沖ノ島

沖ノ島

[1] 友ヶ島沖ノ島

34.2812774107846 135.010299682617

Webページ

[2] 友ヶ島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E3%83%B6%E5%B3%B6

友ヶ島の空中写真。左側(西)の島が沖ノ島、右側(東)の島が地ノ島。1974年撮影の4枚を合成作成。

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

大阪湾と紀伊水道を分ける紀淡海峡を塞ぐ形で立地し、東は紀伊半島、西は淡路島と対する。

紀淡海峡は地ノ島と沖ノ島により、「淡路島 - 『由良瀬戸』 - 沖ノ島 - 『中ノ瀬戸』 - 地ノ島 - 『加太ノ瀬戸』 - 紀伊半島」と三分されている。中でも由良瀬戸は、重要航路がひしめく要所。

虎島は、沖ノ島北東部に連なる陸繋島である。

地ノ島東端と沖ノ島西端に灯台がある。沖ノ島の灯台は明治初期に作られた歴史ある灯台であるが、今も現役で夜は周辺に光を照らしている。友ヶ島灯台(沖ノ島)も参照。

灯台敷地内で灯台の西側広場に、日本標準時子午線の東経135度線が通っている。

沖ノ島のコウノ巣山展望台付近に参謀本部測量局(後の陸地測量部、国土地理院の前身)により明治18年に設置された一等三角点がある(標高119.90m、北緯34度16分50秒916、東経135度00分21秒270)。

航空保安無線施設の"友"「TOMO」VOR/DME (TME 116.4Mhz) が沖ノ島の山の頂上にある。

歴史[編集]

対岸加太にある淡嶋神社は、神島が発祥の地とされる。詳しくは淡嶋神社の由緒を参照。

江戸時代において、紀州藩の藩主であった徳川頼宣の命令を受けた紀州藩の蘭学者、李 梅渓(り ばいけい)が虎島内に葛城修験道における5つの「行場」を書いた文字を彫った。これを「五所の額」という。現在もその跡が残っている。なお、修験道の山伏修行では今でも虎島にあるこれらの行場へ向かい、断崖絶壁の崖を上り下りして修業を行なう。

明治時代に旧日本軍により、外国艦隊の大阪湾への進入を防ぐ目的で、沖ノ島内5箇所と虎島に砲台や防備衛所が造られた。第二次世界大戦までは要塞施設として一般人の立入は禁止され、当時の地図や地形図にも白く塗りつぶされて記載されなかった(修験道の山伏修行にて、虎島に入る人達は特別に入島を許されていたと言われている)。島内の遊歩道に道幅の広い部分が多いのは、砲台などへ通じる軍用道路として開削されたためである。

後の第二次世界大戦は航空戦主体となり、対艦用に造られた砲台は使用されることのないまま終戦を迎えた。戦後は友ヶ島全体が瀬戸内海国立公園に指

[3] 世界遺産登録の沖ノ島 一般の上陸を全面禁止へ | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170715/k10011060271000.html?utm_int=news_contents_news-main_002

新たに世界遺産に登録された福岡県宗像市の沖ノ島について、島を管理する宗像大社は遺産の保全・管理に厳格に取り組む姿勢を示すため、年に1度だけ、公募で選ばれた一般の人が島への上陸を許される現地大祭について、来年から、一般の人の参加を取りやめることを決めました。

[4] オノゴロ島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%82%B4%E3%83%AD%E5%B3%B6

オノゴロ島、又はオノコロ島とは、日本神話や記紀に登場する島。特にイザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島となっている[1]。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「石殷」で一字)と表記する。

オノゴロ島は、自凝島とも表記され、「自(おの)ずから凝り固まってできた島」の意味である[1]。

歴史[編集]

国生み神話[編集]

神話内容のうち、オノゴロ島が登場する箇所を記述

詳細は「国生み」を参照

イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が、国生みの際に、「天の浮き橋(あまのうきはし:天と地を結ぶ宙へ浮く橋。神はこの橋を渡って地へ降りるとされる[2]。)」に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった[3]。これがオノゴロ島である[3]。

オノゴロ島に降りた2神は「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの:広大な殿舎)」を見立て、[4]イザナギノミコトは左回りにイザナミノミコトは右回りに天の御柱を巡り、出会った所で相手の魅力を褒めあい、この島で成婚する[5]。

古事記 下巻[編集]

黒日売(くろひめ)が吉備の国へ帰郷した際に、大雀命(仁徳天皇)は後追い吉備の国へ行幸するが、道中詠った歌にはオノゴロ島が登場する。

原文

於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、

『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』

乃自其嶋傳而幸行吉備國[6]。

口語訳

是(ここ)に天皇、其(そ)の黒日賣を恋ひ、大后欺き「淡道嶋を見むと欲(おも)ふ」と曰いて幸行する時、淡路島に坐(いま)して、遥に望みて歌ひて曰く

『押してるや、難波の崎から出で立ちて、我が国見をすると、アハ島 オノゴロ島 アジマサの島も見える、サケツ(先つ)島も見える。[7]』

乃(すまわ)ち其の島傳(つた)いて、吉備の国に幸行する。

「押してるや」は難波の枕詞。「我がくにみれば

[5] 大島 (福岡県) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6_%28%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%29

地理 [ 編集 ]

宗像市本土側の神湊港から北西に約6.5 km の場所に位置する。約5km東の海上には 地島 がある。地島・ 沖ノ島 とともに玄界灘と響灘を分ける島で、島の西側の海が玄界灘、東側の海が響灘である。

面積7.17 km² で [1] 、福岡県の離島の中では面積が最大。島の多くは丘陵地であり起伏が激しい。中央部にある御嶽(224m)は島の最高峰で、山頂には展望台と宗像大社中津宮の奥の院にあたる御嶽神社がある。

島の東側には本土との間を結ぶ船が発着する大島港フェリーターミナルがあり、フェリーターミナルのやや南側に大島漁港、北東側に宮崎漁港がある。人家・集落はこれらの港の周辺部に集中している。

人口は731人(2010年国勢調査) [1] 。

島内に 宗像市立大島小学校・中学校 がある(小中併設校)。

歴史 [ 編集 ]

1889年 (明治22年)の 町村制 施行時に 宗像郡 大島村 として村制を施行。 2005年 3月28日 に宗像市に編入合併された。

産業 [ 編集 ]

漁業 が中心で、小規模な 農業 もあるほか、島の西側にある牧場で 黒毛和牛 を飼育している。

交通 [ 編集 ]

陸上交通 [ 編集 ]

県道541号線 が島南東部のフェリーターミナル周辺部の中心集落を通り内陸部を一周する形で敷設されているほか、中心集落内や海岸部などへの道路もある。

島内にはバスは運行されていない。タクシーは2008年4月に宗像市内のタクシー事業者であるみなとタクシーが島内に営業所を設置し、1台を配置しており通常はフェリーターミナルにいる。

また、フェリーターミナル等でレンタサイクルを借りることもできる。

水上交通 [ 編集 ]

九州本土の宗像市・神湊港より大島漁港まで 市営フェリー 「フェリーおおしま」で25分、旅客船「しおかぜ」で15分。ダイヤおよび運航状況については宗像市のウェブサイトに記載がある。

その他に民営の海上タクシーなどがある。

観光名所 [ 編集 ]

履歴

[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054536665000

メモ