五箇山

五箇山

[1] 五箇山 (ごかやま)

36.3986677007118 136.895227432251

Webページ

[2] 五箇山 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1

五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。

[3] 【富山】人喰い谷 五箇山旧道群 2014.5.04 HONDA XR250R KONA UNIT KAWASAKI KDX125, , http://www.youtube.com/watch?v=4TE6ft2JxB4

富山県は人喰い谷を2014年人類初貫通。

[4] 五箇山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1

地名の由来[編集]

赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約120ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多い。

歴史[編集]

平家の落人が住み着いたと伝えられている。1183年、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている。

また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、『五箇山誌』(1958年)には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説もある。

白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、1471年(文明3年)浄土真宗本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となりこの地域も浄土真宗に改宗したようである。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる。

江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在でも残っており、人の代わりに人形が川を越える)。

塩硝[編集]

戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(1570年(元亀元年) - 1580年(天正

[5] 富山県道54号福光上平線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E9%81%9354%E5%8F%B7%E7%A6%8F%E5%85%89%E4%B8%8A%E5%B9%B3%E7%B7%9A

概要[編集]

起点:富山県南砺市刀利大平72の8

終点:富山県南砺市西赤尾町峯山帰2の1

旧西礪波郡福光町から小矢部川の源流を遡り、五箇山と呼ばれる庄川筋の旧東礪波郡上平村まで、ブナオ峠を越えて連絡している。古くは塩硝街道とよばれ、五箇山で産出した塩硝を金沢まで運ぶ重要なルートであった。

近年は土砂崩れなどの災害を受けており、現在は、中河内(なかのこうち) - ブナオ峠の区間は事実上、車両の通行ができない。西赤尾町 - ブナオ峠の区間も土砂崩れによる災害を受けることが多く、また車道もすれ違いが困難で且つ、急勾配が続くことから、険道の要素を含んでいる。

歴史[編集]

1925年(大正14年):福光から刀利までの馬車道路が開通する。

1935年(昭和10年):下小屋まで林道が開通する。

1954年(昭和29年):中河内から下小屋まで林道開発、大型車が通る。

1965年(昭和40年):ブナオ峠までの林道810m完成。

1966年(昭和41年)8月:滝谷トンネル(建設当初は中河内トンネル)建設を開始。

1966年(昭和41年)12月18日:滝谷トンネルが貫通する。

1967年(昭和42年)3月:滝谷トンネルが完成する。

1968年(昭和43年):林道ブナオ線(総延長16km、幅員3.6m)開通する。

1973年(昭和48年)3月31日:県道に昇格し、「刀利西赤尾線」として路線認定。

1982年(昭和57年)12月23日:「刀利西赤尾線」を現路線名に変更。

接続道路[編集]

富山県道10号金沢湯涌福光線(南砺市刀利)

林道城福線(南砺市刀利)

国道156号(南砺市西赤尾町)

道路の通称[編集]

塩硝街道

冬期閉鎖区間[編集]

南砺市刀利(刀利トンネル) - ブナオ峠 - 同市西赤尾町 26.5km

概ね11月中旬から翌年5月中旬まで閉鎖される。起点にあたる刀利トンネルの福光側には、看板やバリケード、常設の道路情報掲示板がそれぞれ設置されているが、林道城福線との交点から中河内方面向かってすぐに常設のゲートが設置されている。一方上平側には、終点にあたる国道156号との交点からすぐに常設のゲートや常設の道路情報掲示板がそれぞれ設置されている。冬期間はこれらのゲートが閉まり、起終点に設けられている看板には通行止めの規制標識に冬期閉鎖期間を標したものに替えられ、当ゲートから先の区間が実

[6] むかしの旅 - 南砺市郷土Wiki, , http://nanto.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%80%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%AE%E6%97%85

八尾から百瀬への旅は、栃折峠にさしかかると、とたんに険しくなり、今の道より百米も上に大杉があって、みんなそこを通ったものである。やがて一の瀬の番所のところへおり、さらに高清水というところまで登りつめ、そこから石灰山まで下り坂を歩いたそうである。昔は旅をするのに空荷はもったいないと、往復ともに背中で物をせおって運んだり、牛の背中を利用したが、おもなものは木炭、食料品、石炭などであった。仙の原の下に大橋・小橋があったが利賀大橋の今の位置よりずーと川底のほうに大橋があって、そこから少し来て七軒部落の仙の原の下に小橋があった。橋をわたると、栗当の下の「ダイヤ」へ出たそうである。谷川にそって、ずーと家があるのをたずねながら登ると今の藤崎徳一さんの家の前へ出た。そこから藤井橘太郎さんのところまでのぼると、やがて百瀬へと出る峠を通ったが、その途中に石灰山があった。井波からは杉谷へ登り(庄川を通らないで)大橋のところへ降りてきた。(二つ屋の向うの大きな水の落ちる滝のある峠が通路になっていたので・・・)今の大橋のところの川底(その頃はダムがない)を通り仙の原を越えて小橋を渡って栗当に出た。

[7] 2010年10月, , http://www.geocities.jp/kyongsea/sub81006.htm

2010/10/31 古地図は面白い

昔の地図を見ればいろんなことが分かる。庄川の大牧と長崎の間に「重倉」という集落があったり、杉尾と栃原の間に「城」「障子倉」「新山」という集落があったことが分かる。杉尾峠が細野峠であったり、ただし蓑谷の上に正谷があったことは記憶している。この絵図では上田が二っ屋となっており、若杉が描かれていない。若杉は行政区画上大鋸屋に含まれていた。(※新山集落は大正末期まで5軒、昭和初期には4軒だったが、昭和9年3月に部落の男性5名と女性1名が井波町へ買出しに出掛け栃原峠を越えて返る途中に表層雪崩に遭い全滅。残された女・子供だけでは生活が成り立たず離村が相次ぎ、残った2軒も昭和30年11月に離村してしまった。※山村調査グループ編『村の記憶』1995年桂書房発行に詳しい。)この地図には新山から赤祖父山を越えて東西原〜西明〜北野を通って城端に至る新山峠道も描かれている。

2010/10/30 杉谷峠

今まで行ったことがなかった、行く必要のなかった(はっきり言って知らなかった)昔の峠道を急に訪ねてみたくなった。腰切岩へのアプローチには及ばなかったが、杉谷峠から見る利賀川周辺の眺めは初めて見る角度だった。一向一揆に思いをはせながら瑞泉寺〜旧利賀街道や浅野総一郎が尽力した小牧ダムを改めて眺めてみるのも悪くない。小牧ダム建造当時の写真展「浅野総一郎と小牧ダム」が庄川ふれあいプラザ(砺波市庄川町金屋)で行われている。(約1年間) 古い地図を見れば小牧から仙納原大橋の間は道がなかったことが分かる。

[8] 帰雲城 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E9%9B%B2%E5%9F%8E

帰雲城 (かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)は、今の 岐阜県 大野郡 白川村 保木脇(ほきわき)にあった 日本の城 である。 内ヶ島氏 の居城であったが地震による山崩れで埋没した。

略史 [ 編集 ]

帰雲城は当地の有力武将である 内ヶ島氏 の居城であった。 寛正 年間( 1461年 - 1466年 )の 1462年 ころに 内ヶ島為氏 により築城された。

天正 13年 11月29日 ( 1586年 1月18日 )に 天正地震 が起き、 帰雲山 の山崩れで埋没。城内と城下を合わせ推定500人余りが埋没したとされる [1] 。当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため不在だったわずか4人と言われる [2] 。城主の 内ヶ島氏理 ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって 内ヶ島氏 は滅亡した。また、内ケ島氏の領内に金山があったことから、そのとき埋まったとされる 埋蔵金 伝説がある。

立地 [ 編集 ]

城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っているが、その場所が城跡であるとの確証は得られていない。

昭和30年代に保木脇集落ができ、採石業を営む建設会社の社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったことから、帰雲山崩壊地を背景とする作業現場周辺を住民の協力を得て整備し、その霊を祀る観音像や神社などを建立し、公園化した [1] 。

願泉寺資料 [ 編集 ]

泉州 貝塚(現在の 大阪府 貝塚市 )にある 願泉寺 住職道喜(宇野主水)が 安土桃山時代 につけていた日記『 貝塚御座所日記 』に以下の記述がある。

天正十三年七月五日、未刻、大地震。

天正十三年十一月十一日、夜九ツ半地震。この頃「光るもの」みたるもの多し。

廿九日夜四ツ半過ぎ大地震、十余日止まず。 京都 三十三間堂 の六百体の仏像すべて倒る。 飛州の帰雲と云う在所内島と云う奉公衆ある所なり。地震に山をゆりくずし山河多くせかれて、内島の在所へ大洪水はせ入って、内島一類地下人にいたる迄残らず死たる也。他国へ行きたる四人残りて泣く泣く在所へ帰りたる由。彼の在所はことごとく渕になりたる也 。

他、「越中国名跡志」という史料にも同様の記述がある。

関連書籍 [ 編集 ]

研究書 [ 編集 ]

岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 中世』(1969年発行)

岐阜県編集発行『岐

[9] 内ヶ島氏 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%B6%E5%B3%B6%E6%B0%8F

内ヶ島氏 ( 内ヶ嶋氏 、うちがしまし)または 白川氏 (しらかわし)は、 室町時代 から 戦国時代 にかけての 日本 の 氏族 である。 帰雲城 を本拠とした。

出自 [ 編集 ]

出自は推測の域を出ておらず、詳細は不明である。

楠木氏説 [ 編集 ]

『 斐太後風土記 』では、「 後花園天皇 の御代( 1428年 - 1464年 ) 信濃国 松代 住人 楠氏 の末葉なる 内島将監為氏 、 足利義政 将軍 の命を奉じて 白川 に来たり、その威勢を振るい、村々を兼領し、 寛正 のはじめ、牧戸に城を築き住居、漸々村々の随従に依りて、後亦 保木脇村 帰雲山 に城を築きて勢強く、 小島郷 はさら也、 越中国 砺波郡 川上領をも押領せり、家臣には 山下 、 尾神 、 川尻 らの勇士ありて、破竹の勢いになりぬ」と、楠氏の後裔であったと記されている。

猪股党説 [ 編集 ]

武蔵国 榛沢郡 に 内ヶ島 という地名があり、 猪俣党 の支族・ 岡部国綱 がその地を拝領し、 内ヶ島 と名乗ったとするもの。この系統は『 吾妻鏡 』では 承久 3年( 1221年 )の 承久の乱 に 上洛軍 として 内ヶ島忠俊 の名前が見え、その宇治川における戦いで活躍したと記されている。この頃に内ヶ島氏は 有力御家人 であったようである。 内ヶ島氏理 ら一族は、この後裔であるともされる。

西園寺家説 [ 編集 ]

『 白川年代記 』の「 内ヶ島系図 」によれば、内ヶ島氏の先祖は 内ヶ島左衛門尉経喬 という人物で、その7代後の子孫が氏理とされる。

つまり、 建武 元年( 1334年 )、 西園寺公宗 が 叛逆罪 で討伐された際、その弟の橋本経喬は兄に連座して 飛騨 へ流罪となった。当時の飛騨国の 国司 ・ 姉小路頼鑑 は経喬を保護し、 白川郷 小呂 に住まわせた。 照蓮寺 の 嘉念坊善享 も経喬を憐れみ、寺内に庵を建設しこれを養っていた。その後、経喬は照蓮寺の 執事 ・ 三島右衛門 の 婿養子 となり、やがて 内ヶ島経喬 と名乗った。喬経は次第に勢力を拡大していき、3代目 経薫 のときに 向牧戸城 を築き、白川郷、更には 越中国 砺波 にまで勢力を拡大したとする。

『 岷江記 』では、経喬が 中先代の乱 において 信州 諏訪郡 で戦い、後に 松代 に5万石を賜ったということが記されている。しかし、『 尊卑

[10] 【現役最凶険道】富山県道54号線:登山ばっかり - ブロマガ, , http://ch.nicovideo.jp/ma-yoko/blomaga/ar358809

2013年10月14日。 2年ぶりに行っちゃいました。 標高差620m、道のり9.8kmの県道なのに登山と変わらんね。 中河内側から登ります。 通行止め区間唯一のヘキサ看板を拝みます。 崖側に倒れてしまった標識。 今回は普通に立っている標識のほうが少なかったような… 落石とぬかるみ地点。 ここは2年前、4年前と変わらずです。 欄干の上をバランスバランスで進みます。 まだ捨てられずに富山県の手が入っている証拠。 上の写真は通れるように枝が切られています。 下の写真は今年の平成"25"のペンキ。 このペンキ、2年前には"23"とありました。 先には1箇所だけだが、"24"の数字も見られました。 どうも、その年にできた落石にペイントしていってるようです 今までに無かった案内板「塩硝の道 中河内へ」。 山へ登る登山道らしきものも見えました。 長瀞峡遊歩道に刈払いした道もあったし、整備までしているんかいな? 大崩落地点。 動画撮影で静止画は撮らなかったが、 水の通らなくなった方向居場所には草が生い茂っていました。 あぁ、自然に還るのね。 大崩壊地以降は2年前なら比較的歩きやすかったのだが… 今年はヤブが濃い場所が目立ちました。 くっつき虫が多く、刺が痛かった。 下小屋橋。 手前が崩壊していて浮いています。 これ、全部"道路"なんだぜ… 4年前からある倒木地点。 今回はわりと通りやすかった。 その倒木地点から不動滝までが核心部。 こんな場所は、もう普通です。 不動滝手前の路肩崩落地。 2年前と違い、手前の身長大あった倒木は消えていました。 ふむ、崖下に落ちちゃったんだね。 写真ではわかりにくいが左側の路肩が崩壊。 それが20mほど続いています。しかもヤブが邪魔で歩きにくい。 詳細は動画がわかりやすいのだがね。 さらに右側のヤブが邪魔で左側ギリギリを歩くところ。 2年前もあったが、ここがザレて滑りやすく怖い。 不動滝の橋のさきにある巨大な倒木は今年も健在でした。 そして、登山者の車が多いブナオ峠にゴールです。 中河内から3時間5分。2年前よりも早く着けました。 今回はヤブが濃かったが歩きやすかった。感覚がおかしいだけかもしれんが。 倒木が前回より圧倒的に少なかったのが原因かも。 ブナオ峠バリケードコンクリート上での昼飯。 動画のうpですが、いつぐらいだろう…。 早くて12

[11] 道路レポート 牛岳車道, , http://yamaiga.com/road/usidake/main2.html

さて、今回こそ牛岳車道の“探索”をしたいと思う。

いま私がいるのは、道路3代(牛岳車道→小牧峠隧道→金屋トンネル)と鉄道1代(庄川水電専用線)が集中する通称「小牧峠」の険だ。

この小牧峠の険を、一番最初に越えたであろう道が、明治23年に開通した牛岳車道だ。

(その根拠は、金屋がスタート地点として記録されていることや藤橋(後述)を通行していたことであり、迂回路は考えられない)

それ以前近世まで利賀道は、右の地図の範囲からは外れるが、1.6kmほど南の杉谷峠を越えていたという。

また、現在の国道156号のもととなる、庄川沿いを五箇山や白川へ向かうルートは、大正時代以降に「庄川沿岸道路」と呼ばれて工事が進められたのであって、それ以前はせいぜい獣道程度であったと伝えられている(庄川町誌など)。

ようするに、今から立ち入ろうとしている小牧峠の旧々道は、牛岳車道由来であるとほぼ断定出来る。

そしてそこで目にするものは、この探索における最初の、牛岳車道のリアリティを持った姿と言うことになる。

2009/4/29 7:00

戦時中に建設された、異形と言うべき小牧峠隧道。

私には意外と思えたが、この隧道でさえ、これまで余りその存在が公に語られたことはなかったらしい(読者さんからのコメントより)。

物理的には現国道と極めて近接しているが、前回解明したとおり西側は寸断されており、また東側の国道接点は、夏になると見通せない藪になるとのこと。

なるほど、タッチの差で「隧道リスト」の選から漏れたこと(リストは昭和42年以前に廃止された隧道は除外してあるが、金屋トンネルの開通は昭和41年である)や、なぜか歴代地形図に記載されなかった(昭和27年版にも記載がない)ことから、今まで余り知られない存在だったらしい。

ということは、この先の旧々道は最大級に“謎めいて”いるのだろう。

現地でそこまで考えるゆとりはなかったが、今思うと相当興奮して良い事例だ。

そんな訳で、小牧峠隧道西口の脇から、若草の茂る狭い平場へと進む。

そこは降り積もった枯れ枝によって柔らかい踏み心地があり、既に路面や路面跡を思わせるものではない。

前方はなおさらで、雪解けからそう経っていないはずだが、既に背丈以上の草の勢いを感じる。

「庄川町誌」によれば、落石が多く年中危険で、特に冬場は交通途絶の原因になった

[13] 徒然雑記帳 資料探し@図書館, , http://2802rzmby9.blog51.fc2.com/blog-entry-1013.html

本日午前中の天気は良いんだけど午後から荒れるとか… そんなんで、資料探し@図書館行き。 でっ、こんなの見つけた。 「富山の秘境 埋もれた未知のふるさとを探ろう」 石崎直義 中川達、巧玄出版、昭49、1 県内の秘境?を掲載されてるんだけど、その中に高校生時代に五箇山・利賀界隈をウロチョロしたチョイ前の画像がでてたのよね。 利賀大橋の画像ですです。 高校時代、R156は嫌という程通ったけど、利賀大橋通行不可だった。 通行不可というより、R156のスノーシェッドで行くに行けないが主な理由だ。 しかし、とあるhpを見ると1980年前後?に火災で通行不可な的な表示がされてる。マジ? 1980年前後の利賀大橋の記憶が無いのが残念。。。

[14] 大発見?珍風景?青森東北町に「日本中央の碑」の謎 | 青森県 | トラベルjp<たびねす>, , http://guide.travel.co.jp/article/11376/

「どこか遠くの謎めいた何か」 そんな意味合いで平安時代の昔から、歌枕として数多くの偉人・歌人に詠まれた「壷の石文(つぼのいしぶみ)」。 その所在は明治天皇も気にかけ、石文にまつわる伝説の残る千曳神社の境内を掘り起し、捜索させたほどでした。 千曳神社には魔除として崇めていた巨大な石碑を1000人で引っ張ったという伝説があり、それが、「つぼのいしぶみ」=「日本中央の碑」ではなかったかと言われていたのですが、残念ながら明治天皇はその石碑を見つけることはできませんでした。 謎めいた何か…「日本中央」と彫られた石碑は、昭和の時代に入って偶然発見され、青森県東北町の国道4号線沿いにある「日本中央の碑歴史公園」に保存・展示されています。

「日本中央の碑保存館」で日本中央の碑を見てみよう

「日本中央」、正確には「ひのもとのまなか」と読みます。 かつて東北の人々は、自らの国を日本、すなわち「ひのもと」と称していたとされます。 お世辞にも達筆とは言えない字体で「日本中央」と彫られていますが、彫ったのは平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂と伝えられています。 征夷大将軍がこんな字を!?といった所からして大きな謎ですが、坂上田村麻呂が彫ったという確証は得られていません。 日本中央の碑歴史公園の敷地内にあり、無料で見学できる保存館には、日本中央の碑はもちろん、石碑にまつわる興味深い伝説や、東北町に残る伝承、源頼朝や西行法師、岩倉具視ら数々の偉人・歌人が詠んだ歌などが展示。本州の果てにある日本中央の碑の謎への好奇心が大いにくすぐられます。

「日本中央の碑発見地」はぬかるみの湿地帯に

日本中央の碑保存館から車で5分ほど。青森方面に向かい、国道4号線から右折し、県道8号線に入り、青い森鉄道・千曳駅と交差した先に、日本中央の碑発見地があります。 発見地は、県道8号線沿いに大きな看板があって見つけやすく、完備された駐車場があり、そこから木造の階段を降りると、「日本中央の碑」と書かれた180cm(発見された石碑と同じ大きさ)の木造の碑が建っています。 石碑は昭和24(1949)年の梅雨の時期に発見されました。村の農家が馬頭観音を祀るためにちょうど良い石を物色していたところ、湿地帯で半分土中に埋もれた大石を掘り起し、汚れを落としたところ「日本中央」と刻まれていたのです。壷の碑伝説は村人も周知しており、村中が

履歴

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