大井川鐵道井川線

大井川鐵道井川線

[1] 大井川鐵道井川線

Webページ

[2] 大井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%B7%9D

静岡県

静岡市葵区、榛原郡川根本町、島田市、藤枝市、焼津市、榛原郡吉田町

大井川開発史[編集]

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。流域の平均年降水量は3,000mmと多雨地域に当たるため、古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。

特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

近世・近代の治水[編集]

1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた[1]。このため大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。

[2]。

1696年(元禄9年)幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止と

[3] 廃線レポート 大井川鐵道井川線 接岨湖水没旧線, , http://yamaiga.com/rail/sessoko/main.html

【周辺図(マピオン)】

大井川鐵道井川線のアプトいちしろ〜接岨(せっそ)峡温泉間には、平成2年10月2日に長島ダムの建設に伴って付け替えられた旧線が存在している。

廃止された旧線の総延長は5.6kmあり、区間内には駅もあった。

元々は昭和29(1954)年に中部電力の井川ダム建設に伴う工事用軌道として敷設された路線で、昭和34(1959)年から大井川鉄道(現・大井川鐵道)井川線として旅客営業を行っていたのだが、国の長島ダム事業の進展によって水没補償を受ける形で新線へ移転したものである。 (新線には日本で現役唯一のアプト式鉄道区間がある)

長島ダムが大井川を堰き止めて生み出された人造湖を接岨湖という。

接岨湖に旧線は水没し、新線は湖畔や湖上を駆け抜けている。

中でも新線にある奥大井湖上駅は、その名の通り(おそらく日本で唯一)湖の上にある駅として独特かつ爽快な景観を誇ることから、秘境駅ファンに限らず、多くの観光客が訪れる。

そして、彼らはそこで、ほぼ間違いなく、目にすることになる。

青い湖面のその先に、深い拒絶と危い誘惑を同居させた旧線の姿を!

…そんな状況であるから、読者諸兄による情報(目撃談)は、早い時期から私の元に複数寄せられていた。

昭和42(1967)年と現在の地形図を比較すると、旧線と現在線(新線)の位置関係が大まかに把握できる。

また、探索の事前情報として、JTBパブリッシングの「 新・鉄道廃線跡を歩く3 」を参考にした。

同書掲載の地図には、右の旧地形図よりも若干詳しい旧線のラインが敷かれており、トンネルの位置や数などもより正確なようだった。

(右図の旧線上に書き加えた大加島仮乗降場と犬間駅も、同書の地図から把握)

だが、実際の探索は水没区間外の下流部分(アプトいちしろ駅から長島ダムまで)を中心に行われており、水没区間内の旧線はやはり、奥大井湖上駅付近からの遠望に終始していた。

となればもちろん、 私が目指すのは、水没区間内の路盤に立って、可能な限り踏破することである!

そんなわけで探索計画を立てることにしたのだが、これがなかなか最初から頭を悩ませてくれた。

どこから旧線へ立ち入るかという、初っ端でつまずいたのだ。

事前情報(新・鉄道廃線跡を歩く3)によって、一番容易なアプローチと思われた、「上流側新旧線分岐地点から旧線へ

[8] 奥大井湖上駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%A4%A7%E4%BA%95%E6%B9%96%E4%B8%8A%E9%A7%85

概要 [ 編集 ]

海抜は490m [2] 。 長島ダム のダム湖である 接岨湖 に突き出た半島状の陸地の突端に位置する。この場所はダム建設以前に谷が大きく蛇行していた部分の尾根にあたり、駅および鉄橋の湖底(つまりかつての谷底)からの高さは70mもある。

前後を2本の巨大な鉄橋「レインボーブリッジ」(東京港の「 レインボーブリッジ 」より先の開通である。そちらとの区別のため「奥大井レインボーブリッジ」とも)に挟まれ、また周辺に民家等はなく、さながら陸の孤島の様相を呈している。このため「 秘境駅 」に数えられることもある。

この駅は井川線の一部が長島ダムの建設によってダム湖に沈むことから 1990年 に新線に移設された際、新駅として開業したものである。駅構内および鉄橋上からは、ダム建設による切り替え前の旧線の橋が散見できる。

駅構造 [ 編集 ]

単式1面1線のホームを持つ。ホームの一部は橋梁上にもせりだしており、駅名通り「湖上」となっている。

駅の出入口は接岨峡温泉側の鉄橋に併設されている歩道で、これを渡ると階段・山道を経由して 静岡県道388号接岨峡線 に出ることができる。県道には当駅の駐車場も用意されており、駐車場と駅との間は片道で20分ほどの時間を要する。利用者はほぼ全員が観光客であり、当駅や展望の良い丘や橋を通ること自体が人気のウォーキングコースとなっている。大井川鉄道では当駅から接岨峡温泉駅までのハイキングコースを案内している [2] 。

当駅のホーム上には、Happy Bellという「幸せを呼ぶ鐘」がある。この鐘の脇には恋人が愛を誓って錠前をかける場所が用意されており、大井川鉄道ではこの錠前・鍵を販売していた。(2013年1月現在販売は終了している) [2] 。

駅周辺 [ 編集 ]

天狗石山

レイクコテージ奥大井

駅から少し登ったところにある展望施設で、駅周辺唯一の建物。2階建てで1階は休憩所とトイレ、2階は展望台という構造。冬季は閉鎖される [2] 。

歴史 [ 編集 ]

1990年 ( 平成 2年) 10月2日 - 開業。

2001年 (平成13年) - 中部の駅百選 に選定される。

隣の駅 [ 編集 ]

大井川鐵道

井川線

ひらんだ駅 - 奥大井湖上駅 - 接岨峡温泉駅

その他の特徴 [ 編集 ]

1990年 10月2日 に アプト式 を採用した

[9] 道路レポート 静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区, , http://yamaiga.com/road/itisiro/main3.html

2010/4/19 17:38 【現在地】

奇妙な景色。

間違いなく、ここまで辿ってきた道とは不釣り合いな橋の姿だ。

道幅が軽トラ1台分しかない上に、欄干の作りもこれまで見てきた昭和38年前後生まれの橋とは全然毛色が違う。

昭和58年に県道接岨峡線が開通するまで、この道が大井川筋の幹線であったことを踏まえれば、本橋の架設は、それ以降の出来事だと結論付けて良いだろう。

旧道となり、或いは廃道になることを予感されている状況だったからこそ、このような不釣り合いな橋が架設された。

おそらくは、斜面崩壊という災害復旧のために。

橋のまん中付近に小山をなしている瓦礫は、その斜面崩壊が復旧後も完全に治まっていないことを示している。

旧道を破壊した斜面崩壊の規模は、凄まじいものであったようだ。

おそらく元々は、ここも前後と同じように崖を削り出した道があったのだが、20メートルほど上部から谷底付近にまで達する巨大な崩壊が路盤を完全に消し去り、復旧のために桟橋を架設せざるを得なくなったのであろう。

斜面の全体がコンクリートの吹き付けに覆われているのは、再発の防止を期してのことだろう。

旧道ならば放っておいても…とならなかったのは、この現場が現道の谷栗トンネル坑口から10m程度しか離れておらず、さらなる崩壊が現道に悪影響を及ぼすことを懸念したのだろう。

ここから先は、全長342.9mの谷栗トンネルに対応する旧道であり(前の区間とは不可分だが)、その長さは450m前後である。

道は大井川の谷底から80m高い位置にトラバースする感じで付けられており、ここからもうっすらとラインが見える。

これまでは、対岸に人の暮らしを見ながらの旧道探索であったが、ここからは無人の山峡に孤立した廃道探索となろう。

決して長い道のりではないが、冒頭でこの大崩壊であるから、侮ることは出来ない。

橋の上で何気なく振り返ると、

思い出に残るショットをゲットした。

これこそ、泉大橋がもっとも映えるアングルではないだろうか。

旧道との対比も、鮮やかだ。

(ちょっと旧道が旧道らしくないが)

この眺めに後ろ髪を引かれながら、

私はいよいよ廃道へ…

突入する。

親柱も銘板も持たない橋を渡りきると、橋上の落石に予感した通りの景色が、広がっていた。

しかし、道幅は橋の前と同じ1.5車線に戻っている。

やはり

[11] 静岡県 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C

静岡県の分類 [ 編集 ]

名目上の行政区分で、 東日本 、 中部地方 、 東海地方 、 広域関東圏 などに区分されている。また、 名古屋圏 や 関東地方 からも独立した地域として、「静岡(県)地方」とされるケースも存在する。しかし、 糸魚川静岡構造線 を挟んで東側と西側に広い面積を占めているため、行政やその他諸々の区分では、これらとは違う区分に属することもある。

全域を一括する場合 [ 編集 ]

東日本 、 西日本

静岡県は、歴史的・文化的経緯や人口・面積の比率・経済等を勘案して、東日本に分類されることが多い。しかし、 日本の経済 の重心が 首都圏 に偏っていることから、特に経済分野で相対的に弱い西日本を補完するために、まれに西日本に分類されることもある。NTTの東西分割の際、静岡県がどちらに編入されるか問題になったこともあり、本来東日本であるNTT東海のエリアだったが東西で利用者数や資産規模のバランスを均一化するために、NTT西日本のエリアに編入された。

西日本 の例: NTT 分割、 Jリーグオールスターサッカー 。

中部地方 ( 東海地方 )、 広域関東圏

静岡県(知事)は、 中部圏知事会議 と 関東地方知事会 の両方に所属している。中央省庁や民間企業の管轄も、中部地方(東海地方)とする機関と関東地方とする機関が混在している。この場合、中央省庁の出先機関の所在地が、中部(東海)はほぼ全て 名古屋 に置かれ、関東は 東京 や さいたま に置かれている場合が多い。

中部地方(東海地方) の例: 衆議院 比例区 (東海ブロック)、 法務省 名古屋入国管理局 、 財務省 東海財務局 、 名古屋国税局 、名古屋 国税不服審判所 、 名古屋税関 、 国土交通省 中部 地方整備局 、 中部運輸局 、 国土形成計画 (中部圏)、 総務省 東海総合通信局 、中部 管区行政評価局 、 人事院 中部事務局、 厚生労働省 東海北陸厚生局 、名古屋 検疫所 、 中央労働委員会 中部地方事務所、 公正取引委員会 中部事務所、 国土地理院 中部地方測量部、東海市長会、 都市機構 (中部)、 国立病院機構 (東海北陸)、 NHK (東海・北陸)、 日本郵便 東海支社、 ゆうちょ銀行 東海エリア、 JAF (中部・東海エリア)、 NTTドコモ (東海支社)、 インターハイ (東海大会)、 選

[12] 道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道), , http://yamaiga.com/road/mituno/main5.html

2015/3/10 14:26 【現在地】

大量の食器片や陶器片が散乱する鬱蒼とした杉植林地を東に抜けると、ようやくはっきりとした道の跡に出会う事が出来た。

とはいえ、杉植林地にいたときにはまるで道を見失っていた(地形が緩やかなので形跡がないようだ)わけで、ここで道を見つけたのも、すんなり一発では行っていない。少しうろうろさせられた。

だが、最終的に「緩やかな杉林」から「険しい斜面」に移動する過程を素直に受け入れれば、それは漏斗の中を通るように行動範囲が狭まることを意味しているから、やはり一番自然に足が向いたところに道形は待ち受けていたのである。

思えば、慰霊碑前を出てから初めての明確な道路跡である。これにはホッとした。

14:40 【現在地】

道を見つけてから、しばらくはとても順調に進行し、GPS画面内の現在地も着実に千頭へと近付いていた。

そんな足が十数分ぶりに止まったのは、この写真の場面だった。

これ、 キテ るな…。

確かにここまでも順調とは言いながら、ちょっと岩の配置や崩れ方が違っていたら、一気に難しい場面になりそうだと思う場所が数ヵ所あった気がする。

それがここに来て遂に、良くない方に転んでしまったようだ。

あと一つか二つ、具合の良い岩の出っぱりでもあったら、「これまで」と大差なく、スッと行けたはずなんだよ…。

…なんて、恨み言をいっても始まらない。

むしろ、惰性で危険地に飛び込んでしまう前に、ちゃんと違和感に気付いて足を止めたことを、評価してやろう(自分に対して何様ナンだこの表現w)。

というわけで、正面突破がムリで、高巻きも現実的でない地形となれば…。

残るは“下巻き”ということになる訳だが…

直前に歩いていた部分は、ご覧の通りの 屈託なき回廊状の狭隘絶壁通路…!

眼下20mほどの所には、幸いにして横断移動ができそうな樹林帯斜面が見えているが、まずはその高さまで下りることが一仕事で、結局ここでは50m以上は来た道を戻り、小さな尾根を回り込むために通路の回廊性が薄れたピンポイントを狙って、尾根を下降。

それから眼下に見た斜面を慎重に横断して……

どうにかこうにか、正面突破を諦めた谷筋の直下に到達。

後はここから“桃色の矢印”のように谷を攀じ登り、路肩や橋台の一部だったらしき石垣が僅かに残る路盤(黄色の矢印)へ、復帰したのであった!

履歴

[13] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24058370944286434

メモ