第三海堡

第三海堡

[1] 第三海堡

Webページ

[2] 東京湾第三海堡構造物移設工事, , http://www.youtube.com/watch?v=9GWdknXdhLc

2010年8月6日に行われた東京湾第三海堡構造物移設工事の様子を撮影しました。

ゴーゴー追浜 http://oppama.net/

[3] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/rekishi/dai3kaiho.htm

東京湾海堡の歴史

■第三海堡の歴史

■第三海堡の建設

第三海堡は、第二海堡より南2,611m、走水低砲台より北2,589mの位置にあり、水深が約39mもあって潮流も激しく、建設工事は明治年間における軍事土木最大の難工事になりました。(社)土木学会:『明治工業史 土木篇』(1929.7.31)に第三海堡建設に関して、詳しく述べられていますので、それを見てみましょう。

第三海堡の建設工事は、徹頭徹尾、波浪との闘いに終始しました。工事は、明治25年(1892)8月の捨石から始まりました。捨て石の上に割栗石を積み上げ、満潮面上はコンクリートで固めて堤防を築きました。堤防の内部には砂を充填しました。砂地盤の支持力を測るため、載荷試験を行い、地盤許容支持力を18トン/m2と定めました。しかし、このように苦労して築いた堤防も、明治32年(1899)10月、35年(1902)9月の高波によってあっけなく破壊されてしまいました。度重なる高波による破壊に対して遂に100〜150トンのコンクリートブロックを据え付けましたが、これも明治44年(1911)7月の高波によって破壊され、5名の行方不明者を出す被害が発生しました。そこで、長さ14m、高さ7m、上幅4m、底幅6m、重さ1,500トンの鉄筋コンクリートケーソン13函からなる防浪堤を前面に据え付けることとしました。ところが、大正6年(1917)9月の高波により、6個は移動し、6個は傾き、原位置にとどまったのはわずかに1個という惨状を呈しました。これに対して、重さ35トンのコンクリートブロック713個を投じ、ようやく安定を得ることができました。第三海堡は明治45年(1912)3月に竣工予定でしたが、ようやく竣工したのは大正10年(1921)のことでした。明治40年(1907)までの工事費だけで249万円(現在の価格で約140億円)もかかっています。

第三海堡には、15cmカノン砲4門、10cmカノン砲8門の大砲と探照灯などが装備されました。面積は34,000m2でした。

■レンネ少佐の見立て■

明治34年(1901)、築城本部長であった石本新六中将は、築城の大家、ドイツのレンネ少佐に建設中の第三海堡工事を視察してもらい、この事業の成否について意見を求めました。レンネ少佐は、「世界中でこのような深い海中に構造物を建設した例はない。第三

[5] 東京湾海堡, , http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.html

観音崎公園の三軒家園地には第三海堡の案内板がある。しかしながら,その地図に記された付近,観音崎京急ホテル上方の走水沖を眺めて見ても,今では第三海堡の姿は見あたらない。

明治新政府は,首都「東京」を護るため,東京湾口の富津岬から観音崎を結ぶライン上に,当時の大砲の射程距離を考慮して,2.5km間隔で三つの海堡を築いたが,大正12年に発生した関東大震災で,第三海堡は大半が崩壊水没してなかば暗礁と化してしまった。

国土交通省は平成12年(2000),東京湾を航行する船舶の安全を確保するため,東京湾口航路整備事業に着手,7年の歳月を費やして,平成19年(2007)撤去工事はようやく完了した。このため,現在,三軒谷園地から見ることができるのは,第一海堡と第二海堡だけになってしまった。

[6] 東京湾第三海堡|アクションおっぱま, , http://www.action-oppama.org/project/dai3kaiho/

第三海堡の保存・公開

東京湾第三海堡とは、東京を防護するため東京湾口に設けられた砲台を設置するための人工島です。明治25(1892)年の着工以来、当時の土木・建設技術を結集して30年間に及ぶ難工事の末、大正10(1921)年に、竣工しました。しかしながら、わずか2年後の関東大震災によって崩壊し、海中に没してしまいました。関東大震災で大破した第三海堡は、その後も波浪により崩壊が進み、半ば暗礁化してしまいました。第三海堡は浦賀水道航路に接しているため、付近の水域では海難事故が多発するようになり、航路の安全を確保するため、第三海堡を撤去し水深23mを確保する工事が始まりました。

撤去工事は平成12年(2000)から平成19年(2007)に亘って実施されました。その間、撤去構造物の内、大兵舎と呼ばれる構造物はうみかぜ公園に移設され、探照灯、砲台砲側庫、地下通路、観測所と呼ばれる4つの構造物が、追浜展示施設(民有地)に保存・展示されていました。

しかし、撤去工事終了後の展示施設の維持が難しくなったということで、移設場所がなければ、この貴重な遺産が廃棄されるとの話が伝わり、ぜひ追浜地区内に残したいとの声が起こりました。

しかし、いずれもかなりの重量物で陸上輸送が出来ず、海上輸送でクレーンのアームが届く範囲にしか移送できないなど、困難な条件がさまざまありました。

関係者の努力によって国(国土交通省)と横須賀市の協議が整い、夏島都市緑地内に移設され、保存・公開されることとなりました。(移設は探照灯、観測所、砲台砲側庫。地下通路は運搬に絶えられないとして移設されません)

夏島都市緑地の周辺には、貝山緑地、貝山地下壕、夏島貝塚、明治憲法起草の地の碑などの歴史遺産、日産自動車追浜工場、住友重機等の産業施設、他にアイクルや海洋研究開発機構等が存在することから、第三海堡構造物もこうした地域資産と連携し、活用をはかることが求められています。

第三海堡遺構の一般公開について

1.ご予約無しの見学日

毎月第一日曜日が一般公開日です。ご予約無しで10:00〜16:00まで見学できます。

入場は無料ですが、このたびガイド料も無料としました。

場内は自由に見学できますし、ご希望によりガイドも致します。

なお、見学等パンフレット『東京湾第三海堡物語』 1部200円 発売中です。

台風や集中豪雨等の恐

[7] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/kako/index.htm

第三海堡の撤去工事は、平成19年8月をもって完了しました。

浦賀水道航路に存在する第三海堡は、東京湾防衛のための海上要塞で明治23年に着工し大正10年に完成しましたが、大正12年の関東大震災により沈下水没し、壊滅的な被害を受けたまま放置され、水没した状態で暗礁化し航行船舶の難所となっていました。第三海堡の撤去では水深−23mまでの土砂やコンクリート塊を撤去しました。

工事にあたっては、コンクリート塊は起重機船で台船に積み込み、漁場環境改善として魚礁などに有効活用を図りました。100t以上の大型コンクリート塊は潜水作業で吊り金具を装着し、起重機船で吊り上げました。

土砂については大型グラブ船にて浚渫を行いました。撤去に当たっては、危険物に対する安全確認のための探査工を併行して行い、十分な安全対策を実施しました。

[8] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/rekishi/index.htm

はじめに

明治から大正にかけて、首都東京を防衛するために東京湾口部に海堡(かいほ)と呼ばれる海上要塞が建設されました。海堡は、砲台を設置するために造られた人工島で、千葉県富津岬側から神奈川県横須賀市側にかけて3つの海堡が建設されました。

このうち、第三海堡は、完成から2年後に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受け、ほとんどの構造物が海中に没し暗礁化して航路障害となっていたことから、船舶航行の安全を確保するために、平成12年度から平成19年度にかけて撤去工事を実施しました。

ここでは、東京湾海堡建設の意味と歴史について紹介します。特に、撤去された第三海堡建設は、当時の世界最先端の技術を導入したプロジェクトであり、アメリカ陸軍から自国の海堡建設の参考にするため、資料提供を求められたほどです。第三海堡は、不幸にして関東大震災で甚大な被害を受けましたが、その建設技術は今日の海洋・港湾建設技術の基礎となり、多大な経験と教訓を与えてくれました。

[9] 東京湾要塞 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B9%BE%E8%A6%81%E5%A1%9E

東京湾要塞は、帝都東京を脅かす海からの攻撃に備えるため、明治政府によって1884年より建造開始された東京湾周辺の軍事施設の集合体で、最初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の来攻が想定しての施設であった。主要な設備は、千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、三つの海堡(かいほう)からなる。

1894年に「臨時東京湾守備隊司令部」が置かれ、翌1895年には「東京湾要塞司令部」が横須賀市上町に置かれた。

日露戦争の旅順攻囲戦においては、東京湾要塞が持つ28サンチ榴弾砲のうち米が浜砲台より6門、箱崎高砲台より8門、他4門が旅順へと送り込まれ、第二回旅順総攻撃以降ロシア軍陣地攻撃・旅順港砲撃に使用された。

昭和時代には、沿岸砲台には軍縮によって余剰となった艦砲が海軍から移管・設置され、東京湾の湾口部全体を射程に納めることとなった。これにより東京湾要塞は沿岸砲台の射線を第一線、海堡と横須賀近辺の射線を第二線とし、二段構えで湾内に侵攻する敵艦隊の撃破が可能となった。

東京湾海堡[編集]

詳細は「海堡」を参照

東京湾要塞の重要な設備として、東京湾入口の最挟部である富津岬から観音崎を結ぶように造成された人工島の海堡がある。海堡には砲台と砲台を運用するための設備が備えられ、浦賀水道の沿岸砲台を突破した敵艦艇を海上から砲撃する任務を持っていた。このため各海堡の備砲は横須賀側の猿島や走水の砲台と合わせて全体で浦賀水道全体を射程に納めるように配置され、沿岸砲台と協調して敵艦艇を左右と前から挟撃する態勢が取られていた。

海堡は、明治の中頃に建設が始まり30年にわたる海上工事と多大な工事費、及び犠牲者を出しつつ大正時代に完成を見て15センチカノン砲などが配備された。

しかしながら、第三海堡が完成した2年後の関東大震災によって第二・第三海堡が被災、復旧は困難との判断になり除籍され、第一海堡のみの運用となる。第三海堡は特に地震による被害が甚大で、4.8メートルも沈下し全体の三分の一が水没してしまい、その後も少しずつ侵食が進み暗礁となってしまう。

近年、海上交通の安全において、第三海堡は大きく支障があるとのことで、2000年12月から2007年8月にかけて撤去作業が行われた。第一・第二海堡は

[10] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/rekishi/dai3kaiho_fukugen.htm

平成12年12月から平成19年8月にかけて、東京湾口航路整備事業の一環として第三海堡撤去事業が行われました。

第三海堡は、大正12年の関東大震災によって甚大な被害を受けたあと、長年にわたり風浪の影響を受け、構築物としての原型はわずかに残るばかりでした。

第三海堡は当時の工兵技術の最先端をもって築造されたもので、特に沈下対策や波浪対策は、近代土木史上、貴重かつ注目に値すると考えられています。

この貴重な資料を後世に残すため、主に撤去工事で明らかにされた情報を基に復元図面を描き起し、それを3 次元CG モデルで多角的に検証して、コンピュータグラフィックス(CG )で第三海堡を復元しました。

[11] 海堡 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%A0%A1

海堡(かいほう、かいほ)は、洋上における要塞の一つで、海上に人工的に造成した島に砲台を配置したものである。日本では明治、大正に建設された複数の海堡が主に東京湾に存在している。

日本の海堡[編集]

日本は明治から大正にかけて、山縣有朋陸軍大将が日本国内の要塞化を主張。東京湾には千葉県富津岬沖から、神奈川県横須賀市側にかけて首都防衛のために3ヵ所の人工島が造成された。完成後は兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて東京湾口に円弧状に存在する防衛ラインの一環として運用された。

なおこれらの東京湾に作られた海堡は、現在は洋上要塞として機能していない上に、東京湾周辺の海上交通の輻輳から海難事故の原因と指摘されていることから、ヨット愛好家でもある石原慎太郎をはじめ、船舶運航関係者が撤去を主張している。一方で、建設当初に堅牢に設計されたために撤去が困難である部位を残している。

第一海堡[編集]

1881年8月起工、1890年12月完成。富津岬の沖合いすぐに位置し面積は約23,000m²。東京湾要塞の海堡として最初に運用が開始された。

第二海堡と第三海堡は1923年9月1日の関東大震災により被災し、その年の内に廃止・除籍されたものの、第一海堡はその後も使用され、東京湾要塞の一部として第二次世界大戦の終了時まで運用された。

現在中央部が破壊されているが、これは第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍により要塞無力化のために破壊されたためである。

土砂の堆積と関東大震災による隆起のため、富津洲と地続きになっていたことがある。海底の水深は1.2mから4.6mであり、第一海堡を撤去しても航路として活用するには別途浚渫が必要である。富津岬突端の展望台からは横須賀市を背景に第一・第二海堡を一望することができる。

現在は海上保安庁によって灯台が設置されている。なお財務省の所管であり、無断での立ち入りはできない。

第二海堡[編集]

1889年8月起工、1914年6月完成。第一海堡と共に富津市に属する。浦賀水道と内湾の北側境界に位置し面積は約41,000m²。1923年9月1日の関東大震災により被災、その年の内に廃止・除籍された。

その後海軍が使用し、第二次世界大戦中は対空砲が設置されるほか、敵潜水艦の東京湾への侵入を防ぐ防潜網が設置されている。敗戦にともない第一海堡同様、施設を爆破処

[12] 第一海堡, , http://www011.upp.so-net.ne.jp/fortress/tokyobay/fortno1_1.htm

千葉県の富津岬を訪れると、その先の海上に、二つの人工島を見ることができる。それが第一海堡と第二海堡である。「海堡(かいほう)」とは、人工島に築いた砲台という意味である。

※神奈川県よりに第三海堡も築かれたが、関東大震災で大部分が海中に沈み、近年座礁事故を防ぐために撤去された。

なぜ海堡が築かれたのかは、現地の地形を見れば容易に理解できる。明治時代、帝都東京への砲撃を防ぐためには、東京湾への敵艦侵入を防がなくてはならなかった。湾口両岸の観音崎(神奈川県)と富津岬(千葉県)に砲台を築けば内湾への侵入を抑止できるが、地形上の制約で砲撃可能な時間が限られるため、敵艦の数が多ければ強行突破されるおそれがあった。できる限り砲撃可能な時間を確保し、かつ大量の大砲でいっきに敵艦を全滅させるにはどうすればよいか。導き出された答えが、第一~第三海堡の築城であった。設計は、ロシアのクロンシュタット海堡群を参考に行われた。

第一海堡は、富津岬に陸地に近い、水深約5mの海中に築かれた。当初は28cm榴弾砲14門に加え、12cmカノン4門、19cmカノン1門などを備えていたが、関東大震災後に大改築が行われ、特に左面は完全に姿を変えた。28cm榴弾砲は4門と大幅に数を減らされたが、第二海堡から15cmカノン2門入砲塔2基が移設された。この砲塔はアジア太平洋戦争の終戦まで現役であったため、進駐軍によって徹底的に破壊された。

関東大震災による海底の隆起により、第一海堡と富津岬が地続きとなり徒歩で渡れるようになったが、潮流の変化により昭和40年代に砂州が途切れ、再び、船でなければ渡ることはできなくなった。さらに現在は、所有者である財務省が、不発弾調査が済んでいないことや崩落の心配を理由として、上陸を禁止している。無断で上陸されないよう注意願いたい。

※このページで紹介する現地の写真は、上陸が禁止される前に調査した際のものである。

世紀の大工事で完成した海堡の遺跡には、国防史上だけでなく、土木史上でも、はかり知れない価値があるわけだが、残念ながら現時点では上陸禁止のまま放置され、観光資源や歴史教材として有効に活用されていない。近年、南側護岸の崩壊が進み、中央部の機関砲座が崩れ落ちた。このままでは、現存する他の遺構も失われてしまうであろう。まずは、これ以上の崩壊を防ぐ手立てを行政機関にお願い

[13] 第一海堡,第二海堡の旅, , http://www.pat.hi-ho.ne.jp/shirai/kaiho.htm

第一海堡,第二海堡の旅

そのうち画像を載せます。

2000年7月20日、海の日ならではの?良い天気

富津岬から第一海堡に向けて漕ぎ出した。

東京湾を横断しよう、、などとだいそれた事を考えていたが、湾内の交通事情と私たちの実力を考えて、とりあえず第一海堡までを目指すことにした。

富津岬から見る第一海堡は、目の前にそそり立っている感じだった。

この海域を漕ぐための事前情報は。

1,東京湾は時計回りに海流が発生している。

2,富津近辺は海流の変化が激しい。

3,湾内は、大型船の通り道(航路)が決まっていて、一方通行になっている。

4,横断禁止の区域が決まっていて、そのエリアは航路を横切ることはできない。

5,この海域は24時間監視されていて、不審なことをすると海上保安庁の船がすっ飛んでくる。

6,大型船がひっきりなしに航行しているので、非常に危険で難しい、諦めた方がよい。

などで、予めボードセイリング協会の秋葉氏から、海図を見せて戴き、指導してもらった。

それまで海を漕いだことがなかったので、前の週に稲毛海岸で練習をした。

練習日は潮の満ち引きが激しく、しかも午後から海がかなり荒れてきて、絶好の?練習日和だった。

波も頭からかぶるほどで、沖で沈したときの復活法も練習した。

そろそろと、漕ぎ出すと、何の苦労もなく、簡単に第一海堡に着いてしまった。

森に覆われた丘をバックに砂浜が広がり、たくさんの自家用クルーザーが停泊していて、多くの人たちがバーベキュウを楽しんでいる。ブルジョア達の秘密の楽園といった感じだ。

遠浅の砂浜に着岸し、島の探検に出かけた。

コンクリートでできた廃墟(地下壕)と、密林の組み合わせは正にショッカーの秘密基地という雰囲気。

展望の利く砲台跡から、西の方角を眺めれば、第二海堡は直ぐそこだった。その先に第三海堡も見える。

「よし、行こう」二人は目があった瞬間、そう言った。

第一海堡から第二海堡まで漕ぎ始めた。天気は崩れる様子もない。

遥か前方を通過した船の波に翻弄される。チリ地震の津波の仕組みがよくわかる。

第2海堡が近づいてきた。こちらは島というイメージではなく、建造物に近い。

煉瓦づくりの壁がいい味を出している。

砂浜の上陸地点がないので、タイミングを伺いテトラポットから上陸した。

砲台の跡や、弾薬庫などが残っているが、森は無い、日陰もほとんどない。

[14] 東京湾第三海堡構造物(兵舎・観測所・探照灯・砲側庫)(とうきょうわんだいさんかいほうこうぞうぶつ(へいしゃ・かんそくじょ・たんしょうとう・ほうそくこ))|横須賀市, , http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/shi70.html

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更新日:2013年3月28日

東京湾第三海堡構造物(兵舎・観測所・探照灯・砲側庫)(とうきょうわんだいさんかいほうこうぞうぶつ(へいしゃ・かんそくじょ・たんしょうとう・ほうそくこ))

指定年月日:平成21年(2009年)3月10日、(追加)平成25年(2013年)3月11日

第三海堡は東京湾要塞を構成する海上の砲台の一つとして、明治25年(1892年)に起工、大正10年(1921年)に完成。しかし、関東大震災で約3分の1が水没した。その後暗礁化し、多くの海難事故を引き起こしたため、近年、国土交通省により撤去工事が行われた。

平成17年(2005年)にうみかぜ公園に展示されたれんが造の構造物は、この撤去工事で引揚げられた第三海堡の一部である。れんがはイギリス積で、入口に弧状アーチ、窓に平アーチが採用され、室内はヴォールト構造である。

平成22年度に夏島都市緑地に設置した施設は、観測所・探照灯・砲側庫の3基の構造物である。

観測所は指揮官の位置するところで、指揮、観測、通信連絡に便利なように視界が広く高い場所を選んで設置されている。探照灯夜間の敵艦探知の施設である。構造物中央部分には海側に探照灯を備え付ける台座があった。さらにその後方の通路部分には探照灯を台座へ運ぶためのレール(軌条)があった。砲側庫は内部は2室に分かれている。脚壁から天井の半円形アーチまでコンクリートの一体構造になっており、鉄筋は確認されていない。

[15] 東京湾海堡ファンクラブホームページ, , http://kaihoufc.com/

履歴

[20] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054531774100

メモ