出典:京阪神急行電鉄五十年史
分離後の配置や、合併当時の出自も含めて記載しました。
分離後役職を見ると、阪急残存が11名、京阪残存が6名と、仮に辞任された2名が京阪側に回ったとしても、 阪急側が多数であったことがわかります 。
このことから「 役員会では京阪側が劣勢に立たされていた 」という説が、ほぼ立証された形となります。
前述のように、表向きは当時の太田社長が宣誓した「左岸ブロックは阪急、右岸ブロックは京阪に一元化して…」と書かれていますが、当時の京阪側としては「 Noと言いたくても拒否権がなかった 」という事情が見えてきました。
新京阪の"価値"はあった
また、当時の労働組合の出していた書籍を見ると、このように記されています
太田恒社長はひとりで基本線… 新京阪線を阪急が取る代償として、京阪電鉄をスッキリとした形で復活させる …を出し、経理の達腕和田常務に具体策を練らせる一方、村岡副社長と接衝六月末に一応早急断行の意図をためて、主務当局の正式諒解を求めて発表の段取りとなった。むろん雅俗山荘の老人(小林一三)に仰ぐところはあったであろう。
「斗いの記録 組合十年史」 京阪神急行電鉄労働組合 昭和32年9月10日,177p
元阪急側の太田恒士郎社長が、敢えて「 取る代償 」という言葉を使っているあたり、当時から新京阪線には価値があったと見ることができます。
すなわち、よく言われる「新京阪沿線には閑古鳥が鳴いていて、価値がなかった」という説は疑わしくなります。
業績が悪すぎた?
また、これもよく言われる「 新京阪は沿線人口が少なすぎて儲けが出なかったから阪急が仕方なく引き取った 」という論調。
確かに昭和6年の時点では、建設費概算が3,717万円(当時)、有利子負債197万円、営業利益123万円と苦しかったことが見て取れますが、これが昭和11年になると有利子負債138万円、営業利益190万円と、バランスシートにおいては好転し始めています。
京阪電鉄が新京阪鉄道を子会社化したのは昭和5年ですから、京阪としてはしばらくを耐えれば好転する見込みがあったと推測できます。
このことから、表題の件に関しては 阪急側の恩着せがましい歴史の押し付けである といえます。
総評
このように、現在わかっている文献的を丹念に追っていくと「京阪が割譲した」というよりは「 阪急に奪われた 」