氷川鉱山

氷川鉱山

[1] 氷川鉱山

Webページ

[2] 道路レポート 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main10.html

14:20

まだ2時過ぎなのに、早くも暖かさを失っていく冬の太陽。

たった一本のチェーンで塞がれた作業路へ入ると、そこは車が通れるだけの幅がある。

路肩にはコンクリートで固められた石垣があり、ただの作業道にしては大げさな気がする。

やはり、古道なのだと思った。

鉱山にも関係しているかもしれない。

地形図に神社や対岸への橋が描かれている氷川鉱山までは、地図読みで1.8kmほどである。

この距離なら、道がちゃんとしているならすぐに着けるだろう。

北岸谷底の都道に対し、南岸山上の古道の距離的な優位を感じる。

すっ、すげー…

私は、作業道へ入って100mも行かないうちに、もうこの道がただの作業道ではあり得ないと確信した。

道はちょうど日原川の河谷の傾斜が急から緩へ切り替わるラインをなぞっており、道よりも上には点々と造林地があった。

故に造林作業道として使われてきたのだろう。

しかし、路肩をのぞき込めば、そこは足の長い石垣である。そして谷底。

まるで林鉄のようだ。

作業道に入ってからも登りは続いているが、その勾配は緩くなった。

木々の切れ間から対岸の都道が見えた。

今日だけで既に一往復した都道には何となく愛着を感じたが、それがとても小さく見えた。

とても高いところまで自分が登ってきているのだと知る。

地図は言う。この道は谷底からぴったり150mの高さの山腹を通っていると。

道幅は狭く、この写真の場所はこれでも広い方だ。

待避所のような場所はここまで一カ所もない!

入り口のチェーンさえ無ければ乗用車でも入って来られるが、殆ど誰も来ていないらしく路面には落ち葉が溜まっている。

落ち葉には瓦礫が多く混じっており、私はそれを知らず踏んでパンクしないように細心の注意を払った。

こういう道はパンクしやすい。

こんな道だが、地下には水道管が埋設されているようだ。

コンクリートで固められた路面には「制水弁」や「空気弁」と書かれた蓋が顔を出していた。

相変わらず斜面の傾斜は厳しく、道は両側が岩場である。

そのまま痩せた杉林に入った。伐採するのももちろんだが、手入れも大変だろうに。

しかし、この林の存在が、日原みちを生きながらえさせて来たのかもしれない。

こうしてチャリに跨ったまま進めたことは、時間的に大変大きな意義があった。

うわっ。 ここは狭

[10] 廃線隧道【BLOG版】 奥多摩工業曳鉄線, , http://haisentn.blog41.fc2.com/blog-entry-166.html

奥多摩工業の石灰輸送専用線、「氷川鉱山曳索鉄道氷川線」を見てきました。曳索鉄道とはケーブルを利用して無人の貨車(トロッコ)を運行する鉄道で、氷川鉱山~氷川工場間の約4.8㎞が昭和28年に開通しています。

地図を見ると写真の右上辺りが曳索鉄道の起点になっているようですが、氷川工場の敷地内のため目視でも確認できませんでした。曳索鉄道は工場内からそのまま最初のトンネル(1号トンネル)に入っているので、地形図の点線道でトンネルの出口側に迂回することにしました。 【地図】

[11] 廃線レポート 奥多摩鉱業氷川鉱山 専用索道跡, , http://yamaiga.com/rail/nippara/main.html

私を魅惑して止まない日原の壮絶な山道風景。(過去のレポ1,2)

しかし、その景色を彩るものは天然の山河ばかりではなかった。

むしろ、彼の地で最大の存在感を有するもの…それは現役石灰石鉱山による、未曾有の地形改変によるものだった。

この地での石灰石採掘は歴史は意外に短い。

少なくとも明治、大正、そして昭和の頭まで、日原地区に埋蔵される6億トン以上といわれる石灰石は眠り続けてきた。

だが、日本の近代化と共にコンクリートの需要が爆発的に増え、全山石灰石と言っても過言ではない日原の山々が初めて認知されるに至る。

昭和12年、「奥多摩電気鉄道会社」発足。

同19年、同様の目的で鉄道を開設していた「青梅電気鉄道会社線」の終点御岳から、氷川(現:奥多摩駅)まで延伸が完了。そして開業と同時に国有化となって(→国鉄青梅線)、社名も現社名「奥多摩工業」に改称される。しかし結局、同社は戦前戦中において石灰石の採掘を始められなかった。

本業である石灰石採掘を氷川鉱山によって開始したのは、戦後復興の黎明期である同21年。

極大化した石灰石の需要に応えるべく、同28年には国内最大の曳索鉄道となる氷川線を開通。生産量を大幅に拡大。

そして現在に至るまで、地底及び地上に複数の鉱区を拡大しつつ、氷川鉱山は石灰石の採掘を続けている。

さて、昭和21年開山から同28年の曳鉄開通までの間の輸送はどうなっていたのだろうか。

実は、この僅かな期間だけ利用された索道が存在した。

終点と起点は曳鉄線と同じだが、輸送の手段は異なっていた。当然経路も違っていた。

索道(=索鉄、鉄索)ではゴンドラと呼ばれる籠に鉱石を乗せ、これを架空のワイヤーにぶら下げて輸送する。いわばロープウェーである。

これまで山行がでは索道を探索の主目的に据えたことはなかった。

索道は法律上は鉄道の仲間とされているから、廃止された索道は則ち廃線なのだが、個人的にどうもあまりそそられない。索道は空中に張ったワイヤーが主役の輸送であるから、廃止後地上に残るものとしては支柱や積み下ろし場もしくはワイヤーの弛みを取る緊張所くらいなものである。それに、索道はそれほど地上の微地形に干渉せず進むものだから、その経路を地上から辿るというのも、極めて骨が折れる作業である。はっきり言って、実りの多い探索とはなりにくい。

大沢地区から日原側

[14] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main2.html

2007/1/23 11:24 【現在地】

日原古道から「とぼう岩」へ挑戦する試みの、重要な道程である旧日原橋。

江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿 巻之百十五』日原村の項では、本橋を指して「長さ八間幅三尺、日原村へゆく橋なり、板にて作れり」とある。

当時の橋は、渡した丸太の上に板を敷いただけの板橋だったのだろう。長さ約15m幅90cmほど。

既に街道としての役目を終えた今日でも橋が原型を止めていたのは思わぬ収穫であった。が、これを渡って先へ行くとなれば話は別だ。

最近この橋を渡ったという話を私は聞いたことがなかったので、なおさら渡れるのかという疑念を払拭できなかった。

橋の下の川の流れは徒渉出来ないほどではない。

いままで、幾つもの廃橋を渡ってきたが、こいつはちょっと得体が知れない。

その理由は明らかに、この工事用足場のような鉄板にある。

これではまるで、伝説上の怪物、フランケンシュタイン…。

死肉のような朽ち木の橋に金属を組み合わせ、一応はそれらしい形になっているのだが……。

もしこの足場がなければ「渡れない」と即決しただろう朽ちっぷりなのだ…。

ここはトリ氏も明らかに躊躇している…。

結局、万が一のことがあっても死ぬほどの高さではないということに力を得て、フランケンブリッジに挑戦することになった。

もちろん渡るのは一人ずつだ。

足場の板は肩幅ほどしかなく、手摺りとなるべきワイヤーもぎりぎりまで細い。

今のこの橋を渡らしめる物はワイヤーから直接につり下げられた金属足場であって、本来の木製の渡り板はただの負荷でしかない。

ご覧の通りその一部はワイヤーから外れ、後はもう落下の時を待つだけになっている。

そして、その為に橋全体のバランスが横へずれており、足場が左に5度くらい傾斜している。

かるく霜が降りたような冷たい鉄板は、如何にも滑りそうで恐ろしさを倍増させた。

橋の上からは、幅広になった日原川を見渡せる。

この辺りはかつて、山で伐った木材を川に流して輸送する「管流し」を行うために「鉄砲出し」をした場所だという。

鉄砲出しとは、川に一時的な堰を(多くは木材で)作り、堰を壊したときに予め河原に置いた材木を激流で押し流す事。

東北ではこの管流し(鉄砲出し)を林鉄が代替するようになったが、ここ日原では車道が建設されるまで行われてきた

[16] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main3.html

無残な残骸を晒している兎峰(とぼう)橋。

私がその名を知ることが出来たのは、ある方の助言により、「月刊土木技術」の昭和25年9月号を目にすることが出来たからだ。

そこには「東京都兎峰橋工事報告」という一節があり、その書き出しは次の通り。

本橋は、東京西多摩郡氷川町日原地内多摩川支流、日原川に沿う景勝の地戸望岩の断涯に架かるもので(中略)、倉沢橋と同一路線にして林道開発事業の一環として施工せるものである。

現在「旧都道」と呼ばれている道は、昭和18年に着工した林道で、戦時中の中止をはさんで同25年、この兎峰橋の完成を以て全通した。

当時は対岸の道が都道(戦前は東京府道)に指定されており、路線指定変更の年度は不明だが、おそらく全通後まもなくと思われる。

なぜなら、倉沢橋および兎峰橋の施工をおこない、この「工事報告」を残したのが東京都建設局道路課だからだ。

しかしともかく、当初は林道という名目で建設されていたのは事実である。

それでは今回はこの「工事報告」をベースにして、兎峰橋の在りし日の姿を振り返ってみようと思う。

残念ながら架設後の写真は見あたらなかったが、工場制作時に仮組立をした時の写真があった。

それが右の写真である。

やはり橋の形式は「上路トラスドアーチ」で、このうち手前側の半分ほどが残骸を晒している。

奥の半分はどうなってしまったのか…、おそらく地中にバラバラになって眠っているのだろうが、はっきりしたことは分からない。

←これも同じく仮組立中の写真で、人物が写っているので大きさの比較が出来るだろう。

現地でひしゃげた残骸を見ても、かなり大きな橋だとは思ったが、それでも全体の半分以下しか見ていなかったことになる。

今回この資料によって竣功年が昭和25年であったことも明らかとなったが、戦後間もない鉄不足の時期でありながら、敢えて永久橋である鉄橋を選んだところに、日原開発への強い意欲と期待が感じられるのである。

もっとも、当時想定されていたのはあくまでも林業開発のみであり、昭和20年に採掘が開始されていた氷川鉱山の鉱石運搬や、日原地区での観光客増などは全く考慮していなかった。

本橋としては日原地区の林産物搬出用のトラックの交通以外将来に於いても交通量の増加なきものと思われ、今後此の地区の発展は殆ど考えられない処である

確かに当時としては、氷川鉱山の鉱

[17] 【トロッコ】奥多摩工業曳鉄線 ‐ ニコニコ動画:GINZA, , http://www.nicovideo.jp/watch/sm2691569

動画の説明文:全文を表示

奥多摩工業・氷川鉱山から奥多摩駅横の精製プラントまで石灰石を運搬する無人のケーブルトロッコです。間近で見れるポイントにたどり着くには、林道を経て道なき山中を歩き回らねばなりません。杉林の中にあるの...

[19] 日原林道, , http://island.geocities.jp/rindou_tansaku/tokyo-top/to-056/to-056.htm

↓日原線では荒れ、ガレもなく、奥へ進むほど山深い山岳ダートの趣が増して

きます。登山者の四輪との遭遇を気にしなければそれなりに楽しめるでしょう。

……こんな感じ……

■奥多摩町の日原川の渓谷に沿って山深く分け入る半ダートのピストン林道で、都道204号線の終点が林道区間の起点となっている。川沿いに付かず離れずで遡っていくコースであるため、急な勾配は見られずに全体的に穏やかさが漂って走りやすい。雰囲気的には明るく、次第に山深く荒々しい山岳ダートの趣が濃くなり、同時に地形的な険しさも増すが、かといって荒れが見られるわけでもないので安心して楽しめる1本だろう。支線林道としては孫惣谷線と大ダワ線が存在するが、残念ながら共に普通に探索できない状態となっている。なお、当林道沿いには登山道入口があるため、ハイカーや登山者の車がしばし通行するので、すれ違いにだけは注意したい。

■JR奥多摩駅前から都204号線を日原川沿いに遡ると、都道区間の終点となった左右に別れる突き当たりにぶつかりますが、そのT字路の右手が「日原鍾乳洞」で、左折側が日原線の入口になっています。路面は一般道となんら変わりない舗装状態ですが、ここには目立つ林道標やら鍾乳洞の案内板が設置されているのですぐにそれと分かるでしょう。

<a href="rink/to-056-1.htm" target"_blank"="">→案内板を眺める!

<a href="rink/to-056-1.htm" target"_blank"="">

[20] 奥多摩工業を巡る鉄道たち, , http://hkuma.com/rail/okutetsu.html

奥多摩の山中より採掘した石灰石を近代日本の工業・産業界に供給して来た奥多摩工業ですが、その前身が実は奥多摩電気鉄道という鉄道会社であったという事実は以前より何度か触れてきました。

それは同社の Webサイトにある沿革のページにも記載されていますが、そもそもこの企業は青梅電鉄の御嶽駅と氷川(現奥多摩)駅を結ぶ区間の鉄道路線を敷設した上で、さらにその奥地の日原にある鉱山から石灰石を採掘し、東京湾岸部の京浜工業地帯へと運ぶ目的で設立されたものなのです。

ところが、この線区の開業と同時に奥多摩電鉄は青梅電鉄もろとも国鉄へ買収されてしまった為、残念ながら私鉄線として日の目を見る事はなかったわけです。

その後、社名を奥多摩工業へと変更して本来のミッションである採掘事業に精を出しますが、氷川駅に集められた鉱石は青梅線上を行く石灰石貨物列車で運ばれ、長らく沿線の風物詩となっていました。

しかしそれも 1998年に廃止されてしまい、以後表向きには鉄道と縁の切れた存在となって現在に至っています。

でも忘れてはいけません、奥多摩工業は休止線であるものの現在も鉄道路線を保有しています。

そう、東京都が小河内ダム建設のために敷設し、一時期は西武鉄道の手に渡った事もある水根貨物線ですね。

また、それ以外に現役の鉄道も運行させている事に気づく人も多いのではないでしょうか。

奥多摩駅に隣接する奥多摩工業氷川工場と日原の氷川鉱山を結ぶ曳索鉄道がそれです。

大部分がトンネル内ですが、日原街道の何箇所かで沢を渡るその姿を目にする事が出来ます。

もう一つ、一般の人の目に触れる機会はまずありませんが、氷川鉱山の中には鉱石運搬用の鉱内軌道もあった筈で、実は奥多摩電鉄以外でも鉄道と深い関係を持つ会社と言えるかと思います。

という事で、一部は過去のレポートも含め、以下に奥多摩工業を巡る鉄道たちについてまとめてみたいと思います。

[24] 奥多摩工業 曳鉄氷川線 1976.7.16 日原 電車線, , http://tsunechan.web.fc2.com/19770716okutama.html

奥多摩工業、二度目の撮影です。(たぶん…)

この日は曳鉄氷川線の『走り』を狙うのが目的でした。

先ずは氷川工場の全景を眺めつつ、

ついでに小河内ダムまで延びる廃線跡も一瞥。

その後はバスに乗って日原へ移動しました。

曳鉄氷川線は大半がトンネル内ですが、

途中で何箇所か外に出る場所があります。

特に日原川を渡る橋が見どころ?ではないかと予想していました。

バスの車窓から眺めたところ、堂々たるアーチ鉄橋でした。

\(^o^)/

とりあえず日原鉱業所付近を観察し、

アーチ橋は帰路の途上で撮影することにしました。

日原鉱業所は静かな山間にありました。

静かと言っても様々な機械音がしていますけれど。

曳鉄の”ガラガラ ゴトゴト”という走行音も…

………

???

えっ? 曳鉄 動いていな~い…((+_+))

何故かトロッコは停車したままでした。

空の鉱車、石灰石を積んだ鉱車が放置されたように停まっています。

なんだか妙な光景でした。

曳鉄が動いていないので周辺を探索。

すると…

道路の下方にナローのヤードを発見!

よく見ると架線があります。

そして坑口にはTLの姿が\(^o^)/

しかし、どうやら稼働はしていない様子…

今日はお休みなのか、それとも廃止???

この件につきましては、後日明らかになるのですが…

そんな発見に浮かれていると、曳鉄がガラガラと動き始めました。

それと同時に雲行きが怪しくなり(*_*)

雨脚は強まる一方なので、撮影を切り上げて退散することにしました。

雨の中をトボトボ歩いていると、砕石輸送のダンプカーが停止。

『乗せてやるよ~』

と声をかけていただきました。

雨でびしょ濡れになっていた旅の者を見て哀れに思ったのでしょうか…?

ダンプのおじさんはCB無線で

『ヒッチハイカーの姉ちゃんを乗せた~♪』

と喋っていました(笑)

おかげさまで無事に奥多摩駅に戻れました。

ダンプのおじさん、その節はありがとうございました。

[26] 奥多摩工業曳鉄線水根貨物線, , http://members.jcom.home.ne.jp/cappa-ahiru/rail-photo/eitetusenn/eitetsu001.html

JR青梅線の終点「奥多摩駅」です。

昔ながらの郵便ポストがいい味出してますね。

土曜日ですが、昼過ぎに着いたせいかそれほどの混雑はなかったです。

ハイキングや川遊びの人達は、もっと朝早くに来てますよね。

履歴

[27] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529541154

メモ