真盛寺

真盛寺

[1] 真盛寺 (しんせいじ)

35.6957995 139.6528728

Webページ

[2] 真盛寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%9B%9B%E5%AF%BA

真盛寺(しんせいじ)は、東京都杉並区梅里1丁目にある寺院で、真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院である。

[3] 真盛寺|杉並区梅里にある天台真盛宗寺院、三井寺, , http://www.tesshow.jp/suginami/temple_umezato_shinsei.html

真盛寺山門

真盛寺玄関

真盛寺の縁起

真盛寺は、寛永8年(1631)に湯島天神前に開創、天和3年(1683)谷中清水町に、元禄元年(1688)本所小梅寺町に、大正11年に当地に移転しました。当寺は三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、三井寺とも称されています。

杉並区教育委員会掲示による真盛寺の縁起

当寺は、天羅山養善院真盛寺と称し、真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院で、本山は滋賀県大津市坂本の西教寺です。本尊は阿弥陀三尊立像です。

「江戸本所真盛寺之記」によれば伊賀国(現三重県)出身の真観上人によって寛永8年(1631)に湯島天神前樹木谷(現文京区湯島)に開創されました。その後、寺域が御用地となって天和3年(1683)谷中清水町に、更に東叡山拡張のため元禄元年(1688)本所小梅寺町(現墨田区横川)にと移り、のち煤煙と浸水を避けて大正11年に現在の地に移転しました。

当寺は延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも称され、三井一門の香華院として知られています。

本所から移築した本堂は安永5年(1776)、元三大師堂は文政3年(1820)、中玄関書院は慶應元年(1865)と、いずれも区内では数少ない江戸時代の建物です。

また客殿・庫裡は明治天皇の行幸を仰ぐため細川侯爵邸を譲り受け、目白高田老松町から移築したものです。

境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村字中小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁財天を祀り放生池となっています。門前の木遣塚は元禄年間、江戸城普請のときうたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年五月三日に鳶職和泉会の有志によってうたい継がれています。

なお当寺には、「真観上人画像」、雪舟銘「商山四皓」図をはじめ数多くの文化財が所蔵されています。(杉並区教育委員会掲示より)

「杉並の寺院」による真盛寺の縁起

真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院である。当時の開創は、開山真観が、真盛上人開山の伊勢津の西来寺で得度、寛永5年関東に下り、川越仙波の無量寿寺中院末西明寺住職を経て江戸にのぼり、寛永8年、藤堂大学頭高吉の家来長谷川藤十郎の大きな援助により、湯島に江戸で最初の天台宗真盛派の寺を建立したことによる。開創間もなく豪商越後屋三井高利の帰依を受け、以来三井家の外護により、江

[4] 小沢川(1)最上流部ー金太郎と密かに残る蓋暗渠、そして池 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/15804649/

小沢川は、丸ノ内線新高円寺駅近く、杉並区梅里から流れ出し、杉並区和田の丸ノ内線(支線)中野富士見町駅近くで神田川に注いでいた全長2kmほどの小川で、現在では全区間暗渠となっています。小さな支流ながら独立した呼称を持ち、なぜか暗渠好きの間では比較的有名な川(跡)でもあります。 川は、段彩図(数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)でみるとわかるように、桃園川と善福寺川〜神田川に挟まれた台地にかなりはっきりと刻まれた谷を流れています。主な水源は、谷が環七通りを横切るすぐ東側に現存する湧水池「新鏡ヶ池」とされていますが、それより上流にも谷が伸び、さらにその先の台地上にも人工と思われる水路の痕跡が残っています。

年末に時間ができたので、4年ぶりにこの「小沢川」の暗渠を辿ってみました。上流部のカオスぶりは相変わらずでしたし、縁あって最上流部に密かに残る蓋暗渠や今まで行ったことのなかった"蛇窪"の支流跡にも足をのばすことができましたので、記事にしてみます。 既にいくつもの暗渠系サイト/ブログでとりあげられており(本ブログでも以前、主水源だった「新鏡ヶ池」を紹介しました)、あまり新鮮味はないかとは思いますが、おつきあいいただければ幸いです。 ============= 「小沢川」の暗渠は、丸ノ内線新高円寺駅の近く、青梅街道から五日市街道が分かれる交差点のすぐ東側から始まります。といってもここから200mほどは直線の水路敷が続いており、本来の水源よりも上流部につくられた、人工的な水路だと思われます。かつて青梅街道沿いには南阿佐ヶ谷駅付近まで、千川上水の分水「六か村分水」がひかれていましたが、その余水がここまで到達していたのか、あるいは街道沿いの排水路がつながっていたのでしょうか。

[6] 参道の横に新鏡ヶ池があります - 真盛寺のクチコミ, , http://i.4travel.jp/review/show/10805194

高円寺に向かう途中の環七沿いに真盛寺があり寄っていきます。参道を進むと山門があり、中は意外と広く本堂に向かう脇に「新鏡ヶ池」があり、神田川の支流の谷の先の源流のような位置にあります。交通量の多い環七の近くに意外な緑が残っていました。

[7] 杉並区 “真盛寺は三井寺”で入れませんでした! - 歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・, , http://blog.goo.ne.jp/cocoro110/e/6ac2ba5de665a7fd1d617acf3a9e1f22

歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

昨日の続きです。

環七に出て来ました。この辺り環七の外側は、妙法寺から繋がる、お寺だらけ、お墓だらけの寺町となっています。

先ずは、環七に面した日蓮宗の宗延寺。こぢんまりした境内に観音様が目立ます。かなり新しそうです。後は、特に眼を引くものは無さそうでした。

こちら、お隣の真盛寺は、以前より車で通過する度に、気になっていたお寺です。両側の長い塀、長い石畳みの参道、環七に面しているとは思えない佇まい、期待できそうです。

教育委員会の案内板を読むと、現三越の創業者三井高利の菩提寺だとか、書院と本堂は江戸時代の建築だとか、客殿と庫裡は細川侯爵邸から移築しただとか、庭には謂われのある池があるだとか、数多くの文化財が所蔵されているだとか、これは、もう大変なお寺のようなのです。

立派な山門です。

ところが、足下を見ると、一般の参拝見学は受け入れていないのです。これだけの寺が、と云うか、ふつう、寺は参拝を拒絶することありません。はじめて見ました、こんな立て札。

やはり、三井家一門だけの、極々私的な寺のようです。まぁ、事前に連絡していれば、三井家でなくても参拝見学は可能だと思いますが、それにしても、守りの堅い真盛寺です。

なかなか、良さそうに見えます。

しかたなく、参道を引き返します。両側は桜、満開になると綺麗なことでしょう。

左側を歩く二人の女子、寺の中から出て来たのです。小学校3、4年と云った年格好、どことなく、それとなく、歩き方と云い、顔つきと云い、服装と云い、三井家の関係者のような、育ちの良さを漂わせていました。ちょっと考え過ぎ?

真盛寺を出て、寺の脇の路地を奥に入って行きます。密集した住宅の屋根越しに、宗延寺の屋根が覗きます。

コンクリート塀の間を分け入ります。塀から卒塔婆が覗く風景。

左側は、ずっと、ずっと住宅地。右側は、ずっと、ずっと墓地。寺と墓地の隙間に住宅が密集しているのです。

この辺り、お彼岸、お盆になると、お線香の煙と匂いが立ちこめるのです。

夏になると、どこからともなく、冷く妖しい風が吹いて来たり、妖しい光が飛んでたり、風も無いのに卒塔婆が揺れていたり・・・・・・。

マンションの窓

[8] 真盛寺, , http://members.jcom.home.ne.jp/suginami-history/sanpo2/sinseiji.html

高円寺村字小沢の由来となったと伝えられる池があるのでぜひ行きたいと

思っていたお寺です。地形的には谷の上にあるはずですが、環状七号線は

埋められているのかあまり下がっていませんでした。でも、小川の跡と思われる

谷を発見したときはうれしかったです。6,200坪あり区内第3位の広さ。

越後や呉服店三井家の江戸寺

環状七号線の反対側から見る 真盛寺山門

環状七号線をはさんでお寺の反対側にあります。

写真ではよく分かりませんが、回りより1mほど低くなっています。

真盛寺の解説文 上をクリックすると大きな写真が見られます。

杉並の歴史のホームページ > 杉並の歴史散歩2

[9] 真盛寺の池: 行け! いけ! 探訪!! 東京の池, , http://peepooblue.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-3ad0.html

所在地:杉並区梅里1丁目

青梅街道と環状7号線の交差点の南西側の一帯には堀ノ内祖師で知られる妙法寺(日蓮宗)などいくつもの寺院が集まっていますが、その中にあるのが真盛寺(天台宗真盛派)です。江戸初期、湯島に創建され、やがて越後屋三井家の菩提寺となりました。現在地に移ってきたのは大正11年のことです。 環七から続く参道を行き、山門をくぐると、広い境内は清新な雰囲気で、なかなかよい感じです。そんな境内の東側に池があり、池畔には弁財天が祀られ、茶室があります。

[10] , , http://kawawalk.sakura.ne.jp/kandagawa/jou2/wadasiryuu2.html

富士見橋で合流する和田の支流を追ってのウォーキングの第二回。前回水路跡ははっきりしていてたどりやすいといったが、一ヶ所だけ一般の道路に紛れ、しかも次の車止めが道なりの道路に面していないところがある。そこからの再開だが、ただ地図を見れば谷筋の食い込んでいる場所やクネクネした道路は一目瞭然なので、どのあたりを探せばよいかのメドはたちやすい。

地図中オレンジ点線は40メートル等高線で、その食い込んでいるあたりが、旧高円寺村の元の地名、小沢の由来となった谷筋である。

[11] 真盛寺客殿・庫裏, , http://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/sugi/sub31.htm

真盛寺客殿

客殿は玄関棟と奥殿棟の二棟か

らなり、明治二十六年旧細川侯爵

邸として建てられた伝統的な書院

造りの建物です。

[12] 杉並梅里の「真盛寺」は三井越後屋の菩提寺~堂宇に漂う豪商三井の威厳と香り~|大江戸散策徒然噺, , http://ameblo.jp/hmazda/entry-11310764210.html

大江戸散策徒然噺

大都市の中のお江戸の名残りを紹介します。江戸時代260年にまつわる日本全国の歴史散策をお楽しみください。

伊勢松阪の商人で現三越の前身である越後屋の三井高利がお江戸日本橋に江戸店を構えたのが江戸時代の延宝元年(1673)のことです。江戸に進出した越後屋は当寺とすれば斬新な現金掛値無し、反物の切り売りなどの新商法導入して繁盛し、豪商の名を独り占めにしたのです。

そんな三井越後屋の菩提寺が杉並の梅里に堂宇を構えています。その寺名は天台真盛宗の「真盛寺」です。環状7号に面して長い参道を持ち、その参道の遥か奥に立派な山門を構えています。

開基は江戸の初期の寛永8年(1631)に現在の文京区湯島に堂宇構えましたが、その後谷中、本所と移転し現在地に移ったのは大正11年(1922)のことです。

山門

参道の長さとそれに連なる長い塀を見るだけで当寺の格式と威厳を感じざるを得ません。緑濃い参道を進むうちに都内でこれほどの立派な参道を持つ寺がいくつあるだろうかと思案していると、目の前に立派な山門が現れます。その山門の脇に「檀家以外の参拝はご遠慮ください」の立札が置かれていました。

そんな立札を横目に、山門からさらにつづく参道を眺めつつどうしても境内に入ってみたい誘惑にかられ、禁を破って境内を拝見させていただきました。

境内俯瞰

境内へとつづく参道は大きく湾曲しているため、境内の全貌をすぐには掴めません。境内に進んで行くと参道の幅が急に広くなり、広々とした境内の奥にご本堂がどっしりとした姿で構えています。この本堂は安永五年(1776)に本所から移築したものだそうです。

ご本堂

そして本堂から左へ目を移すと大名屋敷の表玄関を思わせるような建物が連なります。この建物は客殿と呼ばているもので明治26年に旧細川侯爵邸として建てられた伝統的な書院造りの建物を移築したものです。

客殿

さらにこの中玄関書院の左手には奇妙な格好をした建物があります。美しい白壁の一階部分と屋根の上に飛び出したようにつけられた二階部分が和洋折衷様式の建物のような雰囲気を醸し出しています。この建物は庫裏と呼ばれ、これも旧細川邸から移築されたものです。これらの歴史的建造物が手入れされた広い境内の庭を囲むように配置されています。

庫裏

その庭の傍らの木々に覆われた場所に鐘楼堂が一つ佇んでいます。

鐘楼堂

[13] 12.天羅山 真盛寺, , http://home.att.ne.jp/air/jobcci/info-suginami/koenji/temple/temple12.html

車の往来の激しい環状七号線に面した真盛寺。 境内は広く六千二百坪。 山門をくぐり抜けると江戸時代にタイムスリップしたよう。

開祖は伊賀の国真観上人、ご本尊は阿弥陀如来である。

この寺は慶安二年(1649年)本郷の湯島天神前に建てられたが、その後本所、今の梅里に移ってきた。

延宝元年(1673年)に三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも呼ばれている。

[14] 杉並区教育委員会 - 指定登録文化財, , http://www.kyouiku.city.suginami.tokyo.jp/bunkazai/h15bunka.html

平成15年度 指定登録文化財

紙本著色四季耕作図屏風(しほんちゃくしょくしきこうさくびょうぶ) 一双

有形文化財 (絵画) 平成16年3月24日 指定 / 所在地:杉並区梅里1-1-1 真盛寺

真盛寺所蔵の本屏風(高さ159.3�p)は、六曲屏風一双を用いた横長の大画面に、農家の庭先や田圃にくり広げられる稲作作業の様子が描かれた四季耕作図の一種です。

右隻(幅355.8�p)右端の春の魚取りから、苗の準備、田植と各作業の順に描き進み、夏の草取り、灌漑までを表し、左隻(幅375.8�p)に至り、秋冬の稲刈り、脱穀、俵詰めまで、全体で稲作に関する20に近い場面が描かれています。背景には、四季を表す遠山が添えられ、農作業の外に獅子舞、猿廻し、収穫祭などの農村の四季の風物も描き加えられています。

本図は、農家とそれを取りまく人々を少し大きく描き、各画題を近接させて充実した配置を試み、生彩に富み且つ活気溢れる画面を構成しています。とくに獅子舞などの賑わいを描き添えたこと。賑わいの中で踊る人々の姿と衣服、田楽踊りと田植する人々の衣服とが晴れ着のように華やかな色調に表わされていることが画面に効果を与え、やまと絵の四季耕作図の中でも優品として評価できるものとなっています。

筆者の住吉廣守〔宝永2 (1705) 年〜安永6 (1777) 年〕は、土佐派の分派である住吉家中興の名手と言われ、内記と称し、宮廷や幕府の御用をつとめました。現存する作品はあまり知られておらず、本図のような六曲一双の大作はたいへん貴重なものです。

慈宏寺の本尊で「荒布の祖師」として親しまれている本像は、像高62�p、肩巾15�pの寄木造りの像で、玉眼を嵌入しています。像容は右手で杖をつき、左手を胸前に曲げ、数珠を持ち直立した日蓮上人の像で、木造の着衣姿を彫出し、彩色がほどこされています。眼もとはやさしく、鼻筋がとおり、閉じた口元の間に朱が少し残っています。頬や顎のあたりに張りがあり、耳朶の大きな耳の形が美しく、穏やかで力強い面貌の表現は、宗祖にふさわしい高邁な精神を備えた上人の人間像を見事に表しています。

本像において注目すべきは身にまとう袈裟の表現で、金泥・緑青・朱など極彩色で唐草文や花文をあしらい、しかも華美に流れず、むしろ上人像の荘厳を一層たかめる効果をもたらしています。坐像が多い日蓮の木像

新鏡ヶ池

新鏡ヶ池

履歴

[16] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054543180131

メモ