水道道路

水道道路

[1] 水道道路

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[2] 神田川笹塚支流(和泉川)(4)幡ヶ谷の名無し谷戸支流 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/19171894/

2年半ぶりの「神田川笹塚支流(和泉川)」シリーズ。今回は京王新線幡ヶ谷駅付近を流れていた支流をたどってみよう。 今までの記事はこちら ・神田川笹塚支流(和泉川)(1)「萩窪」の源流と幡ヶ谷分水 ・神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路 ・神田川笹塚支流(和泉川)(3)最上流部・南側水路 「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川」という呼び方 暗渠者の間で「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川(いずみかわ)」と呼ばれるこの川は、杉並区和泉の地にその流れを発し、新宿区西新宿五丁目で神田川に合流する全長3kmほどの流れで、1960年代半ばに暗渠化されている。 川は本流の他、並行する傍流や右岸側の台地に谷を刻む数多くの支流、そして玉川上水からの分水もあって、流域も杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区にまたがっており結構な規模があるのだが、なぜか固有の呼び名がなく、流路の大半を占める渋谷区の行政資料や地域資料では長いこと単に「神田川支流」という呼称で記されてきた。神田川の支流は他にもたくさんあるわけで、固有名詞というにはにはやや無理があるし、無個性で味気ない。 一方でその暗渠は遺構が多く変化にも富み、数多くの暗渠者を引き寄せてきた。彼らの間ではいつしか「神田川支流」ではなく「神田川笹塚支流」と場所が分かる形で呼ばれるようになり、現在その呼び方は一般的にも定着してきているように思える。 そんな「神田川支流」に「和泉川」という呼び方があったらしい、と判明したのは6、7年ほど前だっただろうか。庵魚堂さんの「世田谷の川探検隊」に当時あったBBSで、中野区の戦前の資料で見つかった名前として報告された「和泉川」の名称はかなり反響を呼んだ記憶がある。現在では和泉川の名前も少しづつ浸透している。本サイトではそんな経緯を踏まえて「神田川笹塚支流(和泉川)」として記載してきた。 この「中野区の戦前の資料」の掲載箇所が長らく見つけられなかったのだが、今回記事を記すにあたって再度資料を確認して見たところ、やっと1943年に刊行された「中野区史上巻」において、中野区の地形をなす丘陵の説明の項に「幡ヶ谷丘陵」を分かつ河川として北に神田川、南に和泉川と記されているのを見つけることができた(ちなみにこの資料では桃園川を中野川としている)。ただ、この名称は他の資料には見当たらず、実際に現地でそう呼ばれて

[8] 小さすぎる公園めぐり(渋谷・新宿・池袋方面) - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/131115162364_3.htm

3ページ目だけどまだ渋谷区。代々木上原駅から北上して、京王線の幡ヶ谷駅方面に向かう。途中にあった西原いこい公園は遊歩道タイプ。でも自販機があるあたり一歩先を行っている。

[9] 首都圏の主要道路の変遷メモ, , http://anond.hatelabo.jp/20140309230249

■首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。

なお、情報源はこの今昔マップが主で、一部ウィキペディアからの情報で補足しているが、事実と異なる記述があったらご容赦。

自分の興味地域は、東京南部~神奈川なので、以下はそのエリアについてのみ。

【おもな放射道路編】

東海道(国道1号・15号)

日本橋~品川区間。

1900ごろ時点で現在の国道15号と同じルート。市電も敷設されていた。八ツ山橋が現在の道路形状になったのは1960ごろ。

品川~横浜間。

京急本線が1900ごろ時点ですでに敷設されているが、道路は現在の旧東海道のみ。

六郷橋は1900ごろ時点ですでに架橋されていた。

現在の国道15号品川~大森町駅間が開通したのが1930ごろ。川崎~新子安区間は1920ごろ。

横浜~平塚。1900ごろ時点で、おおよそ現在の旧東海道あるいは東海道に沿ったルート。

1900ごろ時点で、現在の横浜駅付近は鉄道以外は海で、当時の横浜駅は現在の桜木町駅付近にあった。

生麦~保土ヶ谷区間は、1930ごろには現在のルートになり、当時市電が走っていた。横浜駅も現在の位置へ移動。

狩場IC付近が現在のルートになったのは1960ごろ。

藤沢バイパス開通は1960ごろで、それまでは神奈川県道30号および藤沢本町駅付近を通るルートだった。

平塚駅付近の現ルートができたのは1960ごろで、それまでは旧道ルート。(現ルートの国道指定はタイミング遅れて1980ごろ?)

なお、1900ごろ時点で、浜離宮~平和島駅間は現在の山手線・京急本線がほぼ海岸線で、以東はその後の埋立地である。

現在の国道1号日本橋~横浜駅間について

日本橋~五反田間は、中原街道の原型として1900時点でおおよそ既にあった。

三田~高輪台駅区間は、1900ごろ時点では細い道しかなく、1930ごろまでにかけて大きな道として開通した。

ちなみに、三田慶應のT字路ができたのが1940ごろ、白金高輪駅から古川橋方面の区間が開通したのが1960ごろ。

なお、日本橋~札の辻と魚藍坂~五反田には市電が走っていた。

[10] 玉川上水 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両[2]が拠出された。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある[3]。

羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案した。

この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された[4]。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという[5]。

庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。

なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い[6]。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。

給水地域[編集]

玉川上水の給水地域は『御府内備考』に簡略で分かり易く説明されている。

玉川上水 (中略)今、此上水、流末広大にして四谷・麹町より御本城へ入、西南は赤坂・西の久保・愛宕下・増上寺の辺、これ松平豊後守屋敷の辺、金杉左右海手すべて北手、南東方は外桜田・西丸下・大名小路一円、虎御門外、数寄

[11] 暗渠ハンター 立会川を下る①: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-627a.html

立会川を3回ほどに分けて掲載します まず初回は、立会川の源流とされる碑文谷池から立会道路を下り、中原街道との交点(旗の台駅すぐそば)まで行きます。

また次回以降は立会川に原町から合流する、清水池からの支流を遡り、さらにその後中原街道から海まで。

スタートはここ、碑文谷池です。東横線の車窓からも見える、大きな池です。貸しボートなんかもあるくらい大きな池ですが、この日は相当暑くて誰もお客さんいませんでしたw。

池の北のほうに、こんこんと水が湧く様子が確認できます。

池の南から、東横線高架下に流れを発しているそうです。 碑文谷5丁目にあるみどりの散歩道が立会川。 目黒通りを越えると、一旦自転車も通さない車止めがあり、その先は公園に繋がっています。

ちなみに、都会の真ん中の「 マンションと合体しているセメント工場物件 」はこのすぐそば。

公園の先は「川の地図辞典」によると2車線の通り沿いに進むようですが、鵜呑みにせずその周辺の暗渠を探しましたが、どうも決定打に欠けます・・・。 そのうちに立会道路に出てしましました。大門橋。 立会川暗渠に造られた緑道で、真ん中が遊歩道になっています。 こちらに進むと下流、 こちらに進むと碑文谷池とは別の水源から伝わる上流です。 まずはこちらの上流を辿ります 程なく碑文谷八幡神社の参道となり、奥の社務所や社にたどり着きます。

この辺に湧水があるのかなあと注意深く探してみましたが・・・・。 井戸と水場があるくらいですね・・・。

暑い日でしたが鬱蒼とした森が作る木陰は涼しく、しばし一休み。

さて改めて立会道路を下ります。 お。ここは宮前橋。

しかしこの立会道路には、たくさんの「まっすぐな道」が交差しています。 この交差するまっすぐ道は、過去の区画整理のためなのか、それともこのそれぞれが「水道道路」的なものなのか・・・。これもあとで調べてみようっと。 目黒線西小山駅前に近づくあたり・原町清水池からの支流と合流し、その後流れは右にかくんと曲がって、あとは中原街道までやや蛇行したりして続きます。 その中原街道手前には、「荏原雨水調整池」があると以前「 目黒区川の資料館 」A津さんに教わりました。 それがこれ。 ここと隣接する公園との地下に巨大な調整池があるそうです。そういえば公園の片隅にはたくさんの土嚢が置かれていました。地下はどんなんなってん

履歴

[12] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054543425173

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