竹田街道

竹田街道

[1] 竹田街道 (たけだかいどう)

34.9841997881583 135.761125087738

Webページ

[2] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<東洞院通車道(竹田街道)・前編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-ff62.html

街道見て歩きも、回を重ねるようになり

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

まだまだ、街道はありますが

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回は、<<竹田街道>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、京都から南へと延びる、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた幹線道路で、鳥羽街道や伏見街道とともに、重要な道だった。ルートは、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていた牛車による物資輸送を主目的とした産業道路的街道だったと思われます。伏見港からは、水路で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

竹田街道は、逢坂山と同じく荷車の往来が盛んだった「車石」が敷かれた街道でした。

伏見といえば京橋を中心としています。街道の出発点も何といっても、ここ京橋です。秀吉の伏見城の城下町として、又、淀川より大坂への水路交通の基点として栄えました。

京橋より左(西)右(東)は淀川派流・濠川の三十石舟等の物資運搬の荷揚げ浜・伏見港の中心南浜(寺田浜)などで賑っていました。京橋附近の様子はこちら又は、こちらをご覧ください

1筋北の魚屋通(下油掛通)です。右角には老舗の「駿河屋」さんがあります。

その前に「チンチン電車」発祥の碑が建てられています。約100年前、明治28年に竹田街道の終点・塩小路東洞院通まで約7Kmを走りました。

もう1筋北の大手筋通です。

右(東)を行けば江戸時代は伏見城大手門に繋がっていました。

又1筋北の毛利橋通。通の名前は中国地方の「毛利家」の屋敷があったことから来ています。

その先、突き当たりを左に曲がります。肥後橋という停留所がありました

右(東)に寄り道しますと、平屋の古民家が見られます

こちらは浄土宗「西光寺」

本堂

通常は地蔵堂なのですがこちらは如来坐像?

お隣の虫籠窓の見える古民家

街道を左(西)に

右に「西養寺」・寛永九年創建、本堂は元禄六年上棟の真宗寺院で市内最古に属する様式を残した建物で市の文化財です

本堂

本堂の様式を詳しく説明されています

門前の地蔵堂

街道はその先の信号を右に折れます。京橋からここまでチンチン電車はこの道を走

[3] 竹田街道, , http://www.geocities.jp/ikoi98/kyouto/takedakaidou.html

竹田街道は、江戸時代に開かれた京と伏見をつなぐ街道の一つで、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた。同じく京と伏見を結ぶ伏見街道の西方にあって、伏見街道が名所旧跡に富んだ観光ルートであったのに対し、竹田街道はもっぱら牛車による物資の輸送を目的とした産業道路であった。

「口」とは出入り口としての土塁の切れ目である。豊臣秀吉が京に聚楽第を建ててその権力の頂点にあったとき、京都を土塁と堀でぐるりと囲った。土塁は御土居(おどい)とよばれ洛中、洛外の境界をなした。現在の京都駅付近の御土居は七条高倉から高倉通りを南下し、塩小路と八条通りの中間付近で西に折れ、油小路を南下して九条通りで再び西に延びていた。この前半の部分、七条高倉からセンチュリーホテルの南側にかけて逆L字形のいびつな形をした東塩小路向畑町がある。この区画が御土居の築かれた場所であろう。東塩小路向畑町の西端、現在の京都駅ビルに接する所に御土居の竹田口があった。その南北の通りを東洞院という。

現在の竹田街道(府道115号)はJR京都駅の南側、東洞院八条の竹田街道八条交差点から始まっている。京都駅が現在地より北寄りの塩小路通り近くにあったころ、竹田街道は八条からそのまま東洞院通りを上がって塩小路交差点に通じていた。ここが近代の竹田街道起点である。明治28年(1895)ここから我国最初の電気鉄道(後の京都市電)が伏見に向けて出発した。交差点の南西角に京都市電発祥の地の石碑が建っている。

南に向かって歩き出す。すぐに駅ビルに隣接する建物にぶつかる。JR忘れ物センターがある。このあたりが御土居の竹田口があった場所だ。線路に沿って高倉通りにでて、陸橋を迂回して竹田街道八条交差点にでる。

九条大石橋交差点を東にはいった陶化小学校の正門内に、竹田街道に敷かていた車石が残されている。伏見港と京との物資輸送を担う牛車がぬかるみで立ち往生しないように、わだちを削った敷石で街道に牛車専用レーンを設けた。鉄道線路のように厳格でなくとも、牛車の車輪幅は一定だったということか。分厚い石で、これを延々6kmも並べるのはさぞかし大変な工事であったろう。

隣に立つ「石敢当」(せきかんとう)と刻まれた常夜燈は安政元年(1854)建立のもので、鴨川に架かる勧進橋に建っていたものである。

竹田街道札辻交差点にさしか

[4] 八条口〜十条周辺, , http://www004.upp.so-net.ne.jp/ofuroyasan-teki/8joguchi3.html

京都駅八条口にある新都ホテルの東側の道を、南に行ったところにある大正湯さんです。外観はきれいに改装されていますが、瓦屋根が昔の面影を留めています。

脱衣場もきれいに改装されていて、お風呂屋さんらしきアイテムも男女仕切の上に、紐で首輪のように柱に結ばれている白磁の招き猫がいるくらいです。飲み物も自販機が置かれ、冷蔵庫はありませんでした。洗面台の裏の所に、備え付けの洗面器置き場があるのがちょっとユニークです。

浴室の方も全面改装されています。奥に6人ほど入れるスチームサウナと、壺の水吐きが付いた水風呂。男女壁側にふくらはぎ&足裏刺激付き腰掛け型ジェット、ジェット一カ所付の浅風呂と深風呂、脱衣場側に泡風呂の酵素風呂がある構成です。男女壁にレリーフ風のタイルが使われているのがアクセントになっています。

私の行ったのは祝日の夕方で、お客さんはおじいちゃんがほとんどでしたが、その中に男の子と女の子のお孫さんを連れて来ている方がいました。子供達は小学校の低学年ぐらいでしたが、おじいちゃんと一緒のお風呂に入って楽しそうでしたし、何よりおじいちゃんの嬉しそうな顔と言ったら思い出すだけでニヤリとしてしまいます。子供達のおじいちゃんの記憶の中にも、お風呂の風景が思い浮かぶんでしょうね。

お風呂上がりに、番台のおっちゃんに大正湯という屋号の由来を聞くと、ここは元々別の方がやっておられた銭湯だったそうです。今の経営者のお父さんは元々京都駅の現在は近鉄名店街になっている辺りで別の銭湯を大家さんから借りてやっておられたそうです。それが昭和20年の強制疎開で立ち退きになり、同じ大家さんが持っておられた現在の大正湯に移って来られたそうです。近鉄名店街付近で、先代のご主人が銭湯を始められたのが昭和4年で、大正湯はそれよりも古いという話でしたので、屋号の由来はやはり大正時代に始まった銭湯というところにあるようです。また戦後、銭湯業界では農地解放で地主から小作人に土地が渡されたように、大家さんから実際に働いている人にGHQの指導で権利が渡されたという話も聞かせてくださいました。

人に歴史あり、銭湯に歴史ありです。おっちゃんは話し好きで次から次へと昔話が出てきますので、みなさんもどうぞおっちゃんに話を聞いてみてください。

八条口を西に行くと油小路通の手前にPHP研究所の京都本部があります。PHP

[5] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<竹田街道(東洞院通車道)・後編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-4036.html

街道見て歩きも、

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回も、<<竹田街道・後編>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていて、伏見港からは、水路(淀川)で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

と思っていたら、前回の終わりにも書きましたが、竹田街道の基点・塩小路東洞院は南の拠点で、北は丸太町通・御所であることが分かりました。

そこで今回は京都市内を北に、東洞院通を歩きました。

前回の北の基点です。今回はここから歩きます。

東洞院通の由来は、天皇が即位した後の住居を「洞院」(仙洞御所)と言い、この大路にはその名称にふさわしい院や内裏が堂々と構えられていたためと思われます。天正の地割(1590年)後、竹田街道へ連なる幹線道路となり、江戸中期になると、交通渋滞がピークに達し、町奉行所はこの通りを北行き一方通行にしました。日本で最も早く、一方通行規制がこの通りから始まったようです。塩小路通りより北を望む。

すぐ「七条通り」が見えてきます

「下数珠屋通り」手前の町並み

同通りの左手・西には東本願寺があり、通りの名の通りお寺に関連したお店がずらり。

反対の東はご存知「枳穀邸・渉成園」・東本願寺の別邸で、周辺に植えられた枳殻(からたち)の生垣にちなんでこう呼ばれました。

嘉永18年、この地を徳川家光から寄進を受けた宣如上人が、石川丈山らと庭園を築き別邸としました。

源氏物語主人公・光源氏のモデルとされた「源融(みなもとのとおる)」の河原院の跡に近くに、「印月池」を中心に、平安朝の面影を残した、楼門「傍花閣」、書院「閬風亭」「滴翠軒」「臨池亭」、茶席「漱枕居」「宿遠亭」、持仏堂「園林堂」、橋廊「回棹廊」を配した庭園となっています。

地蔵堂ではなく珍しい「大日如来石仏」が祀られていました。民家の奥には古い蔵がのぞいていました。

本願寺詣での宿屋さんでしょうか風情のある旅館「井筒安」さん。創業天保十年(1839年)から代々受け継がれてきた数奇屋造りの京町屋です。

正面通りの東に「枳穀邸」が見えます。西は「東本願寺」さ

[6] 「九条竹田街道」。 なぜ「大石橋」? - ちょっと気になる京都の風景, , http://blog.goo.ne.jp/asashio82/e/5fc2644765b6346a269b6b95a72d6118

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ここは竹田街道を九条から少し下ったところ。この竹田街道には昔 京都市電の伏見線が走っていました。そう思って見て頂くと このカーブ、何となく線路のカーブに見えてきませんでしょうか?

さて、「九条竹田街道」(竹田街道九条でもいいのですが、ここでは十条竹田街道に倣って"九条竹田街道"と書きます)。この交差点はずっと昔から「大石橋」と呼ばれてきました。

市電が走っていた時、九条線と伏見線が交差する その停留所名も「大石橋」でしたし、今の京都市バスの停留所名も「大石橋」です。

現在、この交差点の100mほど西に地下鉄「九条駅」があり、市バスは「次は大石橋、地下鉄九条駅です」と放送されます。

なぜここを「大石橋」というのか ず〜っと不思議なままなんですが、今回調べてみてもその由来は全くわかりませんでした。

竹田街道は車でよく通るのですが、この日はフラリと「大石橋」でバスを降り、細い路地を東に入ってみました。

その静かな路地にはいかにもレトロな銭湯が佇んでいました。

表通りの竹田街道にあってもよい位の立派な構えです。

まず、門をくぐって入るようになっていますが、中の唐破風屋根がまた渋いですね。

竹田街道から一つ東の細い裏通りを南に向いて…

あまり京都らしい雰囲気ではなく、何となくレトロな大阪って感じの街並みでした。

画面中央奥付近には何か気になる塔が…

その正体はキリスト教会の礼拝堂の尖塔でした。

さらに南へ歩くと、古い大きな農家が点在し このような土蔵も散見できました。

車でサッと通過するのと歩いてみるのでは、全く違った雰囲気を感じる事ができました。

[7] 神戸市文書館 源平特集:福原遷都 語句解説, , http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/fukuhara/fu_kaisetu.html

◇平清盛(1118〜1181)

平安時代末期の武将で最高権力者。忠盛の長男で、父の死後、武門の棟梁としての地位を継ぐ。 父同様、鳥羽上皇の近臣として昇進するが、

保元の乱では後白河天皇方の中心的な武力として活躍した。 さらに平治の乱では熊野詣から引き返して源義朝を倒した。

以後、全国的な軍事警察権を掌握し、仁安2年(1167)には従一位太政大臣に至った。

翌年出家して摂津福原に別荘を造営し、そこに移って京都の政界からは引退する。しかし、

以後も平家一門の家長として発言権を維持しつづけ、大事には上洛して存在感を見せつけた。

清盛は当初、妻の妹で後白河上皇最愛の后であった平滋子(建春門院)を仲立ちとして、 後白河上皇の院政とは協調的な関係にあったが、

安元2年(1176)に滋子が没すると、両者の対立が表面化した。治承元年(1177)には、 清盛打倒の謀議の発覚で院の側近を処刑 (鹿ヶ谷事件)。

同3年に院の政策に反発してクーデタを決行、後白河院を鳥羽殿に幽閉した。 清盛は娘徳子の生んだ

安徳天皇を即位させ、本格的な平氏政権が発足するが、一方で後白河幽閉や強引な政治手法に対し、反発も強まってゆく。

治承4年、以仁王の乱が起こり、それを機に内乱状態が全国に広がり、各地で武士が挙兵した。福原から還都した後、反乱への対応につとめたが、

治承5年熱病にかかり、 64歳で没した。なお、『平家物語』などに白河法皇の落胤であったと記されているが、その昇進が異常なスピードであったことからも、

その可能性は高いと見られる。

→関連リンク 源平特集-人物解説

◇上皇

退位した天皇のこと。このころは幼い天皇に代わり、その直系尊属である上皇や法皇(出家した上皇)が政治に積極的に関与していた。

その中でも天皇家の家長を治天(治天の君)といい、退位した治天が政治の実権を握っている政治のあり方を院政という。

◇保元の乱

保元元年(1156)7月、天皇家・摂関家の内部対立から京都で起きた兵乱。久寿2年(1155)、近衛天皇が危篤状態に陥ると、後継の地位をめぐって、

近衛の異母弟・崇徳上皇の皇子である重仁を推す勢力と、崇徳の同母弟の雅仁親王の皇子である守仁を推す勢力が対立した。

近衛の生母である美福門院得子は、崇徳が治天となることで、自らの影響力が低下することを恐れ、近衛が没すると、鳥羽にはた

履歴

[12] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054550815929

メモ