりゴロゴロと転がっていて、規模も大きく堀切の高さも相当なもの。

すぐ真下を見れば木々の間から八王子城のお殿様の住居、御主殿跡地が目と鼻の先に!

おまけに下を歩く人の声や滝もある沢の流れだってはっき

[7] 目指せ太鼓曲輪 | 赤ヱ門のページ, , http://kuro.yashimamaru.com/?eid=1066904

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[8] 巡霊者:心霊スポット取材記:茨城県【佐白山:その2】, , http://ghostplace.net/ibaraki/sashiro2.html

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■佐白山の麓に立つ

現地に訪れたのは3月25日とは前にも書いたが、当日の天候といえば何とも微妙な曇り空であり、“撮影日和”とは程遠い空模様であった。 もう少し細かく書けば、佐白山に向かう高速道路で見事に雨に降られてしまい、

「雨の中の取材か…イヤだな」

「(雨が)上がってくれないかなぁ…」

なんてボヤきながら運転していた。 しかしながら、現地に着いたころには私の願いが叶ったのかどうかは微妙だが、取り合えず雨は上がり、先にも書いたとおりの“微妙な曇り空”となっていた。なので、現地入りした時の曇り空は、実際には「雨が上がって良かった」といった心境になりそうなのだが…やはり曇り空は写真的に“イマイチ”なものとなってしまうのも事実。正直に言えば“嬉しさ半分・悲しさ半分”といったところが現地入りしたときの気持ちであった。 もっとも、晴天を選んで取材に行けるほどの余裕なんて全くなかったので、この辺は「雨が上がって御の字」と心に言い聞かせ、車中で取材のための仕度を済ませ、早々と現地の内部に足を踏み入れた。

■現地での噂

現地で聞かれる情報を、大まかに挙げると

・井戸を3つ見つけると呪われる ・その井戸を覗き込むと神隠しにあう ・途中にあるトンネルで武者の霊が出る ・同じくトンネルで手をつないだ親子の霊が出る

となってくる。「よく聞く噂」と言われればそれまでなのだが、一応この辺を踏まえつつ現地の行く先々に見えてくるものをチェックし撮影しながら進んでいく。 その他に「トンネルでクラクションを…」といった情報もあったと思うのだが、現在の佐白山は、肝心のトンネルまで車で行く事はできなくなっている。内部に入る入り口にバリケードが設けられており、もしどうしてもクラクションを鳴らしたいと思うなら、それを外して行かねばならい。しかしながら、私には当然そんな度胸は持ち合わせていないので、この件については諦めるのが吉であろう…現地のバリケードを見たとき、そう思ったことを思い出す。

■佐白山の内部は、木々の生い茂る緑豊なオアシスだ。小鳥のさえずりも聞こえ、何とも心地よい気分にさせられる。季節が3月末ということもあってか、はたまた先ほどまでの雨がそうさせたのか現地の空気は肌寒く、目で見る心地よさと、肌で感じる冷たさに、何とも独得のギャップを感じた。これは

[9] 八王子の廃なもの, , http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-uchi/haibutu/index5b.html

中央線の前身である甲武鉄道が新宿〜立川間で開通したのは

八王子誕生のとき、明治22年4月のことです。そしてこの先の八王子に向って多摩川を渡

るために橋脚を造る必要があり、日野宿字下川原、現在の日野警察署北側付近で「日野煉瓦

製造所」が創業しました。

「日野煉瓦製造所」は明治21年から稼動し、そこで造られた煉瓦が橋脚に使われま

した。そして4ヶ月後の明治22年8月に八王子まで開通したのです。もちろん開通当初は

現在の上り線のみの単線で、そこには今でも開通当初の煉瓦橋脚を見ることができます。

ところが「日野煉瓦製造所」は明治23年に創業者の死亡で廃業してしまいました。

そのあとの明治30年になって「八王子煉瓦製造株式会社」

ができたのです。甲武鉄道の八王子〜上野原間は明治34年に開通していますのでその区間

に多く見られる煉瓦構造物(例えば水路や道路を跨ぐ橋、

湯の花トンネル、小仏トンネルなど)はこの工場の製品が

使われたものと勝手に想像しています。(根拠資料はありません)

京王線の八王子駅から上りの電車に乗って何気なく窓の外を見ていると、地上部に出

てすぐの右手に妙な構造物があるのに気づきます。あっという間に通過してしまいますが、

これが「煉瓦工場への引込線」の橋脚なのです。

現在の打越中学校の南で京王線と湯殿川に挟まれた地域に「八王子煉瓦製造株式会社

」が存在したということです。当時の住所では南多摩郡由井村北野ということになっていま

す。

[10] 太鼓曲輪尾根, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/taikokuruwa-one.html

御主殿の南に 城山川 に沿うように東西に延びる尾根上に太鼓曲輪がありました。城郭の外郭を成す尾根で、みようによっては城の南を護る長大な土塁にもみえる。これを十連寺山の方へ東に辿る尾根上の陣として築城当時は曲輪が在ったのではないかと考えられていて、御主殿を鶴翼の陣で守るように東西に広がり、五つの堀切で区切れていたと研究者達が考えているのですが、その尾根路を探して歩いてみることにします。

曳き橋の南辺りで、路の無い城山川のかなりきつい南斜面を攀じ登るように上ると、細い尾根上には獣道のように路があります。上って来た後ろを振り返ると、木々の間からくっきりと御主殿の平らな芝生が見えて、これで城を護ろうと考えたのかと、唖然とする程に直ぐ下の間近に見えています。

ここは太鼓曲輪の奥の上部で、この曲輪が守られていればまだしも、奪われてからでは丸見えの御主殿をどのように護ったのだろうかと不思議でなりません。

ここまで責めて来るのには、尾根を東から攻めるよりも、 太鼓曲輪尾根の 更に南側の御霊谷川に沿って上り、各所から一斉に太鼓曲輪の尾根を目指せば、北斜面よりも傾斜も緩く上りやすい為、護りの薄い城方はたちまちに崩れてしまったのではないでしょうか。事実、攻め手は根小屋地区から攻め込んだのではないかと考えられていて、御霊谷に沿って遡りながらそこに在った家々や、陣を焼き払い、太鼓曲輪に攻め上ったと、この地区の発掘調査を元に推理されているようです。

尾根が土塁だと言いましたが、尾根の南斜面は城内である北斜面より傾斜が緩く上りやすい。また延びきった陣は護るには人手が多く必要と成り、無理があったのではと思いながら、 地図と現地を比較しながらゆっくりと東へ尾根を辿り始めます。

路は無いと言うべきか、こんな所を歩く人は山菜取りぐらいの人ぐらいでしょうか、その割りに歩いてみれば想像よりも楽に歩け、雑木林の中を伝っていけます。所々、尾根を切り落して、防御用の柵を設けたと考えられる堀切の窪地も、周囲が崩れ今は緩やかに窪んでいるだけで、藪を漕ぎ進むと、長閑な山歩きができます。なんとか歩いてはいるのですが、夏場の草木が繁っている時期は止めた方がよさそうです。

やがて少しずつ南へずれながら十連寺山を過ぎて中央高速の音が右手にうるさく聞こえて来ると、広い大きなやや窪みに出ます。この辺りが御霊谷川から上が

[11] 熊本城 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E

熊本城 (くまもとじょう)は、現在の 熊本県 熊本市 中央区 に築かれた 安土桃山時代 から 江戸時代 の 日本の城 。別名「 銀杏城 (ぎんなんじょう)」。

加藤清正 が 中世 城郭を取り込み改築した 平山城 で、加藤氏改易後の 江戸時代 の大半は 熊本藩 細川家 の居城。 明治 の 西南戦争 の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は 1960年 の再建である [1] 。現存する宇土櫓などの櫓・城門・塀13棟は国の 重要文化財 に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の 特別史跡 に指定されている。

熊本市 北区 植木町 の中心から南に伸びる 舌状台地 (京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた 平山城 。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

中世 に千葉城、隈本城が築かれ、 安土桃山時代 末期から 江戸時代 初期にかけて 加藤清正 がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。 日本三名城 の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある [2] 。

細川氏 の居城となった後も盛んに改築が行われ、 明治時代 の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、 熊本鎮台 が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、 西南戦争 で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る( 建物が失われる経緯は、同項の 歴史(明治時代以降) を参照のこと。 )。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、 1889年 (明治22年)の 熊本地震 で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は 特別史跡 に指定されている(2012年現在で512,300.52平方メートル)。 昭和時代 中期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

サクラ の名所としても知られており、 日本さくら名所100選 に選定されている。

熊本城の管理者 [ 編集 ]

熊本城が所在する熊本城公園の敷地は国の土地であり、

履歴

[12] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24140404087236545

メモ