氷川

氷川

[1] 氷川

Webページ

[2] 道路レポート 奥多摩古道 (氷川〜除ヶ野), , http://yamaiga.com/road/yokeno/main.html

東京都の奥座敷、奥多摩町の中心が氷川(ひかわ)である。

多摩川と日原(にっぱら)川の合流地点に開けたさほど広大でもない緩斜面に町役場、小学校、JR青梅線の終着駅である奥多摩駅、国道411号などの都市機能が集中的に立地している。

そして氷川から日原川に沿って1kmほど北上した山腹に、除ヶ野(よげの)集落がある。

取り立てて何がある場所でもないが、古くから人の住う土地であったことは、この意味ありげな地名にも現れている所だ。

現在、除ヶ野から氷川へは、日原川に架かる北氷川橋渡って行くのが普通であるが、このルートは安寺沢林道が除ヶ野まで開通した昭和50年代から使われるようになったという。これは除ヶ野集落で聞いた話である。

そして古い地形図を見ると、除ヶ野から氷川まで順当に日原川左岸の山腹を緩やかに下って行く道が描かれている。

その表記は「破線」であり、小径の域を出ないものであったと察せられる。

そして再び現在の地形図に戻ると、相も変わらず「破線」が描かれているのである(赤く着色した)。

これが今回採り上げる「奥多摩古道」である。

この名前も特に定まったものではないが、奥多摩地域にある古道の一つという事で、このように呼ぶ事にした。

なお、「今も昔もこの道は破線で描かれている」としたが、より縮尺の大きな地図を見ると、道は断絶している。

次の地図(「プロアトラスSV7」縮尺5000分1)を見ていただきたい。

「奥多摩古道」は、氷川小学校の北側の一角で、途切れている。

そしてその周辺を見ると、様々な形と大きさの建物が密集している。

それは例えば「栃久保」<辺りに見える住宅地とは明らかに異なる様相を示しており、大いに不自然である。

いったいこの場所には、何があるのか?

知っている人は知っている。

人口5600人の山間の町が誇る、お土産物にはならぬ“特産品”が、ここで生み出されている。

かつて国鉄青梅線の御岳以西の区間を作ったのも、この場所を占める者である。

さらに奥多摩駅の貨物取扱高は、その“特産品”が鉄道で輸送されていた当時において、青梅線全体の8割を占めるほどに膨大であった。

それは、何者か?

↓答え↓

[4] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main.html

後にも先にも、山行が史上最悪の路面崩壊といえば、松の木峠の旧道を置いて他にない。

そう信じてきた私だが、レポート公開以来、読者から「もっと凄い場所がある!」

そんな挑戦状のようなメールが、年に数回以上も届けられるようになった。

中でも、複数の人から繰り返し紹介された場所がある。

東京都奥多摩町の日原川流域に、おそらく松の木峠を越える絶望的な崩落地点が、存在するのだという。

促されるようにして、WEB上で見ることが出来た幾つかの現地レポートを見たが…

皆 撤退していた。

だが。

私は、この崩壊地をモニタ越しに何度か見るうち、

「突破できるのではないか」 「言うほど難しいのだろうか?」

そんな疑問を感じるようになっていた。

確かにその崩壊地の幅は、松の木の比ではないように見えた。

だが… 松の木の時のように、チャリ同伴を強制される訳ではないのだ。

極端な話し、山頂まで高巻することだって、谷底まで迂回することだって出来るのではないか。

年に数回、誰かしからは届く、“日原からの挑戦状”。

遠く秋田にいた私は、それを読むたび、もうもどかしさでどうかなってしまいそうだった。

もし東京で暮らすことがあったら、じっくりと挑戦してみたい。あの松の木の時と同じように… 独りで、思う存分…。

そう願ってきた。

2007年1月5日、私は上京を果たす。

その日より僅か11日目の朝。

挑戦するために 私は独り 家を出た。

問題の大崩壊地は、東京都の西端部を占める奥多摩町の中北部の一角、日原(にっぱら)という場所にある。

自宅からは約50km。電車を乗り継いでいけば簡単に行けそうな近場だ。

旧道を地図に探したが、最新版ではもう描かれていなかった。

手許の古い地図でも見てみると、日原トンネルを迂回するような谷沿いのグネグネ道と一本の短い隧道が、確かに描かれている。

情報によると、その旧道の入口付近に崩壊があり、隧道の内部や裏側へは行くことが出来ないというのだった。

日原上流には関東有数の規模を誇る鍾乳洞があり、渓流釣りや登山に適する場所も豊富で、日原全体が都民の一大レクリエーション場となっている。

反面、一帯の地下には石灰石が膨大に埋蔵されており、昔からの石灰石鉱山地帯でもある。奥多摩町氷川に本拠を置く奥多摩工業は、専用鉄道を日原谷の奥地まで延ばし、今なお盛んに

[12] 鳩ノ巣渓谷, , http://www.yuhoyuyu.sakura.ne.jp/course/cn128/index.html

鳩ノ巣渓谷は多摩川の中流域にあって、小さな山を越えていくと、深くてダイナミックな渓谷が続いています。

古里駅から奥多摩駅までの渓谷沿いを、大多摩ウォーキングトレイルと数馬峡遊歩道をつないで歩いていきます。

[13] 奥多摩工業の無人トロッコの見える場所 : 銅の匙、記憶の旅, , http://aizak3.exblog.jp/17114286/

日原鉱床と天祖山鉱床の位置 奥多摩工業と石灰採掘の歴史は、『多摩誌』の該当箇所をそのまま「more」に引用した。 京浜工事事務所の編纂した『多摩誌』はweb上で検索でき、全文が読むことが出来る。 3.2.2 奥多摩の石灰工業 建設省京浜工事事務所『多摩誌』 奥多摩町には古くからある製材工場(9工場,86人)のほかに,近年は電機部品等の工場も多くなってきたが(約20工場,350人),やはり最大の事業所は日原で石灰石を採掘する奥多摩工業であり,その関連企業である. 奥多摩工業は従業員数約300人で,日原に3個所の鉱山があり,いずれも氷川駅に運ばれて選鉱し,セメント工場や製鉄所へ出荷されているが,青梅市上成木にも梅ヶ平鉱山があり,瑞穂町富士山に化工場がある.また,奥多摩町倉沢に奥多摩化工があって,生石灰の生産を行っている. 奥多摩工業は,1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林133町2反6畝を継ぎ,10カ年以内に当時の鉄道の終点御岳から氷川まで鉄道を建設し,石灰石の採掘を行おうとしたもので,日本鋼管と鶴見造船が300万円を出資して,奥多摩電気鉄道株式会社として設立されたものである. 鉄道は1941年に着工されて1944年に竣工したが,当時の地方鉄道法によって国有化され,会社は現社名となった. 氷川から戸望鉱床まで5kmの索道が建設され,実際に営業を開始したのは第二次世界大戦後の1946年であった.1947年の年産額は6.8万tであったが,1952年には39.8万t,1957年には126.1万tに達し,1961年には200万tを超えた. 採掘は朝顔坑の露天掘りで,底部からトンネルの運鉱路を通って岩松に集められ,ここで砕石される.砕石はさらに底部より鉱車に積まれトンネルの曳索鉄道を通って氷川に運ばれ,ここで選鉱される.カーバイド用やセメント用の鉱石はそのまま貨車で出荷されるが,高炉用や硝子用の4mm以下の細粉は水洗して砕石し,選別される.また,転炉用の生石灰を造るために,1961年,奥多摩化工が建設された(参52). 石灰石は1950年制定の新鉱業法によって新たに適用鉱物となったため,奥多摩工業は,1963年にかけて倉沢・天祖山・小川谷・已の戸・樽沢・御前山・川乗山など2,618haに鉱業権を設定した. そして戸望や油面を中心とした日原鉱床の貧鉱化に伴い,1

[14] 奥多摩工業 曳鉄氷川線 曳鉄三ツ又線 三ツ又電車線 日原電車線① 1978.1.14, , http://tsunechan.web.fc2.com/19780114okutama.html

昭和52年夏、日原鉱業所で見たTLのヤード。

これがずっと気になっていて…

なにぶん鉱山施設ゆえに気軽には立ち入れないし、

まさかフェンスを越えて不法侵入する訳にもゆかないし…

なので正攻法で、氷川工場の時と同様に見学許可の申請をしました。

経緯はまったく記憶がありませんが、無事に許可が下りたのでしょう、

実際に施設へ立ち入っているのですから(笑)

奥多摩工業氷川工場が開設された当時、

石灰原石は氷川鉱山の日原鉱業所周辺で採掘されていました。

その後、日原周辺の鉱床が掘り尽くされると、

更に山奥の三ツ又鉱業所での採掘が始められました。

訪問当時は三ツ又より先にある天祖採掘場にて採掘がおこなわれ、

天祖~三ツ又間はベルトコンベアで、

三ツ又~日原間は曳鉄三ツ又線、

そして日原~氷川間を曳鉄氷川線にて運搬していました。

要するに天祖で採掘された石灰石は、氷川工場までの間に

三ツ又、日原で中継されていたということです。

なんだか凄~く手間がかかっているようにも思えるのですが…

日原鉱業所周辺には採掘線の軌道が多く存在しました。

その一部が『日原電車線』と呼ばれるものです。

TL牽引のグランビー鉱車で石灰石を運搬し、

日原鉱業所で曳鉄氷川線に積み換えて氷川工場へ送っていたのです。

その役目は随分前に終えていたようで、

近年では鉱山施設や坑道の点検のために軌道を維持していたようです。

だから、ごく稀に動くこともあるとか…

残念ながら動く姿を見ることは叶いませんでしたが…

曳鉄三ツ又線の鉱車は、氷川線のものよりやや大型でした。

システムそのものは大差が無いのですが、

三ツ又線の施設は山の中腹にあり、面積を広く取れないせいか

ややこじんまりとした構内だったという印象があります。

曳鉄三ツ又線の複線に並行し、もう一本の軌道がありました。

この軌道は三ツ又電車線と称し、

TL牽引によって日原~三ツ又の資材輸送を担っています。

曳鉄竣工前は、このTLがグランビー鉱車を牽引していたそうです。

日原鉱業所では電車線と三ツ又線の施設を見学できましたが、

当時の取材力が稚拙で、きちんとした記録が出来ていません。

写真の点数も少なく、今思うと

せっかくの機会なのに勿体ないなぁ…

という後悔の念が絶えません。

[17] 廃線隧道【BLOG版】 奥多摩工業曳鉄線, , http://haisentn.blog41.fc2.com/blog-entry-166.html

奥多摩工業の石灰輸送専用線、「氷川鉱山曳索鉄道氷川線」を見てきました。曳索鉄道とはケーブルを利用して無人の貨車(トロッコ)を運行する鉄道で、氷川鉱山~氷川工場間の約4.8㎞が昭和28年に開通しています。

地図を見ると写真の右上辺りが曳索鉄道の起点になっているようですが、氷川工場の敷地内のため目視でも確認できませんでした。曳索鉄道は工場内からそのまま最初のトンネル(1号トンネル)に入っているので、地形図の点線道でトンネルの出口側に迂回することにしました。 【地図】

[18] 奥多摩駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%A4%9A%E6%91%A9%E9%A7%85

奥多摩駅(おくたまえき)は、東京都西多摩郡奥多摩町氷川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。

青梅線の終着駅で、東京都内でもっとも西に所在する。標高は東京タワー(海抜高351m)よりも8メートル低い343mで、東京都内にあるJRの駅の中でもっとも高い。

歴史[編集]

1944年(昭和19年)7月1日 - 運輸通信省(→運輸省→日本国有鉄道)青梅線 御嶽 - 当駅間開通と同時に氷川駅(ひかわえき)として開業。一般駅。

1952年(昭和27年)12月16日 - 東京都水道局小河内線(専用鉄道)が開通。小河内貯水池の建設資材運搬用の専用鉄道。

1957年(昭和32年)5月10日 - 東京都水道局小河内線、ダム建設竣工が間近となり、運行休止。

路線は休止後も撤去されていない。所有者は1960年代頃に西武鉄道、その後1970年代以降に奥多摩工業に移っている。

1971年(昭和46年)2月1日 - 奥多摩駅に改称。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。

1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「自然豊かな奥多摩に似合っているロッジ風の山小屋駅」。

1998年(平成10年)8月13日[1] - 貨物列車の最終運行日。

奥多摩工業の石灰石積込設備へ専用線が続き、石灰石の輸送を行っていた。最終期の行先は、浜川崎駅にあるセメント工場であった。

1999年(平成11年)3月25日 - JR貨物の駅(貨物営業)が廃止。

2002年(平成14年)2月8日 - ICカードSuica供用開始。

2006年(平成18年)4月21日 - 奥多摩ステーションギャラリーがオープン。電車発車時の合図が発車ベルから、童謡『どんぐりころころ』の発車メロディに変更される。

駅構造[編集]

島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームは1番線と2番線がある。2番線の有効長は6両編成が入線可能であるが、電車とホームの隙間が大きく開く箇所があるため、平日は朝の1本のみ、土休日は「ホリデー快速おくたま」号(6両編成)と普通電車の数本、臨時列車のみが使用している。かつては2番線の奥に貨物ヤードがあり、隣接する奥多摩工業の工場から川崎方面に向かって石灰石を発送していた。また、過去には東京都水道局小河内線(現・奥多摩工

[19] , , http://www.geocities.jp/glock1320031/sub11-5.html

ケーブルの先を目で追うと、なんとすぐ先の茂みの中に三頭山口駅が・・・。道路わきに石段がありその先は獣道になっているが、すぐに駅跡にたどり着く。

ロープウェイというと低い所から高い所に上っていくものだと思っていたが、ここはなんと標高差0.65m。多摩湖を横断するだけであったために、対岸に渡る橋が出来上がると乗客が途絶え、休止に追い込まれる。

[20] 東京坂道ゆるラン | 坂の町・東京(主に文京区、新宿区、千代田区)を歴史ラン。古地図、古写真でタイムスリップ!走って探すお江戸の物語。, , http://sakamichi.tokyo/

頼朝伝説と堀部安兵衛の新宿区早稲田、太田道灌の面影橋、砦のような造りの寺社など、遠い昔の古鎌倉街道に想いを寄せて観てきましたが、ここ金乗院前も街道色の濃い地であり、深い歴史に彩られています。

古鎌倉街道を行く1(新宿区編)

古鎌倉街道を行く2(豊島区前編)

宿坂(江戸名所図会より)。残念ながら観音堂は今はない。

宿坂

中世の頃、「 宿坂の関 」と呼ばれる所が、このあたりにあった。この坂の名が、宿坂道と残っているのは、おそらくそれにちなむものと思われる。

“宿坂の関”は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがって、ここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道より、やや東寄りに位置していたが、一応ここも鎌倉街道の名残りといえよう。

今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて、通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。

説明書きには「 現在のこの道より、やや東寄り 」と書いています。明治の地図で見ると、

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図。 ブルーライン が古鎌倉街道。

東側( 赤矢印 )に崖があり、そちらの方に蛇行していたのでしょう。

東の崖上から宿坂を見る。

江戸名所図絵を見ても坂はクネクネしています。宿坂西隣りの「のぞき坂」は上下通行車道としては都内ナンバーワンの急坂。

のぞき坂坂上より

同じ目白台地を登る宿坂も、かなり急なので少しカーブしながら登っていたということでしょう。

金乗院の裏門あたりに「 宿坂の関 」と茶屋があったと云います。

宿坂の関は関東お留の関の一つ。中世には、四ツ谷、三軒茶屋、品川、千住などにも関があったと伝えらています。

また今は無き 姿見橋 の由来になった刑場もこの辺りにあったと云いますが、江戸以前、後北条氏の頃の話で場所の特定もできず、今では単に言い伝えとして残るだけの怖い話です(姿見橋=罪人の後ろ姿を見送る)。

金乗院門前の読めない碑

金乗院門前のこの碑、「むせる」?

またまた出現した読めない崩し文字。ということでいつものように歴史のFBグループに質問するとなんと、「 はせ寺 」と読むとのこと。長谷寺?金乗院なのに長谷寺とはこれ如何に?

そうです。ここには太平洋戦争の戦災(昭和20年、1945年5月)にあった

[21] 奥多摩工業を巡る鉄道たち, , http://hkuma.com/rail/okutetsu.html

奥多摩の山中より採掘した石灰石を近代日本の工業・産業界に供給して来た奥多摩工業ですが、その前身が実は奥多摩電気鉄道という鉄道会社であったという事実は以前より何度か触れてきました。

それは同社の Webサイトにある沿革のページにも記載されていますが、そもそもこの企業は青梅電鉄の御嶽駅と氷川(現奥多摩)駅を結ぶ区間の鉄道路線を敷設した上で、さらにその奥地の日原にある鉱山から石灰石を採掘し、東京湾岸部の京浜工業地帯へと運ぶ目的で設立されたものなのです。

ところが、この線区の開業と同時に奥多摩電鉄は青梅電鉄もろとも国鉄へ買収されてしまった為、残念ながら私鉄線として日の目を見る事はなかったわけです。

その後、社名を奥多摩工業へと変更して本来のミッションである採掘事業に精を出しますが、氷川駅に集められた鉱石は青梅線上を行く石灰石貨物列車で運ばれ、長らく沿線の風物詩となっていました。

しかしそれも 1998年に廃止されてしまい、以後表向きには鉄道と縁の切れた存在となって現在に至っています。

でも忘れてはいけません、奥多摩工業は休止線であるものの現在も鉄道路線を保有しています。

そう、東京都が小河内ダム建設のために敷設し、一時期は西武鉄道の手に渡った事もある水根貨物線ですね。

また、それ以外に現役の鉄道も運行させている事に気づく人も多いのではないでしょうか。

奥多摩駅に隣接する奥多摩工業氷川工場と日原の氷川鉱山を結ぶ曳索鉄道がそれです。

大部分がトンネル内ですが、日原街道の何箇所かで沢を渡るその姿を目にする事が出来ます。

もう一つ、一般の人の目に触れる機会はまずありませんが、氷川鉱山の中には鉱石運搬用の鉱内軌道もあった筈で、実は奥多摩電鉄以外でも鉄道と深い関係を持つ会社と言えるかと思います。

という事で、一部は過去のレポートも含め、以下に奥多摩工業を巡る鉄道たちについてまとめてみたいと思います。

[23] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main1.html

2007/1/23 11:04 【現在地】

集落の東の外れからいよいよ山歩きが始まる。

詳細なルートは行ってみないと分からないが、ここからとぼう岩までの推定距離は2kmほど。距離的には全然たいしたことはない。

しかも、中間地点の樽沢までは現行の地形図にも点線ながら道が描かれており、果たしてここは恐れるほどの道なのか。

木戸を潜り、いまいちど出発の地、日原を振り返る。

忘れ物はないか。飲み物は十分か。地形図は持ったか。

セルフチェックをして、いざ入山。

まずは日原川の谷底まで降りる。それから対岸へ移ってとぼう岩を目指すのが古道である。

集落を出た道は、早速に荒々しい岩場を目の当たりにする。

崖を切り開いて作られた道が、小刻みなカーブを描きながら下っていく。

写真には石垣と転落防止のロープが写っている。

石垣の方は如何にも村人の手積みといった風情の不揃いなもので、車はこの道を通らなかった証といえる。

しかし、それでも石垣のあるお陰で道幅は1m〜2mを確保している。

果たしていつの時代に作られたものなのだろう。

ロープの方は、見慣れたトラロープが1.5m間隔で打たれた金属の細い支柱によって掛けられている。

路肩から50cm以上も内側に設置されており、かなり路肩は危険なのかも知れない。

比較的近年に設置されただろうロープの存在は、我々を勇気づけた。

谷底までまだ50m以上の高低差がある。しかも道の外側は面白いほど切り立っており、トリ氏が覗き込んでいる左写真の路肩から一歩を踏み出せば、右写真の谷底で塵芥の仲間入りだ。

都道とこの古道は、日原川の河岸の険しい崖に階層構造を成しており、古道の上方に都道が通っている。

とはいえ見上げて見えるほど近くはない。だが、谷底に散乱する大量のゴミは、おそらく古道ではなく都道から降り注いだものだと思う。

しかーし 厳しい道だ。

いや、歩く分には何てことはないのだが…

これが本当に前回辿った小菅から吊り橋までの作業道の続きなのか?

明らかに道の規格が違うような気がする。

前回の作業道部分は、奥多摩町史や日原風土記に書かれている幅1.8mの荷車道だと言えるが、果たしてこの急坂かつ所々1mの幅もない様な道が、その続きと言えるのか…。

歴代の地形図に描かれたルートとしては、今歩いているこの道と、現行の都道しかないのだ

[29] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

[32] 港区 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

概要 [ 編集 ]

企業が本社を最も多く構える区の一つであり、いわば日本のビジネスの中心である。 東京23区 の中央からやや南東寄りに位置している。特に、 虎ノ門 ・ 新橋 ・ 芝 をはじめとしたオフィス街では、経済活動が非常に活発である。 青山 ・ 赤坂 などの商業エリアや、 六本木 などの歓楽街、 麻布 ・ 白金台 などの住宅街、 汐留 ・ 台場 などの大規模開発地区があり、さまざまな表情をもっている。 東宮御所 ・ 迎賓館 (赤坂離宮)をはじめとして 芝公園 ・ 白金台 の 自然教育園 など緑地帯が豊富な自然環境である。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者も人口の約1割を占める。 江戸時代は広大な武家屋敷と町人町が存在する街で、 文京区 と同様の混在した街であった。

人口 [ 編集 ]

[33] 奥多摩工業氷川曳索鉄道 無人のトロッコが石灰石を運搬, , http://www.youtube.com/watch?v=twsqE8Ov5n4

日原の石灰石鉱山から石灰石を運搬し、氷川工場で加工して出荷しています。 運搬は無人の曳索鉄道で行っています。 線路のほとんどはトンネルとなっていますが、一部はトンネル外となっていて、この撮影箇所はそのうちのひとつです。

[34] 奥多摩工業 運搬軌道 曳索鉄道 電車線 奥多摩のナロー, , http://tsunechan.web.fc2.com/okutama.html

所有事業所=奥多摩工業

(運行区間)

曳鉄氷川線 氷川工場~日原鉱業所

曳鉄三ツ又線 日原鉱業所~三ツ又鉱業所

日原電車線 1号線 日原鉱業所~11坑・12坑

日原電車線 2号線 日原鉱業所~21坑・22坑

三ツ又電車線 日原鉱業所~三ツ又鉱業所

軌間=762mm

《本文を含め、記載のデータは昭和52年~53年のものです》

青梅線のED16を撮影していた頃、地理を把握するため五万図を利用していました。

五万図『氷川』には小河内ダム建設専用線と、もうひとつ怪しげな路線が…

その名は『奥多摩工業 曵鉄線』。

奥多摩駅に隣接する工場から山を貫いて、ほぼ直線に延びていました。

これは一体ナニ???

そんな疑問は次第に膨らんでゆき、ナロー軌道に目覚めたことも相まって、

何としても実態を知りたくて仕方ない状態となってしまいました。

しかし、その頃の詳細をあまり覚えていない…(?_?)

確か最初は電話で問い合わせたような気がします。

それがナロー軌道であることを知り、

『是非この目で見たい!』

と思い、奥多摩工業宛に見学要請の手紙を出しました。

その時点で解っていたのは762mmゲージであること、

運搬車両をケーブルカーのようにワイヤーロープで動かしているらしい…

ということだけでした。

軌道は殆どがトンネルだし、機関車牽引でないのでテンション↓↓

なので、とりあえず工場で見てみよう…という目論みだったのですが…

当時は奥多摩工業に関する情報は皆無で、

とにかく自分で見聞するしか知る術がありませんでした。

その行動がナロー軌道の醍醐味でもある

『発見する楽しみ』

につながってゆき、ナロー病がさらに悪化したのです(笑)

【訪問日】

昭和52年 4月12日

昭和52年 7月16日

昭和53年 1月14日/1

昭和53年 1月14日/2

トップに戻る

ナロー軌道目次に戻る

[35] 廃線レポート 奥多摩鉱業氷川鉱山 専用索道跡, , http://yamaiga.com/rail/nippara/main.html

私を魅惑して止まない日原の壮絶な山道風景。(過去のレポ1,2)

しかし、その景色を彩るものは天然の山河ばかりではなかった。

むしろ、彼の地で最大の存在感を有するもの…それは現役石灰石鉱山による、未曾有の地形改変によるものだった。

この地での石灰石採掘は歴史は意外に短い。

少なくとも明治、大正、そして昭和の頭まで、日原地区に埋蔵される6億トン以上といわれる石灰石は眠り続けてきた。

だが、日本の近代化と共にコンクリートの需要が爆発的に増え、全山石灰石と言っても過言ではない日原の山々が初めて認知されるに至る。

昭和12年、「奥多摩電気鉄道会社」発足。

同19年、同様の目的で鉄道を開設していた「青梅電気鉄道会社線」の終点御岳から、氷川(現:奥多摩駅)まで延伸が完了。そして開業と同時に国有化となって(→国鉄青梅線)、社名も現社名「奥多摩工業」に改称される。しかし結局、同社は戦前戦中において石灰石の採掘を始められなかった。

本業である石灰石採掘を氷川鉱山によって開始したのは、戦後復興の黎明期である同21年。

極大化した石灰石の需要に応えるべく、同28年には国内最大の曳索鉄道となる氷川線を開通。生産量を大幅に拡大。

そして現在に至るまで、地底及び地上に複数の鉱区を拡大しつつ、氷川鉱山は石灰石の採掘を続けている。

さて、昭和21年開山から同28年の曳鉄開通までの間の輸送はどうなっていたのだろうか。

実は、この僅かな期間だけ利用された索道が存在した。

終点と起点は曳鉄線と同じだが、輸送の手段は異なっていた。当然経路も違っていた。

索道(=索鉄、鉄索)ではゴンドラと呼ばれる籠に鉱石を乗せ、これを架空のワイヤーにぶら下げて輸送する。いわばロープウェーである。

これまで山行がでは索道を探索の主目的に据えたことはなかった。

索道は法律上は鉄道の仲間とされているから、廃止された索道は則ち廃線なのだが、個人的にどうもあまりそそられない。索道は空中に張ったワイヤーが主役の輸送であるから、廃止後地上に残るものとしては支柱や積み下ろし場もしくはワイヤーの弛みを取る緊張所くらいなものである。それに、索道はそれほど地上の微地形に干渉せず進むものだから、その経路を地上から辿るというのも、極めて骨が折れる作業である。はっきり言って、実りの多い探索とはなりにくい。

大沢地区から日原側

[37] 道路レポート 第三次 日原古道探索 江戸道, , http://yamaiga.com/road/nippara3/main7.html

2007/2/21 15:22

江戸道最大の難所である「決壊地」へは、初め私の単独で挑み、遂に3mほど離れた決壊の向こうへ辿り着いたのが、午後3時22分。

最初にここで足止めを食ってから7分経っており、実際に崖に挑んでいたのは1分足らずだったから、大半の時間は、行くか退くかの葛藤に使われた。

トリ氏には決壊地手前で待ってもらったまま、私はこの足元に復活した道を先へ進んだ。

そして、本当に僅かな距離。5mくらいだったろうか。そのくらい歩いたところで、

前方に隧道が存在することを、確認した。

当然興奮した。

すぐに踵を返し、トリ氏に隧道があったことを伝えた。

とりあえず、ここさえ超えられれば隧道まではすぐだというニュアンスで伝わったと思う。

これではトリ氏が無理を押してでも来たいと思うのも当然であり…。

15:30

隧道発見の8分後。

トリ氏もこの決壊地を越えた。

特に、道の高さから最初2mほど崖を下るところが恐かった。

足の着く高さにろくな足がかりが無く、ほぼ腕の力だけで身体を下降させねばならなかった。

その先でやっと足を下ろせるのは、何とも不安定そうな灌木の根。

この根が体重を支えきれるのかが不安だった。

(ここで私は下支えをするべくサポートしたが、それが不要であったばかりでなく、二人分の体重が不安定な斜面に掛かったことになり、無策であった)

結局、ここでは殆ど一人一人の強運(或いは不運でないこと)が試された。

オロナミンCリポビタンDのCMみたいに、墜落を始めた仲間を咄嗟に救うなんて事はまず出来ない。

ともかく、15分を要して二人は揃って最大の難所を突破した。(写真はこの決壊地を振り返って撮影)

そして、この先に我々の江戸道攻略を邪魔するものはなかった。

そのことは、単に幸運であったばかりでなく、「接近困難だが道は確かに存在した!」という強烈な印象を我々に残した。

なお、当然のことながら数分後にもう一度、今度は逆側からこの死地に挑まねばならなくなった。

先の負荷によってどこまで弱っているか知れない岩場や灌木の根を頼りにしての行路は、なお恐ろしかったが、逡巡していても生還の道はないので、天運に任せ突破したのであった。

もう、無策のままにここを通ることはないだろう。

■動画【隧道出現!】■

私のこれまでの探索経験の中で、もっともその接近に

[38] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main3.html

2007/1/23 15:51

今回紹介する区間は、以前公開した「第二次 日原古道探索計画」の最終回直後に探索した。

これは当初から計画していたわけではなく、この日序盤の日原川右岸探索中に偶然発見し、これをとぼう岩からの帰り道として利用したのだった。

そしてその結果として、この道が日原集落まで都道とは別ルートで繋がっていることを確認。

晴れて昭和の築造でありながら謎に満ちた5期道ルートが、ほぼ完全に解明されたのであった。

現在地は、樽沢が日原川に滝となって落ちる対岸(左岸)。

樽沢を渡る橋があって然るべき地形だが、現存しない。しかし、前後に鮮明な道の痕跡がある。

この付近で、とぼう岩をへつって大正4年に開通した4期道と、昭和6年に開通した5期道とが接続していた。

厳密にどこが接点であったかは分からないが、ともかく5期道の開通によって初めて氷川〜日原間に荷車、自転車、バイクなどが通れるようになったとされる。

上の写真と同地点から、日原川上流を撮影。

写真中央の斜面に、コンクリート製でラーメン構造の橋台が写っている。

当時の日原川では盛んに「鉄砲出し」(川を使って木材を運搬すること)を行っていたために、水面には橋脚を下ろすことが出来なかったのだろう。

ここに、「惣岳吊橋」という名の巨大な吊り橋が架かっていたという。(目測だが、20〜30mの長さ)

同様の橋台は、右岸側にも残っている。

これが、5期道として記録に残るもっとも下流側のものである。

近づいてみると、このようにかなり大きな構造物である。

そして、この辺りは旧都道の数多い崩壊地の直下となっており、膨大な瓦礫が山腹を埋めている。

登ろうとすると音をたてて足元から崩れる状況で、転落云々というよりも単純にアリジゴク的な徒労を感じる。

なかなか登らせて貰えない。

ともかく、汗を掻いて橋台の上に立つ。

登り着いた左岸橋台付近より、とぼう岩方向を振り返って撮影。

禁漁区であるゆえ、また実は奥多摩工業の立入禁止エリアであるため、ほとんど立ち入る者のない谷底。

そこに失われた府道、「日原氷川線」が存在していたという確かな痕跡である。

昭和27年に都道が開通したことで廃道化したと思われるが、航空写真の記録によればその後も橋は存在し、50年代までは架かったままだったようである。

通常吊り橋が自然に落橋

[39] 旧日原トンネル@東京都西多摩郡奥多摩町|あれ!それ!これ!, , http://ameblo.jp/bashi-heppoko/entry-11749041831.html

とても都内とは思えない奥多摩町に、東京都道204号 日原鍾乳洞線という都道があります。そこには日原トンネルという長さ1107メートルのトンネルがあります。そして旧道と旧々道があり、そこに旧日原トンネルもあります。 まずは東(氷川)側の坑門前から、こちら側はほとんど関係ないので、ストリートビューから転載です。 坑門前で二手に道は分かれますが、左に分かれる方が旧道になります。しかしすぐに守衛所があり通り抜けることができません。ここは、奥多摩工業氷川石灰石鉱山なので、当然立ち入り禁止です。ってか入って発破にでも遭えば・・・解りますね。 では現道のトンネルを通って西(日原)側へ。その前にトンネル動画を(進行方向逆ですが)。 http://youtu.be/oLb9gEq82d8

っで日原側に到着。見えているのは登竜橋。 橋の上からの写真・・・ブレていて見難いですが旧道の跡が。 望遠で見てみると・・・道路標識? 西側の坑門のすぐ前に旧道に入る場所があります。 アスファルト敷きですが、道幅が1.5車線ほどです。此処を大型観光バスが通っていたのですね。 トンネル内カーブ注意の喚起の標識・・・んっ? 何か向こう側が大変なことになってますが・・・ とりあえず先に進むと坑門が。 少し近づいてみると・・・当たり前ですが厳重に封鎖されています。 封鎖ネットには注意の看板。 ちょっと字が薄いですが、どうやら発破に関する看板。はいっ!石灰石と一緒に粉々になりたくありません。 これより先(トンネル)は鉱山施設ですから立入禁止とのこと。逆に言えば、ここまでは東京都の土地ということか? 坑門前はすれ違いの為に広くなってますね。 金網越しに中を。思いつきでここに来たので、懐中電灯を持っていませんでした。とりあえずは風が通っているので貫通してますね。 坑門横には旧々道が続いています。っが、この先はさっきの写真の大崩落地帯! しかも日原川まで崩落しています。発破・大崩落・不法侵入等を冒してまで進む場所ではないでしょう。 私はここにて撤退します。ってか雪は降っている、すんげ~寒いしで、さっさと車に戻りたかったっす。 ちなみにこのあたりの崖の高さは50メートルぐらいかな。落ちたら死ぬな。 どうしても、自分の足でトンネルの先を知りたいって人は自己責任で! 私は絶対にお勧めしませんし、当ブログ及び私

[40] 静岡県 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C

静岡県の分類 [ 編集 ]

名目上の行政区分で、 東日本 、 中部地方 、 東海地方 、 広域関東圏 などに区分されている。また、 名古屋圏 や 関東地方 からも独立した地域として、「静岡(県)地方」とされるケースも存在する。しかし、 糸魚川静岡構造線 を挟んで東側と西側に広い面積を占めているため、行政やその他諸々の区分では、これらとは違う区分に属することもある。

全域を一括する場合 [ 編集 ]

東日本 、 西日本

静岡県は、歴史的・文化的経緯や人口・面積の比率・経済等を勘案して、東日本に分類されることが多い。しかし、 日本の経済 の重心が 首都圏 に偏っていることから、特に経済分野で相対的に弱い西日本を補完するために、まれに西日本に分類されることもある。NTTの東西分割の際、静岡県がどちらに編入されるか問題になったこともあり、本来東日本であるNTT東海のエリアだったが東西で利用者数や資産規模のバランスを均一化するために、NTT西日本のエリアに編入された。

西日本 の例: NTT 分割、 Jリーグオールスターサッカー 。

中部地方 ( 東海地方 )、 広域関東圏

静岡県(知事)は、 中部圏知事会議 と 関東地方知事会 の両方に所属している。中央省庁や民間企業の管轄も、中部地方(東海地方)とする機関と関東地方とする機関が混在している。この場合、中央省庁の出先機関の所在地が、中部(東海)はほぼ全て 名古屋 に置かれ、関東は 東京 や さいたま に置かれている場合が多い。

中部地方(東海地方) の例: 衆議院 比例区 (東海ブロック)、 法務省 名古屋入国管理局 、 財務省 東海財務局 、 名古屋国税局 、名古屋 国税不服審判所 、 名古屋税関 、 国土交通省 中部 地方整備局 、 中部運輸局 、 国土形成計画 (中部圏)、 総務省 東海総合通信局 、中部 管区行政評価局 、 人事院 中部事務局、 厚生労働省 東海北陸厚生局 、名古屋 検疫所 、 中央労働委員会 中部地方事務所、 公正取引委員会 中部事務所、 国土地理院 中部地方測量部、東海市長会、 都市機構 (中部)、 国立病院機構 (東海北陸)、 NHK (東海・北陸)、 日本郵便 東海支社、 ゆうちょ銀行 東海エリア、 JAF (中部・東海エリア)、 NTTドコモ (東海支社)、 インターハイ (東海大会)、 選

[41] 安土城の入場料を自ら徴収する信長 - Togetterまとめ, , http://togetter.com/li/866847

信長のエピソードは色々あるが、一番訳が分からんのは安土城見学の話だ。信長は安土城の御殿を自分のみならず諸大名の家臣にまで見学させたのだが、その際一人百文の見学料を取り、しかも自分で入り口の横に立って見学料を徴収したのだそうだ。何を考えてこんなことしたんだろう第六天魔王。

[42] 東京都八王子市 どこからも行けない橋(前編) ( その他趣味 ) - 埼玉発 おとなの小探険 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/33938958.html

東京都八王子市元八王子町 中央自動車道に奇妙な橋の記号を見付けた。

どうやら本線を跨ぐ橋であるようだが、橋に辿り着くべき道が地図上にはない。拡大してもやはり道の記号は橋に接続してはいなかった。

[43] ミニレポ第240回 埼玉県道76号鴻巣川島線 丸貫狭区, , http://yamaiga.com/mini/240/main2.html

2016/5/6 6:56 《現在地》

約800mにわたって荒川堤防の天端を走った我らが県道76号は、その場所を大規模自転車道である県道155号に譲って、下野を開始した。

右前方に見える家並みが、これから向かう丸貫の集落である。

普通に2階建て家屋の屋根どころではない高さの堤防ということが分かると思う。本当に、ちょっとした山の上から見るような景色なのである。

それだけに、天端から地平に下りるまでの坂道(斜路)も、驚くほど長い。なんと200mもある。

この坂道だけで、狭隘区間の10分の1以上もあるわけだ。

そしてこの主要地方道らしからぬ地味な斜路を最後まで下ると……

6:57 《現在地》

地平に着くと即座に、 直角カーブ&橋 が現われた。

さすがに線形が良くないという自覚はあるのか、あまり見ない「徐行」の道路標識が設置されている。

こんなものを設置するよりも、橋の架け方を工夫して直角カーブを取り除いて欲しいわけだが、この道幅だ…、多くを求めてはいけないのだろう。まだ新しい橋のように見えるが、架かり方は前時代的だった。

前時代的と言えば、石仏を見た。

直角カーブを見守るように、あるいは巨大堤防を背にして川の氾濫から郷を守るように、6体の石仏が綺麗に整列して並んでいた。

人工的なものの隙間に最小の敷地を与えられて居る姿は、少しばかり窮屈そうだったが、この道にゆかりの深い石仏たちなのかもしれない。

一番大きな1体には「大弁財天女」の文字が刻まれており、治水に霊験ありとされる弁財天信仰の石仏だった。

この石仏を見た次は、順番からいえば橋の紹介なのだが、

さっきから、 橋の先に見えている景色が衝撃的すぎて、

これ以上知らん顔をして順序通り紹介するのが難しい。だから、 先にご覧ください!

これが、地理院地図に 【軽車道】 幅1.5m以上3m未満の道路 として描かれている道だ!!

この狭路区間のハイライト……

かわいい!

何だこの道! 可愛いぞ!!

都心から40km、バリバリ首都圏内の平野にある主要地方道には見えない。

ただ狭いだけではない、畑の中で S字カーブ を描いていく自然な“あぜ道”感がたまらない。

ロケーション込みですばらしい“S字狭路”!

生き馬の目を抜くような幹線道路に祭りあげられることなく、今までずっと静かに過ごしてきたんだろうなぁ…。

奥多摩工業氷川工場

奥多摩工業氷川工場

履歴

[44] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529541035

メモ