菊坂

菊坂

[1] 菊坂

Webページ

[2] 文京区本郷・菊坂の暗渠と井戸(東大下水) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/13110867/

地下鉄丸ノ内線/都営大江戸線の本郷三丁目駅のある、本郷通りと春日通りの交差点のやや北、本郷通りから北西に分かれて下って行く長い坂「菊坂」(きくさか)。本郷台地に細長く深く刻まれた谷を下る坂となっていて、界隈には昔ながらの風景が残っている。明治期には谷底の路地の借家に樋口一葉が暮らし、また大正から昭和にかけて台地の上にあった「本郷菊富士ホテル」 には多くの文人や知識人たちが滞留していたことで有名だ。 菊坂自体は、谷の一番深いところよりもやや上方を通っているのだが、谷底にはかつて小川が流れていた。この川は現在の東京大学本郷キャンパス構内より流れ出て、本郷通りを横切り、菊坂の谷を下っていた。永井荷風の「日和下駄」には、「本郷なる本妙寺坂下の溝川」と記されている。 小川は、文京区西片と本郷の境界線の谷を流れていた小流と合流したのち、文京区本駒込~白山の「鶏声が窪」~「指が谷」から流れてきた川に合流していたのだが、これらをあわせて、ある時期以降は、通称「東大下水」と呼ばれていた(「ひがし・おおげすい」。 「とうだい・げすい」ではない)。下水といっても、低地の排水路といったニュアンスであり、本郷台地を南下していた千川上水に対応した呼称ではないかとも思われる。菊坂の谷は、本郷台と豊島台に挟まれた低地の枝谷となっており、この低地の西側を流れていた谷端川(小石川)は、西大下水と呼ばれることもあったという。 小川の水源ははっきりしないが、東大構内のちょうど谷頭にあたるあたりに懐徳館の庭園があり、現在でも池があるようだ(通常非公開)。この池がかつての水源だったのだろうか。 川が本郷通り(中山道)を横切るところにあった橋は、わかれの橋、なみだ橋などと呼ばれた。そして橋を挟んで都心側が「見送り坂」郊外側が「見返り坂」と呼ばれていたという。

すぐそばの春日通りと本郷通りの交差点にある「かねやす」店頭に、有名な「本郷もかねやすまでは江戸の内」の川柳が掲げられているように、18世紀中頃まではこの橋の辺りが江戸内外の境界線だった。江戸を追放された者が、ここで親族と別れを告げたという。 本郷通りをわたって菊坂を下って行くと、しばらくして一本南側に並行する道が現れる。川はこの通称「菊坂下道」と呼ばれる道に沿って流れていた。

[10] 小栗坂とは関係ない小栗上野介を想う | 東京坂道ゆるラン, , http://sakamichi.tokyo/?p=5874

お江戸のど真ん中、千代田区に「小栗坂」という坂道があります。長い さいかち坂 を登る途中、右に下る小さな坂です。

さいかち坂 から下っていく小栗坂。

この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、 ゆえしらず 」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに 小栗某 の邸ありしに因る」とかかれています。明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。

昭和50年(1975)3月 千代田区

「小栗某」を古地図で探す

「何某」、なにがし、とか書かれると、坂道探偵の血が騒ぐものです。

『新撰東京名所図会』にある「 小栗某 」を古地図で探すと、

古地図:正保年中(1645-1648年)江戸絵図。 赤矢印 が本吉祥寺橋(今の水道橋)、 グリーンライン が小栗坂。(クリックで拡大)

江戸初期の地図には「 小栗又兵 」( 青矢印 )とあり、この屋敷が坂名の由来になっているようです。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年(1857年)改 尾張屋刊江戸切絵図。 赤矢印 が水道橋、 グリーンライン が小栗坂。

しかしながら、幕末の切絵図には小栗坂の表記はあるものの、「 小栗某 」は見出すことは出来ません。

『江戸惣鹿子名所大全』では「 ゆえしらず 」(坂名の由来はわからない)と、すでに江戸時代中に書かれています。長い江戸時代(約260年間)の間には、よくあるパターンです。

壱岐坂 の由来の根拠も不明になった例もあり、変遷を繰り返したお江戸ならではのこと。 服部坂 のように江戸時代を通じて同じ場所に屋敷を構えるケースも多々あります。

小栗坂の場合、小栗又兵は、正保4年(1647年)の江戸大地震や明暦3年(1657年)の明暦の大火後に近くに移転したことはわかっていますが、その後は子孫が途絶えたのか?遠くに移転したのか?

いずれにせよ、坂名にのみ残るお武家です。

千代田区観光協会のHPによると、

三崎町一丁目と猿楽町二丁目の間を神田川の方へ上る坂です。昔近くに小栗某の屋敷があったことから、この

履歴

[19] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054543547984

メモ