友ヶ島の空中写真。左側(西)の島が沖ノ島、右側(東)の島が地ノ島。1974年撮影の4枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
大阪湾と紀伊水道を分ける紀淡海峡を塞ぐ形で立地し、東は紀伊半島、西は淡路島と対する。
紀淡海峡は地ノ島と沖ノ島により、「淡路島 - 『由良瀬戸』 - 沖ノ島 - 『中ノ瀬戸』 - 地ノ島 - 『加太ノ瀬戸』 - 紀伊半島」と三分されている。中でも由良瀬戸は、重要航路がひしめく要所。
虎島は、沖ノ島北東部に連なる陸繋島である。
地ノ島東端と沖ノ島西端に灯台がある。沖ノ島の灯台は明治初期に作られた歴史ある灯台であるが、今も現役で夜は周辺に光を照らしている。友ヶ島灯台(沖ノ島)も参照。
灯台敷地内で灯台の西側広場に、日本標準時子午線の東経135度線が通っている。
沖ノ島のコウノ巣山展望台付近に参謀本部測量局(後の陸地測量部、国土地理院の前身)により明治18年に設置された一等三角点がある(標高119.90m、北緯34度16分50秒916、東経135度00分21秒270)。
航空保安無線施設の"友"「TOMO」VOR/DME (TME 116.4Mhz) が沖ノ島の山の頂上にある。
歴史[編集]
対岸加太にある淡嶋神社は、神島が発祥の地とされる。詳しくは淡嶋神社の由緒を参照。
江戸時代において、紀州藩の藩主であった徳川頼宣の命令を受けた紀州藩の蘭学者、李 梅渓(り ばいけい)が虎島内に葛城修験道における5つの「行場」を書いた文字を彫った。これを「五所の額」という。現在もその跡が残っている。なお、修験道の山伏修行では今でも虎島にあるこれらの行場へ向かい、断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なう。
明治時代に旧日本軍により、外国艦隊の大阪湾への進入を防ぐ目的で、沖ノ島内5箇所と虎島に砲台や防備衛所が造られた。第二次世界大戦までは要塞施設として一般人の立入は禁止され、当時の地図や地形図にも白く塗りつぶされて記載されなかった(修験道の山伏修行にて、虎島に入る人達は特別に入島を許されていたと言われている)。島内の遊歩道に道幅の広い部分が多いのは、砲台などへ通じる軍用道路として開削されたためである。
後の第二次世界大戦は航空戦主体となり、対艦用に造られた砲台は使用されることのないまま終戦を迎えた。戦後は友ヶ島全体が瀬戸内海国立公園に指