関越自動車道

関越自動車道

[1] 関越自動車道 (かんえつじどうしゃどう)

Webページ

[2] 関越自動車道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%B6%8A%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93

関越自動車道(かんえつじどうしゃどう、KAN-ETSU EXPRESSWAY)は、東京都練馬区の練馬ICから埼玉県、群馬県を経由し新潟県長岡市の長岡JCTへ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は関越道(かんえつどう、KAN-ETSU EXPWY)、関越(かんえつ)。

[3] 【都市伝説を検証】目白の田中邸から新潟まで3回曲がれば着く...は本当か?, , http://n-knuckles.com/discover/urban_legend/news001465.html

乗り合わせたタクシーの車内。目白付近で運転手は自信ありげに言った。

「角栄邸から新潟の実家まで、3回曲がれば着くんですよ」

まさかと思った。目白から新潟まで300キロ近くあるはずだ。いくら田中角栄が建設行政ににらみがきいたと言っても遠すぎやしないか。かといって彼の言葉を完全に否定する論拠を僕は持ち合わせていなかった。

後日、東京から新潟へ行く用事があったので実走して、確かめることにした。午前7時、レンタカーで角栄邸の前から出発する。死後20年あまり。相続税のため物納されたため、通り沿いに延々と続く塀はもはやない。石造りの塀と鉄門扉がビルと公園の間にかろうじて通りに面している。「田中」と記された表札がなければそこがかつての角栄邸だとは気づくはずがない。

一路西へ。車はすぐに学習院大学、続いて目白駅の前を通る。駅前は二車線で沿線は繁華街になっている。早朝だが通行量は多い。

6キロ走ったところ、豊島区の南長崎一丁目の交差点で右折する。通りは目白通りのままだ。出発から30分ほどで関越道の練馬インターチェンジにさしかかった。目白通りの3車線のうち2車線が高速へつながっていて、そのまま高速に入った。

車は快調に北上していく。谷あいを選んで走行しているからか、緩やかに蛇行するようになった。

関越トンネルに入ったところで、角栄の発言が頭をよぎった。

「三国峠をダイナマイトでふっとばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸繋ぎになる」(初出馬のときの演説)

事実、このトンネルは谷川岳の真下を10キロ以上にわたって貫いている。

そうした発言や後の「日本列島改造論」からわかるように、角栄は自らの選挙区、新潟三区への社会基盤整備に熱心だった。特に昭和30年代後半は公共事業の山ともいえるほどの郷土の大改造を施した。国道17号線の三国トンネルの開通に始まり、上越線の複線化、清水トンネルの完成。

角栄の行動力の原点とも言える裏日本ルサンチマン。それを克服するために霞ヶ関のエリートを手玉に取り、東京への復讐を果たしていったのかも知れない。関越自動車道の完成はその集大成ともいえるのだろう。昭和60年に全線が開通している。

北陸道へ入り、10キロあまりで西山の出口にさしかかった。高速を出ると、目の前には田んぼがあり背後が山になっているいかにも米所といった田舎の風景が広がっていた。

[4] 新大宮バイパスに敗北 孤立した関越道、その未来は | 乗りものニュース, , http://trafficnews.jp/post/40376/2/

関越へ繋がる予定だった幻の「10号練馬線」 『首都 高速道路 公団三十年史』によれば、5号線の延伸は「単に新大宮バイパスの交通を都心、副都心(池袋)に流すことばかりでなく、東京都の都市計画事業のひとつである板橋トラックターミナルあるいは高島平に建設される大住宅団地といった大規模な交通発生源に対処することであった」とあります。この頃の 首都高 は、都が中心になって建設中の都市内高速 道路 で、地域的な交通の流れが重視されていたのです。

1973(昭和48)年、東京川越道路は、ようやく関越 自動車 道という名の国土開発幹線自動車道(つまり高速道路)に昇格しました。この昇格には、1972(昭和47)年に首相に就任した田中角栄氏の力があったといわれています。また角サンは、「関越道をまっすぐ目白御殿まで繋げろ!」と言ったという都市伝説もありますが眉唾です。

1969年の「大都市幹線街路調査報告書」では「延伸追加線」とされていた10号練馬線(画像出典:高速道路調査特別委員会)。 首都高には、もともと「10号線」という計画がありました。これも当初は関越道に直接接続するものではなく、終点は練馬区上石神井2丁目。現在の早稲田大学高等学院付近で外環道と接続する構想でした。

その後、関越道が徐々に延伸されるにつれ、70年代のどこかの時点で、この10号線は「練馬線」という名称になり、文京区関口(現在の早稲田出口)で5号線から分岐して、神田川上や目白通りを進んで関越道に直結する計画に変更されました(10号線は現在は晴海線の名称)。

これが実現すれば、目白御殿のすぐ裏へ本当に関越+首都高が繋がる形になったわけですが、こんな接続をしたら5号線の大 渋滞 は必至。そこで、やはり以前から計画にあった内環状線に直結させて……という紆余曲折があったものの、内環状線建設の見通しもまったく立たなくなり、着地点を失った練馬線は漂流を重ね、現在の“完全お蔵入り状態”になったのです。

履歴

[17] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054561953944

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