東洞院通

東洞院通

[1] 東洞院通

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[2] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<東洞院通車道(竹田街道)・前編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-ff62.html

街道見て歩きも、回を重ねるようになり

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

まだまだ、街道はありますが

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回は、<<竹田街道>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、京都から南へと延びる、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた幹線道路で、鳥羽街道や伏見街道とともに、重要な道だった。ルートは、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていた牛車による物資輸送を主目的とした産業道路的街道だったと思われます。伏見港からは、水路で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

竹田街道は、逢坂山と同じく荷車の往来が盛んだった「車石」が敷かれた街道でした。

伏見といえば京橋を中心としています。街道の出発点も何といっても、ここ京橋です。秀吉の伏見城の城下町として、又、淀川より大坂への水路交通の基点として栄えました。

京橋より左(西)右(東)は淀川派流・濠川の三十石舟等の物資運搬の荷揚げ浜・伏見港の中心南浜(寺田浜)などで賑っていました。京橋附近の様子はこちら又は、こちらをご覧ください

1筋北の魚屋通(下油掛通)です。右角には老舗の「駿河屋」さんがあります。

その前に「チンチン電車」発祥の碑が建てられています。約100年前、明治28年に竹田街道の終点・塩小路東洞院通まで約7Kmを走りました。

もう1筋北の大手筋通です。

右(東)を行けば江戸時代は伏見城大手門に繋がっていました。

又1筋北の毛利橋通。通の名前は中国地方の「毛利家」の屋敷があったことから来ています。

その先、突き当たりを左に曲がります。肥後橋という停留所がありました

右(東)に寄り道しますと、平屋の古民家が見られます

こちらは浄土宗「西光寺」

本堂

通常は地蔵堂なのですがこちらは如来坐像?

お隣の虫籠窓の見える古民家

街道を左(西)に

右に「西養寺」・寛永九年創建、本堂は元禄六年上棟の真宗寺院で市内最古に属する様式を残した建物で市の文化財です

本堂

本堂の様式を詳しく説明されています

門前の地蔵堂

街道はその先の信号を右に折れます。京橋からここまでチンチン電車はこの道を走

[3] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<竹田街道(東洞院通車道)・後編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-4036.html

街道見て歩きも、

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回も、<<竹田街道・後編>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていて、伏見港からは、水路(淀川)で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

と思っていたら、前回の終わりにも書きましたが、竹田街道の基点・塩小路東洞院は南の拠点で、北は丸太町通・御所であることが分かりました。

そこで今回は京都市内を北に、東洞院通を歩きました。

前回の北の基点です。今回はここから歩きます。

東洞院通の由来は、天皇が即位した後の住居を「洞院」(仙洞御所)と言い、この大路にはその名称にふさわしい院や内裏が堂々と構えられていたためと思われます。天正の地割(1590年)後、竹田街道へ連なる幹線道路となり、江戸中期になると、交通渋滞がピークに達し、町奉行所はこの通りを北行き一方通行にしました。日本で最も早く、一方通行規制がこの通りから始まったようです。塩小路通りより北を望む。

すぐ「七条通り」が見えてきます

「下数珠屋通り」手前の町並み

同通りの左手・西には東本願寺があり、通りの名の通りお寺に関連したお店がずらり。

反対の東はご存知「枳穀邸・渉成園」・東本願寺の別邸で、周辺に植えられた枳殻(からたち)の生垣にちなんでこう呼ばれました。

嘉永18年、この地を徳川家光から寄進を受けた宣如上人が、石川丈山らと庭園を築き別邸としました。

源氏物語主人公・光源氏のモデルとされた「源融(みなもとのとおる)」の河原院の跡に近くに、「印月池」を中心に、平安朝の面影を残した、楼門「傍花閣」、書院「閬風亭」「滴翠軒」「臨池亭」、茶席「漱枕居」「宿遠亭」、持仏堂「園林堂」、橋廊「回棹廊」を配した庭園となっています。

地蔵堂ではなく珍しい「大日如来石仏」が祀られていました。民家の奥には古い蔵がのぞいていました。

本願寺詣での宿屋さんでしょうか風情のある旅館「井筒安」さん。創業天保十年(1839年)から代々受け継がれてきた数奇屋造りの京町屋です。

正面通りの東に「枳穀邸」が見えます。西は「東本願寺」さ

[4] ディープな京都・菊浜地区: 五条楽園(遊廓跡、旧赤線地帯)を探索 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , http://murauchi.muragon.com/entry/788.html

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旧五条楽園エリア(京都市下京区)

五条大橋近くのサブウェイでデジカメの電池を充電して、準備万端!いよいよ、京都のガイドブックには載っていないディープな京都、遊廓跡(旧赤線地帯)の五条楽園エリアに侵入します。

「侵入」って、まあ、公道なので誰でも自由に入れるんですけどw

潜入とか、突撃とかって言葉も似合いますが、一応この記事のタイトルは "五条楽園の「探索」"としておきました。それではレッツゴー!!

五条大橋の牛若丸・弁慶像: 五条の橋の上で出会った牛若丸と弁慶を再現した銅像

牛若丸(義経)が弁慶の長刀(なぎなた)をひらりとかわし、橋の欄干に飛び移った瞬間のモニュメントです。

五条大橋。向こう側の山が清水寺方面です。

五条大橋の上から見た鴨川の流れ

この右側の地帯が旧「五条楽園」のエリアです。

上の写真の反対側: 五条大橋の上から見た比叡山(右の山)

五条大橋の欄干。牛若丸が飛び乗った欄干の子孫ですw

反対側の岸から見た旧「五条楽園」エリア

五条大橋のたもとのガソリンスタンド脇の道(木屋町通)に入りました。流れている川は高瀬川です。

鴨川を見ながらくつろげるカフェ・エフィッシュ (efish)。見るからにスタイリッシュな空間ですね。

源融の木

源融の木

源氏物語の光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子 源融(みなもとのとおる)の邸宅「河原院」の跡があり、この榎の大樹は、この邸内にあった籬(まがき)の森の名残とされる。すぐそばには小さな社と鳥居があり、榎大明神が祭られる。

光る君(ひかるきみ)~!京都らしいですよね!こんなある意味、観光客の立ち入らないような辺鄙な場所にも歴史がある。京都ならではです!

源融 河原院跡の看板

苔むす源融の木(エノキ)の風格がすごいです!

一体何人の男がこの木を見たのでしょうか?

鴨川沿いのお地蔵さん

お地蔵さんあたりから見えた鴨川

風情ある川辺の道

[5] ディープな京都・崇仁地区: 柳原銀行記念資料館と金網フェンスに囲まれた無数の空き地 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , https://murauchi.muragon.com/entry/789.html

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京都・崇仁(すうじん)地区: 柳原銀行記念資料館

"ディープな京都" 五條楽園 からタクシーに乗って、 同じく"ディープな京都" 崇仁地区 に入りました。以前から見学したいと思っていた、「柳原銀行記念資料館」でタクシーを降りました。

桜田儀兵衛氏の碑

桜田儀兵衛翁の顕彰碑の概要

柳原銀行記念資料館

銭座場跡

京都市崇仁隣保館新築記念

柳原銀行記念資料館の柳の木

柳原銀行記念資料館の外観 淡いグリーンの外観がとてもステキな洋風木造建築ですっ!

京都市登録有形文化財!差別に立ち向かった崇仁地域の誇り!!

柳原銀行記念資料館の側面

反対側の側面のガラス窓

こぢんまりとしていて、とてもすてきな洋館です!

中に入ってみましょう~

崇仁歴史マップ 「非人小屋」という言葉も見られます。

人権ゆかりの地をめぐる ポスター

柳原銀行記念資料館について

柳原銀行は、明治32(1899)年、柳原町(崇仁地域)の町長であった明石民蔵(あかしたみぞう)ら地元の有志によって設立されました。

被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行であり、当時、差別のために資金を得られなかった町内の皮革業者等に融資を行い、産業の育成・振興に大きく貢献したほか、その利子を地元の小学校の運営資金や道路建設資金に充てるなど、自力で差別を撤廃していく模範とされました。

大正期には、山城銀行と改称し、事業を拡大していきましたが、金融恐慌などの影響を受けて、昭和2(1927)年に倒産しました。

その後、建物は商店や借家として使用されましたが、昭和61(1986)年に道路の拡幅工事に伴う建物の取壊し案が出たことを契機として、地域では,建物をまちづくりのシンボルとして保存する運動が盛り上がり、保存に向けた様々な取組が行われました。また、平成元(1989)年に本市が実施した調査において、貴重な明治後期の洋風木造建築物であることが判明し

履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054550816274

メモ